第3話 つながらない声
夕立がすぎるころ、窓の雫を透かして、街は茜色に染まっていた。開けた窓からは、雨上がりのアスファルトの香りがふわりと漂い、しっとりとした風が頬をそっとなでていく。
響く蝉時雨を背に、真理子はベッドに大の字になって体をあずけた。 硬くこわばっていた肩と背中が、じわじわとシーツに沈み込み、ゆっくりと息が吐き出される。胸の奥に絡まっていた緊張が、ようやくほどけていくのがわかった。
――この時だけが、自分に素直になれる……
小さくつぶやいたとき、まぶたが疲れに引かれるようにゆっくりと閉じていく。
心地よい静けさと、心身を包むやわらかな疲労。意識が、穏やかな闇へと沈もうとした――その瞬間。
けたたましい着信音が、部屋の静けさを鋭く切り裂いた。
画面には「福永ひとみ」の文字が表示されている。
……ひとみ? この時間に?
受話器の向こうから飛び込んできた彼女の声は、いつになく早口で、明らかに緊張を帯びていた。真理子の胸の奥に、言葉にできないざわめきがゆっくりと広がっていく。
「真理子、そっち……大丈夫? 実家のほうで、大きな地震があったみたいよ」
鼓動が一拍、大きく跳ねる。
その場に釘付けにされたまま、真理子は咄嗟に聞き返した。
「え……地震? いつ?」
「さっき速報が出たばかり。震度7……って。あなたの地元、たしか……震源地のすぐそばよ」
「えっ……震度7?」
信じられなかった。
地方の小さな町に住む両親と妹。その風景はいつも穏やかで、どこか時間の流れがゆっくりと感じられる、変わらないはずの故郷。
だが、“震度7”という現実が、そんな記憶を容赦なく打ち砕く。
真理子は慌てて電話を切り、ふるえる指先でスマートフォンを操作した。
ニュースアプリを開くと、画面上部には真っ赤な速報のテロップが流れている。
《午後○時○分ごろ、○○地方で震度7の地震が発生。被害の全容は現在調査中》
速報のテロップの下で、画面が切り替わった。そこには、崩れ落ちた商店街や、瓦礫の下に埋もれた薬局の看板が映し出されていた。泣き崩れる女性の姿が、揺れる映像の中で痛ましく映る。
――そこは、母と何度も一緒に訪れた場所だった。中学生の頃、風邪薬や絆創膏を買ったあの店。母と交わしたたわいない会話、ふとした笑い声……
今、そのすべてが瓦礫の下に沈み、手の届かない過去になりかけていた。
真理子のこわばった指がスマートフォンをぎゅっと包み込む。
次々に映し出される光景に、真理子は息を呑んだ。
頭ではわかっていても、心がついていけなかった。
けれど、それはまぎれもなく、「ふるさと」で起きている現実だった。
「お母さん……お父さん……奈々……」
妹の名前を口にしながら、真理子は思った。奈々は、口には出さないけれど、いつも自分を支えてくれていた存在だった。
ふるえる手で電話をかける。
繋がらない――
もう一度かける。
やはり、繋がらない……
真理子の胸には、激しい脅威と不安が押し寄せた。
何度かけ直しても……呼び出し音は、またすぐに途切れた。冷たい電子音だけが、耳の奥に突き刺さる。
最悪のシナリオが、否応なく頭をよぎる。
「違う……違う! そんなはずはない!」
必死に否定の言葉を口にしても、画面に映った光景が焼きついたまま剥がれない。“繋がらない”という事実が、これほどまでに恐ろしいとは思わなかった。
その夜、真理子はベッドに入ったものの、まったく眠れなかった。何度もスマートフォンを確認し、着信履歴を開いては閉じる。かすかにため息をつくたび、胸の奥に重苦しい焦燥が広がっていく。
ふと気づくと、窓の外では静かな星空が広がっていた。
都会の夜はいつもと変わらない。
電車が走り、コンビニの明かりが灯っている。
その変わらない日常が、かえって真理子の胸を強く締めつけた。遠くで家族が苦しんでいるかもしれないというのに、自分はここで、ただ何もできずにいるだけ。
――どうして……私はここで、普通に生活してるんだろう……
その問いが、胸の奥で鈍く疼き続ける。こらえられない涙が頬をつたった。
地震発生から一夜が明けても、奈々からの連絡はなかった。
――地震発生から2日目の朝。
真理子は鉛のような重い体を引きずるように職場へと向かう。
そこには、まるで震災などなかったかのような、いつも通りの「日常」があった。
山本の声も、PCの起動音も、いつもと同じ。
――それが、逆に耐えがたかった。
「伊藤さん、この資料、今日中にまとめておいてもらえるかしら」
一瞬、返事に詰まった。
「……はい」
かろうじて返した声は、自分のものとは思えないほど細くかすれていた。
真理子の心の中では、仕事よりも、家族の安否を確認することが最優先であるはずなのに。
――家族は、無事なのか。
家族の安否もわからない中で、目の前の“いつも通り”に従うしかない自分が、ひどく他人のように思えた。
しかし、それを仕事の現場で口にすることはできなかった。
山本の冷ややかな態度が、それすらも許さないように感じた。
日中も、仕事の合間を縫って奈々への連絡を試み続けたが、結果は変わらなかった。受話器の向こうは、沈黙という現実だけを突きつけていた。
ニュースは繰り返し、「通信障害」「避難所の混乱」「被害の拡大」といった報道が繰り返され、それを見るたびに胸がぎゅっと締めつけられる。
――両親は、無事だろうか。
――奈々は、どこかで誰かと、一緒にいるのだろうか。
次々と浮かぶ問いが、頭の中でぐるぐると回り続け、気づけばデスクの前で何も手につかなくなっていた。かつて心から誇りに思っていた仕事が、今はもう、“義務”にしか見えない。
真理子は、スマートフォンを見つめたまま、祈るような気持ちで指を動かす。
「どうか、どうか……無事でいて」
その願いだけが、崩れそうな心をかろうじて支えていた。




