第2話 飴と鞭の二面性
真理子が山本の“二面性”に気づいたのは、異動からひと月ほど経った頃のことだ。
最初は信頼できる上司と思えた。森山看護部長の前では言葉に温かみがあり、部下への気配りも細やかで、信頼できる人柄だった。真理子にとって、この新しい職場で気兼ねなく相談できる存在――そう感じられた。
異動初日、看護管理室で交わした挨拶の場面は、今でもはっきりと思い出せる。
「伊藤さん、これからよろしくお願いします。あなたの経験がとても頼りになるわ」
その言葉に、真理子の胸には、これから待ち受ける困難も、この人とならきっと乗り越えられる――そんな静かな予感が芽生えていた。
「初めは大変でしょうけど、無理はしないで。私もできるだけフォローしますから」
その言葉を異動初日の帰り際にかけられたときの温かさは、どれほど心強かったことか。
山本の指導は時に優しく、時に厳しくあったが、次第に尖る冷たい言葉と態度には、言葉にできない違和感が生まれていった。
まるで“飴と鞭”のようなその二面性に、真理子は戸惑いながらも振り回されていた。
それでも、最後には優しい口調と穏やかな笑顔が、不思議と疑念を打ち消してしまうのだった。
だが――ある日の会議で、真理子は思いがけない“一面”を目にすることになる。
その日の会議では、真理子が議事録の書記を任された。
森山と他のスタッフが議論を進めるなか、山本は要所を的確にまとめ、場を穏やかに収めていた。
「議事録の提出は来週で構いません」
森山の言葉に、山本は笑顔のまま「了解しました」と応じた。
その言葉に真理子もホッとし、来週までに丁寧に仕上げようと考えていた。
森山が退席した瞬間――
山本の頬から笑みがすっと消え、声のトーンも一気に下がった。
「伊藤さん、議事録は明日の朝一番で私に提出してください」
まるで別人が同じ顔で話しているようだった。
その鋭い目線に射すくめられ、真理子の心はざわついた。
「……わかりました」
ぎこちなく答えながらも、胸の奥で違和感が強く膨らんでいくのを感じていた。
山本の矛盾した指示に混乱しつつも、反論の言葉は喉の奥で詰まったままだった。
その夜、真理子は自宅の机に向かい、遅くまで議事録を書き続けた。
山本のあの表情、冷たく変わった言葉の数々が、今でも心に強く痛く焼きついている。
――なぜ、あの人はあんなふうに急に態度を変えたのだろう。
答えは出ない。
ため息が深く胸を満たし、虚しさが真理子を包み込む。
以前の自分ならもっと意欲的に、明るく仕事に向き合えたはずだった。
けれど今は、どれだけ努力しても自分の声が届かず、空回りするだけのように感じられた。
翌朝、真理子は完成した議事録を手に、看護管理室のドアを押した。
山本は他のスタッフと談笑していたが、真理子に気づくと、ちらりと視線を向け、無言で手を差し出した。
「ありがとう」
短くそう言って、無表情で内容を確認し始める。
その表情には、どこか無関心な冷たさが漂っていた。
「ここ、もう少し丁寧に書いてほしいわね」
山本は冷たく告げ、再提出を指示した。
真理子は無言で資料を受け取り、席に戻る。
胸の奥に苛立ちが静かに広がり、同時に言いようのない無力感が心を締めつけた。
――どれだけ努力しても、この人には届かないのかもしれない。
そんな思いが、静かに彼女の心を覆い始めていた。
だが、山本の態度は他のスタッフの前では一変する。
穏やかで親しみやすく、誰からも信頼される上司の顔になるのだ。
その姿を見るたびに、真理子の胸には、言葉にできないやるせなさと違和感が積もっていく。
――なぜ、私にだけ、こんな冷たい態度をとるのだろう。
答えの見えない問いが頭の中でぐるぐると渦巻いた。
そして、次第に真理子は、自分の感情を抑え込むようになった。
看護管理室の窓越しに見える青空は、どこまでも広がっているのに、まるで自分だけがその世界から切り離されているかのような孤独を感じていた。
木々の緑が風に揺れても、それは遠い記憶の中の風景のように、心に届かない。
――私の存在は、この部屋の中で、誰にも見えていないのかもしれない。
そう思いながら、真理子はそっと資料に視線を落とす。
静かなため息が漏れ、胸の奥にぽっかりと穴が空いたような喪失感が広がった。
それでも、彼女は自問する。
「私がここでできることは、何だろう……」
その問いに答えが出る日は、まだ――遠いように思えた。




