EP 6
うさぎの涙と、安全靴のトンファー
ポポロ村の村長室は、重苦しい空気に包まれていた。
部屋の中央には、豪奢な法衣を着たルチアナ教会の特使と、全身をプレートアーマーで固めた屈強な護衛が二名。
彼らと対峙する村長デスクには、ウサギの耳をペタンと伏せ、膝の上でギュッと拳を握りしめるキャルルの姿があった。
部屋の隅の長椅子では、自警団リーダーのフェイトが「今日は親戚の……むにゃむにゃ」と寝言を言いながら熟睡している。
「――話は以上です、キャルル村長。いや、元レオンハート獣人王国の第三姫君殿、と言った方がよろしいかな?」
特使が、傲慢に歪んだ笑みを浮かべて羊皮紙の契約書をデスクに叩きつけた。
「月兎族の『月光薬』の治癒力は、我が教会の聖騎士団にとって喉から手が出るほど欲しい力。あなたには、教会の特別医療監として王都の地下施設に赴任していただきます」
「……それは、私に一生、教会のためのポーション製造機になれという意味ですか?」
「おや、人聞きの悪い。これはポポロ村の安全を保証するための『保護契約』ですよ。もし断れば……この村が教会の支援を受けられず、異端として各国からどのような扱いを受けるか、賢明なあなたならお分かりでしょう?」
特使の言葉は、明確な脅迫だった。
月兎族の王族は、その希少性と能力ゆえに、常に権力者の籠の鳥として扱われる。キャルルはその息苦しさから逃れ、自由を求めてポポロ村に流れ着いたのだ。
だが、自分がここで拒否すれば、愛するこの村が戦火に巻き込まれるかもしれない。
(……私が、我慢すればいいだけ。村の皆が平和に暮らせるなら、籠の中に戻るくらい……)
キャルルが震える手で、契約書にサインをするための羽ペンを握ろうとした、その時だった。
「おいおい。どこのブラック企業(悪徳下請け)の契約書かと思えば」
村長室のドアが乱暴に開き、薄汚れた作業着姿の男が入ってきた。
口にはゴールデンバットを咥え、タローマン製の安全靴を鳴らしながら歩み寄る赤城鷹人である。
「な、なんだ貴様は! 礼儀知らずな平民が、教会の特使たる私に――」
「うるせえよ。現場の視察が終わって報告書出しに来たら、妙な胸糞悪い匂いがしたからよ」
鷹人はキャルルの手から羽ペンを奪い取ると、デスクの上の契約書を無造作に掴み上げた。
そして、胸ポケットから100円ライターを取り出し、カチッと火をつける。
ボォッ、という音と共に、教会の権威を示す羊皮紙が、あっという間に炎に包まれ、灰となって床に落ちた。
「ああっ!? き、貴様、自分が何をしたか分かっているのか!?」
「てめえらみたいなピンハネ業者の常套手段だろ。立場の弱いトップを脅して、現場全体を縛り上げる。……胸糞悪ィんだよ。ウチの村長はな、こんな紙切れ一枚で売り飛ばせるほど安くねえ」
「た、鷹人……」
驚きに目を見開くキャルルを背に庇い、鷹人はタバコの煙を特使の顔に吹きかけた。
「貴様ぁっ! 異端者め、殺せ! その男を叩き斬れ!!」
特使が金切り声を上げると、控えていた二名の重装甲の護衛が剣を抜き、鷹人へと殺到した。
鷹人は顔色一つ変えず、左腕の金属製腕時計を外し、拳に巻きつけようとした。
――だが、鷹人が動くよりも早く。
ズドォォォォンッ!!
村長室の床板が爆発したかのように弾け飛び、凄まじい衝撃波が部屋を揺らした。
特注の安全靴で床を蹴り割り、鷹人と護衛の間に割って入ったのは、ウサギの耳を怒りでピンと逆立てたキャルルだった。
彼女の両手には、すでに無骨な金属製のダブルトンファーが握られている。
「……私の村(現場)の仲間に、薄汚い剣を向けないでッ!!」
キャルルの姿がブレた。
100メートル5秒台という月兎族の恐るべき脚力が、狭い室内で爆発する。
「なっ――!?」
悲鳴を上げる暇すらなかった。
キャルルは、大上段から剣を振り下ろそうとした一人目の護衛の懐に潜り込むと、トンファーを構えた両腕を交差させ、下から跳ね上げるように突き出した。
「――月影流『顎砕き』ッ!!」
ガァァァァンッ!!
金属のトンファーが、兜越しの顎にクリーンヒットする。数十キロの重装甲の男が、まるでボールのように天井まで打ち上げられ、白目を剥いて落下した。
「ヒッ、バケモノかこのウサギ!!」
二人目の護衛がパニックに陥り、横薙ぎに剣を振るう。
だが、キャルルはそれをトンファーの片手で軽く受け流すと、軸足を鋭く回転させた。彼女の足元で鈍い光を放つタローマン製の特注安全靴――その先端には、雷竜石の核が仕込まれている。
「――月影流『鐘打ち』ッ!!」
遠心力を乗せた恐るべき回し蹴りが、護衛の胴体を捉えた。
ドゴォォォォンッ!!
分厚いプレートアーマーがひしゃげ、肋骨が砕ける嫌な音と共に、護衛は村長室の扉を突き破って廊下の果てまで吹き飛んでいった。
圧倒的。
可愛らしい容姿からは想像もつかない、純粋な物理的暴力による瞬殺劇。
あまりの事態に、特使は腰を抜かし、床に水たまりを作りながらガチガチと歯を鳴らしている。
「……ひっ、ひぃぃぃっ! や、野蛮な獣人どもめ! ルチアナ教会の怒りを買うぞ! 異端審問にかけてやるぅぅっ!」
特使は半狂乱で叫びながら、這うようにして壊れた扉から逃げ出していった。
静寂が戻った村長室。
キャルルは肩で息をしながら、両手のトンファーを床に落とした。
アドレナリンが切れ、急速に現実感が戻ってくる。自分がやってしまったことの重大さに、彼女のウサギの耳が力なく垂れ下がった。
「あ……私……」
キャルルの大きな瞳に、みるみるうちに涙が溜まっていく。
「ご、ごめんなさい……私、頭に血が上って……教会の特使を攻撃しちゃうなんて。これじゃあ、本当に村が……私がもっと我慢して、素直に従っていれば、皆に迷惑をかけずに済んだのに……っ」
ポロポロと涙をこぼし、自責の念に押し潰されそうになるキャルル。
そんな彼女の頭の上に、ゴツゴツとした大きな手が、ポンッと乱暴に乗せられた。
「……バカか、お前は」
鷹人が、咥えていたタバコを携帯灰皿にしまいながら、呆れたような、しかしどこか優しい声で言った。
「トップが自分を安売りして守れる現場なんて、たかが知れてる。お前が一人で犠牲になるくらいなら、教会の騎士団だろうが魔獣だろうが、俺とそこの寝てるパチンカスで全部ぶっ飛ばしてやるよ」
「たか、と……」
「お前は、この村の仲間(作業員)を傷つけようとしたクソ野郎どもを、体を張って追い払った。……村の長として、最高の仕事だったぜ」
ワシワシと、少し痛いくらいの力で頭を撫でられる。
キャルルは目を丸くして、その大きな手を見上げた。王宮にいた頃、誰一人として彼女自身をこんな風に認め、庇ってくれる人間はいなかった。皆、彼女の『回復能力』しか見ていなかったのだ。
鷹人は作業着のポケットをゴソゴソと探ると、コロリと丸いものをキャルルの手に握らせた。
タローソンで買った、安っぽいイチゴ味の飴玉だった。
「ほらよ。泣き止んで、それ舐めて糖分補給しとけ。これから教会の連中に対する防衛の『準備(段取り)』で、忙しくなるからな」
鷹人はそう言い残すと、「おいフェイト、いつまで寝てんだ。起きねえと安全靴で踏ませるぞ」と、ソファで寝こけている相棒を蹴り飛ばしに向かった。
「……っ」
キャルルは、手のひらに乗せられた小さな飴玉を、両手でギュッと胸に抱きしめた。
ウサギの耳が、ピンッ! と限界まで真っ直ぐに立ち上がる。
涙はもう引っ込んでいた。代わりに、彼女の顔は耳の先までリンゴのように真っ赤に茹で上がっていた。
(あ、ああ、あああ……っ! なんで、なんでこの人は、こんなに不器用で、口が悪くて、ニンニク臭いのに……っ!)
ドクン、ドクンと、自分の心音が部屋中に響いているのではないかと錯覚するほど高鳴っている。
もう、籠の中の鳥ではない。
彼女は今、自分の意志で、この理不尽で乱暴で、たまらなく優しい『現場の兄ちゃん』の隣で戦い抜くと決めたのだ。
特大のヤンデレ物理ヒーラーの好感度が、限界を突破して振り切れた瞬間であった。
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