第8章 目覚めた災厄
第1部 最果ての村
光が消えた。
最初に戻ってきたのは、匂いだった。
焦げた木の匂い。
湿った石の匂い。
血の匂い。
そして、ひどく冷たい空気。
イロハは床に手をついたまま、息を吸った。
喉が痛い。
目の奥が熱い。
耳の中では、まだ光の名残のような音が鳴っている。
ごうん、と。
地の底で響いていた低い音は、もう聞こえない。
けれど、静かになったわけではなかった。
扉が、開いている。
開けてはいけない扉が。
ずっと閉じられていたはずのものが、今はイロハの目の前で、闇を口のように開いていた。
「……何」
声が震えた。
誰に聞いたのか分からない。
女は子どもを抱きしめたまま、床に座り込んでいる。子どもの顔は青白く、目を閉じたままだった。
返事はない。
代わりに、扉の奥で何かが動いた。
イロハは息を止めた。
闇の中に、赤い光が二つ浮かんでいる。
目だった。
人のものに見えた。
けれど、人のものではないと、見た瞬間に分かった。
深い赤。
血の色に似ているのに、血よりも冷たい色。
その赤い瞳が、イロハを見ていた。
闇の底から。
長い眠りの底から。
ゆっくりと、白い指が現れた。
石の扉の縁に触れる。
指は細く、冷たそうだった。生きた人間の手には見えない。
次に腕が出る。
肩が出る。
そして、男の顔が闇の中から現れた。
白い肌。
青みを帯びた銀白の長い髪。
深い赤の瞳。
男は美しかった。
けれど、それは人間の美しさではない。
長い髪は眠りから引きずり出されたように乱れ、銀白の色に闇の青を含んでいる。血の気のない肌。火を映してなお冷たい、深い赤の瞳。
そこに立っているだけで、地下の空気が凍ったように思えた。
イロハは動けなかった。
逃げなければと思う。
けれど、どこへ。
背後には女と子どもがいる。
階段の上には村人たちがいる。
目の前には、開けてはいけない扉から出てきた男がいる。
男は一歩、こちらへ踏み出した。
裸足が石の床に触れる。
その音は小さかった。
けれど、イロハの胸にはひどく大きく響いた。
「……人間」
男が呟いた。
低い声だった。
長く使われていなかった声のように、かすれている。けれど、その奥にあるものは弱くなかった。
「まだ、いたのか」
その言葉の意味が、イロハには分からなかった。
まだ。
まるで、いないはずだったものを見たような言い方。
男の視線が、イロハから女へ移る。
女は子どもを抱きしめ、息を呑んだ。
その瞬間、イロハは反射的に前へ出た。
「だめ」
自分でも驚くほど小さな声だった。
それでも、男は止まった。
赤い瞳が、イロハを見る。
「その子、何もしてない」
イロハは震えながら言った。
「この人も。ただ、水がほしかっただけで」
男は黙っていた。
それから、かすかに口元を歪めた。
「人間は、いつもそう言う」
声に笑いはなかった。
「何も知らなかった。命じられただけだった。自分ではない。そう言って、何度でも同じことをする」
イロハは首を振った。
「違う」
「違わない」
男の声が少しだけ低くなる。
「人間は、忘れる」
その言葉が、石の部屋に落ちた。
忘れる。
イロハには、何のことか分からなかった。
けれど、男の中にあるものが、今この場所だけに向けられた怒りではないことだけは分かった。
もっと古い。
もっと深い。
どれほど長い間かは分からない。
けれど、ずっと。
ずっと消えずに残っていたものなのだと。
上で、何かを叩く音がした。
祠の木戸だ。
村人たちが、外から叩いている。
「開けろ!」
「中にいるのか!」
「封じ縄を越えたのは誰だ!」
声が反響して、地下まで落ちてくる。
イロハの身体がこわばった。
男はゆっくりと階段の方を見た。
赤い瞳が細くなる。
女が震える声で言った。
「あなたは……誰」
男は答えなかった。
その代わり、ひどく静かな声で言った。
「名など、もう、呼ぶ者はいない」
イロハの胸がざわつく。
名を尋ねるな。
村人たちの言葉が頭をよぎる。
名を尋ねるな。
けれど、この男は、自分の名を答えなかった。
呼ぶ者がいない、と言った。
「行かないで」
イロハは言った。
男が階段へ向かいかけたからだ。
「上には、村の人がいる」
「だからだ」
「だめ」
イロハは男の前に立った。
足が震えている。
それでも、退けなかった。
「もう、誰も殺さないで」
赤い瞳が、イロハを見下ろす。
「誰も?」
男が低く繰り返した。
「人間は、そうやって数えるのか」
「何のこと」
「自分たちが殺したものは数えない。奪ったものは忘れる。焼いたものも、壊したものも、埋めたものも」
男は一歩近づいた。
イロハは後ずさりしそうになり、必死に踏みとどまる。
「だが、自分たちが死ぬ時だけは、誰も、などと言う」
イロハは何も言えなかった。
男の言葉が正しいのか、間違っているのか分からない。
ただ、その怒りが自分たちに向けられていることだけが分かった。
その時、男の視線がイロハの手に落ちた。
血のついた掌。
封印に触れた傷。
「血と名」
彼は呟いた。
「それだけは、まだ残っていたか」
イロハは手を引いた。
何を言われているのか分からない。
けれど、あの扉が開いたのは、自分の血と名のせいなのだと、胸の奥で理解してしまった。
その時、上で木戸が大きな音を立てて裂けた。
乾いた木が割れる音。
人の足音。
松明の明かり。
村人たちが階段の上に姿を現した。
彼らが最初に見たのは、階段を上ってくる男だった。
白い肌。
青みを帯びた銀白の長い髪。
火を映してなお冷たい、深い赤の瞳。
その奥に、イロハがいた。
さらにその後ろで、女が子どもを抱きしめている。
村人の一人が息を呑んだ。
「化け物」
その言葉が落ちた瞬間、男の足が止まった。
ゆっくりと、顔が上がる。
「そう呼んだのは、お前たちが最初ではない」
次の瞬間、槍が突き出された。
男は避けなかった。
白い指が槍の柄に触れる。
それだけだった。
乾いた音を立てて、槍が折れた。
村人が悲鳴を上げる。
松明の火が揺れた。
男の影が、階段の壁に長く伸びる。
イロハは声を出そうとした。
止めようとした。
けれど、声にならなかった。
松明の火が消えた。
暗闇の中で、悲鳴だけが響いた。
一つ。
また一つ。
誰かが倒れる音。
何かが折れる音。
石の階段を、赤い瞳だけが上っていく。
男はもう振り返らなかった。
女が子どもを抱きしめ、声にならない声を漏らす。
イロハは動けなかった。
自分は、開けてはいけない扉を開けたのだ。
中に眠っていたものが何なのかも知らないまま。
その怒りがどこから来たのかも知らないまま。
何をこの世界へ戻してしまったのかも知らないまま。
階段の上で、悲鳴が途切れた。
そして、地上から火の匂いが降りてきた。




