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終わりの名を持つ君へ  作者: そらいろは
第1部 最果ての村

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第9章 燃える村

第1部 最果ての村

 暗闇の中で、悲鳴だけが響いていた。


 石の階段の上で、足音が乱れた。


 何かが折れる音。


 誰かが倒れる音。


 そして、途切れる声。


 イロハは両手で耳を塞いだ。


 塞いでも聞こえる。


 石の壁を伝って、階段を伝って、悲鳴は地下まで落ちてくる。


 そのたびに、胸の奥が縮んだ。


 女は子どもを抱きしめていた。


「起きて」


 女の声は震えている。


「ねえ、起きて」


 子どもは答えなかった。


 ぐったりと女の腕の中にいる。


 イロハは振り返った。


 子どもの唇が乾いている。


 頬が白い。


 あの子には、水が必要だった。


 水。


 その言葉が胸に刺さる。


「井戸」


 イロハは呟いた。


 女が顔を上げる。


「村の広場に、井戸がある」


 自分で言いながら、足が震えた。


 上にはあの男がいる。


 赤い瞳の男。


 扉の奥から出てきたもの。


 村人たちを殺したもの。


 それでも、ここにいても水はない。


 このままでは、子どもは死んでしまう。


 もう死んでいるのかもしれない。


 その考えを、イロハは必死に押しのけた。


「私、取ってくる」


「だめ」


 女がすぐに言った。


「行っちゃだめ」


「でも」


「逃げて」


 女の声が小さくなる。


「あなたまで戻らなかったら、何も残らない」


 イロハは首を振った。


 何も残らない。


 もう、何も残らないのかもしれない。


 それでも、何か一つでも拾わなければ、自分が立っていられない気がした。


「すぐ戻る」


 そう言って、イロハは階段へ向かった。


     *


 祠の木戸は壊れていた。


 裂けた木片が床に散らばり、外から煙が流れ込んでいる。


 イロハは咳き込んだ。


 目が痛い。


 喉が焼けるようだった。


 地上へ出た瞬間、熱が身体にぶつかった。


 村が燃えている。


 家も。

 納屋も。

 干し草も。

 見慣れた柵も。


 夜の中で、村全体が赤く揺れていた。


 イロハは立ち尽くした。


 どこが道だったのか、すぐには分からなかった。


 土の上に火の粉が散り、煙が低く流れている。倒れた柱が道を塞ぎ、割れた桶が転がっていた。


 人が倒れている。


 村の者か、外の者か、分からない。


 もう区別できなかった。


 さっきまで叫んでいた誰かが、今は動かない。


 イロハは目を逸らした。


 逸らしても、視界の端に入る。


 知っている顔があるかもしれない。


 知らない顔があるかもしれない。


 確かめることはできなかった。


 確かめたら、足が止まる。


 イロハは広場へ走った。


 水。


 水を持って戻る。


 それだけを考えた。


     *


 広場は半分焼け落ちていた。


 昼間、村人たちが集まっていた場所。


 カシラギが声を低くして話していた場所。


 イロハが遠くから見ていた場所。


 村のみんなの場所で、けれどイロハの居場所ではなかった場所。


 そこに、今は火の粉が舞っている。


 井戸は残っていた。


 石の縁が黒く煤けているが、壊れてはいない。


 イロハは井戸へ駆け寄った。


 桶を落とす。


 縄を握る手が震える。


 うまく力が入らない。


 それでも引いた。


 水の重みが縄にかかる。


 イロハは歯を食いしばった。


 引く。


 引く。


 水が見えた。


 桶を縁に引き上げる。


 その瞬間、どこかで声がした。


「災厄だ!」


 イロハは振り返った。


 火の向こうに、男がいた。


 赤い瞳の男。


 青みを帯びた銀白の長い髪が、熱を含んだ風に揺れている。


 燃える村の中で、その色だけが、夜の底から浮かび上がったもののように冷たく見えた。


 男は歩いていた。


 急いでいない。


 怒鳴ってもいない。


 ただ、歩いていた。


 その先に人がいる。


 逃げ遅れた村人。


 水を求めて来た外の者。


 誰なのか、イロハには分からない。


 男には、もっと分かっていないように見えた。


 いや。


 分けるつもりがないのだ。


 村人か。

 外の者か。

 大人か。

 子どもか。

 武器を持っているか。


 そんなことは関係ない。


 男にとっては、すべて人間だった。


「やめて」


 イロハは声を出した。


 届かない。


 声は火の音に飲まれる。


 男の手が動いた。


 誰かが倒れた。


 イロハの手から縄が滑りかけた。


 慌てて掴み直す。


 水。


 水を持って戻らなければ。


 そう思った時、横から腕を掴まれた。


 イロハは悲鳴を上げかけた。


「イロハ」


 カシラギだった。


 顔に煤がつき、片腕から血が流れている。


 それでも、目だけはまだ強かった。


「何をした」


 低い声だった。


「何を、開けた」


 イロハは言葉を失った。


「私……」


「答えろ」


「知らなかった」


 声が震える。


「何も、知らなかった」


 カシラギの顔が歪んだ。


 怒りなのか、後悔なのか、イロハには分からない。


「戻るな」


「でも、地下に」


「戻るな」


 カシラギはイロハの腕を強く掴んだ。


「もう、誰も助からん」


 その言葉が、胸を突き刺した。


「そんなこと」


「あれは、人が触れていいものではなかった」


 イロハの中で、何かが切れた。


「だったら、どうして教えてくれなかったの」


 声が大きくなる。


「近づくなって、触れるなって、それだけで。どうして何も――」


 言い終える前に、カシラギの目がイロハの向こうを見た。


 イロハも振り返る。


 赤い瞳が、こちらを見ていた。


     *


 男が近づいてくる。


 火の中を、ゆっくりと。


 カシラギはイロハの前に出た。


「下がれ」


「でも」


「下がれ!」


 初めて聞くほど強い声だった。


 イロハは動けなかった。


 桶の水が揺れている。


 縄を握る手が震えている。


 男は広場の端で足を止めた。


 カシラギが槍を構える。


 穂先は欠け、柄は焦げている。


 それでも、カシラギは構えた。


「封じよ」


 カシラギが言った。


 声は震えていなかった。


「戻れ、災厄」


 男の目が細くなる。


「封じる」


 低い声。


「まだ、その言葉を使うのか」


「この村は、そのためにあった」


「これが、お前たちの守ったものか」


 男は燃える村を見た。


 倒れた人々。

 火に呑まれる家。

 水を求めて来た者たち。

 祠へ近づくことを恐れた者たち。


 カシラギは歯を食いしばった。


「それでも、守らねばならなかった」


「何を」


 男が問う。


「お前たちは、何を守った」


 カシラギは答えなかった。


 答えられなかったのかもしれない。


 次の瞬間、カシラギが踏み込んだ。


 槍が突き出される。


 男は避けなかった。


 銀白の髪が、火の風に流れる。


 白い指が槍の柄に触れた。


 乾いた音。


 槍が折れた。


 カシラギの身体が崩れる。


 男の手が伸びる。


「やめて!」


 イロハは叫んだ。


 その声に、男の手が止まった。


 本当に一瞬だけ。


 赤い瞳が、イロハを見る。


 イロハは桶を抱えたまま立っていた。


 泣いていたのかもしれない。


 自分では分からなかった。


「お願い」


 声が震える。


「もう、やめて」


 男は黙っていた。


 その赤い瞳の奥で、何かが揺れたように見えた。


 けれど、それはすぐに消えた。


 男の手が動く。


 カシラギの身体が地面に倒れた。


 音は小さかった。


 あまりにも小さかった。


 イロハの手から桶が落ちた。


 水がこぼれる。


 石の上に。

 土の上に。

 火の粉の混じる地面に。


 あの子に持っていくはずだった水が、黒い土へ吸い込まれていく。


 イロハは膝をついた。


「……あ」


 声が出た。


 それだけだった。


 水が消えていく。


 指を伸ばしても、すくえない。


 もう、持っていけない。


 男が近づいてきた。


「なぜ泣く」


 イロハは顔を上げた。


 視界が滲んでいる。


「戻ってどうする」


 男は言った。


「もう遅い」


 イロハは首を振った。


「違う」


 何が違うのか、自分でも分からない。


「違う」


 もう一度言った。


 男はイロハを見下ろしていた。


「人間は、まだ残っている」


 その声に、イロハの背筋が冷えた。


 まだ殺すつもりなのだ。


 この村にいる人間を。


 逃げた外の者を。


 生きているかもしれない誰かを。


「やめて」


 イロハは言った。


「お願い、もうやめて」


「なぜ」


「分からない」


 正直に言った。


「分からない。でも、やめて」


 男はイロハの手首を掴んだ。


 冷たい指。


 強い力。


 イロハは逃げられなかった。


「お前も人間だ」


 男が言った。


「なら、いずれ忘れる」


「忘れない」


 イロハはかすれた声で言った。


「忘れない」


 何を。


 村を。

 カシラギを。

 女を。

 子どもを。

 こぼれた水を。


 何も忘れたくなかった。


 男はイロハを見ていた。


 長い沈黙があった。


 それから、手を離した。


 イロハはその場に崩れ落ちる。


 男は背を向けた。


 そして、人間の声がする方へ歩き出した。


「待って」


 イロハは言った。


 男は止まらない。


「待って!」


 声は火に飲まれる。


 赤い瞳の災厄は、振り返らなかった。


     *


 イロハは燃える村の中で、立ち尽くした。


 水はこぼれた。


 戻る道は、火に呑まれている。


 そして、赤い瞳の災厄は、人間の声がする方へ歩いていった。

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