↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
終わりの名を持つ君へ  作者: そらいろは
第1部 最果ての村

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
11/61

第10章 境界の向こうへ

第1部 最果ての村

 どれくらい、そこに立っていたのか分からない。


 火は燃えていた。


 人は逃げていた。


 誰かが叫んでいた。


 けれど、そのすべてが、イロハから遠ざかっていくようだった。


 音が薄くなる。

 火の色が滲む。

 足元の土が揺れる。


 こぼれた水が、黒い土に吸い込まれていた。


 さっきまで桶の中にあった水。


 あの子に持っていくはずだった水。


 イロハは膝をついた。


 指を伸ばして、濡れた土に触れる。


 冷たかった。


 まだ、水はそこにある。


 けれど、もう汲むことはできない。


 掌の傷に、泥が入り込む。


 痛い。


 痛いはずなのに、どこか遠かった。


「戻らないと」


 声が漏れた。


 誰に言ったのか、自分でも分からない。


 女にか。

 子どもにか。

 それとも、自分にか。


 戻らなければ。


 まだ、地下にいる。


 まだ、待っているかもしれない。


 まだ、間に合うかもしれない。


 イロハは立ち上がろうとした。


 けれど、足に力が入らなかった。


 煙を吸いすぎた喉が焼けるように痛む。


 目が熱い。


 涙なのか、煙なのか、もう分からない。


 それでも、イロハは立ち上がった。


 北へ。


 祠へ。


 水はもうない。


 でも、戻らなければならない。


 そうしなければ、本当に何も残らなくなる気がした。


     *


 村は、夜の形を失っていた。


 家だったものが、黒い骨組みになっている。

 納屋だったものが、火の中で崩れている。

 道だった場所には、焦げた柱や割れた桶が転がっている。


 どこからが村で、どこからが外なのか分からなかった。


 南の古道へ逃げようとした者たちの影が見えた。


 西の沢へ向かった者たちの足跡も、途中で乱れて途切れていた。


 村の者も、外の者も、もう分からない。


 誰が守る側で、誰が追われる側だったのか。


 誰が正しくて、誰が間違っていたのか。


 火の前では、何も残らなかった。


 ただ、人間が倒れている。


 それだけだった。


 イロハは目を逸らした。


 逸らしても、見えてしまう。


 知っている顔があるかもしれない。


 知らない顔があるかもしれない。


 でも、確かめることはできなかった。


 確かめたら、歩けなくなる。


 村の外れに近づくほど、火は弱くなっていた。


 かわりに煙が濃い。


 地面に這うように白く流れ、足元を隠している。


 その奥に、北の森があった。


 封じ縄の黒い布は、半分焼け落ちていた。


 木と木の間に張られていた縄は、途中で切れて、焦げた蛇のように地面へ垂れている。


 絶対に越えてはいけない場所。


 そう教えられてきた場所。


 けれど今は、誰も止める者がいなかった。


 イロハは封じ縄の跡を越えた。


 苔むした石段を上る。


 一段。

 もう一段。


 足が震える。


 膝が笑う。


 それでも上った。


 祠は、もう小さな箱のようには見えなかった。


 木戸は壊れ、柱は焦げ、屋根の端から煙が上がっている。


 地下へ続く階段の入口は、半分ほど崩れていた。


 石と木片と土が、暗い穴を塞ぐように積もっている。


 イロハは息を呑んだ。


「嘘」


 声がかすれた。


「嘘、だよね」


 近づく。


 崩れた木片に手をかける。


 熱い。


 それでも退かそうとした。


 指が焼けるように痛む。


 動かない。


 重い。


 びくともしない。


「誰か」


 イロハは穴の奥へ向かって声を出した。


「誰か、いる?」


 返事はなかった。


 煙が、暗い穴の奥へ吸い込まれていく。


 その奥から、女の声は聞こえない。


 子どもの息も聞こえない。


 何も聞こえない。


 イロハは崩れた入口の前に膝をついた。


「ごめん」


 言葉が落ちた。


「ごめんなさい」


 何に対する謝罪なのか、分からなかった。


 水を持って戻れなかったこと。

 助けられなかったこと。

 あの扉を開けてしまったこと。

 生きていること。


 全部だった。


「ごめんなさい」


 もう一度、言った。


 返事はない。


 ただ、焦げた木片が小さく崩れる音だけがした。


     *


 森の向こうで、最後の悲鳴が途切れた。


 イロハは顔を上げた。


 それまで聞こえていた声が、消えていた。


 逃げる声。

 怒鳴る声。

 泣く声。

 助けを求める声。


 全部、消えていた。


 残っているのは、火の音だけだった。


 ぱち、ぱち、と木が爆ぜる音。

 屋根が崩れる音。

 風が煙を運ぶ音。


 静かだった。


 静かすぎた。


 村は、こんなにも静かな場所だっただろうか。


 朝になれば、誰かが井戸の水を汲む音がした。


 畑へ向かう足音がした。


 子どもたちの声がした。


 タエ婆の咳払いがした。


 誰かがイロハを呼ぶ声も、たまにはあった。


 それなのに、今は何もない。


 誰もいない。


 イロハはふらりと立ち上がった。


 足元がぐらつく。


 祠の柱に手をつこうとして、やめた。


 もう、何にも触れたくなかった。


 その時、背後で足音がした。


 イロハの身体が固まる。


 振り向かなくても分かった。


 あの男だ。


 赤い瞳の男。


 災厄。


 開けてはいけない扉の奥にいたもの。


 イロハはゆっくりと振り返った。


 男は封じ縄の残骸の向こうに立っていた。


 白い肌に、火の赤が映っている。


 青みを帯びた銀白の長い髪が、煙を含んだ風に流れている。


 火の赤を受けても、その髪だけはどこか冷たく、夜に沈む光のように見えた。


 頬についた血は、乾き始めていた。


 けれど、その赤い瞳だけは変わらない。


 眠ってもいない。

 疲れてもいない。

 悔いてもいない。


 ただ、イロハを見ていた。


「戻ったのか」


 男が言った。


 イロハは答えなかった。


「死にに来たのか」


 その言葉に、胸が冷えた。


「違う」


 かすれた声で言う。


「助けに来た」


 男は崩れた祠を見た。


 それから、イロハを見る。


「助けるものなど、もうない」


 イロハの喉が詰まった。


「あなたが」


 声が震えた。


「あなたが、全部壊した」


 男は黙っていた。


「村も、人も、あの子も」


 言いながら、イロハの目から涙が落ちた。


「あの人たちは、ただ水がほしかっただけなのに」


「人間は、いつも理由を持つ」


 男は静かに言った。


「飢えたから。恐れたから。守るためだったから。知らなかったから」


 イロハは男を睨んだ。


 睨んだつもりだった。


 けれど、きっと泣き顔にしか見えなかった。


「そんなの、あなたも同じじゃない」


 男の目が細くなる。


「あなたも、怒ってるから殺したんでしょう」


 言った瞬間、空気が冷えた。


 火の熱が遠のいたようだった。


 イロハは息を止めた。


 言ってはいけないことを言ったのだと、本能で分かった。


 けれど、取り消せなかった。


 男は一歩、近づいた。


 イロハは逃げなかった。


 逃げる力もなかった。


「そうだ」


 男は言った。


「私は怒っている」


 声は低かった。


 静かだった。


 それなのに、耳を塞ぎたくなるほど重かった。


「今も」


 男はイロハのすぐ前で止まった。


「これからも」


 赤い瞳が、イロハを見下ろす。


「人間が残っている限り」


 イロハは唇を震わせた。


「じゃあ、私も殺すの」


 男は答えなかった。


 ただ、イロハを見ていた。


 顔を。

 目を。

 血のついた手を。


 そして、ほんのわずかに眉を動かした。


 何かを探すように。


 何かを思い出しかけるように。


 でも、それはすぐに消えた。


「殺すなら、もう殺してる」


 男は言った。


 イロハの背筋が震えた。


「じゃあ、どうして」


 声が小さくなる。


「どうして、私は生きてるの」


 男はイロハの手首を掴んだ。


 冷たい指だった。


 痛いほど強い。


 イロハは身を引こうとした。


 けれど、動けない。


 男はイロハの掌を見た。


 封印に触れた傷。


 何度も開いて、血が乾き、また滲んだ手。


「お前の血で、扉は開いた」


 男が言った。


「お前の名で、封印はほどけた」


 イロハは息を呑んだ。


 やはり、自分が開けたのだ。


 開けるつもりはなかった。


 知らなかった。


 でも、開いた。


 その事実だけは、消えない。


「だから、殺さないの」


「それだけではない」


 男はイロハの手を離さなかった。


 赤い瞳が、傷口に向けられる。


 イロハはぞっとした。


 見られているのは、傷ではない。


 血だ。


 流れている血。


 生きている証。


「長く、飢えていた」


 男が言った。


 イロハは意味が分からなかった。


 いや。


 本当は、少し分かりかけていた。


 血の匂いに反応したこと。

 人間の血だと言ったこと。

 赤い瞳。

 白い肌。

 冷たい指。


 子どもの頃、タエ婆が一度だけ言っていた話を思い出す。


 夜に来るもの。

 人の血を飲むもの。

 名を持たぬ災い。


 それは昔話だと思っていた。


 村の外へ行かないようにするための、ただの脅しだと思っていた。


「あなたは……」


 声が震える。


「何なの」


 男は、イロハの傷ついた掌を見たまま言った。


「人間は、吸血鬼と呼んだ」


 吸血鬼。


 その言葉が、煙の中に落ちた。


 イロハは聞いたことがあった。


 けれど、それは本の中にも、村の教えにも出てこない。


 昔話のさらに奥。


 誰も本気で信じていない、夜の底に沈んだ名前。


 その名前が、目の前の男とつながった。


 イロハは息を吸おうとした。


 けれど、うまく吸えなかった。


 男が、イロハの手を引いた。


 傷口が近づく。


「やめて」


 声はほとんど出なかった。


 男は止まらない。


「やめて!」


 その瞬間、男の動きが止まった。


 赤い瞳が、イロハを見る。


 イロハは震えていた。


 怖い。


 死ぬのが怖い。


 血を飲まれるのが怖い。


 この人が怖い。


 でも、それ以上に。


 これ以上、自分の身体まで勝手に奪われるのが怖かった。


「嫌」


 イロハは言った。


 泣きながら、首を振った。


「嫌だ」


 男はしばらく黙っていた。


 イロハの手首を掴む指に、力がこもる。


 逃げられない。


 そう思った。


 けれど、男はすぐには噛まなかった。


 ただ、イロハを見ていた。


「今ここで死なれては困る」


 男は低く言った。


「歩けるだけの血は、残しておく」


 長い沈黙のあと、男は手を離した。


 イロハはその場に崩れ落ちそうになった。


「死にたいのか」


 男が言った。


 イロハは首を振った。


「だったら、生きろ」


 その言葉は、優しくなかった。


 命令だった。


 冷たく、乱暴で、選ばせる気のない言葉だった。


「生きて、歩け」


 イロハは顔を上げた。


「どこへ」


「人間のいる場所へ」


 背筋が冷えた。


「まだ、殺すの」


「人間がいるならな」


 イロハは立ち上がろうとして、ふらついた。


 男は支えなかった。


 ただ見ていた。


「行かない」


 イロハは言った。


「あなたとは行かない」


「ここに残るのか」


 男が周囲を見た。


 燃えた村。

 崩れた祠。

 倒れた人々。

 灰になっていく家。


「ここに、何が残っている」


 イロハは答えられなかった。


 何もない。


 分かっている。


 それでも、言われたくなかった。


「私は……」


 言葉が出ない。


 どこにも行きたくない。


 でも、ここにもいられない。


 村はもうない。


 小屋も、井戸も、広場も、タエ婆も、カシラギも、何もかも、もう戻らない。


 戻る場所がない。


 男は、イロハを見下ろした。


「お前は生きている」


 その声は、さっきより低かった。


「生きている血は、使える」


 イロハの身体が強張る。


「殺さない」


 男は言った。


「今は」


 今は。


 その二文字が、ひどく重かった。


「お前は、当面の食料だ」


 イロハは言葉を失った。


 怒りも、恐怖も、悲しみも、全部が胸の中で詰まって、何も出てこない。


 男は背を向けた。


 灰の積もる道へ歩き出す。


 その先には、南の古道があった。


 イロハがずっと見たかった、村の外へ続く道。


 境界の向こう。


 夢見ていたはずの道。


 けれど今、その先へ進む理由は、何一つ夢ではなかった。


「来い」


 男が言った。


 イロハは燃え残った村を振り返った。


 誰も呼ばない。


 誰も止めない。


 誰も、戻れと言わない。


 だからイロハは、泣きながら一歩を踏み出した。


 灰になった村を背にして。


 開けてはいけない扉から出てきたものの後を、歩き始めた。


 南の古道は、夜の底へ続いていた。


 かつてイロハが見たかった、境界の向こう。


 けれどその先にあるのは、自由ではなかった。


 人の消えた道。

 壊れた街。

 夜ごと近づく獣の声。

 そして、赤い瞳の男が探し続ける、人間の影。


 この夜、世界は終わらなかった。


 ただ、終わったはずのものが、もう一度歩き始めた。

第1部 最果ての村 完

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。