第11章 最初の夜
第2部 旅の始まり
村の火は、いつまでも背中にあった。
振り返らなくても分かる。
煙の匂いが追ってくる。
焦げた木の匂いが追ってくる。
血の匂いが追ってくる。
南の古道は、夜の中へ伸びていた。
イロハが何度も見つめていた道。
境界杭の向こう。
村の外へ続く道。
いつか歩いてみたいと思っていた道。
けれど今、足元にあるその道は、夢に見ていたものとは違っていた。
暗い。
冷たい。
怖い。
古い荷車の轍は草に埋もれ、ところどころ土が崩れている。道の両側には黒い木々が並び、その奥には何が潜んでいるのか分からない。
イロハの前を、赤い瞳の男が歩いていた。
吸血鬼。
人間が、そう呼んだもの。
男は一度も振り返らない。
イロハがついてきているかどうか、確かめようともしない。
それでも、足を止めればすぐに気づかれるのだと分かった。
背中を向けているのに、見られている。
そう感じる。
イロハは両腕を抱いた。
手のひらの傷が痛む。
封印に触れた手。
扉を開けた手。
水をこぼした手。
その手を、イロハは握りしめた。
目を閉じると、女の声が聞こえる気がした。
起きて。
ねえ、起きて。
そして、返事のない沈黙。
イロハは唇を噛んだ。
歩かなければ。
止まったら、全部が追いついてくる。
*
どれほど歩いたのか分からない。
村の火は、少しずつ遠くなっていた。
けれど、完全には消えない。
夜の向こうで、赤い染みのように残っている。
イロハの足はもう限界だった。
裸足ではない。
靴は履いている。
それでも、足裏が痛い。
膝が震える。
煙を吸った喉がまだひりつく。
男は速度を落とさない。
息を乱すこともない。
まるで夜そのものが歩いているようだった。
「待って」
声が漏れた。
男は止まらなかった。
「待って!」
今度は少し大きな声になった。
男の足が止まる。
ゆっくりと振り返った。
赤い瞳が、夜の中でこちらを見る。
「何だ」
低い声だった。
疲れている様子はない。
息も乱れていない。
イロハだけが、肩で息をしていた。
「もう、歩けない」
「なら、ここで死ね」
あまりにも簡単に言われて、イロハは言葉を失った。
男はイロハを見ている。
怒っているわけではない。
脅しているようにも見えない。
ただ、事実を告げただけ。
歩けないなら死ぬ。
この男にとって、外の世界はそういう場所なのだ。
「少しだけでいい」
イロハは言った。
「少しだけ、休ませて」
「戻るか」
その言葉で、身体が固まった。
戻る。
どこへ。
燃えた村へ。
崩れた祠へ。
女と子どもを置いてきた、あの暗い入口の前へ。
イロハは首を振った。
「戻らない」
「なら歩け」
「歩けないって言ってる」
「では死ね」
また同じ言葉だった。
胸の奥に、恐怖とは違うものが小さく灯った。
怒りだった。
怖い。
この男は怖い。
それでも、何も言い返せないままなのは、もっと嫌だった。
「あなたは、そうやって全部決めるの」
赤い瞳が、わずかに細くなる。
「お前が決めればいい」
「え?」
「歩くか、死ぬか」
イロハは言葉に詰まった。
選ばせているようで、何も選ばせていない。
けれど男は、本気でそう言っているのだと分かった。
イロハは拳を握った。
掌の傷が、また痛んだ。
「……少しだけ」
声を絞り出す。
「少しだけ休ませて。そうしたら、歩く」
男はしばらく黙っていた。
風が草を揺らす音だけが聞こえる。
やがて、男は道の脇へ視線を向けた。
そこに、崩れかけた小屋があった。
屋根は半分落ち、壁には蔓が這っている。戸は外れ、内側は暗い。
誰かが住んでいたのかもしれない。
旅人が雨をしのいだ場所だったのかもしれない。
今は、ただの朽ちた箱だった。
「夜明けまでだ」
男はそれだけ言って、小屋へ向かった。
*
小屋の中は、湿った土の匂いがした。
床は一部が抜け、壁の隙間から夜風が入ってくる。
隅には古い布のようなものが固まっていた。触る気にはなれなかった。
イロハは壁際に座り込んだ。
座った瞬間、足の痛みが強くなる。
足裏が熱い。
膝が重い。
身体の奥まで、疲れが沈んでいた。
男は入口の近くに立っていた。
外を見ている。
何を見ているのか、イロハには分からない。
夜の道。
黒い草。
村とは違う静けさ。
その中で、男だけが闇に馴染んでいた。
青みを帯びた銀白の長い髪が、壁の隙間から入る風にわずかに揺れる。
火の赤を受けていた時とは違う。
夜の中では、その髪は冷たく見えた。
「あなたは、眠らないの」
イロハが聞くと、男は答えなかった。
答えたくないのか。
聞こえていないのか。
しばらくして、男は壁にもたれた。
目を閉じる。
赤い瞳が見えなくなると、少しだけ息がしやすくなった。
でも、安心はできない。
目を閉じていても、この男が眠っているとは限らない。
イロハは膝を抱えた。
小屋の外で、虫の声がする。
遠くで風が鳴っている。
村の音は、もう聞こえない。
井戸の水を汲む音も。
誰かが戸を閉める音も。
タエ婆の咳払いも。
何も聞こえない。
それなのに、耳の奥にはまだ残っていた。
火の音。
悲鳴。
子どもの咳。
水が土に吸い込まれる音。
イロハは目を閉じた。
眠るつもりはなかった。
眠れるとも思わなかった。
けれど、身体は限界だった。
意識が沈みかける。
そのたびに、暗い階段が浮かぶ。
女の腕の中で動かない子ども。
崩れた入口。
返事のない沈黙。
イロハは目を開けた。
息が荒くなっている。
男はまだ壁にもたれていた。
目を閉じたまま、動かない。
眠っているように見えた。
本当に眠っているのかもしれない。
今なら。
イロハの胸が強く鳴った。
今なら逃げられるかもしれない。
南の古道を戻ることはできない。
村へは戻れない。
でも、この男から離れることはできるかもしれない。
どこへ行くのかは分からない。
水もない。
食べ物もない。
外の世界のことも、何も知らない。
それでも、このままついていけば、男は人間を探す。
血を探す。
見つければ、殺す。
イロハは、また誰かが死ぬのを見るかもしれない。
そう思うと、じっとしていられなかった。
ゆっくりと立ち上がる。
足が痛む。
声が出そうになり、歯を食いしばった。
男は動かない。
イロハは一歩、入口へ近づいた。
もう一歩。
壊れた戸板を跨ぐ。
外の冷たい空気が頬に触れた。
夜は深かった。
道は黒く、草は膝の高さまで伸びている。
イロハは振り返った。
男は小屋の中にいる。
動かない。
今だ。
イロハは走り出した。
*
走ったつもりだった。
けれど、足は思うように動かなかった。
痛みが足裏から膝へ上がってくる。
息がすぐに切れる。
それでも、イロハは小屋から離れた。
草を掻き分け、道の脇へ入る。
古道をそのまま進めば、見つかる気がした。
だから、少し外れた。
どこへ向かっているのか分からない。
ただ、男から離れたかった。
赤い瞳から。
冷たい声から。
血の匂いから。
イロハは息を殺しながら進んだ。
その時、森の奥で低い音がした。
ぐるる、と。
喉の奥を震わせるような音。
イロハは足を止めた。
風ではない。
木の軋みでもない。
生き物の声だった。
それも、小さな獣ではない。
背中に冷たいものが走った。
もう一度、音がした。
今度は少し近い。
草の向こうで、何かが動いた。
見えない。
暗すぎる。
けれど、そこに何かがいる。
イロハは一歩下がった。
足元で枝が折れた。
乾いた音が、夜に響く。
草の向こうの気配が止まった。
イロハは息を止めた。
心臓の音だけが、やけに大きい。
逃げなければ。
どこへ。
小屋へ戻る?
あの男のところへ?
嫌だ。
でも、ここにもいられない。
草の向こうで、何かが低く唸った。
イロハの足が勝手に後ろへ下がる。
その背中が、何かにぶつかった。
「っ!」
悲鳴を上げかけた口を、冷たい手が塞いだ。
イロハは目を見開いた。
耳元で低い声がした。
「騒ぐな」
男だった。
いつの間に。
どうして。
イロハは身をよじろうとしたが、男の腕はびくともしない。
男は草の向こうを見ていた。
赤い瞳が、暗闇の中で細く光っている。
しばらく、何も起きなかった。
草が揺れる。
重い気配が、ゆっくりと遠ざかっていく。
唸り声も消えた。
男の手が、イロハの口から離れる。
イロハは荒く息を吸った。
「何が」
「獣だ」
「獣って」
「近づけば死ぬものだ」
男は短く答えた。
イロハは草の向こうを見た。
もう何も見えない。
それでも、足が震えている。
「戻るぞ」
男が言った。
イロハは動けなかった。
「嫌」
かすれた声が出た。
男が振り返る。
「なら、ここに残るか」
イロハは唇を噛んだ。
答えられない。
残れない。
でも戻りたくない。
そんなことを言っても、この男には通じない。
「逃げるなら、もっと静かに逃げろ」
男は言った。
怒ってはいなかった。
呆れているようにも見えない。
ただ、下手なことをしたと指摘しただけ。
それが、余計に悔しかった。
「……戻ってきたんじゃない」
イロハは言った。
「戻るしかなかっただけ」
「同じことだ」
「同じじゃない」
男は返事をしなかった。
背を向け、小屋へ歩き出す。
イロハはその背中を睨んだ。
いつか逃げる。
今は無理でも。
何も知らないままでは無理でも。
このまま、ただ連れていかれるだけでは終わらない。
イロハは震える足を動かした。
悔しさだけが、少しだけ身体を支えていた。
*
小屋に戻ると、男は入口の近くに座った。
今度は目を閉じなかった。
イロハは壁際に座り、膝を抱えた。
眠れなかった。
外の草の音が、全部獣の気配に聞こえる。
風が壁を鳴らすたび、身体が跳ねそうになる。
男は何も言わなかった。
夜は長かった。
長く、冷たく、終わらないように思えた。
それでも、少しずつ空の色が変わった。
壁の隙間から、薄い光が差し込む。
朝だった。
イロハはいつの間にか、浅く眠っていたらしい。
目を開けると、男はもう立っていた。
「行くぞ」
それだけだった。
イロハは返事をしなかった。
足はまだ痛い。
身体も重い。
けれど、昨日よりは少しだけ息が吸えた。
小屋の外へ出ると、朝の空気が冷たかった。
草には露がついている。
村の匂いはもうしない。
かわりに、湿った土と、知らない草の匂いがした。
道の脇に、倒れたものがあった。
最初は木の板かと思った。
近づいてみると、文字の書かれた古い道標だった。
柱は根元から折れ、板は斜めに土へ沈んでいる。
文字はかすれて、ほとんど読めない。
イロハには、そもそも読めない字だった。
けれど、そこに何かの名前が書かれていたことは分かった。
村ではない場所。
誰かが向かった場所。
誰かが帰ってきたかもしれない場所。
名前の分からない場所へ進むことが、急に怖くなった。
村の外には、知らない場所がある。
知らない場所には、知らない名前がある。
そのどれもが、イロハを待っていたわけではない。
「これは」
「人間の印だ」
男が言った。
「道を間違えないためのものだ」
イロハは小さく息を呑んだ。
村の外にも、道があった。
道を示すものがあった。
人間が歩いていた。
どこかへ行き、どこかから来ていた。
それは当たり前のことなのかもしれない。
でも、イロハには胸が痛くなるほど遠いことに思えた。
男は道標に興味を失ったように歩き出す。
イロハは少し遅れてついていった。
逃げるなら、知らなければならない。
道を。
水の場所を。
獣のいる場所を。
この男が何を見て、何を避けるのかを。
知らないままでは、また戻るしかなくなる。
イロハは倒れた道標をもう一度振り返った。
そこから先へ、黒い道が続いていた。
人の消えた道。
そこを、赤い瞳の男が歩いていく。
イロハは傷んだ足を引きずりながら、その後を追った。




