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終わりの名を持つ君へ  作者: そらいろは
第2部 旅の始まり

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12/61

第11章 最初の夜

第2部 旅の始まり

 村の火は、いつまでも背中にあった。


 振り返らなくても分かる。


 煙の匂いが追ってくる。

 焦げた木の匂いが追ってくる。

 血の匂いが追ってくる。


 南の古道は、夜の中へ伸びていた。


 イロハが何度も見つめていた道。


 境界杭の向こう。

 村の外へ続く道。

 いつか歩いてみたいと思っていた道。


 けれど今、足元にあるその道は、夢に見ていたものとは違っていた。


 暗い。


 冷たい。


 怖い。


 古い荷車の轍は草に埋もれ、ところどころ土が崩れている。道の両側には黒い木々が並び、その奥には何が潜んでいるのか分からない。


 イロハの前を、赤い瞳の男が歩いていた。


 吸血鬼。


 人間が、そう呼んだもの。


 男は一度も振り返らない。


 イロハがついてきているかどうか、確かめようともしない。


 それでも、足を止めればすぐに気づかれるのだと分かった。


 背中を向けているのに、見られている。


 そう感じる。


 イロハは両腕を抱いた。


 手のひらの傷が痛む。


 封印に触れた手。

 扉を開けた手。

 水をこぼした手。


 その手を、イロハは握りしめた。


 目を閉じると、女の声が聞こえる気がした。


 起きて。


 ねえ、起きて。


 そして、返事のない沈黙。


 イロハは唇を噛んだ。


 歩かなければ。


 止まったら、全部が追いついてくる。


     *


 どれほど歩いたのか分からない。


 村の火は、少しずつ遠くなっていた。


 けれど、完全には消えない。


 夜の向こうで、赤い染みのように残っている。


 イロハの足はもう限界だった。


 裸足ではない。

 靴は履いている。


 それでも、足裏が痛い。

 膝が震える。

 煙を吸った喉がまだひりつく。


 男は速度を落とさない。


 息を乱すこともない。


 まるで夜そのものが歩いているようだった。


「待って」


 声が漏れた。


 男は止まらなかった。


「待って!」


 今度は少し大きな声になった。


 男の足が止まる。


 ゆっくりと振り返った。


 赤い瞳が、夜の中でこちらを見る。


「何だ」


 低い声だった。


 疲れている様子はない。


 息も乱れていない。


 イロハだけが、肩で息をしていた。


「もう、歩けない」


「なら、ここで死ね」


 あまりにも簡単に言われて、イロハは言葉を失った。


 男はイロハを見ている。


 怒っているわけではない。

 脅しているようにも見えない。


 ただ、事実を告げただけ。


 歩けないなら死ぬ。


 この男にとって、外の世界はそういう場所なのだ。


「少しだけでいい」


 イロハは言った。


「少しだけ、休ませて」


「戻るか」


 その言葉で、身体が固まった。


 戻る。


 どこへ。


 燃えた村へ。


 崩れた祠へ。


 女と子どもを置いてきた、あの暗い入口の前へ。


 イロハは首を振った。


「戻らない」


「なら歩け」


「歩けないって言ってる」


「では死ね」


 また同じ言葉だった。


 胸の奥に、恐怖とは違うものが小さく灯った。


 怒りだった。


 怖い。

 この男は怖い。


 それでも、何も言い返せないままなのは、もっと嫌だった。


「あなたは、そうやって全部決めるの」


 赤い瞳が、わずかに細くなる。


「お前が決めればいい」


「え?」


「歩くか、死ぬか」


 イロハは言葉に詰まった。


 選ばせているようで、何も選ばせていない。


 けれど男は、本気でそう言っているのだと分かった。


 イロハは拳を握った。


 掌の傷が、また痛んだ。


「……少しだけ」


 声を絞り出す。


「少しだけ休ませて。そうしたら、歩く」


 男はしばらく黙っていた。


 風が草を揺らす音だけが聞こえる。


 やがて、男は道の脇へ視線を向けた。


 そこに、崩れかけた小屋があった。


 屋根は半分落ち、壁には蔓が這っている。戸は外れ、内側は暗い。


 誰かが住んでいたのかもしれない。


 旅人が雨をしのいだ場所だったのかもしれない。


 今は、ただの朽ちた箱だった。


「夜明けまでだ」


 男はそれだけ言って、小屋へ向かった。


     *


 小屋の中は、湿った土の匂いがした。


 床は一部が抜け、壁の隙間から夜風が入ってくる。


 隅には古い布のようなものが固まっていた。触る気にはなれなかった。


 イロハは壁際に座り込んだ。


 座った瞬間、足の痛みが強くなる。


 足裏が熱い。

 膝が重い。

 身体の奥まで、疲れが沈んでいた。


 男は入口の近くに立っていた。


 外を見ている。


 何を見ているのか、イロハには分からない。


 夜の道。

 黒い草。

 村とは違う静けさ。


 その中で、男だけが闇に馴染んでいた。


 青みを帯びた銀白の長い髪が、壁の隙間から入る風にわずかに揺れる。


 火の赤を受けていた時とは違う。


 夜の中では、その髪は冷たく見えた。


「あなたは、眠らないの」


 イロハが聞くと、男は答えなかった。


 答えたくないのか。

 聞こえていないのか。


 しばらくして、男は壁にもたれた。


 目を閉じる。


 赤い瞳が見えなくなると、少しだけ息がしやすくなった。


 でも、安心はできない。


 目を閉じていても、この男が眠っているとは限らない。


 イロハは膝を抱えた。


 小屋の外で、虫の声がする。


 遠くで風が鳴っている。


 村の音は、もう聞こえない。


 井戸の水を汲む音も。

 誰かが戸を閉める音も。

 タエ婆の咳払いも。


 何も聞こえない。


 それなのに、耳の奥にはまだ残っていた。


 火の音。


 悲鳴。


 子どもの咳。


 水が土に吸い込まれる音。


 イロハは目を閉じた。


 眠るつもりはなかった。


 眠れるとも思わなかった。


 けれど、身体は限界だった。


 意識が沈みかける。


 そのたびに、暗い階段が浮かぶ。


 女の腕の中で動かない子ども。


 崩れた入口。


 返事のない沈黙。


 イロハは目を開けた。


 息が荒くなっている。


 男はまだ壁にもたれていた。


 目を閉じたまま、動かない。


 眠っているように見えた。


 本当に眠っているのかもしれない。


 今なら。


 イロハの胸が強く鳴った。


 今なら逃げられるかもしれない。


 南の古道を戻ることはできない。


 村へは戻れない。


 でも、この男から離れることはできるかもしれない。


 どこへ行くのかは分からない。


 水もない。


 食べ物もない。


 外の世界のことも、何も知らない。


 それでも、このままついていけば、男は人間を探す。


 血を探す。


 見つければ、殺す。


 イロハは、また誰かが死ぬのを見るかもしれない。


 そう思うと、じっとしていられなかった。


 ゆっくりと立ち上がる。


 足が痛む。


 声が出そうになり、歯を食いしばった。


 男は動かない。


 イロハは一歩、入口へ近づいた。


 もう一歩。


 壊れた戸板を跨ぐ。


 外の冷たい空気が頬に触れた。


 夜は深かった。


 道は黒く、草は膝の高さまで伸びている。


 イロハは振り返った。


 男は小屋の中にいる。


 動かない。


 今だ。


 イロハは走り出した。


     *


 走ったつもりだった。


 けれど、足は思うように動かなかった。


 痛みが足裏から膝へ上がってくる。


 息がすぐに切れる。


 それでも、イロハは小屋から離れた。


 草を掻き分け、道の脇へ入る。


 古道をそのまま進めば、見つかる気がした。


 だから、少し外れた。


 どこへ向かっているのか分からない。


 ただ、男から離れたかった。


 赤い瞳から。


 冷たい声から。


 血の匂いから。


 イロハは息を殺しながら進んだ。


 その時、森の奥で低い音がした。


 ぐるる、と。


 喉の奥を震わせるような音。


 イロハは足を止めた。


 風ではない。


 木の軋みでもない。


 生き物の声だった。


 それも、小さな獣ではない。


 背中に冷たいものが走った。


 もう一度、音がした。


 今度は少し近い。


 草の向こうで、何かが動いた。


 見えない。


 暗すぎる。


 けれど、そこに何かがいる。


 イロハは一歩下がった。


 足元で枝が折れた。


 乾いた音が、夜に響く。


 草の向こうの気配が止まった。


 イロハは息を止めた。


 心臓の音だけが、やけに大きい。


 逃げなければ。


 どこへ。


 小屋へ戻る?


 あの男のところへ?


 嫌だ。


 でも、ここにもいられない。


 草の向こうで、何かが低く唸った。


 イロハの足が勝手に後ろへ下がる。


 その背中が、何かにぶつかった。


「っ!」


 悲鳴を上げかけた口を、冷たい手が塞いだ。


 イロハは目を見開いた。


 耳元で低い声がした。


「騒ぐな」


 男だった。


 いつの間に。


 どうして。


 イロハは身をよじろうとしたが、男の腕はびくともしない。


 男は草の向こうを見ていた。


 赤い瞳が、暗闇の中で細く光っている。


 しばらく、何も起きなかった。


 草が揺れる。


 重い気配が、ゆっくりと遠ざかっていく。


 唸り声も消えた。


 男の手が、イロハの口から離れる。


 イロハは荒く息を吸った。


「何が」


「獣だ」


「獣って」


「近づけば死ぬものだ」


 男は短く答えた。


 イロハは草の向こうを見た。


 もう何も見えない。


 それでも、足が震えている。


「戻るぞ」


 男が言った。


 イロハは動けなかった。


「嫌」


 かすれた声が出た。


 男が振り返る。


「なら、ここに残るか」


 イロハは唇を噛んだ。


 答えられない。


 残れない。


 でも戻りたくない。


 そんなことを言っても、この男には通じない。


「逃げるなら、もっと静かに逃げろ」


 男は言った。


 怒ってはいなかった。


 呆れているようにも見えない。


 ただ、下手なことをしたと指摘しただけ。


 それが、余計に悔しかった。


「……戻ってきたんじゃない」


 イロハは言った。


「戻るしかなかっただけ」


「同じことだ」


「同じじゃない」


 男は返事をしなかった。


 背を向け、小屋へ歩き出す。


 イロハはその背中を睨んだ。


 いつか逃げる。


 今は無理でも。


 何も知らないままでは無理でも。


 このまま、ただ連れていかれるだけでは終わらない。


 イロハは震える足を動かした。


 悔しさだけが、少しだけ身体を支えていた。


     *


 小屋に戻ると、男は入口の近くに座った。


 今度は目を閉じなかった。


 イロハは壁際に座り、膝を抱えた。


 眠れなかった。


 外の草の音が、全部獣の気配に聞こえる。


 風が壁を鳴らすたび、身体が跳ねそうになる。


 男は何も言わなかった。


 夜は長かった。


 長く、冷たく、終わらないように思えた。


 それでも、少しずつ空の色が変わった。


 壁の隙間から、薄い光が差し込む。


 朝だった。


 イロハはいつの間にか、浅く眠っていたらしい。


 目を開けると、男はもう立っていた。


「行くぞ」


 それだけだった。


 イロハは返事をしなかった。


 足はまだ痛い。


 身体も重い。


 けれど、昨日よりは少しだけ息が吸えた。


 小屋の外へ出ると、朝の空気が冷たかった。


 草には露がついている。


 村の匂いはもうしない。


 かわりに、湿った土と、知らない草の匂いがした。


 道の脇に、倒れたものがあった。


 最初は木の板かと思った。


 近づいてみると、文字の書かれた古い道標だった。


 柱は根元から折れ、板は斜めに土へ沈んでいる。


 文字はかすれて、ほとんど読めない。


 イロハには、そもそも読めない字だった。


 けれど、そこに何かの名前が書かれていたことは分かった。


 村ではない場所。


 誰かが向かった場所。


 誰かが帰ってきたかもしれない場所。


 名前の分からない場所へ進むことが、急に怖くなった。


 村の外には、知らない場所がある。


 知らない場所には、知らない名前がある。


 そのどれもが、イロハを待っていたわけではない。


「これは」


「人間の印だ」


 男が言った。


「道を間違えないためのものだ」


 イロハは小さく息を呑んだ。


 村の外にも、道があった。


 道を示すものがあった。


 人間が歩いていた。


 どこかへ行き、どこかから来ていた。


 それは当たり前のことなのかもしれない。


 でも、イロハには胸が痛くなるほど遠いことに思えた。


 男は道標に興味を失ったように歩き出す。


 イロハは少し遅れてついていった。


 逃げるなら、知らなければならない。


 道を。


 水の場所を。


 獣のいる場所を。


 この男が何を見て、何を避けるのかを。


 知らないままでは、また戻るしかなくなる。


 イロハは倒れた道標をもう一度振り返った。


 そこから先へ、黒い道が続いていた。


 人の消えた道。


 そこを、赤い瞳の男が歩いていく。


 イロハは傷んだ足を引きずりながら、その後を追った。

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