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終わりの名を持つ君へ  作者: そらいろは
第2部 旅の始まり

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第12章 人の消えた道

第2部 旅の始まり

 朝の光は、思っていたより冷たかった。


 村では、朝になれば誰かの声がした。


 井戸のそばで水を汲む音。

 畑へ向かう足音。

 鍋の底をこする音。

 誰かが誰かを呼ぶ声。


 けれど、ここには何もない。


 風が草を揺らす音だけが、古道の上を流れていた。


 イロハは痛む足を引きずりながら、赤い瞳の男の後を歩いた。


 倒れた道標は、すぐに見えなくなった。


 名前の分からない場所。


 読めない文字。


 知らない道。


 それらが背中に残ったまま、イロハは進むしかなかった。


 男は相変わらず振り返らない。


 歩幅も、昨夜と変わらない。


 イロハが遅れても、合わせようとはしない。

 けれど、完全に置いていくこともしない。


 数歩。


 どうしても追いつけない距離。


 声をかければ届く。

 手を伸ばしても届かない。


 その距離が、余計に苦しかった。


 朝日が、男の白い肌に触れている。


 青みを帯びた銀白の長い髪が、光を受けて淡く光っていた。


 けれど、その光は温かくない。


 むしろ、男の輪郭を夜から切り離すように見えた。


「吸血鬼って」


 イロハは、しばらく迷ってから口を開いた。


 男は答えない。


「日の光で、死ぬんじゃないの」


 昔話では、そうだった。


 夜に出るもの。

 人の血を吸うもの。

 朝になれば消えるもの。


 でも男は、朝の中を歩いている。


 少しも平気そうには見えないが、死にそうにも見えない。


 男は前を向いたまま答えた。


「死にはしない」


 それから少しだけ、目を細めた。


「不愉快なだけだ」


「不愉快」


「お前たちが、煙の中を歩くようなものだ」


 イロハは喉に残った痛みを思い出した。


 煙を吸った喉。

 焼けるような苦しさ。

 何度咳をしても消えない熱。


 男にとって、朝の光はそういうものなのだろうか。


 それでも歩いている。


 息を乱さず。


 止まらず。


 イロハは男の背中を見た。


 あの人は、どこまで歩けるのだろう。


 どれだけ歩けば、疲れるのだろう。


 どれだけ血を飲まなければ、弱るのだろう。


 そう考えて、イロハは自分の腕を抱いた。


 食料。


 男はそう言った。


 お前は、当面の食料だ、と。


 でも、まだ飲まれていない。


 それが怖かった。


 いつか急に振り返って、手首を掴まれるのではないか。


 そう思うたび、胸の奥が冷える。


 けれど、男はただ歩いているだけだった。


     *


 昼に近づくころ、古道は途切れた。


 正確には、土の道が終わり、別の道に変わった。


 黒い地面だった。


 土ではない。


 石でもない。


 硬く、ひび割れていて、ところどころ草が突き破っている。


 イロハは足を止めた。


 男は数歩先で止まった。


 振り返りはしない。


 ただ、イロハが止まったことには気づいている。


 それが分かった。


「何、これ」


 男も立ち止まり、黒い地面を見下ろした。


「道だ」


「これが?」


「人間の道だ」


 イロハはもう一度、黒い道を見た。


 こんな道を、人間が作ったのか。


 村の古道とは違う。


 荷車の轍もない。

 土の匂いも薄い。

 雨が染み込んだ跡もない。


 ただ、黒く固まったものが、遠くまで伸びている。


 村の外には、こんな道がある。


 人間は、こんなものを作っていた。


 イロハは一歩、黒い道に足を乗せた。


 硬い。


 靴の裏から、冷たさが伝わってくる。


 歩きやすいはずだった。


 土の道より、ずっと。


 けれど、イロハはその道を歩くのが怖かった。


 あまりにも、人間の気配が残っている。


 なのに、誰もいない。


 道の両側には、壊れた柱がいくつも立っていた。


 その先に何かが付いていたのかもしれない。

 今は折れ、曲がり、錆びついている。


 遠くには、倒れた看板のようなものもあった。


 文字は読めない。


 絵も剥がれている。


 何を知らせるためのものだったのか、イロハには分からなかった。


 男は迷わず黒い道を進む。


 イロハもその後を追った。


 黒い道は、どこまでも続いているように見えた。


 どこへ向かうのか。


 誰が通ったのか。


 最後にここを歩いた人は、どこへ行ったのか。


 考えるほど、胸の奥が重くなった。


 村の外には、人がたくさんいたはずだ。


 道を作り、印を立て、どこかへ行き来していたはずだ。


 なのに、今は風だけが通っている。


 男の背中は、ずっと先にある。


 イロハが追う。


 それは、昨夜から何も変わっていなかった。


     *


 喉の渇きに気づいたのは、黒い道をしばらく歩いてからだった。


 最初は、煙のせいだと思っていた。


 でも違う。


 舌が重い。

 唇が割れそうに乾いている。

 飲み込むたび、喉が痛む。


 水。


 そう思った瞬間、イロハの中で桶の水がこぼれた。


 暗い地下。


 女の声。


 子どもの咳。


 水が土に吸い込まれていく音。


 イロハは足を止めそうになった。


 だめだ。


 考えてはいけない。


 けれど、喉は水を求めていた。


 しばらく進むと、道の脇に低い草地が見えた。


 その奥に、光が揺れている。


 水だった。


 小さな溜まり池のような場所。


 草の間に、水面が見えた。


 イロハは思わず駆け寄った。


「飲むな」


 男の声が飛んだ。


 イロハの足が止まる。


 振り返ると、男はまだ黒い道の上にいた。


 離れている。


 なのに、イロハが水へ向かった瞬間には気づいていた。


「どうして」


「見ろ」


 男は水辺を顎で示した。


 イロハはしゃがみ込み、水面を見た。


 最初は分からなかった。


 けれど、じっと見ると、水の上に薄い膜のようなものが浮いている。


 虹色に光る、気味の悪い膜。


 水の底には、黒い泥が溜まっていた。


 その脇に、小さな骨がいくつも転がっている。


 鳥か、鼠か。


 分からない。


 さらに少し離れた草の影に、腐った小動物の死骸があった。


 イロハは息を止めた。


 鼻を刺す匂いがする。


 腐った匂い。


 泥の匂い。


 知らない油のような匂い。


「飲めば腹を壊す」


 男が言った。


「死ぬほどではない」


 少し置いて、続ける。


「歩けなくなるだけだ」


 イロハは水面を見つめた。


 こんなに水があるのに、飲めない。


 手を伸ばせば届くのに。


 飲んだら歩けなくなる。


 あの子は。


 イロハは唇を噛んだ。


 あの子は、こんな水でも欲しかったのだろうか。


 それとも、飲めない水ばかりで、だから村へ来たのだろうか。


 水がある場所と、飲める水がある場所は違う。


 外の世界では、それすら分からない。


 イロハは立ち上がろうとした。


 その時、泥の上に何かを見つけた。


 大きな足跡。


 人間のものではない。


 爪の跡がある。


 深く、泥に沈んでいる。


 昨夜、森の奥で聞いた唸り声が、耳の奥で蘇った。


「獣……?」


 男は足跡を見る。


「近い」


 それだけ言った。


 イロハは後ずさった。


 水辺に来るのは、人間だけではない。


 獣も来る。


 生きるために。


 喉を潤すために。


 その事実が、妙に怖かった。


 ふと、イロハは別の跡を見つけた。


 泥の端。


 水面に近いところ。


 草に半分隠れるように、小さな足跡が残っている。


 爪はない。


 獣のものではない。


 人間の足跡に見えた。


 古いのか、新しいのかは分からない。


 途中で水に消えている。


 イロハは息を呑んだ。


「誰か、来たのかな」


 男は答えなかった。


 ただ、その足跡を見ていた。


 長くはない。


 ほんの一瞬。


 それから視線を外す。


「行くぞ」


「今の、足跡」


「行くぞ」


 同じ声だった。


 男はもう歩き出している。


 けれど、その歩幅はさっきより少しだけ狭かった。


 水辺から急いで離れさせるためか。

 獣の気配を警戒しているからか。

 イロハを待っているからか。


 最後の一つは、違うと思った。


 そう思いたかった。


 それでも、イロハは追いつけた。


 男の背中を追いながら、胸の奥に小さな火のようなものが灯った。


 誰かがいたのかもしれない。


 この水辺に。


 自分たちより前に。


 村の外に、人間がいるのかもしれない。


 イロハは泥に残った足跡を振り返った。


 そこにあるのは、ただの跡だった。


 でも、足跡は誰かが歩いたあとだ。


 誰かが、生きてそこに立ったあとだ。


     *


 黒い道へ戻ると、日差しが強くなっていた。


 イロハは水を飲めないまま歩いた。


 喉はさらに乾いた。


 それでも、あの水を飲む気にはなれなかった。


 道の先に、壊れた鉄の塊があった。


 最初は大きな獣の死骸かと思った。


 でも違う。


 金属でできている。


 四つの丸いものがついている。

 そのうち二つは外れ、草の中に沈んでいる。


 窓のようなものは割れ、中は暗い。


「何、これ」


「車だ」


「くるま?」


「人間が乗った」


 イロハは鉄の塊を見た。


 これに、人間が乗った。


 どうやって。


 何のために。


 黒い道。

 壊れた車。

 読めない看板。


 少しずつ、世界が自分の知っている大きさから外れていく。


 村の家より小さい。

 でも、人が中に入れる。


 小さな部屋みたいだった。


 イロハは割れた窓から中を覗いた。


 埃の匂い。

 錆びた鉄の匂い。

 古い布の匂い。


 中には、座るためのものがあった。


 前の方には、丸い輪のようなものがついている。


 その下に、細い金属片が落ちていた。


 錆びている。


 けれど、先が少し尖っていた。


 イロハはそれを拾った。


 手の中に収まるくらいの小さな金属片。


 刃物とは呼べない。


 でも、何もないよりはましだった。


「何をしている」


 男の声がした。


 イロハは肩を跳ねさせた。


 男は、少し先で止まっていた。


 こちらを見ている。


 何も言わずに待っていたわけではない。

 ただ、自分が遅れたから止まったのだ。


 そう思うことにした。


「何でもない」


「捨てろ」


「嫌」


 思ったより早く言葉が出た。


 男の赤い瞳がイロハを見る。


 イロハは金属片を握りしめた。


 錆が掌に当たって痛い。


「役には立たない」


「分からないでしょ」


「分かる」


「私は分からない」


 男は黙った。


 それから、興味を失ったように歩き出す。


「勝手にしろ」


 イロハは金属片を服の内側に隠した。


 冷たい感触が、胸の近くに残る。


 これで何かを倒せるとは思えない。


 男に勝てるとも思えない。


 でも、自分で選んで拾ったものだった。


 それだけで、少しだけ息ができた。


 歩くか、死ぬか。


 男はそう言った。


 でも、イロハはその二つだけを選びたくなかった。


 歩く。


 逃げる。


 知る。


 隠す。


 拾う。


 まだ選べることがあるはずだ。


 そう思いたかった。


     *


 午後になり、黒い道は少しずつ細くなった。


 途中で崩れ、草に飲まれ、土に戻りかけている。


 その先で、二本の鉄の筋が地面を横切っていた。


 イロハは足を止める。


 鉄の筋は、まっすぐ遠くへ伸びている。


 木の枕のようなものが等間隔に並び、その上を二本の鉄が続いている。


 道なのか。


 柵なのか。


 何かの跡なのか。


 分からない。


「これも道?」


 イロハが聞くと、男は鉄の筋を見た。


「そうだ」


「人が歩くの?」


「人を運ぶものが通った」


「人を、運ぶ」


 イロハは鉄の筋の先を見た。


 どこまでも続いているように見える。


 人を運ぶ道。


 人間は、歩くよりも遠くへ行く方法を持っていたのだ。


 村から南の古道を見ていた自分が、急に小さく思えた。


 線路沿いに少し進むと、建物が見えた。


 低く、横に長い建物。


 屋根の一部は落ち、壁は黒ずみ、窓は割れている。


 建物の前には、倒れた板があった。


 そこにも文字が書かれている。


 やはり、イロハには読めない。


 男は建物を見上げた。


「駅だ」


「駅」


「人間が、待った場所だ」


 待った場所。


 誰を。


 何を。


 どこへ行くために。


 イロハは壊れた建物を見た。


 風が通り抜け、割れた窓がかすかに鳴る。


 中に誰かがいるようにも見えた。


 誰もいないようにも見えた。


 水辺の足跡を思い出す。


 揺れていた草を思い出す。


 誰かが、この駅で待っているのかもしれない。


 そう思った瞬間、喉の渇きとは違うものが胸に広がった。


 怖い。


 でも、知りたい。


 イロハは服の内側に隠した金属片に、そっと触れた。


 赤い瞳の男は、もう駅の入口へ向かっている。


 歩幅は、やはりイロハには少し広い。


 それでも、今はその背中を見失わなかった。


 イロハは一度だけ、背後の線路を振り返った。


 鉄の道は、遠くへ伸びている。


 人が消えた道。


 それでも、どこかへ続いている道。


 イロハは小さく息を吸い、男の後を追った。

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