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終わりの名を持つ君へ  作者: そらいろは
第2部 旅の始まり

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第13章 廃駅

第2部 旅の始まり

 駅の入口には、扉がなかった。


 あったのかもしれない。


 けれど今は、枠だけが残り、割れた硝子の欠片が土と埃に埋もれている。


 風が通るたび、どこかで古い金属が鳴った。


 ぎい、と。


 人の声に似ていて、人の声ではない音。


 イロハは足を止めた。


 建物の中は薄暗い。


 昼なのに、そこだけ夜が残っているように見えた。


 赤い瞳の男は、迷わず中へ入っていく。


 その歩幅は、黒い道を歩いていた時と変わらなかった。


 暗い場所でも、壊れた入口でも、少しも迷わない。


 イロハだけが、入口の前で遅れる。


 男は振り返らない。


 けれど、建物の中へ完全には進まず、入口の影のところで一度だけ足を止めた。


 待っているのではない。


 中の気配を探っているのだ。


 そう思うことにして、イロハは服の内側に隠した金属片に触れた。


 冷たい。


 頼りない。


 それでも、触れていると少しだけ落ち着いた。


 入口をくぐると、空気が変わった。


 土の匂いではない。


 古い木。

 錆びた鉄。

 湿った埃。

 それから、長い間閉じ込められていたものが腐らずに乾いたような匂い。


 イロハは思わず口元を押さえた。


 男はまた歩き出す。


 今度は少しだけ遅い。


 暗がりを確かめているだけなのだろう。


 それでも、イロハは置いていかれずに済んだ。


 駅の中には、長い板のようなものがいくつも並んでいた。


 座るためのものだと気づくまで、少し時間がかかった。


 壁には、四角い枠がいくつもある。


 その中には、色あせた紙が残っていた。


 絵が描かれているもの。

 文字だけのもの。

 何かの地図のような線が走っているもの。


 でも、どれも読めない。


 イロハは壁の前に立った。


 指でなぞろうとして、やめた。


 触れたら崩れてしまいそうだった。


「ここで、人間が待ったの」


 イロハが聞くと、男は短く答えた。


「そうだ」


「何を」


「来るものを」


「来るもの?」


 男は少しだけ視線を動かした。


 壁の向こう。

 線路の方。


「人を運ぶものだ」


 イロハは、昨日見た鉄の筋を思い出した。


 遠くまで伸びる、二本の鉄の道。


 そこを何かが走り、人間を運んだ。


 そして人間は、ここでそれを待った。


 帰るために。


 行くために。


 誰かに会うために。


 誰かと別れるために。


 イロハは並んだ板の一つを見た。


 そこに座っていた人たちの姿を想像しようとした。


 できなかった。


 村の広場なら分かる。


 井戸のそばなら分かる。


 けれど、こんな広い場所で、知らない人間たちが何かを待っていた景色は、イロハの中にうまく形を作らなかった。


 ただ、ここに誰かがいたのだということだけは分かった。


 それなのに、今は誰もいない。


     *


 奥へ進むと、床にはいくつもの荷物が散らばっていた。


 布の袋。

 壊れた箱。

 取っ手の外れた鞄。

 片方だけの手袋。


 人が急いで置いていったようにも見える。


 人が持っていけなかったようにも見える。


 イロハは一つの鞄の前で膝をついた。


 男の歩く音が、少し先で止まった。


 イロハが遅れたことに気づいたのだ。


 それでも、何も言わない。


 振り返りもしない。


 ただ、立ち止まっている。


 イロハは鞄の口を見た。


 開いている。


 中には、硬くなった布と、丸い器のようなものが入っていた。


 食べ物はなかった。


 水もなかった。


 ただ、底の方に小さなものが一つ転がっている。


 イロハはそれを拾った。


 小さな靴だった。


 子どものものだ。


 片方だけ。


 泥がついていて、紐は切れている。


 イロハの指先が止まった。


 女の腕の中にいた子どもを思い出す。


 起きて。


 ねえ、起きて。


 あの声が、また耳の奥で響いた。


 イロハは靴を握ったまま、動けなくなった。


「置け」


 男の声がした。


 イロハは顔を上げる。


「どうして」


「持っていくものではない」


「でも」


「死者のものだ」


 イロハは靴を見下ろした。


 死者のもの。


 そう言われた瞬間、手の中の小さな靴が急に重くなった。


 この靴の持ち主が本当に死んだのかは分からない。


 でも、少なくともここにはいない。


 靴だけが残っている。


 イロハはそっと、鞄の中へ靴を戻した。


 男はその様子を見ていた。


 ほんの一瞬だけ。


 赤い瞳が、靴に留まった。


 何かを思い出したように。


 けれど、その表情はすぐに消えた。


「行くぞ」


 男は背を向けた。


 イロハは立ち上がる。


 男はすぐには歩き出さなかった。


 イロハが立つのを待っていたようにも見えた。


 でも、違う。


 たぶん、ただ次に進む通路を見ていただけだ。


 イロハはそう考えながら、小さな靴について聞きたい気持ちを飲み込んだ。


 なぜ、そんな目をしたのか。


 誰を思い出したのか。


 でも、聞けなかった。


 聞いても答えない気がした。


     *


 駅舎の奥には、細い通路があった。


 壁の上の方に、壊れた板が残っている。


 駅の名前が書かれていたのかもしれない。


 けれど、半分は割れて落ち、残った文字も黒ずんでいた。


 イロハには読めない。


 たとえ読めたとしても、もうその名前を呼ぶ人はいないのかもしれない。


 名前のない場所。


 道標と同じだ。


 ここにも名前があった。


 でも今は、分からなくなっている。


 イロハはその板を見上げたまま言った。


「名前が消えると、場所も消えるのかな」


 男は答えない。


 イロハは少しだけ唇を尖らせた。


「聞いてるんだけど」


「消えない」


 返事があった。


 意外で、イロハは男を見た。


 男は壊れた板ではなく、通路の奥を見ていた。


「誰が忘れても、そこにあったものは消えない」


「じゃあ、どうして名前を残すの」


 男は少し黙った。


「忘れるからだ」


 その声は低かった。


 怒っているようにも聞こえた。


 でも、それだけではないようにも聞こえた。


 イロハはそれ以上聞けなかった。


 通路の先には、開けた場所があった。


 外へ出る場所らしい。


 屋根の下に細長い台があり、その向こうに線路が続いている。


 男が言った。


「ホームだ」


「ほーむ」


「人間が並んで待った場所だ」


 イロハは足元を見た。


 ひび割れた石の床。

 草が伸びた端。

 欠けた白い線。

 傾いた柱。


 そこに、人間たちが並んでいた。


 いくつも。


 たくさん。


 荷物を持って。

 子どもの手を引いて。

 誰かを待って。

 どこかへ向かって。


 イロハは目を閉じる。


 想像した人影は、すぐに風にほどけた。


 目を開けると、やはりそこには誰もいなかった。


 ただ、線路の向こうに草が揺れているだけだった。


     *


 ホームの端に、黒い筋が残っていた。


 最初は煤かと思った。


 けれど違う。


 床に擦りついた跡だった。


 何か重いものを引きずったような跡。


 線路側から、待合室の奥へ続いている。


 イロハはそれを見て、足を止めた。


 男も同じところで止まっていた。


 初めて、同じものを見ている気がした。


 すぐ横にいるわけではない。


 歩幅一つ分どころではない距離がある。


 それでも、視線だけは同じ場所に落ちていた。


「これ」


 男は跡を見る。


 赤い瞳が細くなる。


「触るな」


 イロハは伸ばしかけた手を引っ込めた。


 その近くの柱には、深い傷がいくつも刻まれていた。


 刃物ではない。


 鋭い爪で引っ掻いたような傷。


 床の隅には、黒い毛が絡まっている。


 イロハは息を呑んだ。


 水辺の足跡。


 夜の唸り声。


 そして、この爪痕。


 ここにも、あれが来た。


 人が待った場所に。


 人が消えたあとに。


 別のものが入り込んでいる。


 男はしゃがみもせず、爪痕を見下ろした。


「古い」


 そう言った。


 イロハは少しだけ息を吐いた。


 古いなら、今はいないのかもしれない。


 そう思った時だった。


 かたん。


 駅舎の奥で音がした。


 イロハの身体が固まる。


 男も動きを止めた。


 風ではない。


 さっき聞いた金属の軋みとも違う。


 何かが、床に触れた音。


 誰かが、奥で動いたような音。


 イロハは思わず通路の奥を見た。


 薄暗い待合室。

 壊れた戸口。

 積もった埃。


 その向こうで、床に転がっていた金属の器が、かすかに揺れていた。


 まだ止まっていない。


 ゆっくりと、揺れている。


 誰かが、今さっき触れたみたいに。


 イロハの胸が鳴った。


 人?


 声に出しそうになった瞬間、男の手がイロハの肩を押さえた。


 強い力だった。


 それだけで、動けなくなる。


「息をするな」


 男の声は低かった。


 イロハは口を閉じた。


 息を止める。


 心臓の音がうるさい。


 奥で、何かが床を擦る音がした。


 ずる。


 ずる。


 重いものを引きずるような音。


 人間の足音ではない。


 でも、獣の足音とも違う。


 見えない。


 音だけが近づいているのか、遠ざかっているのかも分からない。


 イロハの喉がひきつる。


 苦しい。


 息をしたい。


 でも、男の手が肩にある。


 赤い瞳が奥を見ている。


 その横顔に、一切の迷いがなかった。


 長い時間に思えた。


 実際には、ほんの少しだったのかもしれない。


 やがて、擦る音が遠ざかった。


 金属の器も、静かになった。


 風だけが戻ってくる。


 男の手が離れた。


 イロハは小さく息を吸った。


 大きく吸うのは怖かった。


「今の」


 声が震えた。


「何だったの」


「見つかれば分かる」


「そういう答え、嫌い」


「なら見に行くか」


 イロハは黙った。


 行けるわけがない。


 それを男は分かっている。


 分かっていて言っている。


 悔しかった。


 でも、足は動かなかった。


 男は奥へは行かなかった。


 それが、逆に怖かった。


 この男が確かめようとしない。


 つまり、確かめる必要がないほど危ないのかもしれない。


「今は追ってこない」


 男は言った。


「行くぞ」


 イロハは頷くしかなかった。


     *


 駅を出る前に、イロハはもう一度だけ待合室を振り返った。


 小さな靴。


 揺れていた金属の器。


 壊れた駅名。


 爪痕。


 黒い毛。


 誰かがいたような気配と、誰もいない現実。


 胸の中で、二つの思いがぶつかっていた。


 人間がいるかもしれない。


 でも、人間ではないものがいるかもしれない。


 どちらも怖い。


 どちらも知りたい。


 イロハは服の内側の金属片に触れた。


 こんなものでは、何も守れないかもしれない。


 それでも、手ぶらよりはましだった。


 男は線路へ降りた。


 イロハも続く。


 鉄の筋は、草の中をまっすぐ伸びている。


 駅の向こうへ。


 もっと遠くへ。


 人を運んだ道。


 人が消えたあとも残っている道。


 イロハは線路の先を見た。


 どこかに誰かがいるかもしれない。


 そう思うことが、怖かった。


 でも、そう思わなければ歩けない気もした。


 男はすでに歩き出している。


 銀白の長い髪が、風に流れた。


 イロハは痛む足を動かした。


 駅の中で聞いた音が、まだ耳の奥に残っている。


 けれど、戻る場所はない。


 進むしかない。


 線路跡は、草の中へ続いていた。


 男の歩幅は、また広くなっていた。


 けれどイロハは、さっき肩に置かれた手の重さを思い出していた。


 怖かった。


 冷たかった。


 それでも、その手がなければ、自分は声を出していたかもしれない。


 イロハは追いつけない距離の背中を睨みながら、線路沿いを歩いた。

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