第14章 線路跡
第2部 旅の始まり
線路は、草の中をまっすぐ伸びていた。
二本の鉄の筋。
その下に並ぶ、朽ちた木の枕。
村の古道のように曲がらない。
森の獣道のように消えない。
人が歩きやすいように踏み固めた道とも違う。
ただ、遠くへ行くためだけに作られたもの。
そんな気がした。
イロハは線路の上を歩こうとして、すぐに足を滑らせた。
「っ」
鉄は細く、思ったより冷たい。
足裏の痛みがまだ残っているせいで、うまく踏めない。
赤い瞳の男は、線路の横を歩いていた。
草を踏んでも、ほとんど音がしない。
イロハは少し遅れて、その後を追った。
背後の駅は、もう小さくなっている。
壊れた待合室。
片方だけの小さな靴。
揺れていた金属の器。
奥から聞こえた、何かを引きずる音。
全部が、まだ背中に残っていた。
あの音は何だったのだろう。
人ではない。
でも、獣とも言い切れない。
そう思うたびに、服の内側に隠した金属片に触れたくなる。
イロハは手を胸元に当てた。
冷たい金属の感触がある。
役には立たない。
男はそう言った。
たぶん、本当にそうなのだろう。
でも、何も持っていないよりはましだった。
少なくとも、拾うか捨てるかは、自分で決めたものだ。
「この道は」
イロハは線路の先を見ながら言った。
「どこまで続いてるの」
「知らん」
「人間の道なのに?」
「人間のものを、私がすべて知っていると思うな」
男の声は冷たい。
でも、少しだけ疲れているようにも聞こえた。
イロハは男の背中を見る。
青みを帯びた銀白の長い髪が、風に流れている。
朝の光の下で見た時より、今は少し影を含んでいた。
歩幅はまだ合わない。
男の一歩は、イロハの二歩に近い。
それなのに、会話だけは届いている。
それが不思議だった。
「あなたは、昔の人間を知ってるんでしょう」
男は答えない。
「この道を使ってた人間も?」
「さあな」
「知らないこともあるんだ」
思わずそう言うと、男が足を止めた。
イロハも慌てて止まる。
赤い瞳が、ゆっくりとこちらを見る。
しまった、と思った。
男の目は怒ってはいなかった。
けれど、冷たい。
怒りよりも、ずっと深いものが底に沈んでいる。
「知らないことの方が多い」
男は言った。
「三千年だ」
イロハは息を呑んだ。
三千年。
その数字は、あまりにも大きすぎて、うまく想像できない。
村で一年が過ぎるだけでも、長いと思っていた。
冬が来て、春が来て、夏が来て、秋が来る。
それだけで、人は少しずつ変わる。
三千年。
その間に、どれだけの人が生まれて、死んだのだろう。
どれだけの道が作られて、壊れたのだろう。
男はそれ以上何も言わず、また歩き出した。
イロハは少し遅れてついていく。
三千年眠っていた吸血鬼。
終わったはずのもの。
けれど今、自分の前を歩いている。
イロハは線路の先を見た。
どこかへ続いている。
人が消えても。
名前が消えても。
道だけは、まだ残っている。
*
昼を過ぎるころ、線路の先に大きな影が見えた。
最初は、倒れた建物かと思った。
けれど近づくにつれて、それが線路の上に横たわっているものだと分かった。
長い。
いくつもの箱が繋がっている。
外側は錆び、窓は割れ、側面には草や蔓が絡みついていた。
それでも、かつては何かの形を保っていたのだと分かる。
「これが、人を運ぶもの?」
イロハが聞くと、男はその長い箱を見た。
「そうだ」
「これが動いたの?」
「昔はな」
イロハは線路の上に横たわる車両を見上げた。
こんな大きなものが動いた。
人を乗せて。
遠くへ運んだ。
村の荷車とは、まるで違う。
人間は、本当にこんなものを作ったのか。
入口らしきものは傾き、半分開いていた。
中は暗い。
イロハは足を止めた。
駅の奥で聞いた音を思い出す。
男は車両の入口を見ている。
「入るの」
「通れそうだ」
「他に道は?」
線路の横は崩れていた。
大雨か地滑りでもあったのか、片側は土が落ち、もう片側は蔓と倒木に塞がれている。
車両の中を抜けるのが、一番早いらしい。
男は何も言わずに入口へ向かった。
けれど、入口の前で少しだけ足を止めた。
中を見ている。
匂いを確かめている。
イロハが追いつくのを待っているわけではない。
それでも、イロハは追いついた。
自分でそう思うことにした。
車両の奥は暗い。
けれど、ここで止まっていても仕方がない。
イロハは金属片に触れてから、男の後を追った。
*
車両の中は、駅よりも狭かった。
左右に座席が並んでいる。
上からは、輪のようなものがいくつもぶら下がっていた。
吊り輪。
男はそう言った。
人間が立ったまま掴むものらしい。
イロハはそれを見上げた。
ここに人間が詰め込まれていた。
座る人。
立つ人。
吊り輪を掴む人。
窓の外を見る人。
動く箱の中で、どこかへ運ばれていた。
想像すると、少し息苦しかった。
床には、割れた硝子と埃が積もっている。
古い紙。
壊れた鞄。
錆びた金具。
乾いた木の欠片。
天井の一部は落ち、そこから細い光が差し込んでいた。
光の筋の中で、埃が静かに舞っている。
イロハは座席の一つに目を留めた。
布が敷かれている。
古い。
色も褪せている。
けれど、ただ落ちているのではなかった。
誰かが、そこに寝るために広げたように見えた。
イロハは足を止めた。
「誰か、ここにいたのかな」
男は布を見る。
それから、周囲の匂いを確かめるようにわずかに目を細めた。
しかし、何も言わなかった。
「ねえ」
「古い」
「でも、誰かが使ったんでしょう」
「昔はな」
「最近かもしれない」
男は答えない。
その沈黙が、否定にも肯定にも聞こえなかった。
イロハは布を見つめた。
ここで誰かが寝たのかもしれない。
水辺の足跡。
駅で揺れていた器。
この布。
全部が、何かに繋がっているように思える。
生きている人間がいるのかもしれない。
そう思うだけで、胸が少しだけ熱くなる。
怖いのに。
それでも、そう思いたかった。
「行くぞ」
男が言った。
イロハは布から目を離し、車両の奥へ進んだ。
男はまた先を歩く。
けれど狭い車両の中では、歩幅の差が少しだけ縮まった。
イロハの目の前に、銀白の髪が揺れている。
いつもより近い。
近いことが、安心ではなく、息苦しさになった。
*
次の車両へ移る連結部分は、ひどく傾いていた。
床の金属がねじれ、隙間から下の線路が見える。
イロハは足をすくませた。
「ここ、通るの?」
「他に道はない」
「落ちたら?」
「死ぬ」
「そればっかり」
男は振り返らない。
先に渡る。
傾いた床の上を、何事もないように歩いていく。
イロハは唇を噛んだ。
自分も同じように渡れるわけがない。
足はまだ痛い。
膝も震えている。
それでも、戻れない。
イロハは一歩を踏み出した。
金属が軋む。
ぎ、と嫌な音がした。
イロハは息を止める。
もう一歩。
足元の隙間から、線路が見える。
落ちたら、骨が折れるかもしれない。
動けなくなれば、男は置いていくだろうか。
それとも、食料だから拾うだろうか。
どちらを考えても、胸が冷えた。
「早くしろ」
「分かってる」
イロハは震える足を進めた。
どうにか次の車両へ入る。
そこでやっと息を吐いた。
男はその先で止まっていた。
こちらを見てはいない。
けれど、イロハが渡り終えるまで次へ進まなかった。
たぶん、足場の様子を見ていただけ。
そう思ったのに、胸の奥が少しだけざわついた。
この車両は、前よりも荒れていた。
座席は倒れ、床には水が染みたような黒い跡が残っている。
壁の一部には、青い印が描かれた板が落ちかけていた。
イロハはそれに目を留めた。
青い線。
水のような形。
矢印のような記号。
その下に、読めない文字が並んでいる。
「これ」
男は振り返る。
「水?」
イロハは青い印を指さした。
自分には文字は読めない。
でも、絵なら少し分かる。
青い形は、水に見えた。
矢印は、どこかを指しているように見えた。
「この先に、水があるってこと?」
男は板を見た。
「貯水施設かもしれない」
「ちょすい」
「水を溜める場所だ」
水を溜める場所。
イロハの喉が鳴った。
村の井戸より大きいのだろうか。
あの汚れた水とは違う水があるのだろうか。
飲めるかどうかは分からない。
でも、知らないまま通り過ぎたくなかった。
イロハは板に手を伸ばした。
「何をする」
「持っていく」
「やめろ」
「でも、これがあれば水の場所が分かるかもしれない」
「読めないだろう」
「絵は分かる」
イロハは板の端を掴んだ。
錆びた釘が引っかかっている。
引くと、ぎし、と音がした。
男が低く言う。
「捨てろ」
「まだ取れてない」
「それを含めて言っている」
イロハは無視した。
両手で板を掴み、力を込める。
動かない。
もう一度引く。
板が少し外れた。
その瞬間、車両のどこかで音がした。
ぎぎ、と。
何か大きなものがずれる音。
男の赤い瞳が細くなった。
「離せ」
イロハは板を見た。
あと少し。
あと少しで取れる。
これがあれば、水の場所へ行けるかもしれない。
外の世界で、水を探す手がかりになるかもしれない。
誰かがこの印を残した。
誰かが水の場所を知らせようとした。
なら、持っていきたい。
「離せ!」
男の声が鋭くなった。
イロハが驚いて振り返った瞬間、床が抜けた。
*
身体が落ちる。
そう思った。
けれど、完全には落ちなかった。
右足が床板の隙間に挟まっていた。
痛みが遅れて来る。
「あっ……!」
声が漏れた。
足首に、焼けるような痛みが走る。
板は手に残っていた。
半分外れた案内板。
青い印が、埃の中でかすかに見える。
車両が傾く。
金属が軋む。
窓の外で、草が斜めに見えた。
イロハは必死に床に手をついた。
足が抜けない。
動かすと、痛みが走る。
「捨てろ」
男が近づいてくる。
「嫌」
「死ぬぞ」
「これがあれば、水の場所が分かるかもしれない!」
「死ねば読めない」
言葉は冷たい。
けれど、男の動きは速かった。
距離が一瞬で消える。
さっきまで数歩先にいたはずなのに、気づけば目の前にいた。
男がイロハの腕を掴む。
引かれる。
「痛い!」
「黙れ」
足が抜けない。
板の角が足首に食い込んでいる。
車両がまた傾いた。
奥の車両から、湿った匂いが流れてきた。
毛の匂い。
古い血の匂い。
そして、何かが動く音。
ずる。
ずる。
駅で聞いた音に似ていた。
けれど、もっと重い。
もっと近い。
イロハの背筋が凍った。
「何かいる」
「だから捨てろと言っている」
男はイロハの足元に手をかけた。
錆びた板を蹴り砕く。
金属が割れるような音がした。
挟まっていた足が抜ける。
同時に、痛みが一気に広がった。
イロハは息を詰まらせる。
男はイロハの腕を掴み、乱暴に引きずった。
イロハは案内板を抱え込んだままだった。
身体が床に擦れる。
肘を打つ。
肩が痛む。
それでも、案内板だけは離さなかった。
後ろで、床が崩れた。
音がした。
大きな、腹に響く音。
車両の奥が落ちる。
暗い穴が開いた。
そこから、何かの低い息遣いが聞こえた気がした。
男はイロハを外へ引きずり出した。
壊れた入口から転がるように地面へ出る。
イロハは草の上に倒れ込んだ。
直後、車両の一部が崩れた。
錆びた鉄の箱が、長い悲鳴のような音を立てて傾く。
土煙が上がる。
鳥がどこかで飛び立った。
イロハは咳き込んだ。
腕の中には、青い印の案内板がある。
割れている。
端も欠けている。
でも、残っている。
イロハはそれを見て、ようやく息を吐いた。
「馬鹿か」
男の声が降ってきた。
イロハは顔を上げた。
「分かってる」
「分かっていない」
「でも、取れた」
男の目が冷たくなる。
イロハは案内板を抱えたまま、少しだけ身を引いた。
足首が痛い。
見ると、皮膚が切れて血が滲んでいた。
赤い血が、埃と草に混じっている。
男の視線が、そこに落ちた。
ほんの一瞬。
イロハは息を止めた。
食料。
その言葉が頭の中で響く。
男の赤い瞳が、血を見ている。
飲まれる。
そう思った。
けれど男は、すぐに視線を外した。
「歩けるか」
イロハは答えられなかった。
怖さと、痛みと、なぜ飲まれなかったのか分からない不安が混ざる。
「歩けるかと聞いている」
「……歩く」
イロハは案内板を抱え、どうにか立ち上がろうとした。
足に力を入れた瞬間、痛みが走る。
膝が折れそうになった。
男が腕を掴む。
支えるというより、倒れられると面倒だから掴んだような手つきだった。
「無駄なものを拾うからだ」
「無駄じゃない」
「お前には読めない」
「でも、水の絵はある」
「絵で生きられると思うな」
「何も知らないよりはいい」
イロハは言った。
声が震えていた。
でも、引かなかった。
「知らないまま歩くのは嫌」
男は黙った。
風が吹く。
崩れた車両の中から、軋む音が聞こえる。
奥にいた何かは、出てこなかった。
それでも、あの匂いと音は残っている。
この場所に長くいてはいけない。
それはイロハにも分かった。
「勝手にしろ」
男はイロハの腕を離した。
イロハは案内板を抱え直す。
割れた板。
青い印。
水の手がかり。
それを見ていると、少しだけ自分で進んでいる気がした。
*
車両から離れ、線路沿いを少し進むと、橋が崩れていた。
線路はそこで途切れている。
下には、浅い谷があった。
水は流れていない。
乾いた石と、枯れた草と、崩れた土があるだけ。
橋の向こうへ渡ることはできそうになかった。
男は周囲を見回した。
イロハは足をかばいながら、谷の底を見下ろす。
そこに、足跡があった。
大きい。
水辺で見たものと似ている。
けれど、それよりも新しい気がした。
乾いた土が崩れ、爪の形がはっきり残っている。
イロハは喉を鳴らした。
「あれ」
男も見る。
「同じだ」
「近いの?」
「近かった」
「今は?」
「分からん」
その答えが、一番怖かった。
男にも分からないことがある。
さっき自分でそう言っていた。
三千年眠っていたから。
今の世界をすべて知っているわけではないから。
なら、自分たちは何の上を歩いているのだろう。
何がいるのか分からない世界を。
どこに人がいるのかも分からない世界を。
イロハは案内板を抱えた。
青い印は、谷の向こうではなく、線路から外れた方角を示しているように見えた。
崩れた橋を渡れない以上、どちらにしても線路を離れなければならない。
「こっち」
イロハは板を見ながら言った。
男がイロハを見る。
「分かるのか」
「分からない」
イロハは正直に言った。
「でも、たぶんこっち」
男は少しの間、何も言わなかった。
赤い瞳が案内板を見る。
それから、イロハを見る。
「間違っていたら」
「戻ればいい」
「戻れなければ」
イロハは唇を噛んだ。
「その時、考える」
男の目が、わずかに細くなった。
馬鹿にしたのかもしれない。
呆れたのかもしれない。
けれど、否定はしなかった。
「行け」
男は言った。
「先に?」
「お前が選んだ道だ」
イロハは息を呑んだ。
選んだ道。
そんな大げさなものではない。
ただ、割れた板の絵を頼りにしているだけだ。
でも、男の言葉は妙に重かった。
イロハは足を引きずりながら、線路を外れた。
草の中へ。
青い印が指しているように見える方角へ。
男はその後ろをついてくる。
背中を見せて歩くのではなく、今度はイロハの少し後ろを歩いている。
それだけなのに、落ち着かなかった。
見張られている。
試されている。
そんな気がした。
イロハの歩幅に合わせているわけではない。
男がそうしたら、もっと近いはずだった。
けれど、追い越しもしない。
置いていきもしない。
その距離が、さっきまでよりずっと気になった。
*
しばらく歩くと、イロハは何度も足を止めた。
案内板を見る。
周囲を見る。
また歩く。
青い印が本当に水の場所を示しているのか、確信はない。
けれど、線路沿いに残っていた他の壊れた板にも、似たような青い印があった。
少なくとも、何か水に関わる場所へ向かっている。
そう思いたかった。
男は文句を言わなかった。
それが逆に怖い。
何か言われた方が、まだましだった。
やがて、草の向こうに灰色の壁が見えた。
遠い。
でも、自然の岩ではない。
人間が作った壁だ。
高く、長く、山の腹を塞ぐように立っている。
イロハは足を止めた。
「何、あれ」
男が視線を上げる。
「水を止める壁だ」
「水を?」
「貯めるためのものだ」
イロハは案内板を握りしめた。
水。
本当に、水の場所に向かっている。
喉の渇きが、急に強くなった。
けれど同時に、胸の奥が痛んだ。
水を見つけても、飲めるとは限らない。
水があっても、助けられるとは限らない。
あの子に水を持っていけなかったことは、何も変わらない。
それでも、進むしかない。
イロハは灰色の壁を見つめた。
その向こうに、水がある。
人間が溜めた水。
人間が残した場所。
そして、誰かが求めたかもしれない場所。
水辺の足跡。
駅の器。
列車の布。
案内板。
全部がそこへ向かっているような気がした。
男が歩き出そうとする。
その時、イロハは口を開いた。
「ねえ」
男は止まらない。
「あなたを、何て呼べばいいの」
男の足が止まった。
ゆっくりと振り返る。
赤い瞳がイロハを見る。
「何だ」
「ずっと、あなたとか、吸血鬼とか、男とか」
イロハは言いながら、自分でも変なことを聞いていると思った。
でも、言葉は止まらなかった。
「呼びにくい」
「好きに呼べ」
「吸血鬼って呼べばいいの」
男の目が、少しだけ細くなった。
風が吹く。
銀白の長い髪が、肩の上を流れた。
しばらく、男は答えなかった。
イロハは案内板を抱えたまま待った。
聞かなければよかったかもしれない。
でも、もう聞いてしまった。
この人は怖い。
人間を殺した。
村を燃やした。
自分を食料だと言った。
それでも、名前がないままでは、あまりにも遠すぎる。
やがて、男は短く言った。
「クルム」
イロハは瞬きをした。
「クルム」
「それでいい」
「それが、あなたの名前?」
男の赤い瞳が、かすかに冷えた。
「呼ぶための名だ」
イロハはその言い方に引っかかった。
名前ではなく、呼ぶための名。
でも、それ以上は聞けなかった。
聞いてはいけない気がした。
イロハは小さく、その名を口の中で繰り返した。
クルム。
赤い瞳の男。
吸血鬼。
災厄。
そのどれとも違う響きだった。
怖さが消えたわけではない。
信じたわけでもない。
けれど、そこに一つの呼び名ができた。
名前を聞いたあとも、クルムの歩幅は変わらなかった。
広くて、速い。
イロハとは合わない。
けれど、前より少しだけ、その背中を呼び止めやすい気がした。
呼ぶための名。
その言葉の意味は分からない。
でも、呼べる名があるということだけが、確かに残った。
イロハは案内板を抱え直した。
灰色の壁の向こうへ、道は続いている。
クルムはすでに歩き出していた。
イロハは痛む足を引きずりながら、その後を追った。
貯水場は、もう遠くなかった。




