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終わりの名を持つ君へ  作者: そらいろは
第2部 旅の始まり

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第15章 貯水場

第2部 旅の始まり

 灰色の壁は、近づくほど大きくなった。


 最初は山の一部かと思った。


 けれど、そうではない。


 まっすぐすぎる。


 高すぎる。


 自然の岩なら、もっと歪んでいるはずだった。木の根が入り込み、雨に削られ、土に崩れていくはずだった。


 目の前にあるそれは、人間が作ったものだった。


 山の腹を断ち切るように、巨大な壁が立っている。


 その下に、ひび割れた道が続いていた。


 イロハは案内板を抱え直した。


 青い印は、何度見ても水に見える。


 線の形はかすれている。

 文字は読めない。

 端は割れ、錆びた釘の跡が残っている。


 それでも、ここへ来るための印だった。


 イロハが選んだ道。


 そう言われた道。


 足首はまだ痛い。


 列車の床に挟まれたところが熱を持っている。歩くたびに、靴の中で皮膚が擦れた。


 けれど、止まりたくなかった。


 水がある。


 そう思うだけで、喉が勝手に鳴る。


クルムは前を歩いていた。


 名前を聞いてからも、まだその名を声に出すのは慣れなかった。


 赤い瞳の男。


 吸血鬼。


 災厄。


 それらよりも、クルムという響きは短くて、近すぎる。


 近いと思うことが、怖かった。


 クルムは壁を見上げた。


「貯水場だ」


「ここに、水があるの」


「あるとは限らない」


「でも、水を貯める場所なんでしょう」


「残っていればな」


 残っていれば。


 その言葉で、イロハの胸は少し沈んだ。


 水は、見つければ飲めるものではない。


 水辺で、それは知った。


 それでも、ここまで来た。


 案内板を持ってきた。


 足を怪我してまで。


 イロハは灰色の壁を見上げた。


 この向こうに水があるのなら。


 少しでも、飲める水があるのなら。


 そう考えた瞬間、また桶の水がこぼれた。


 暗い地下。

 女の腕。

 動かない子ども。

 土へ吸い込まれる水。


 イロハは足を止めかけた。


 だが、止まらなかった。


 止まったら、また全部が追いついてくる。


     *


 貯水場の入口は、半分崩れていた。


 金属の柵は倒れ、門らしきものは斜めに折れている。


 柱には何かの文字が刻まれていたが、黒ずんで読めない。


 クルムが先に入った。


 イロハは少し遅れて、その後を追う。


 中は広かった。


 広すぎて、最初はどこを見ればいいのか分からなかった。


 巨大な水の器。


 そう思った。


 山を削り、石を積み、壁で囲み、水を閉じ込める。


 村の井戸とは違う。


 沢とも違う。


 人間は、川の流れすら止めようとしたのだ。


 イロハは言葉を失った。


 貯水池の底には、水が残っていた。


 だが、思っていたような澄んだ水ではない。


 遠く、壁の下の方に、暗く濁った水が溜まっている。

 緑とも黒ともつかない色。

 水面には、風が吹くたび重そうな波が立った。


 干上がった斜面には、泥が固まり、白い跡が幾重にも残っている。


 昔はもっと水があったのだと分かった。


 壁の高いところまで。


 その跡が残っている。


「少ない」


 イロハは呟いた。


「それでも、村の井戸よりは多い」


 クルムは淡々と言った。


「飲めるの」


「見ただけでは分からん」


 イロハは貯水池の底を見下ろした。


 あそこまで降りれば、手が届くかもしれない。


 けれど斜面は急で、泥が固まって滑りそうだった。


 水の近くには、何かの骨が白く転がっている。


 それを見た瞬間、イロハは一歩引いた。


 水辺には、獣も来る。


 あの足跡。


 爪の跡。


 低い唸り声。


「こっちだ」


 クルムは貯水池の縁ではなく、建物の方へ向かった。


 イロハは慌ててついていく。


 足が痛む。


 けれど、クルムは入口の前で一度だけ止まった。


 振り返りはしない。


 ただ、イロハが近づくまで、扉の前から動かなかった。


 イロハは息を整えながら、その背中を見た。


 待っていたのか。


 違う。


 きっと、建物の中を確かめていただけだ。


 そう思うことにした。


 管理するための場所なのだろう。


 低い建物が、壁に沿って建っていた。


 窓は割れ、扉は半分開いている。


 中は暗い。


 イロハは案内板を胸に抱え、クルムの後について入った。


     *


 建物の中は、外よりさらに冷えていた。


 床には砂と枯れ葉が吹き込んでいる。


 壁には、錆びた管が何本も這っていた。


 丸い弁。

 折れた取っ手。

 割れた硝子の箱。

 読めない文字が並ぶ板。


 何もかもが、イロハには知らないものだった。


 けれど、ここが水を動かす場所なのだということだけは分かった。


 壁の奥で、何かがかすかに鳴っている。


 水の音かと思った。


 でも違う。


 古い金属が、風に揺れている音だった。


 イロハは部屋の中央で足を止めた。


 大きな弁があった。


 人の背丈ほどもある丸い輪。


 錆びている。


 ほとんど動きそうにない。


 だが、その縁の一部だけ、妙に新しい傷がついていた。


 錆が削れて、下の黒い金属が見えている。


 イロハはそこに近づいた。


「これ」


 クルムが振り返る。


「誰かが、触ったのかな」


 弁の周りには、泥の乾いた跡があった。


 靴跡のようにも見える。

 ただの割れ目にも見える。


 分からない。


 けれど、誰かがここで水を得ようとしたように見えた。


 イロハは胸の奥が少し熱くなった。


 水辺の足跡。

 駅の器。

 列車の布。

 そして、ここの傷。


 誰かがいたのかもしれない。


 本当に、人間が生きているのかもしれない。


「人が来たのかな」


 クルムは弁の傷を見た。


 それから、部屋の空気を確かめるようにわずかに鼻を動かした。


「古い」


「でも、新しく見える」


「お前の目にはな」


「またそうやって」


 イロハは唇を尖らせた。


 クルムはそれ以上言わない。


 否定しきらない。


 それが、かえってイロハの中の期待を消さなかった。


 誰かがここへ来た。


 誰かが水を求めた。


 それだけでも、村の外に自分たち以外の人間がいるかもしれないと思える。


 イロハは弁に手をかけた。


「やめろ」


 クルムの声が低くなる。


「でも、これを動かせば水が出るかもしれない」


「動くとは限らない」


「動かしてみないと分からない」


「壊れている」


「それも分からない」


 クルムはイロハを見た。


「列車で何を学んだ」


 イロハは言葉に詰まった。


 確かに、案内板を外そうとして床が抜けた。


 足を怪我した。


 車両も崩れた。


 でも、それでも案内板は手に入れた。


 それがあったから、ここまで来られた。


「知らないままよりいい」


 イロハは小さく言った。


 クルムの赤い瞳が、少しだけ細くなる。


「また死にかけるぞ」


「それでも」


「水で死ぬのは、愚かだ」


 冷たい言葉だった。


 でも、イロハは手を離せなかった。


 水。


 飲めるかもしれない水。


 誰かが求めたかもしれない水。


 何もせずに諦めることはできなかった。


 イロハは両手で弁を掴んだ。


 錆でざらついている。


 力を込める。


 動かない。


 もう一度。


 肩に力を入れて、足を踏ん張る。


 足首に痛みが走った。


「っ……」


 それでも、手を離さなかった。


 弁は動かない。


 イロハは歯を食いしばる。


 その時、クルムが横から手を伸ばした。


「どけ」


「え」


 イロハが離れる前に、クルムが弁を掴んだ。


 細い指に見えた。


 けれど、その力は人間のものではなかった。


 錆びついた輪が、ぎ、と音を立てる。


 建物全体が震えたように感じた。


 ぎぎぎ、と長い音が続く。


 弁が、少しだけ回った。


 イロハは目を見開いた。


 動いた。


 本当に動いた。


 だが、次の瞬間、床の下で何かが弾けた。


 ごん、と腹の底に響く音。


 続いて、遠くで水が唸った。


 クルムの表情が変わる。


「下がれ」


 イロハは動けなかった。


 建物の奥で、古い管が震え出す。


 壁の中を、何かが走る音がした。


 水だ。


 長い間閉じ込められていた水が、どこかで動き始めている。


「下がれ!」


 クルムが叫んだ。


 イロハははっとして後ろへ下がった。


 その瞬間、床の一部が裂けた。


     *


 濁った水が噴き上がった。


 冷たい。


 重い。


 勢いよく足元へ流れ込み、イロハの膝を打った。


「きゃっ!」


 踏ん張ろうとした足が滑る。


 床に溜まっていた砂と泥が水に混ざり、一気に流れ出した。


 イロハは壁に手を伸ばした。


 届かない。


 身体が流される。


 古い机にぶつかり、息が詰まった。


 案内板が腕から離れそうになる。


 イロハは必死に抱え込んだ。


 水は濁っていて、臭い。


 泥と錆と、古い管の中に溜まっていたものの匂いがする。


 飲める水ではない。


 少なくとも、このままでは。


 水の流れが強くなる。


 裂けた床の向こう、建物の外へ向かって排水路のような穴が口を開けていた。


 そこへ引き込まれる。


 イロハは足をばたつかせた。


 痛む足首が悲鳴を上げる。


 手が何かを掴んだ。


 錆びた棚。


 だが、すぐに外れる。


 身体がまた流された。


「クルム!」


 自分でも驚くほど、自然にその名が出た。


 次の瞬間、腕を掴まれた。


 痛いほど強く。


 水の中から、身体が引き上げられる。


 肩が軋んだ。


 息が詰まる。


 クルムがイロハを引きずり、水の流れから外した。


 乱暴に壁際へ投げ出される。


 イロハは咳き込んだ。


 水を少し飲んでしまったのか、口の中が苦い。


 泥の味がする。


 案内板はまだ腕の中にあった。


 クルムはイロハの前に立っていた。


 流れる水を見下ろしている。


 銀白の髪が濡れて、頬に張りついていた。


 白い肌に、水の筋が流れている。


 イロハは息を整えながら、クルムを見た。


 濡れたせいか。


 日差しのせいか。


 それとも、さっき弁を無理に回したせいか。


 クルムの肩が、ほんの少し上下していた。


 息を乱している。


 ほんのわずかに。


 けれど、イロハには分かった。


「あなた」


「黙れ」


 先に遮られた。


 クルムは水の流れから目を離さない。


「水で死ぬつもりか」


「死ぬつもりなんてない」


「同じだ」


「同じじゃない」


 イロハは咳き込みながら言った。


 喉が痛い。


 水を飲んだせいで、口の中が気持ち悪い。


 それでも言い返したかった。


「水が欲しかっただけ」


「欲しければ死んでもいいのか」


 イロハは答えられなかった。


 水の音が建物の中に響いている。


 ごうごうと、怒っているような音。


 足元を流れる濁った水を見ていると、またあの桶の水が重なる。


 自分の手からこぼれた水。


 子どもに届かなかった水。


 イロハは案内板を抱えたまま、膝をついた。


「……欲しかったの」


 声が小さくなる。


「水が、欲しかったの」


 クルムは何も言わない。


「私じゃない」


 言葉が勝手に出た。


「私じゃなくて、あの子が」


 そこで喉が詰まった。


 それ以上は言えなかった。


 言っても、水は戻らない。


 子どもは起きない。


 女の声も、もう聞こえない。


 クルムはイロハを見なかった。


 ただ、濁った水の流れを見ていた。


 しばらくして、言う。


「これは飲めない」


 イロハは目を伏せた。


「分かってる」


「すぐにはな」


 イロハは顔を上げる。


 クルムは壊れた管の先を見ていた。


 そこからは、最初より少し弱くなった水が流れ続けている。


「泥が沈めば、上澄みは使える」


「本当?」


「飲めるかは別だ」


「でも、使えるかもしれない」


 イロハは立ち上がろうとした。


 足首が痛み、膝をつく。


 クルムがちらりと見る。


「動くな」


「でも」


「動くなと言った」


 その声は冷たかった。


 イロハは唇を噛む。


 クルムは床に転がっていた金属の容器を拾った。


 錆びてはいるが、底は抜けていない。


 流れから少し離れた場所に置き、水が溜まるようにする。


 それから、割れた板と布のようなものを使い、泥が直接入らないようにした。


 手つきは乱暴だった。


 でも、迷いがなかった。


 イロハはその様子を見ていた。


「水、いらないんじゃないの」


 思わず言った。


 クルムは答えない。


「吸血鬼は」


「飲める」


 短い答え。


「でも、必要じゃない?」


「お前ほどではない」


「じゃあ、どうして」


 クルムは容器を置き直した。


「お前が歩けなくなると困る」


 やっぱり、そう言うのだ。


 イロハは少しだけ肩の力を抜いた。


 優しさではない。


 心配でもない。


 ただ、自分がこの男にとってまだ必要だから。


 当面の食料だから。


 それでも、死ねと言った男が、今は水を確保している。


 その事実だけが、少し変な感じだった。


     *


 水の勢いが弱まるまで、二人は建物の中で待った。


 外の光は少し傾き始めていた。


 割れた窓から差し込む陽が、濁った水面に揺れている。


 クルムは壁にもたれて立っていた。


 目を閉じているわけではない。


 けれど、いつもより動かない。


 濡れた銀白の髪が、まだ乾ききっていない。


 肌の白さが、少し強く見える。


「寒いの」


 イロハが聞くと、クルムは赤い瞳だけを向けた。


「違う」


「じゃあ、痛い?」


「違う」


「疲れた?」


「黙れ」


 やっぱり、疲れているのだ。


 イロハはそう思った。


 はっきりとは分からない。


 でも、弁を回した後から、クルムの動きは少しだけ鈍い。


 水から引き上げた時も、乱暴ではあったが、いつものような余裕は薄かった。


 吸血鬼でも疲れる。


 吸血鬼でも、弱る。


 そのことを知ってしまったようで、イロハは落ち着かなかった。


 少しして、容器の中に水が溜まった。


 泥は底へ沈み、上の方だけは少し澄んでいるように見える。


 完全に綺麗ではない。


 それでも、水辺で見た油膜の浮いた水よりはましだった。


 クルムが容器を手に取り、匂いを確かめる。


「少しなら飲める」


「本当?」


「腹を壊すかもしれん」


「どっち」


「死にはしない」


 またその言い方だった。


 イロハは容器を受け取る。


 両手で持つと、金属の冷たさが掌に伝わった。


 水面が揺れる。


 少し濁った水。


 生きるための水。


 あの子に届けられなかった水。


 イロハは喉を鳴らした。


 飲みたい。


 けれど、飲むのが怖い。


 自分だけが飲むことが、怖い。


 クルムは言った。


「飲め」


 イロハは水面を見つめる。


「飲まなければ歩けない」


 その言葉で、イロハは目を閉じた。


 歩くため。


 生きるため。


 自分が飲むため。


 イロハは少しだけ水を口に含んだ。


 泥の味がした。


 金属の匂いもした。


 うまくはない。


 でも、喉を通った。


 乾ききっていた身体に、水が落ちていく。


 それだけで、涙が出そうになった。


 イロハは慌てて飲み込んだ。


 もう少しだけ飲む。


 それから容器を下ろした。


「残すのか」


「あとで飲む」


「腐る」


「分かってる」


 本当は分かっていない。


 でも、一気に飲むことができなかった。


 水は、ただの水ではなかった。


 クルムは何も言わず、別の容器を探した。


 イロハは濡れた袖で口元を拭う。


 少しだけ、身体の奥に力が戻った気がした。


     *


 建物の奥には、別の部屋があった。


 管理室のような場所だった。


 机が並び、壁には剥がれた紙がいくつも貼られている。


 床には空の容器や、壊れた小さな箱が散らばっていた。


 イロハは足をかばいながら、その中を見て回った。


 机の上に、色あせた地図のようなものがあった。


 文字は読めない。


 しかし、青い線と灰色の四角が描かれている。


 案内板の印に似たものもあった。


「ここ」


 イロハは紙を指さした。


「水の場所?」


 クルムが覗き込む。


 赤い瞳が、紙の上を滑る。


「この施設の周辺だろう」


「読めるの?」


「少しは」


「じゃあ、最初から読んでくれればよかったのに」


「文字が違う」


「違う?」


「時代が違う」


 イロハは紙を見た。


 文字にも時代がある。


 名前が変わるように。

 道が壊れるように。

 人間の文字も、変わる。


 三千年。


 その長さが、また少しだけ重くなった。


 紙の隅に、別の印があった。


 水の印とは違う。


 人が並んでいるような、小さな絵。


 その下に、矢印。


「これは?」


 クルムは少し見てから言った。


「避難所」


「ひなんじょ」


「逃げ込む場所だ」


 イロハはその言葉を繰り返した。


 逃げ込む場所。


 そこには、人がいたのだろうか。


 水が足りなくなった人たち。

 子どもを連れた人たち。

 駅で待てなくなった人たち。


 誰かがそこへ逃げたのだろうか。


「近いの」


「歩ければな」


 クルムはイロハの足を見る。


 イロハはすぐに言った。


「歩ける」


「今にも倒れそうだ」


「倒れない」


「根拠は」


「倒れたくない」


 クルムは呆れたように目を細めた。


 けれど、何も言わなかった。


 イロハは紙の印を見つめる。


 避難所。


 逃げ込む場所。


 そこに誰かがいたかもしれない。


 まだ、何かが残っているかもしれない。


 水だけではなく。


 食べ物かもしれない。


 人の痕跡かもしれない。


 名前かもしれない。


 イロハは案内板と、古い紙の印を見比べた。


 自分には読めない。


 分からないことばかりだ。


 でも、少しずつ道が繋がっていく。


 道標。

 黒い道。

 水辺。

 車。

 駅。

 線路。

 列車。

 貯水場。


 そして、避難所。


 人間が消えたあとにも、道はまだ残っている。


 その道をたどれば、どこかで生きている人間に会えるかもしれない。


 イロハはそう思った。


 そう思いたかった。


     *


 外へ出るころ、空は薄く曇っていた。


 貯水場の巨大な壁は、夕方の光の中でさらに冷たく見えた。


 イロハは少量の水を入れた容器を布で包み、抱えていた。


 重い。


 でも、その重さが少しだけ安心をくれた。


 飲めるかどうかも分からなかった水。


 それでも、何もないよりはいい。


 クルムは建物の出口で一度だけ足を止めた。


 壁の影に立ち、濡れた髪を払う。


 その動きが、ほんの少し鈍い。


 イロハは見ていた。


 クルムは気づいたのか、赤い瞳を向ける。


「何だ」


「何でもない」


「なら見るな」


「見てない」


「嘘が下手だ」


 イロハは顔をそむけた。


 見ていた。


 確かに見ていた。


 吸血鬼が弱るところを。


 でも、それを言葉にしてはいけない気がした。


 言えば、クルムはもっと遠くなる。


 そんな気がした。


 貯水場の外れには、ひび割れた小さな標識が立っていた。


 そこに、管理室で見たものと同じ印が残っている。


 人が並んでいるような絵。


 矢印。


 避難所。


 クルムが短く言う。


「こっちだ」


 イロハは頷いた。


 足は痛い。


 身体も重い。


 けれど、喉の奥には少しだけ水の冷たさが残っている。


 それだけで、もう少し歩ける気がした。


 振り返ると、巨大な壁の下で濁った水が静かに揺れていた。


 水はあった。


 でも、届かなかった水もある。


 飲めなかった水もある。


 助けられなかった命もある。


 それでも、イロハは水を抱えて歩き出した。


 避難所へ。


 人が逃げ込んだ場所へ。


 誰かが、まだいたかもしれない場所へ。


 クルムは前を歩いている。


 けれど、最初の夜ほど速くはなかった。


 イロハが水を抱えているからか。

 足を痛めているからか。

 それとも、クルム自身が少し疲れているからか。


 分からない。


 クルムは振り返らない。


 声もかけない。


 ただ、イロハが数歩遅れると、ほんの少しだけ歩幅が狭くなる。


 優しさだとは思いたくなかった。


 きっと、食料を置いていくと困るだけだ。


 イロハはそう考えながら、水を抱え直した。


 夕方の風が、湿った匂いを運んでいた。


 その匂いの先へ、二人は歩いていった。

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