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終わりの名を持つ君へ  作者: そらいろは
第2部 旅の始まり

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第16章 避難所跡

第2部 旅の始まり

 避難所へ続く道は、貯水場の外れから伸びていた。


 道、と呼ぶには頼りない。


 ひび割れた地面。

 半分倒れた柵。

 草に埋もれた白い線。

 ところどころに残る、剥がれた標識。


 それでも、誰かがここを通ったのだと分かった。


 水を求めて。


 逃げ場を求めて。


 どこかに生き延びる場所があると信じて。


 イロハは水を包んだ容器を抱え、足を引きずりながら歩いた。


 容器は重い。


 中身は少ししかないのに、腕にずしりと残る。


 水は、ただの水ではなかった。


 自分が飲んだ水。

 飲めなかった誰かの水。

 こぼしてしまった水。


 胸の中に、ずっと冷たいものがある。


 クルムは前を歩いていた。


 振り返らない。


 声もかけない。


 ただ、道が崩れて歩きにくい場所では、少しだけ足が遅くなる。


 それがイロハのためなのか、地面を警戒しているだけなのかは分からない。


 分からないままの方がよかった。


 優しさだと思ったら、きっと怖くなる。


 食料を失いたくないだけ。


 そう考える方が、まだ分かりやすかった。


「遠いの」


 イロハが聞くと、クルムは前を向いたまま答えた。


「近い」


「近いって、どれくらい」


「歩ければ着く」


「それは全部そうでしょ」


 クルムは答えなかった。


 イロハは少しだけ息を吐く。


 歩ければ着く。


 歩けなければ、着かない。


 この男の言葉はいつも、それだけだ。


 でも、今のイロハには、その言葉を否定できなかった。


 歩くしかない。


 水を抱えて。


 痛む足で。


 誰かが逃げ込んだ場所へ。


     *


 避難所は、丘の斜面に埋まるように建っていた。


 最初は大きな倉庫かと思った。


 低い建物。


 厚い壁。


 狭い入口。


 窓は少なく、ほとんどが板や金属で塞がれている。


 入口の上には、色あせた絵が残っていた。


 人が並んでいるような印。


 その下に、読めない文字。


 貯水場の地図にあったものと同じ印だった。


「ここ?」


 イロハが聞くと、クルムは頷く代わりに入口へ近づいた。


 扉は半分開いている。


 開いているというより、壊れて隙間ができていた。


 その隙間から、暗い空気が漏れている。


 湿った匂い。

 古い布の匂い。

 かすかに腐った匂い。


 イロハは水の容器を抱え直した。


 中に誰かがいるかもしれない。


 そう思った。


 でも同時に、駅の奥で聞いた音を思い出した。


 誰かがいるかもしれない場所には、人ではないものもいるかもしれない。


 クルムは扉の隙間に手をかけた。


「離れていろ」


 イロハは一歩下がる。


 クルムが力を入れると、扉が鈍い音を立てた。


 ぎぎ、と金属が鳴る。


 長い間動いていなかったものを、無理やり起こすような音。


 扉は少しだけ開いた。


 中の暗闇が広がる。


 クルムは先に入った。


 イロハはその背中を追う。


 入口をくぐった瞬間、外の光が遠くなった。


     *


 中は、思っていたより広かった。


 床には薄い埃が積もっている。


 壁際には寝台のようなものが並んでいた。


 細い金属の枠。

 沈んだ布。

 破れた毛布。


 その多くは空だった。


 けれど、空であることがかえって怖かった。


 ここに、人が寝ていた。


 起き上がれない人もいたかもしれない。


 泣く子どももいたかもしれない。


 水を待つ人も。


 助けを待つ人も。


 イロハは一つの寝台の横で足を止めた。


 寝台の脇の壁に、小さな絵が描かれていた。


 子どもの手が届くくらいの、低い位置だった。


 丸い顔。

 棒のような手足。

 その隣に、大きな丸。


 太陽だろうか。


 花だろうか。


 分からない。


 でも、子どもが描いたものだとは分かった。


 イロハは指を伸ばしかけて、止めた。


 触れたら消えてしまいそうだった。


 少し離れた壁には、名前のような文字も刻まれていた。


 一つではない。


 いくつも。


 同じ高さに、短い線や曲がった文字が並んでいる。


 誰かが、自分がここにいた証を残そうとしたように見えた。


「読める?」


 イロハが聞くと、クルムは壁を見た。


「名だろうな」


「誰の」


「知らん」


「ここにいた人?」


「おそらくな」


 名。


 イロハは壁を見つめた。


 知らない名前。


 読めない名前。


 でも、誰かの名前。


 その人は、ここにいた。


 生きていた。


 名前を残した。


 それなのに、もう声はない。


 イロハは胸の奥が詰まるのを感じた。


 名前があっても、人は消える。


 名前が消えても、そこにあったものは消えない。


 駅でクルムが言った言葉を思い出す。


 誰が忘れても、そこにあったものは消えない。


 なら、この場所にあったものも、消えてはいないのだろうか。


 人の熱。


 声。


 泣き声。


 助けを待つ気持ち。


 それらは、まだここに残っているのだろうか。


「行くぞ」


 クルムが言った。


 イロハは小さく頷いた。


     *


 奥へ進むと、床には空の箱が散らばっていた。


 同じ形の箱が、いくつも。


 潰れたもの。

 破れたもの。

 中身を抜かれたもの。


 箱の側面には、食べ物の絵らしいものが描かれている。


 丸いもの。


 四角いもの。


 湯気のような線。


 イロハの腹が小さく鳴った。


 自分でも驚いた。


 水のことばかり考えていたけれど、昨日からほとんど何も食べていない。


 村を出てから、空腹を感じる余裕もなかった。


「食べ物?」


 クルムは箱を一つ蹴った。


 軽い音がする。


「空だ」


 イロハは別の箱を開ける。


 中には何もない。


 乾いた屑だけが残っている。


 次も空。


 その次も空。


 誰かがここで食べた。


 何度も。


 少しずつ。


 最後まで。


 そんな気がした。


 部屋の隅に、封が切られかけた箱があった。


 イロハはそれに気づいて近づく。


 他の箱より奥にある。


 埃をかぶっているが、封の部分だけが少し破れていた。


 切り口が、妙に新しく見える。


 イロハの心臓が鳴った。


「これ」


 クルムが近づく。


「誰かが開けようとしたのかな」


 箱の封は途中まで裂けている。


 でも、最後までは開いていない。


 中身が残っているかもしれない。


 イロハは箱を持ち上げようとした。


 思ったより軽い。


 けれど、空ではない。


 かさ、と中で何かが鳴った。


「食べ物、残ってるかも」


「腐っている」


「まだ見てない」


「大半は腐っている」


「大半ってことは、全部じゃないかもしれない」


 クルムはイロハを見た。


 赤い瞳が、少しだけ呆れたように細くなる。


「お前は、毎回そうやって死に近づくな」


「食べなきゃ歩けない」


 イロハは箱を抱えた。


「あなたがそう言ったんじゃない。飲まなければ歩けないって」


「食えとは言っていない」


「でも食べなきゃ歩けない」


 クルムは黙った。


 それから、部屋のさらに奥を見た。


 そこには重そうな扉があった。


 厚い金属の扉。


 片側が歪み、枠に食い込んでいる。


 周囲には、開けようとした跡がいくつも残っていた。


 叩いた跡。

 こじ開けようとした傷。

 何かで削った跡。


 けれど、扉は開いていない。


「備蓄室だ」


 クルムが言った。


「びちく」


「食料を置く場所だ」


 イロハは扉を見た。


 食料。


 奥にある。


 でも、扉は歪んでいる。


 普通の人間では開けられなかったのだろう。


 ここへ逃げた人たちは、そこに食料があると知っていたのだろうか。


 知っていて、開けられなかったのだろうか。


 イロハの喉が詰まった。


 食べ物があったのに。


 手の届く場所にあったのに。


 扉一枚の向こうにあったのに。


「開けられる?」


 イロハが聞く。


 クルムは扉を見た。


「人間には無理だ」


「あなたなら?」


「下がれ」


 イロハは言われた通り下がった。


 クルムは扉に手をかける。


 金属が軋んだ。


 最初は動かなかった。


 クルムの指に力が入る。


 白い手が、歪んだ扉の隙間へ食い込む。


 ぎ、と嫌な音がした。


 扉の枠が震える。


 もう一度。


 今度は大きく音が鳴った。


 歪んだ扉が、無理やり引き剥がされる。


 金属が悲鳴を上げた。


 イロハは思わず耳を塞いだ。


 最後に、扉が内側へ倒れ込んだ。


 埃が舞う。


 古い空気が流れ出す。


 腐った匂い。


 乾いた匂い。


 少しだけ、食べ物の匂い。


 イロハの腹が、また小さく鳴った。


     *


 備蓄室の中は、ひどい有様だった。


 棚は傾き、箱は崩れ、床には黒くなった袋がいくつも落ちていた。


 大半は駄目になっていた。


 袋の中で腐ったもの。

 乾ききって砕けたもの。

 虫に食われた跡のあるもの。


 イロハは顔をしかめた。


 食べられるようには見えない。


 それでもクルムは、棚の奥からいくつかの小さな包みを取り出した。


 硬い。


 密封されている。


 表面は汚れているが、中までは駄目になっていないように見えた。


「これなら少しは食える」


 クルムはそう言って、包みを投げた。


 イロハは慌てて受け取る。


「本当?」


「たぶんな」


「たぶん?」


「死にはしない」


「またそれ」


 イロハは包みを見た。


 封を切ると、中には硬い板のような食べ物が入っていた。


 匂いは薄い。


 美味しそうではない。


 でも、食べ物だった。


 イロハはしばらくそれを見つめた。


 食べてもいいのだろうか。


 ここで誰かが食べられなかったものを。


 扉の向こうにあって、届かなかったものを。


 自分が食べていいのだろうか。


「食え」


 クルムが言った。


 イロハは顔を上げる。


「歩けなくなる」


 同じ理由。


 優しさではない。


 分かっている。


 それでも、今はその言葉に押されるように、イロハは硬い食べ物をかじった。


 歯が痛くなるほど硬い。


 味はほとんどない。


 少しだけ塩気がある。


 ぱさぱさして、喉に詰まりそうになる。


 イロハは貯水場で汲んだ水を少しだけ飲んだ。


 食べ物が喉を通る。


 身体の奥が、遅れて空腹を思い出した。


 もう一口。


 もう一口。


 気づくと、手が止まらなくなりそうだった。


 イロハは慌てて包みを下ろした。


 その時、クルムも別の包みを開けていた。


 中身を確かめるように見てから、口に運ぶ。


「食べられるの」


 イロハは思わず聞いた。


「食える」


 クルムは短く答えた。


「じゃあ、血なんて要らないんじゃないの」


 言った瞬間、空気が少し冷えた気がした。


 クルムは食べ物を噛む。


 飲み込む。


 それから言った。


「腹は満たせる」


 少しの沈黙。


「それだけだ」


 イロハは手の中の食べ物を見た。


「それだけ」


「人間の食事は、人間のためのものだ」


「吸血鬼は違うの」


「違う」


「でも食べられる」


「食べられることと、生きられることは違う」


 イロハは言葉に詰まった。


 水もそうだった。


 水があることと、飲めることは違う。


 食べ物があることと、生きられることは違う。


 何もかも、外の世界では簡単ではない。


 クルムはもう一口食べた。


 顔色は変わらない。


 空腹が満たされたようにも見えない。


 ただ、口に入れて飲み込んでいるだけ。


 イロハはその横顔を見た。


 食べても満たされない。


 なら、この男は今、何で生きているのだろう。


 どれだけ血を飲まなければ、弱るのだろう。


 その問いが、胸の奥に沈んだ。


 聞けなかった。


 聞きたくなかった。


     *


 食べられる包みは、思ったより少なかった。


 クルムは使えるものだけを選び、残りは捨てた。


 イロハは捨てられた袋を見る。


 もったいないと思った。


 でも、腐ったものを食べれば歩けなくなる。


 歩けなくなれば、死ぬ。


 そういう世界だった。


 備蓄室の奥には、さらに小さな扉があった。


 他の扉より薄い。


 倉庫の一部なのか、別の部屋なのか分からない。


 イロハは食べ物の包みを抱えながら近づいた。


「そこはいい」


 クルムが言った。


「でも」


「何もない」


「見てないでしょ」


「匂いで分かる」


 イロハは扉を見た。


 隙間が少し開いている。


 暗い。


 でも、奥に何か白いものが見えた気がした。


 紙かもしれない。


 布かもしれない。


 名前が書かれたものかもしれない。


 イロハは一歩近づいた。


「見るだけ」


「やめろ」


 クルムの声が低くなる。


 その声を聞いても、イロハは止まらなかった。


 扉に手をかける。


 軽い扉だった。


 少し押すだけで開いた。


 中は狭い部屋だった。


 棚があり、倒れた椅子があり、床に紙が散らばっている。


 壁には、小さな箱が取りつけられていた。


 古い機械のようだった。


 イロハが一歩入ると、背後で音がした。


 がん、と。


 扉が閉まった。


「え」


 振り返る。


 扉が動かない。


 押しても開かない。


 取っ手を引いても、びくともしない。


「クルム!」


 イロハは扉を叩いた。


 返事はすぐにはなかった。


 分厚い扉ではないはずなのに、声がこもる。


 外の音が遠い。


 暗い部屋。


 閉じた扉。


 地下の封印の間が、一瞬で蘇った。


 石の扉。

 冷たい床。

 女の声。

 扉の奥の闇。


 イロハの呼吸が浅くなる。


「クルム!」


 もう一度叩く。


 今度は外から低い声がした。


「動くな」


「開けて!」


「だから動くなと言っている」


 その声が聞こえただけで、少しだけ息が戻った。


 でも、暗さは消えない。


 イロハは扉に背をつけた。


 その時、壁の箱が音を立てた。


 ざ、ざざ。


 壊れた虫の羽音のような雑音。


 イロハは息を止めた。


 機械の中で、小さな灯が一瞬だけ点いた。


 消える。


 また点く。


 そして、声が流れた。


『……水は、残り三日分』


 イロハは凍りついた。


 人の声。


 古い。


 途切れている。


 でも、人の声だった。


『子どもを先に』


 ざざ、と雑音が混じる。


『扉を開けないでください』


 イロハの手が震えた。


 扉。


 開けないで。


 誰に言っているのか。


 何を入れないためなのか。


『外に出ないで』


 雑音。


 短い沈黙。


 それから、ひどく遠い声。


『まだ、助けは来ます』


 そこで音が途切れた。


 ざざ。


 ざ。


 灯が消える。


 部屋はまた暗くなった。


 イロハは動けなかった。


 助けは来ます。


 その言葉だけが、暗闇に残った。


 ここにいた人たちは、その言葉を聞いたのだろうか。


 何度も。


 水が減っていく中で。


 食べ物が尽きていく中で。


 子どもを先に、と言いながら。


 助けを待ったのだろうか。


 助けは。


 来たのだろうか。


 イロハは答えを知っている気がした。


 寝台は空だった。


 箱も空だった。


 名前だけが壁に残っていた。


 助けは、来なかったのだ。


 胸の奥がぎゅっと縮む。


 村で、自分は助けを待たなかった。


 封印の扉を開けた。


 その結果、村は燃えた。


 ここにいた人たちは、助けを待った。


 その結果、誰もいなくなった。


 何を選べばよかったのか。


 何を選んでも、誰かは消えるのか。


 イロハは膝を抱えそうになった。


 その時、扉の向こうで大きな音がした。


 金属が歪む。


 木が割れる。


 次の瞬間、扉が外から壊された。


 光が差し込む。


 クルムが立っていた。


 赤い瞳が、暗い部屋の中を見ている。


「何を聞いた」


 イロハはすぐには答えられなかった。


 声が出ない。


 クルムは部屋の中に入らない。


 ただ、扉の前に立っている。


 イロハはゆっくり立ち上がった。


「助けは来るって」


 それだけ言った。


 クルムは何も言わなかった。


「でも、来なかった」


 自分で言って、胸が痛くなった。


 クルムは壁の古い機械を見た。


 壊れた声の箱。


 もう何も言わない箱。


「行くぞ」


 そう言った。


 イロハは頷いた。


 それ以上、この部屋にいたくなかった。


     *


 備蓄室を出ると、避難所の空気がさっきより重く感じられた。


 寝台。


 毛布。


 空の箱。


 壁の名前。


 子どもの絵。


 すべてが、助けを待っていた場所に見えた。


 イロハは食料の包みを抱え、水の容器を持った。


 少しだけ重い。


 でも、持っていく。


 ここに残しても、もう誰も食べない。


 その事実が、また胸を締めつけた。


 クルムは出口へ向かった。


 その時だった。


 避難所の奥で、音がした。


 きい。


 壁を引っ掻くような音。


 イロハは足を止めた。


 クルムも止まる。


 もう一度。


 きい、きい。


 爪が固い壁を削るような音。


 ゆっくり。


 細く。


 でも、確かに近い。


 イロハは音のする方を見た。


 寝台の並ぶ奥。


 暗い通路。


 そのさらに先。


 何かがいる。


 駅で聞いた音とは違う。


 列車の奥の息遣いとも違う。


 でも、同じものに繋がっている気がした。


 クルムの赤い瞳が細くなる。


「出るぞ」


 低い声だった。


「でも」


「今すぐだ」


 その声に、迷いはなかった。


 イロハは食料と水を抱え直す。


 足が痛む。


 けれど、走るしかない。


 きい。


 また音がした。


 今度は少し近い。


 クルムはイロハの腕を掴まなかった。


 ただ、先に立って出口へ向かう。


 歩幅は広い。


 でも、置いていく速さではない。


 イロハがつまずきそうになると、ほんの一瞬だけ速度が落ちる。


 振り返りはしない。


 声もかけない。


 それでも、イロハは必死で追った。


 出口の光が見える。


 外の空気。


 夕方の風。


 イロハはそこへ飛び出した。


     *


 避難所の外に出ると、空は暗くなり始めていた。


 イロハは膝に手をつき、息を吸った。


 外の空気は冷たい。


 それでも、あの中の空気よりずっとましだった。


 クルムは入口を見ていた。


 奥から、もう音は聞こえない。


 だが、静かになったことが安全だとは思えなかった。


「追ってくる?」


 イロハが聞く。


「今は来ない」


「今は、ばっかり」


「今を生きろ」


 クルムはそう言って、避難所から視線を外した。


 イロハは何も言い返せなかった。


 今を生きる。


 明日ではなく。


 いつかではなく。


 助けが来る日でもなく。


 今。


 その言葉は冷たいのに、どこか避難所の声と正反対だった。


 まだ、助けは来ます。


 来なかった助け。


 来るか分からない誰か。


 それを待つのではなく、歩くしかない。


 イロハは水の容器を抱え直した。


 食料の包みもある。


 足は痛い。


 でも、歩ける。


 避難所の横には、古い道がさらに続いていた。


 その先、遠くの地平に、奇妙な影が見えた。


 山ではない。


 森でもない。


 いくつもの四角い影が、夕方の霞の中に立っている。


 高く、折れ、傾きながらも、空へ向かって伸びている。


 イロハは息を呑んだ。


「あれは?」


 クルムもその方角を見る。


 赤い瞳に、夕方の光が映った。


「街だ」


「まち」


「人間が集まって住んだ場所だ」


 村とは違う。


 駅とも違う。


 貯水場とも違う。


 もっと大きい。


 もっと多くの人がいた場所。


 人間が集まって住んだ場所。


 そこなら。


 そこになら、誰かがいるかもしれない。


 そう思った瞬間、イロハの胸にまた小さな火が灯った。


 怖い。


 でも、行きたい。


 知りたい。


 クルムはすでに歩き出していた。


 灰色の影へ向かって。


 イロハは避難所を振り返る。


 壁に残った名前。


 子どもの絵。


 助けを待つ声。


 それらを置いていく。


 置いていくしかない。


 イロハは小さく息を吸った。


 それから、クルムの後を追った。


 遠くの街は、夕闇の中で灰のように沈んでいた。

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