第17章 灰の街
第2部 旅の始まり
街は、遠くから見ると崖のようだった。
山ではない。
森でもない。
けれど、地面から突き出した巨大な影が、いくつも重なっている。
夕方の光を受けて、その輪郭は黒く沈んでいた。
イロハは最初、それが建物だとは思えなかった。
村で一番高いものは、見張り台だった。
それでも、屋根の上から村を見渡せる程度の高さしかない。
目の前にある影は違う。
空を支える柱のように、高く伸びている。
いくつも。
何本も。
折れているものもあった。
途中から崩れているものもあった。
それでも、まだ立っている。
「あれが、街」
イロハは呟いた。
声に出しても、うまく意味にならなかった。
街。
人間が集まって住んだ場所。
クルムは前を歩きながら言った。
「そうだ」
「あんなに高いところに、人が住んでたの」
「住んでいた」
「落ちないの」
「落ちるようには作らん」
当たり前のように言われて、イロハは黙った。
自分の知っている人間と、ここにいた人間は同じなのだろうか。
村で畑を耕し、水を汲み、焚き木を割っていた人たち。
あの人たちと同じ人間が、こんなものを作ったのだろうか。
遠くの建物は、夕方の霞の中で沈黙している。
近づくにつれて、地面の色が変わっていった。
草が減る。
土が硬くなる。
壊れた黒い道が何本も交わり、割れた石の板があちこちに浮き上がっている。
イロハは足元を見ながら歩いた。
水と食料を抱えているせいで、身体が重い。
足首の痛みもまだ引いていない。
クルムは前にいる。
けれど、完全には離れない。
イロハが崩れた段差に足を取られると、少し先で止まる。
振り返りはしない。
声もかけない。
ただ、止まる。
そのたびに、イロハは少し腹が立った。
待つなら待つと言えばいい。
待っていないなら、止まらなければいい。
けれど、クルムはどちらもしない。
イロハは水の容器を抱え直し、痛む足を前へ出した。
追いついた瞬間、クルムはまた歩き出す。
歩幅は合わない。
でも、見失うほど離れもしない。
その距離が、今はいちばん分からなかった。
*
街の入口には、門がなかった。
代わりに、壊れた標識がいくつも立っていた。
大きな板。
曲がった柱。
色の剥げた絵。
読めない文字。
その一つには、人の形のような絵が描かれていた。
矢印があり、その先に四角い建物の絵がある。
避難所の印とは違う。
駅の地図とも違う。
けれど、人間が誰かに何かを知らせようとしていたことだけは分かった。
イロハは足を止めかけた。
クルムが言う。
「読むな」
「読めない」
「なら見るな」
「絵なら分かるかもしれない」
「分かったところで、今さらだ」
冷たい言い方だった。
でも、クルムの視線は標識ではなく、街の奥へ向いていた。
何かを探している。
匂いなのか。
気配なのか。
イロハには分からない。
「人がいると思う?」
聞いてから、胸が少し強く鳴った。
クルムはすぐには答えなかった。
風が吹く。
灰の匂いがした。
焦げた木とは違う。
土埃とも違う。
もっと細かく、乾いていて、喉の奥に残る匂い。
「分からん」
やがて、クルムはそう言った。
「分からないの」
「人間の匂いは薄い」
「薄いってことは、あるの?」
「古すぎる」
イロハの胸に灯りかけたものが、少し揺れた。
古い匂い。
今いる人の匂いではない。
でも、完全にないわけでもない。
その曖昧さに、イロハは縋りたくなった。
「奥に行けば、誰かいるかもしれない」
「期待するな」
「期待しちゃ駄目なの」
「失望するだけだ」
クルムは街へ踏み込んだ。
イロハはその背中を睨んだ。
失望するだけ。
そんなことは、分かっている。
水辺の足跡も、駅の器も、列車の布も、貯水場の傷も、避難所の声も。
全部、誰かがいたかもしれないと思わせるだけで、誰にも会えなかった。
それでも、期待しなければ歩けない。
生きている人がいるかもしれないと思わなければ、この灰色の街へ入ることなんてできない。
イロハは小さく息を吸い、クルムの後を追った。
*
街の中は、音がなかった。
いや、音はある。
風が割れた窓を鳴らす音。
遠くで何かが崩れる音。
足元の硝子を踏む音。
どこかの金属が揺れる音。
でも、人の音がない。
鍋の音もない。
話し声もない。
走る足音もない。
あれほど大きな場所なのに、街は息を潜めていた。
道の両側には、高い建物が並んでいる。
見上げると首が痛くなるほどだった。
窓は割れ、壁には黒い筋が走っている。
中が見える部屋もあった。
机のようなもの。
椅子のようなもの。
倒れた棚。
垂れ下がった布。
どの部屋にも、生活の形だけが残っている。
人だけが抜け落ちていた。
広場に出ると、地面一面に灰が積もっていた。
灰色の粉が、風に薄く流れる。
中央には、折れた柱が立っている。
その根元に、人の形をした像のようなものが倒れていた。
顔は欠けている。
手も片方ない。
誰かを讃えるためのものだったのかもしれない。
誰かを忘れないためのものだったのかもしれない。
でも、もう誰なのか分からない。
イロハは像の前で立ち止まった。
「これも、名前があったのかな」
クルムは少しだけ像を見た。
「だろうな」
「今は分からない」
「そうだ」
「それでも、あったことは消えない?」
イロハが聞くと、クルムは答えなかった。
駅で言った言葉。
誰が忘れても、そこにあったものは消えない。
あの時は、低く、怒っているような声だった。
今は何も言わない。
イロハは倒れた像を見下ろした。
忘れられても消えないのなら。
消えないものは、どこに残るのだろう。
石に。
道に。
壁に。
名前に。
それとも、誰かの中に。
イロハはそこまで考えて、クルムを見た。
彼はすでに広場の奥へ歩き出していた。
その背中は、灰の中で白く浮いている。
イロハは慌てて追った。
*
広場を抜けると、道はさらに荒れていた。
地面が割れ、下に空洞が見える場所もある。
倒れた建物が道を塞ぎ、その上を蔓が這っている。
イロハは水の容器を抱えたまま、細い隙間を通った。
肩が壁に擦れる。
古い埃が服についた。
クルムは先に抜けていた。
その先で、何かを見下ろしている。
「どうしたの」
イロハが近づくと、地面に黒い跡があった。
爪痕。
駅や避難所で見たものより、深い。
壁にも傷がある。
硬い石を削ったような跡。
その下に、黒い毛が数本落ちていた。
まだ湿っているようにも見える。
イロハの喉が鳴った。
「近い?」
クルムはしゃがみ、毛を見た。
「通ったばかりだ」
イロハは思わず後ろを見た。
誰もいない。
何も見えない。
でも、街の建物はいくつも穴を開けている。
暗い入口。
割れた窓。
地下へ降りる階段。
どこからでも、何かが出てきそうだった。
「ここにもいるんだ」
「人間が消えれば、別のものが住む」
クルムは立ち上がった。
「長居する場所ではない」
「でも、街なんでしょう」
「今は巣だ」
巣。
その言葉で、イロハは足元の灰を見た。
人間が集まって住んだ場所。
今は、何か別のものの巣。
それがこの街なのだ。
イロハは食料の包みを抱え直した。
希望と怖さが、胸の中で絡まっていく。
ここには人がいた。
たくさんいた。
なら、何かが残っているはずだ。
記録。
名前。
道。
もしかしたら、生きている誰か。
でも、同時に獣もいる。
人の跡を辿るほど、危険にも近づいている。
クルムは歩き出した。
イロハはその後を追う。
さっきまでより、クルムの歩幅は広かった。
獣の気配を嫌っているのかもしれない。
急いでいるのかもしれない。
それでも、角を曲がるたびに一瞬だけ止まる。
イロハが来るのを待つというより、奥を確かめるように。
その一瞬がなければ、イロハはもう何度も見失っていた。
*
日が落ちるころ、二人は崩れかけた建物の陰に身を寄せた。
建物の一階は吹き抜けのようになっていて、天井の一部が落ちている。
それでも、外からは見えにくかった。
クルムが選んだ場所だった。
「ここで休むの」
「暗くなる」
「暗くなると、危ない?」
「見えなくなる」
「あなたは見えるんじゃないの」
「お前は見えない」
その言い方に、イロハは少し詰まった。
お前は見えない。
だから休む。
そう聞こえた。
でも、違う。
きっと、自分が転べば面倒だからだ。
そう考えて、イロハは壁際に腰を下ろした。
足首が熱い。
靴を脱ぎかけて、やめた。
脱いだらまた履けなくなる気がした。
水を少し飲む。
食料を少しだけかじる。
味のない硬い食べ物。
それでも、空腹は少し和らいだ。
クルムは食べようとしなかった。
壁に背を預け、外の暗がりを見ている。
その横顔は、貯水場の時よりもさらに白く見えた。
「食べないの」
イロハが聞くと、クルムは目だけを向けた。
「要らん」
「さっき食べられるって言ってた」
「今は要らん」
「お腹は満たせるんでしょう」
「それだけだ」
同じ言葉。
イロハは食料の包みを見下ろした。
腹は満たせる。
それだけ。
なら、今のクルムに必要なのは何なのか。
血。
その答えは、考えなくても分かっていた。
イロハは自分の手首を隠すように袖を引いた。
クルムはそれを見ていたかもしれない。
見ていなかったかもしれない。
どちらか分からないまま、イロハは黙って食べ物をしまった。
外で、何かが鳴いた。
鳥ではない。
獣の声でもない。
金属が擦れるような、細く高い音。
イロハは息を止めた。
クルムは動かない。
「何」
「風だ」
「本当に?」
「今のはな」
今のは。
イロハはその言葉を飲み込んだ。
今は追ってこない。
今は来ない。
今のは風だ。
クルムの言葉には、いつも先がある。
今は。
では、次は。
イロハは膝を抱えた。
街の暗がりが、少しずつ濃くなっていく。
*
完全に暗くなる少し前だった。
イロハは、街の奥で光が動くのを見た。
最初は、見間違いだと思った。
割れた窓に夕方の光が反射したのだと。
けれど違った。
光は、動いた。
ひとつではない。
建物の影と影の間を、いくつもの小さな灯が、並ぶように流れていく。
低い場所だった。
通りの奥。
崩れた建物の隙間。
灰色の壁の向こう。
小さな灯が、一定の間隔を保つように移動していた。
イロハは思わず立ち上がりかけた。
足首が痛み、壁に手をつく。
「クルム」
声が震えた。
クルムはすでにその灯を見ていた。
赤い瞳が、暗がりの奥を捉えている。
「あれ」
イロハは息を呑む。
「人がいるの?」
クルムは答えなかった。
灯はまだ動いている。
一つが角の向こうに消える。
次の灯が続く。
また次の灯が、その後を追う。
人が持つ明かりに見えた。
誰かが並んで歩いているように見えた。
もしかしたら、見回りかもしれない。
避難所から逃げた人たちかもしれない。
街の奥で、生き延びている人たちかもしれない。
イロハの胸が激しく鳴った。
「ねえ、人間なんじゃ」
「静かにしろ」
クルムの声は低かった。
イロハは口を閉じる。
でも、目は灯から離せなかった。
あれが人なら。
生きている人間なら。
村の外で、初めて会える人間なら。
聞きたいことがたくさんある。
ここで何があったのか。
水はどこにあるのか。
ほかにも人はいるのか。
村の外の世界は、全部こうなのか。
灯は静かに流れていく。
声は聞こえない。
足音も聞こえない。
遠すぎるのか。
それとも、音を立てないようにしているのか。
クルムは微動だにしなかった。
その横顔は、期待しているようには見えない。
警戒している。
ひどく、強く。
イロハは小さく聞いた。
「人間の匂い、する?」
クルムは少しだけ沈黙した。
それから言った。
「しない」
胸の火が、揺れた。
「じゃあ、何なの」
「分からん」
その答えは、怖かった。
クルムにも分からない。
人間の匂いはしない。
でも、灯は動いている。
何かが、あそこにいる。
あるいは、何かが動いている。
イロハは灯を見続けた。
小さな光の列は、やがて建物の奥へ消えていった。
暗闇が戻る。
でも、見なかったことにはできなかった。
確かに、灯はあった。
並んで。
流れるように。
街の奥へ向かって。
*
しばらく、二人は動かなかった。
イロハは壁に手をついたまま、灯が消えた方角を見ていた。
クルムは黙っている。
その沈黙が、重かった。
「追わないの」
イロハが聞く。
「今は追わない」
「また、今は」
「暗い」
「でも、見失うかもしれない」
「追って死ねば終わりだ」
イロハは唇を噛んだ。
分かっている。
今の自分は走れない。
足も痛い。
水も食料もある。
それを抱えて、暗い街の中を進めるわけがない。
それでも、灯が消えた場所から目を離せなかった。
人間かもしれない。
違うかもしれない。
でも、あの灯は、これまで見つけた足跡や器や布とは違う。
過去の跡ではない。
今、動いていた。
そこに何かがある。
イロハはそう思った。
「明るくなったら」
クルムは答えない。
「明るくなったら、行くんでしょう」
クルムは灯が消えた方角を見ていた。
やがて、短く言った。
「確かめる」
その一言で、イロハはようやく息を吐いた。
確かめる。
それだけでよかった。
期待するなと言われても。
失望するだけだと言われても。
確かめることはできる。
知らないまま歩くのは嫌だ。
自分でそう言った。
なら、あの灯も確かめたい。
イロハはゆっくり腰を下ろした。
足が痛む。
身体も重い。
でも、胸の奥にはさっきの灯が残っている。
消えていない。
クルムはまだ立っていた。
暗闇の中で、赤い瞳だけがかすかに光っている。
その視線は、街のさらに奥へ向いていた。
*
夜が深くなると、街はまた静かになった。
けれど、完全な静けさではない。
遠くで何かが落ちる音がする。
建物の奥で、獣が爪を立てるような音がする。
風が吹くたび、割れた窓が小さく鳴る。
イロハは眠れなかった。
目を閉じると、避難所で聞いた声が蘇る。
『まだ、助けは来ます』
『水は、残り三日分』
『子どもを先に』
壊れた機械から流れた、途切れ途切れの声。
それが、街の奥で流れていた灯と重なって離れなかった。
助けを待った人たち。
助けが来なかった場所。
それでも、どこかで灯は動いている。
イロハは膝を抱えたまま、クルムを見た。
クルムは眠っていない。
壁際に立ち、外を見ている。
長い銀白の髪が、暗がりの中で薄く光っていた。
「眠らないの」
小さく聞く。
「必要ない」
「嘘」
クルムの視線が動く。
イロハは少し身を縮めた。
でも、言ってしまったものは戻せない。
「疲れてるでしょ」
「黙れ」
「貯水場から、少し変」
「黙れと言った」
イロハは口を閉じた。
怒らせた。
そう思った。
けれど、クルムは近づいてこなかった。
ただ、目を細めてイロハを見る。
その目には、怒りだけではないものがあった。
苛立ち。
警戒。
そして、何かを隠すような冷たさ。
「お前は自分の足の心配をしていろ」
クルムはそう言った。
イロハは自分の足を見る。
腫れている。
痛い。
でも、歩ける。
「明日も歩く」
「歩け」
「置いていかない?」
言ってから、自分で驚いた。
そんなことを聞くつもりはなかった。
クルムは少しの間、何も言わなかった。
暗い街の中で、遠くの金属が鳴る。
やがて、クルムは視線を外した。
「歩けるうちはな」
それは優しさではなかった。
約束でもなかった。
けれど、今のイロハには、それ以上を聞く勇気はなかった。
歩けるうちは。
なら、歩くしかない。
イロハは水の容器を抱え、壁にもたれた。
眠れる気はしなかった。
それでも、目を閉じる。
まぶたの裏で、街の奥の灯が流れていた。
ひとつ。
またひとつ。
並ぶように。
どこかへ向かうように。
*
夜明け前、クルムが動いた。
イロハは浅い眠りから目を覚ます。
身体が重い。
足が痛い。
喉が乾いている。
それでも、街の奥の灯を思い出した瞬間、意識がはっきりした。
「行くの」
クルムは外を見ている。
空はまだ暗い。
けれど、夜の底は少しだけ薄くなっていた。
「明るくなる前に動く」
「どうして」
「獣が戻る前に、場所を見る」
イロハは慌てて水と食料を抱えた。
足に力を入れる。
痛みが走る。
それでも立てた。
クルムはそれを見て、何も言わなかった。
ただ、先に歩き出す。
灰をかぶった道へ。
灯が流れていった方角へ。
イロハはその後を追った。
街の奥へ進むほど、建物はさらに高く、さらに壊れていた。
道には、古い車が積み重なっている。
倒れた柱。
割れた看板。
黒く焼けた壁。
その中に、一つだけ、他の建物とは違うものがあった。
低いが、広い。
入口の前に、割れた硝子の屋根が残っている。
壁には、色あせた絵と、いくつもの文字。
そして、扉の上に、円の中へ線が伸びるような印があった。
駅でもない。
避難所でもない。
貯水場でもない。
けれど、人が何かを残すための場所のように見えた。
クルムが足を止めた。
赤い瞳が、その建物を見上げる。
「何の建物?」
イロハが聞く。
クルムは答えるまでに、少し時間を置いた。
「記録を置く場所だろう」
「記録」
イロハはその言葉を繰り返した。
名前。
声。
絵。
地図。
人間が残そうとしたもの。
それらが、ここにあるのかもしれない。
街で何が起きたのか。
人間がどこへ消えたのか。
あの灯が何なのか。
何か分かるかもしれない。
イロハは胸の奥が強く鳴るのを感じた。
怖い。
でも、知りたい。
クルムは入口へ向かった。
その歩幅は、いつもより慎重だった。
イロハも後を追う。
割れた扉の向こうに、暗い空間が広がっている。
その奥で、消えかけた小さな光が一つ、点滅していた。
まるで、まだ誰かを待っているように。
イロハは息を呑んだ。
そして、クルムの背中の向こうへ、一歩踏み出した。




