第18章 アーカイブ
第2部 旅の始まり
建物の中は、街の外よりも静かだった。
静かすぎた。
風の音も遠い。
割れた硝子を踏む音だけが、足元で小さく鳴る。
入口を抜けると、広い空間があった。
天井は高く、壁一面に棚のようなものが並んでいる。
けれど、そこに本はなかった。
薄い板。
透明な箱。
黒く焼けた機械。
細い線が絡まった、見たことのない装置。
そのほとんどは壊れていた。
倒れ、割れ、埃をかぶり、灰のような粉に埋もれている。
それでも、奥の方で小さな光が点滅していた。
消えかけては灯り、また消えかける。
まるで、眠りきれない目のようだった。
イロハは息を潜める。
「ここが、記録を置く場所?」
クルムは周囲を見た。
「その類だろう」
「本はないのに?」
「記録は紙だけではない」
イロハは壁際の壊れた機械を見る。
何をどう使うのか分からない。
けれど、避難所で声を流した小さな箱より、ずっと大きく、ずっと複雑だった。
ここには、声だけではない何かが残っているのかもしれない。
名前。
地図。
人がいた証。
街で何が起きたのか。
あの灯が何なのか。
イロハは胸の奥がざわつくのを感じた。
怖い。
でも、知りたい。
その気持ちは、もう何度も繰り返していた。
クルムは先へ進む。
足取りは慎重だった。
いつものように広い歩幅ではない。
壊れた床を確かめるように、一歩ずつ進んでいる。
イロハもその後を追った。
この距離なら、背中を見失わない。
でも、それは優しさではない。
この場所が危ないからだ。
そう思うことにした。
*
奥の壁に、四角い板がいくつも並んでいた。
その一つだけが、まだ薄く光っている。
表面には文字が流れていた。
イロハには読めない。
黒い背景に、白い文字がいくつも現れては消える。
時々、赤い線が走った。
クルムはその前で足を止めた。
「読める?」
イロハが聞く。
「少しは」
クルムは画面を見つめる。
赤い瞳に、白い文字の光が映った。
「何て書いてあるの」
クルムはすぐには答えなかった。
流れる文字を追っている。
イロハは隣に立とうとして、少し離れた位置で止まった。
画面から、ざざ、と小さな音がした。
それから、機械の奥で何かが震える。
白い文字が一瞬消え、別の文字が浮かぶ。
クルムが低く読む。
「記録転送、失敗」
イロハはその言葉を繰り返した。
「きろくてんそう」
「ここにあったものを、別の場所へ送ろうとした」
「送れなかったの」
「そうだ」
画面がまた揺れる。
次の文字。
「保全先、応答なし」
「ほぜんさき?」
「残すための場所だ」
「そこも、壊れたってこと?」
「少なくとも、返事はなかった」
返事がない。
その言葉で、避難所で聞いた声が、記憶の底から浮かびかけた。
『まだ、助けは来ます』
壊れた機械から流れた、あの古い声。
来なかった助け。
応答しなかった場所。
どこも、誰かを待っていたのだろうか。
誰かの返事を。
誰かの手を。
イロハは画面を見つめた。
文字がまた変わる。
クルムは眉をわずかに動かした。
「認証権限、不足」
「それは?」
「開けない、という意味だ」
「誰が?」
「この機械が」
イロハは光る板を見た。
機械が、開けないと決める。
人がいなくなっても。
声が消えても。
ここだけが、何かを守ろうとしている。
けれど、守っているものを誰も見られない。
それは守れていると言えるのだろうか。
最後に、赤い文字が大きく浮かんだ。
クルムが読む。
「一部記録、破損」
その瞬間、画面が激しく乱れた。
白い線が走り、黒い影がちらつく。
イロハは一歩下がった。
機械の奥で、古い音が鳴る。
低い唸り。
それから、人の声がした。
『……配給は、本日をもって……』
声は途中で途切れた。
ざざ、と雑音。
別の声。
『避難区域を変更します。案内に従って……』
また途切れる。
次に聞こえたのは、誰かの叫びだった。
『まだ中に人がいる!』
『開けてくれ!』
『子どもを先に――』
そこで、音が大きく乱れた。
映像が一瞬だけ映る。
灰色の広場。
走る人影。
倒れた標識。
閉まりかけた扉。
そして、何か黒い影。
それが人なのか、獣なのか、機械なのか、イロハには分からなかった。
映像はすぐに崩れた。
白い線が画面を裂き、声も雑音に呑まれていく。
『……記録を……』
『……残っている者は……』
『……南西区画へ……』
そこで、音は途切れた。
何が起きたのかは分からない。
誰が悪かったのかも分からない。
ただ、人々がここで何かから逃げようとしていたことだけは分かった。
*
画面が暗くなった。
イロハはしばらく動けなかった。
機械が見せた映像は、すぐに消えた。
なのに、目の奥に残っている。
走る人影。
閉じる扉。
誰かを呼ぶ声。
何かから逃げるような、慌ただしい足音。
「何が、あったの」
イロハは小さく言った。
クルムは答えなかった。
赤い瞳は、暗くなった画面を見ている。
「人間は、どこへ行ったの」
「知らん」
短い答えだった。
けれど、その声には、いつものような冷たさだけではないものが混じっていた。
イロハには、それが何なのか分からなかった。
怒りなのか。
苛立ちなのか。
それとも、思い出したくないものなのか。
画面はもう何も映していない。
それでも、イロハはそこから目を離せなかった。
この街には、人がいた。
大勢いた。
そして、何かが起きた。
でも、その先は分からない。
分からないことばかりが、また増えていく。
「行くぞ」
クルムが言った。
イロハは頷いた。
だが、足はすぐには動かなかった。
画面の奥から、まだ声が聞こえてくるような気がした。
さっきの記録に混じっていた声が、途切れたまま頭の中に残っている。
『子どもを先に――』
『開けてくれ!』
『……残っている者は……』
どれも途中で切れていた。
誰の声だったのかも分からない。
助かったのかも分からない。
それでも、その声だけが胸の中に残っていた。
*
奥の部屋へ進むと、空気がさらに冷たくなった。
そこには、丸い台がいくつも並んでいた。
台の上には、透明な板が立っている。
割れているものもある。
倒れているものもある。
けれど、一つだけ、まだ光を保っているものがあった。
イロハが近づくと、台の中で小さな音がした。
クルムが手で制する。
「触るな」
「分かってる」
イロハは手を引っ込めた。
光る板に、人影が映った。
薄い。
透けている。
本物の人ではない。
避難所の声と同じ。
残されたものだ。
そこに映ったのは、年老いた女だった。
顔は半分崩れていて、何度も揺れる。
声も途切れ途切れだった。
『この記録を見ている方へ』
イロハは息を呑んだ。
誰かに向けた声。
未来の誰かへ。
見ている誰かへ。
『都市機能は、すでに……維持できません』
映像が乱れる。
『中心区画の避難所は閉鎖。残っている方は、南西区画へ移動してください』
女の顔が歪む。
『南西区画は建物倒壊の危険が低く、屋外集合地点として指定されています』
ざざ、と音が割れた。
イロハは身を乗り出す。
「屋外集合地点……?」
映像の女は続ける。
『共同慰霊地、通称……』
声が途切れる。
映像が激しく乱れた。
『約束の庭』
女の声がかすれた。
『残っている方は、誘導灯に従って、そこへ……』
映像が途切れた。
光が何度か瞬き、消えた。
部屋は暗くなる。
イロハはしばらく、何も言えなかった。
約束の庭。
その名前だけが、耳に残った。
庭。
こんな灰の街の中で。
水もなく、食べ物もなく、人が消えた街で。
約束の庭。
「約束の庭って、何」
イロハはクルムを見る。
クルムは答えなかった。
ただ、光の消えた台を見ていた。
赤い瞳の奥に、何かが一瞬だけ沈んだように見えた。
「知ってるの」
「名前だけはな」
「どんな場所?」
「古い場所だ」
それ以上、クルムは言わなかった。
古い場所。
それだけでは何も分からない。
でも、クルムの声には、ただ知らない場所を言う時とは違う響きがあった。
イロハはそれを聞き逃せなかった。
「行くの?」
クルムはしばらく黙っていた。
やがて、光の消えた台から視線を外す。
「人間を探す手がかりにはなる」
それは答えのようで、答えではなかった。
行きたいのか。
行きたくないのか。
知っているのか。
知らないふりをしているのか。
イロハには分からない。
けれど、約束の庭という名前を聞いた時、クルムは確かに動きを止めた。
それだけは見えた。
*
部屋の奥に、古い地図があった。
壁に直接映し出されている。
ほとんどは消えていた。
線は途切れ、文字は崩れ、光も弱い。
それでも、いくつかの印が残っている。
貯水場。
避難所。
この記録施設。
そして、街の外れにある、小さな丸い印。
その横に、かすれた文字。
イロハには読めない。
でも、クルムはそこを見ていた。
「そこ?」
「おそらくな」
「遠い?」
「街の外れだ」
「じゃあ、行ける」
「行ければな」
またそれだ。
でも、イロハはもう腹を立てなかった。
歩ければ着く。
歩けなければ着かない。
それが今の世界の全部なのだ。
イロハは地図を見つめた。
約束の庭。
生存者が向かったかもしれない場所。
街の奥で見た灯とも、何か繋がっているかもしれない場所。
手がかりが、また一つ増えた。
期待するな、とクルムは言うだろう。
でも、イロハは期待してしまう。
期待しなければ、怖くて歩けない。
その時、建物のどこかで音がした。
がん。
重いものが倒れたような音。
イロハは振り返る。
クルムもすでにそちらを見ていた。
次の音は、もっと近かった。
金属が引き裂かれるような音。
ぎい、と。
そして、低い唸り。
イロハの背筋が冷えた。
「獣?」
「違う」
クルムの声が低くなる。
「機械だ」
機械。
イロハは息を呑んだ。
避難所で声を流した箱。
この建物で文字を映した板。
人の姿を残した台。
それらとは違う。
今、近づいてくる音には、はっきりとした敵意のようなものがあった。
暗い通路の向こうで、赤い光が点いた。
一つ。
また一つ。
床を這うように、いくつもの小さな光が並ぶ。
街の奥で見た灯を思い出した。
けれど違う。
これは近い。
低い。
そして、こちらを見ているようだった。
クルムがイロハの前に出る。
「下がれ」
イロハは水と食料を抱えたまま後ずさった。
通路の暗闇から、黒いものが現れた。
獣ではない。
足がいくつもある。
金属の足。
細い刃のようなものが、左右に開いている。
胴体には割れた印があり、赤い灯が点滅していた。
壊れている。
けれど、動いている。
機械はぎこちなく床を踏み、こちらへ向かってきた。
古い声が、割れた音で流れる。
『侵入者を確認』
イロハの喉が凍る。
『退去してください』
機械の刃が開いた。
『退去してください』
次の瞬間、機械が跳ねた。
*
クルムが動いた。
赤い瞳が残像のように揺れる。
機械の刃が振り下ろされる前に、クルムの手がその胴体を掴んだ。
金属が潰れる音。
機械の足が暴れる。
床を削る。
火花が散った。
イロハは壁際に身を寄せる。
水の容器を抱えた手が震えた。
機械は一体ではなかった。
奥からさらに二つ、赤い灯が現れる。
ぎこちない動き。
しかし速い。
それらは迷いなく、クルムへ向かってきた。
いや、イロハへも向かっている。
「伏せろ!」
クルムの声が飛んだ。
イロハは床に伏せた。
頭上を何かが通る。
風が切れる音。
壁に刃が突き刺さった。
石の粉が降る。
イロハは息を止める。
クルムが一体目を壁へ叩きつけた。
機械が砕ける。
赤い灯が消える。
すぐに二体目が迫る。
クルムは避けた。
けれど、その動きがわずかに遅れた。
刃がクルムの腕を掠める。
黒い服が裂け、白い肌に赤い線が走った。
イロハは息を呑んだ。
血。
クルムの血。
赤い血が、腕を伝って落ちる。
一滴。
床に落ちた。
クルムの眉が、わずかに動いた。
痛いのだろうか。
そう思った瞬間、クルムの赤い瞳がこちらを向いた。
「見るな!」
イロハははっとする。
三体目の機械が、床を滑るように近づいていた。
狙いはイロハだった。
逃げようとして、足首が痛んだ。
身体が傾く。
刃が迫る。
クルムが間に入った。
金属の刃を素手で掴む。
血が散った。
イロハの頬に、温かいものが一滴かかる。
クルムはそのまま機械を引き寄せ、床へ叩きつけた。
大きな音。
赤い灯が割れる。
機械は動かなくなった。
静寂が戻る。
ただ、壊れた機械の中で、火花が小さく弾けていた。
クルムはしばらく動かなかった。
肩が、わずかに上下している。
腕から血が落ちる。
一滴。
また一滴。
床に赤い点が増えた。
イロハは膝をついたまま見ていた。
「怪我」
「黙れ」
「痛いの」
「黙れと言った」
クルムは腕を振る。
血が床に散った。
傷を隠すように、裂けた袖を握る。
イロハはそれ以上、何も言えなかった。
怖かった。
クルムが血を流していることが。
それを自分が見てしまったことが。
そして、血を流しているのに、自分の前に立ったことが。
クルムは壊れた機械を一瞥した。
「出るぞ」
声はいつも通り冷たい。
けれど、息が少し荒い。
「また来る?」
「来る前に出る」
イロハは水と食料を抱え直した。
立ち上がる。
足が震えていた。
クルムは先に歩き出す。
歩幅は広くない。
慎重というより、少しだけ重い。
イロハはその背中を追った。
さっきまでより、距離が近かった。
それなのに、遠く感じた。
*
記録施設を出ると、朝の光が街の灰を薄く照らしていた。
夜明けの空は白く濁っている。
高い建物の影が、地面に長く落ちていた。
クルムは入口の前で立ち止まった。
イロハもその横に出る。
並んだわけではない。
少し後ろ。
いつもの距離。
けれど、今はクルムの腕の傷が見える。
袖の裂け目。
乾きかけた血。
傷を隠すように握られた手。
イロハは目を逸らした。
見てはいけない気がした。
でも、見ないふりもできなかった。
「約束の庭」
イロハは小さく言った。
「そこへ行くの」
クルムは街の外れを見る。
灰色の建物の向こう。
地図にあった、小さな丸い印の方角。
「人間が向かったなら、痕跡はある」
「人がいると思う?」
クルムは答えなかった。
期待するな。
そう言われると思った。
けれど、クルムは何も言わない。
ただ、街の外れを見ている。
その沈黙が、かえってイロハを落ち着かなくさせた。
「さっきの灯も、そこに関係あるのかな」
「分からん」
「分からないことばっかり」
「なら、確かめるしかない」
その言葉は、イロハが言いそうな言葉だった。
だから少し驚いた。
クルムはもう歩き出していた。
イロハはその後を追う。
街の外れへ向かう道は、灰に覆われていた。
途中、何度かクルムが足を止めた。
獣の気配を探っているのか。
機械の音を聞いているのか。
それとも、傷が痛むのか。
イロハには分からない。
けれど、歩幅は以前ほど広くなかった。
イロハが追える速さだった。
優しさではない。
きっと、傷のせいだ。
そう思った。
そう思うしかなかった。
しばらく進むと、街の奥から低い唸りが聞こえた。
獣だ。
一つではない。
いくつも。
建物の影の中で、何かが動いている。
イロハは水の容器を抱きしめた。
クルムは立ち止まらない。
「急ぐぞ」
声は低い。
イロハは頷いた。
街の中に、獣の気配が集まり始めている。
記録施設の音に引かれたのかもしれない。
血の匂いに寄ってきたのかもしれない。
クルムの血。
その考えが浮かび、イロハは息を詰めた。
前を歩くクルムの背中を見る。
銀白の髪が朝の光に揺れている。
その背中は、まだ遠い。
けれど、今はその遠さが少しだけ違って見えた。
置いていかれたくない。
それだけではない。
倒れてほしくない。
そんな言葉が胸に浮かび、イロハは慌てて打ち消した。
違う。
そんなことを思うのは早すぎる。
この人は怖い。
吸血鬼だ。
村を燃やした。
自分を食料だと言った。
それでも。
イロハは傷のある腕を思い出してしまう。
自分の前に立った背中を。
壊れた機械の刃を掴んだ手を。
イロハは唇を噛み、痛む足を前へ出した。
約束の庭は、街の外れにある。
そこに何が残っているのかは分からない。
生きている人がいるのかも分からない。
あの灯の正体も、まだ分からない。
それでも、確かめるしかない。
二人は灰の街を進んだ。
背後で、獣の唸り声が少しずつ近づいていた。




