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終わりの名を持つ君へ  作者: そらいろは
第2部 旅の始まり

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第19章 獣の夜

第2部 旅の始まり

 灰の街は、朝の光の中でも暗かった。


 高い建物が影を落としている。


 崩れた壁。

 割れた窓。

 折れた柱。

 灰をかぶった道。


 どこを見ても、人のいた形だけが残っていた。


 けれど、人はいない。


 代わりに、奥の方から低い唸り声が聞こえる。


 一つではない。


 遠くで応えるように、別の声がした。


 イロハは水の容器を抱え直した。


 布で包んだ食料が、肩に食い込む。


 足首はまだ痛い。


 それでも、止まれなかった。


 約束の庭。


 その名前だけが、頭の中に残っている。


 街の外れにある、屋外集合地点。


 生き残った人が向かったかもしれない場所。


 記録の中で、途切れかけた声がそう言っていた。


『残っている方は、そこへ……』


 その言葉と、街の奥で見た灯の列が重なる。


 あの灯も、そこへ向かっているのだろうか。


 それとも、まったく別のものなのだろうか。


 分からない。


 分からないから、確かめるしかない。


 クルムは前を歩いていた。


 いつもより速くはない。


 けれど、遅くもない。


 傷を負った腕は、裂けた袖の中に隠れている。


 見えない。


 見えないのに、イロハはそこばかり気になった。


 血を流していた。


 クルムが。


 自分の前に立って。


 機械の刃を掴んで。


 イロハは視線を落とす。


 考えるな。


 そう思った。


 あの人は吸血鬼だ。


 怖い。


 冷たい。


 村を燃やした。


 自分を食料だと言った。


 それなのに、傷のある腕を思い出すたび、胸の奥が落ち着かなくなる。


「遅れるな」


 クルムの声がした。


 イロハは顔を上げる。


 いつの間にか、数歩離れていた。


「遅れてない」


「遅れている」


「足が痛いの」


「なら、もっと早く治せ」


「できるわけないでしょ」


 言い返すと、クルムはもう前を向いていた。


 けれど、歩幅はそれ以上広がらなかった。


 イロハは唇を結ぶ。


 優しさではない。


 きっと、獣の気配を警戒しているだけ。


 そう思いながら、クルムの背中を追った。


     *


 街の外れへ向かう道は、途中で崩れていた。


 大きな建物が斜めに倒れ、道を塞いでいる。


 その下に、人が一人通れるほどの隙間があった。


 クルムは先に屈んで入る。


 イロハも水を抱えたまま、その後に続いた。


 中は狭い。


 埃っぽい。


 割れた石と金属が突き出していて、服の袖が引っかかった。


 奥から、獣の声が聞こえる。


 さっきより近い。


 イロハの背中に冷たい汗が滲んだ。


「急げ」


「分かってる」


 分かっている。


 でも、足がうまく動かない。


 水の容器が壁に当たり、鈍い音を立てた。


 その瞬間、外の唸りが止まった。


 イロハも止まる。


 静かになったことが、余計に怖かった。


「今の」


「動くな」


 クルムの声が低い。


 イロハは息を止める。


 隙間の向こう。


 崩れた壁の外。


 何かが歩く音がした。


 重い。


 ゆっくり。


 爪が石を擦る音。


 かり。


 かり。


 鼻を鳴らすような音も聞こえた。


 匂いを探している。


 イロハは水の容器を胸に抱いたまま、動けなかった。


 クルムは前方の隙間を見ている。


 赤い瞳が、暗がりの中で細く光った。


 やがて、足音が遠ざかる。


 イロハは息を吐きそうになった。


 その前に、クルムが言った。


「まだだ」


 次の瞬間、反対側で壁が揺れた。


 どん、と。


 何かが外からぶつかった。


 イロハは声を上げそうになる。


 クルムが振り返り、唇の前に指を立てた。


 静かにしろ。


 その仕草だけで、イロハは口を閉じた。


 もう一度、衝撃。


 崩れた建物の上から、細かい砂が落ちてくる。


 獣は一匹ではない。


 前にも。


 後ろにも。


 いる。


 クルムはイロハの水の容器を見る。


「置け」


「嫌」


「置け」


「これは持っていく」


「死んだら意味がない」


「それでも」


 言いかけた時、天井の一部が崩れた。


 石の欠片が落ちてくる。


 イロハは身を縮めた。


 クルムが腕を伸ばし、イロハの頭上の大きな欠片を弾いた。


 鈍い音。


 クルムの腕が壁に当たる。


 イロハはその腕を見た。


 裂けた袖。


 そこに残る、乾いた血の跡。


 その上に、新しい擦り傷が増えている。


「見るなと言った」


 クルムが低く言う。


 イロハは慌てて目を逸らした。


「行くぞ」


 クルムは先へ進んだ。


 イロハも続く。


 隙間を抜けた先には、細い路地があった。


 灰が積もり、壁が左右から迫っている。


 逃げ場が少ない。


 空は細くしか見えない。


 クルムはそこで初めて足を止めた。


 イロハも止まる。


「走れるか」


「たぶん」


「たぶんでは困る」


「走る」


 イロハは答えた。


 クルムは一瞬だけこちらを見た。


 それから、路地の奥へ視線を向ける。


「合図したら走れ」


「どっちへ」


「あの壁が崩れている場所だ」


 クルムが示した先に、低く崩れた壁があった。


 その向こうに、開けた場所が見える。


 広場のようだった。


「あそこを越えれば、街の外れに出る」


「あなたは」


「振り返るな」


 嫌な言葉だった。


 イロハはすぐに首を振った。


「それは嫌」


「命令だ」


「嫌」


 クルムの赤い瞳が細くなる。


 その時、背後で獣が唸った。


 今度は近い。


 路地の入口に、黒い影が現れた。


     *


 獣は、狼に似ていた。


 けれど、狼よりずっと大きい。


 背中はイロハの胸ほどもあり、体は歪に痩せている。


 黒い毛はところどころ抜け、灰が絡みついていた。


 目は白く濁っている。


 口の端から、粘った唾液が垂れていた。


 骨のように尖った足。


 長すぎる爪。


 その爪が、石の道をかり、と削った。


 もう一匹。


 その後ろから、別の影が出てくる。


 さらに奥に、もう一つ。


 イロハの喉が乾いた。


 水はあるのに。


 飲める水を抱えているのに。


 喉が乾いて仕方なかった。


 クルムが一歩前に出る。


 イロハを背に庇う形になった。


 その背中を見る。


 銀白の髪。


 黒い服。


 血の乾いた袖。


 イロハは胸が詰まる。


「走れ」


 クルムが言った。


 獣が低く唸る。


「でも」


「走れ」


 冷たい声。


 命令。


 でも、その声はいつもより少し荒かった。


 クルムが動いた。


 一匹目が飛びかかるより早く、クルムの手がその喉元を掴む。


 獣の体が壁へ叩きつけられた。


 骨の折れる音がした。


 イロハは息を呑む。


 だが、二匹目がすぐに横から飛び込んだ。


 クルムは避ける。


 避けきれなかった。


 獣の爪が、クルムの肩を掠める。


 黒い布が裂ける。


 血が散る。


 イロハの足が止まった。


「振り返るな!」


 クルムの声が飛ぶ。


 イロハは走った。


 水の容器を抱え、食料を胸に押しつけ、痛む足で路地を駆ける。


 足首に激痛が走る。


 それでも走る。


 後ろで、獣の唸り声。


 壁に何かがぶつかる音。


 クルムの低い息。


 振り返るな。


 振り返るな。


 そう言われても、背中が勝手に振り返ろうとする。


 崩れた壁は近い。


 あそこを越えれば。


 そう思った瞬間、前方の瓦礫の影から、別の獣が現れた。


 イロハは足を止めた。


 目の前。


 近すぎる。


 獣は低く身を沈めていた。


 最初からそこにいたのだ。


 待っていた。


 イロハを。


 獣の白い目が、イロハを見た。


 次に、水の容器を見る。


 そして、イロハの手を見る。


 手の甲には、貯水場や避難所でついた細かな傷が残っていた。


 乾ききっていない傷もある。


 獣の鼻が動く。


 血の匂い。


 イロハは一歩下がった。


 背中の方で、クルムが何かを叫んだ気がした。


 でも、声は獣の唸りにかき消された。


 イロハは周囲を見る。


 右は壁。


 左は崩れた瓦礫。


 後ろにはクルムと獣。


 前にも獣。


 逃げ場はない。


 手の中には水。


 肩には食料。


 腰には、線路跡で拾った錆びた金属片。


 捨てろと言われたもの。


 イロハはそれを思い出した。


 水の容器を足元に置く。


 包みを胸から離す。


 手が震える。


 腰の布に差していた金属片を抜いた。


 獣が唸る。


 金属片は小さい。


 武器と呼べるようなものではない。


 それでも、何もないよりはいい。


 イロハは両手で握った。


「来ないで」


 声は震えていた。


 獣は止まらない。


 ゆっくり近づいてくる。


「来ないで!」


 叫んだ瞬間、獣が跳んだ。


     *


 イロハは横へ転がった。


 獣の爪が、さっきまで頭のあった場所を裂く。


 石が弾けた。


 水の容器が倒れ、布の中で鈍い音を立てる。


 イロハは金属片を握ったまま、瓦礫に背中を打った。


 息が詰まる。


 獣が振り返る。


 速い。


 次は避けられない。


 イロハは金属片を構えた。


 構えたというより、ただ前に突き出しただけだった。


 獣が低く唸り、再び飛ぶ。


 その瞬間、銀白の影が横から割り込んだ。


 クルムだった。


 獣の爪が、クルムの背に食い込む。


 鈍い音。


 血が散った。


 イロハの目の前で。


 クルムは獣を掴み、地面へ叩き伏せる。


 しかし、いつものようには潰れなかった。


 獣は暴れる。


 クルムの腕に噛みつく。


 クルムの顔がわずかに歪む。


 イロハは動けなかった。


 クルムが血を流している。


 たくさん。


 機械の時よりも。


 それなのに、獣はまだ動いている。


 クルムの動きが重い。


 いつもなら、きっと一瞬だった。


 村で外の者たちを殺した時のように。


 封印から出た時のように。


 何もかもを壊す災厄のように。


 でも、今のクルムは違った。


 息が荒い。


 腕に力が入っているのが分かる。


 獣を押さえ込んでいるのに、余裕がない。


 別の獣が背後から迫る。


「クルム!」


 イロハは叫んだ。


 クルムは振り返らない。


 獣を押さえたまま、片足で後ろの獣を蹴り飛ばす。


 壁に叩きつけられた獣が吠えた。


 けれど、倒れない。


 また立ち上がる。


 増えている。


 路地の奥から、さらに唸り声が近づいてくる。


 血の匂いに集まっている。


 クルムの血に。


 イロハは震えた。


「逃げて」


 思わず言った。


 クルムが一瞬だけこちらを見た。


 赤い瞳が、怒ったように光る。


「誰に言っている」


「だって」


「黙っていろ」


 クルムは獣の首を折った。


 ようやく一匹が動かなくなる。


 でも、クルム自身も膝をつきかけた。


 すぐに立て直す。


 そのわずかな揺れを、イロハは見た。


 見てしまった。


 怖い。


 この人が倒れたら。


 その先を考えたくなかった。


 クルムが倒れたら、自分は死ぬ。


 それは分かりやすい。


 でも、それだけではなかった。


 クルムが倒れるところを見たくない。


 その気持ちが、もっと怖かった。


 イロハは手元を見る。


 金属片を握った掌が切れていた。


 いつ切ったのか分からない。


 血が滲んでいる。


 赤い。


 小さな傷。


 人間の血。


 クルムが必要としているもの。


 避難所での会話が蘇る。


「腹は満たせる」


「それだけだ」


 普通の食事では足りない。


 水でもない。


 食べ物でもない。


 クルムが必要なのは。


 血。


 イロハは息を呑んだ。


 嫌だ。


 怖い。


 血を飲まれるなんて。


 食料だと言われたことを思い出す。


 当面の食料。


 この男はそう言った。


 自分はそう扱われている。


 だから、差し出すなんておかしい。


 でも。


 今は違う。


 奪われるのではない。


 自分で決めるのなら。


 イロハは立ち上がった。


 足が震える。


 クルムがまた獣を弾き飛ばす。


 その腕から血が落ちる。


 一滴。


 また一滴。


 獣がそれに反応する。


 鼻を鳴らし、唸りを深くする。


 このままでは、もっと集まる。


 クルムは強い。


 でも、今は傷ついている。


 空腹を隠している。


 血が足りない。


 イロハは金属片を握り直した。


 掌の傷が広がる。


 痛い。


 けれど、血が出た。


「クルム」


 呼ぶ。


 クルムは振り返らない。


「クルム!」


 今度は振り返った。


 苛立った赤い瞳。


「何だ」


 イロハは一歩近づいた。


 獣の死骸と血の匂い。


 灰。


 錆。


 自分の血の匂い。


 全部が混ざっている。


 イロハは震える手を差し出した。


「これ」


 クルムの目が、手の血に止まった。


 空気が変わった。


 一瞬だけ、赤い瞳の奥に別の光が宿る。


 飢え。


 そう思った。


 イロハは怖くなった。


 手を引きそうになった。


 けれど、引かなかった。


「飲んで」


 自分の声ではないみたいだった。


 クルムの表情が変わる。


 怒りに近いもの。


「やめろ」


「でも」


「やめろ」


 低い声だった。


 命令ではなく、拒絶に聞こえた。


 イロハは唇を噛む。


「あなた、弱ってる」


「黙れ」


「このままだと」


「黙れと言った」


 獣がまた動いた。


 遠くで唸り声が増えている。


 時間がない。


 イロハは手を引かなかった。


「後悔するぞ」


 クルムが言った。


 その声は、今までで一番低かった。


 怖い声だった。


 でも、どこかで、止めようとしている声にも聞こえた。


 イロハは震えながら首を振る。


「食料にされるのは嫌」


 クルムの目が細くなる。


「でも、これは違う」


 イロハは自分の傷ついた掌を見る。


「これは、私が決める」


 クルムは動かなかった。


 獣の唸り声が近づく。


 クルムの血が床に落ちる。


 イロハの血も、掌から落ちる。


 赤い点が、灰の上に二つ並んだ。


「飲んで」


 イロハはもう一度言った。


「死なないで」


 その言葉が出た瞬間、自分でも息を呑んだ。


 言うつもりはなかった。


 でも、もう戻せなかった。


 クルムはイロハを見ていた。


 赤い瞳が、ひどく静かになる。


 やがて、クルムはイロハの手首を掴んだ。


 強い。


 でも、さっき水から引き上げた時ほど乱暴ではなかった。


「目を逸らすな」


 クルムが言った。


「自分で選ぶなら、見ていろ」


 イロハは頷いた。


 怖い。


 足が震える。


 喉が乾く。


 でも、目を逸らさなかった。


 クルムが、傷ついた掌に口を寄せる。


     *


 痛みは、思っていたより鋭くなかった。


 けれど、怖かった。


 血が吸われる感覚。


 身体の奥から、何かが少しずつ抜けていくような感覚。


 イロハは息を止めそうになった。


「息をしろ」


 クルムの声が近い。


 イロハは震える息を吸った。


 クルムはほんの少しだけ飲んだ。


 そう感じた。


 獣のように貪るのではない。


 奪うのではない。


 押さえつけるのでもない。


 それでも、赤い瞳の奥にある飢えは消えていなかった。


 消えていないのに、抑えている。


 それが分かった。


 怖かった。


 でも、ただ怖いだけではなかった。


 クルムの手が、イロハの手首を支えている。


 逃がさないためではない。


 倒れないようにしているように感じた。


 イロハは目を逸らさなかった。


 クルムが口を離す。


 掌に残った血を見て、イロハは少しふらついた。


 すぐにクルムの手が肩を掴む。


「もういい」


「足りるの」


「黙れ」


「足りないんじゃ」


「十分だ」


 十分なはずがない。


 でも、クルムはそれ以上飲まなかった。


 イロハの手を離し、自分の口元を拭う。


 その動きは、さっきまでより速かった。


 赤い瞳の光が、わずかに強くなる。


 背筋が伸びる。


 空気が変わった。


 イロハはその変化を肌で感じた。


 怖いほど静かだった。


 獣たちが唸りを止める。


 一瞬だけ。


 まるで、何か別の獣が目を覚ましたことに気づいたように。


 クルムが前へ出た。


「そこで動くな」


 イロハは頷く。


 クルムは振り返らなかった。


 次の瞬間、姿が消えた。


 そう見えた。


 獣の首が一つ、音もなく折れる。


 別の獣が壁へ叩きつけられる。


 灰が舞う。


 唸り声が悲鳴に変わる。


 クルムの動きは、さっきとは違っていた。


 速い。


 迷いがない。


 けれど、無駄に壊しているわけではない。


 イロハの近くへ獣を寄せないように、進路を塞ぎ、押し返し、必要なものだけを倒していく。


 それが分かった。


 クルムはまだ完全ではない。


 傷はある。


 血も流している。


 それでも、さっきまでとは違う。


 イロハの血が、クルムを動かしている。


 その事実に、イロハはぞっとした。


 同時に、胸の奥が熱くなった。


 自分が選んだ。


 自分の血で。


 クルムは最後の一匹を地面へ叩き伏せた。


 獣は短く鳴き、動かなくなった。


 周囲に、静けさが戻る。


 遠くの唸り声はまだある。


 だが、近くの獣は退いた。


 クルムはしばらく動かなかった。


 息は荒い。


 肩も上下している。


 けれど、倒れなかった。


 イロハはその背中を見ていた。


 水の容器は倒れていたが、割れてはいない。


 食料も灰をかぶっただけで残っている。


 生きている。


 自分も。


 クルムも。


 そのことが、今は不思議だった。


     *


 路地の奥に、夜が落ちた。


 戦っている間に、空はすっかり暗くなっていた。


 街の影が濃くなり、建物の窓は黒い穴のように並んでいる。


 クルムはイロハの掌を見た。


 血はまだ滲んでいる。


「布を巻け」


 イロハはぼんやりと手を見る。


 クルムが舌打ちした。


 落ちていた布を拾い、汚れていない部分を裂く。


 それをイロハに投げた。


「自分で巻け」


「巻いてくれないの」


 言ってから、自分で驚いた。


 そんなことを言うつもりはなかった。


 クルムも一瞬、動きを止めた。


 それから、冷たく言う。


「甘えるな」


「分かってる」


 イロハは布を受け取り、自分の掌に巻いた。


 うまく巻けない。


 片手では難しい。


 布が緩む。


 血が滲む。


 クルムはそれを見ていた。


 しばらくして、無言で近づく。


 イロハの手を取った。


「え」


「下手だ」


 短く言って、布を巻き直す。


 手つきは優しくない。


 きつい。


 痛い。


 でも、血は止まりそうだった。


 イロハはクルムの顔を見上げた。


 近い。


 さっき血を飲まれた時より、今の方がなぜか落ち着かなかった。


 クルムは目を合わせない。


 布を結び終えると、すぐに手を離した。


「次はない」


 低い声だった。


「え」


「次に同じことをすれば、止める」


「でも」


「今のは必要だった」


 イロハは黙る。


「だからと言って、許したわけではない」


「何を」


「自分を差し出すことをだ」


 その言葉は、責めているようだった。


 怒っているようでもあった。


 イロハは包帯代わりの布を見つめる。


「差し出したんじゃない」


 小さく言った。


「選んだの」


 クルムは答えない。


「食料じゃなくて」


 声が震えた。


「私が、決めたの」


 クルムの赤い瞳が、ようやくイロハを見た。


 長い沈黙。


 遠くで獣が鳴く。


 近くの灰が、風に流れる。


「愚かだ」


 クルムは言った。


「知ってる」


「知らない」


「知ってる」


「なら、なぜやった」


 イロハは答えようとして、できなかった。


 死んでほしくなかった。


 そう言うのは怖かった。


 その言葉は、さっきもう出てしまった。


 もう一度言えば、自分でも認めてしまう気がした。


 だから、別の言葉を探す。


「置いていかれたら困るから」


 言った瞬間、クルムの眉がわずかに動いた。


 イロハは続ける。


「あなたが倒れたら、私は死ぬ。だから」


「それだけか」


 問われて、イロハは黙った。


 それだけ。


 そう言えばいい。


 それだけだと言えば、楽だった。


 でも、喉が動かなかった。


 クルムはそれ以上聞かなかった。


 背を向ける。


「ここで夜を越す」


「約束の庭は?」


「暗い中で獣の巣を抜ける気か」


 イロハは言い返そうとした。


 けれど、足の痛みと、遠くの唸り声を思い出して、口を閉じた。


「……分かった」


「なら黙って座れ」


 イロハは小さく頷いた。


 壊れた壁の陰に身を寄せる。


 水の容器を抱き直す。


 食料も拾う。


 掌が痛い。


 でも、その痛みは、さっきまでの足の痛みとは違っていた。


 自分で選んだ痛み。


 そう思った。


     *


 夜は長かった。


 獣の声は遠くで何度も聞こえた。


 近づいては離れ、また別の方向から響く。


 クルムは眠らなかった。


 壁にもたれ、街の奥を見ている。


 イロハはその少し後ろで膝を抱えていた。


 いつもなら、もっと離れていた。


 怖くて。


 近づきたくなくて。


 でも今夜は、離れすぎるのも怖かった。


 自分の血を飲んだ吸血鬼。


 それは、考えれば考えるほど恐ろしい。


 なのに、その吸血鬼が倒れないか気になっている。


 それがもっと恐ろしい。


 クルムは何も言わない。


 イロハも何も言わなかった。


 沈黙の中で、手の痛みだけがある。


 布の下で、血が脈打っているようだった。


 ふと、クルムが言った。


「なぜ目を逸らさなかった」


 イロハは顔を上げる。


「え」


「血を与える時だ」


 イロハは布を巻いた手を握る。


「逸らしたら、奪われたみたいになる気がした」


 自分で言って、少し驚いた。


 でも、それは本当だった。


「見ていれば、自分で選んだって分かるから」


 クルムは黙る。


 イロハは続けた。


「怖かったけど」


「怖くない方がおかしい」


「あなたが言うの」


「恐れを知らない人間は、すぐ死ぬ」


「じゃあ、私はまだ死なない?」


「さあな」


 いつもの答え。


 でも、ほんの少しだけ声が低くなかった。


 イロハは膝に顔を埋めそうになって、やめた。


 眠れそうにはない。


 でも、少しだけ息がしやすくなった。


 クルムは街の奥を見ている。


 その横顔に、疲れが残っている。


 さっき血を飲んでも、全部が戻ったわけではないのだろう。


 イロハはそれを言わなかった。


 言えばまた、黙れと言われる。


 だから、ただ見ていた。


 見ていることに気づいたのか、クルムが横目で睨む。


「見るな」


「見てない」


「嘘が下手だ」


「知ってる」


 イロハがそう返すと、クルムはわずかに眉を寄せた。


 それが怒りなのか、呆れなのかは分からなかった。


 分からないまま、夜は過ぎていった。


     *


 夜明け前、獣の声が遠のいた。


 街の空が、灰色から薄い白へ変わっていく。


 イロハは浅い眠りから目を覚ました。


 いつ眠ったのか分からない。


 身体が重い。


 足も痛い。


 掌も痛い。


 それでも、生きていた。


 クルムはもう立っていた。


 銀白の髪が、朝の光に淡く光っている。


 傷は服に隠れて見えない。


 血の匂いも、夜より薄くなっていた。


「行くぞ」


 クルムが言う。


 いつもの声。


 冷たい声。


 でも、イロハはすぐには立たなかった。


「クルム」


 呼ぶと、クルムが振り返る。


 その名前を口にすることに、もう昨日ほどの違和感はなかった。


 近すぎる名前。


 怖かった名前。


 でも、今は呼ばなければいけない名前。


「昨日のこと」


「忘れろ」


「無理」


「なら黙っていろ」


「うん」


 イロハは頷いた。


 それ以上、何を言えばいいのか分からなかった。


 ありがとうではない。


 ごめんでもない。


 助けたのは、クルムだ。


 血を与えたのは、イロハだ。


 どちらか一つの言葉では足りない。


 イロハは水の容器を持ち、食料を抱え、立ち上がった。


 足に痛みが走る。


 少しふらつく。


 その時、クルムが一歩だけ近づいた。


 手を出すわけではない。


 支えるわけでもない。


 ただ、倒れたら届く距離に立った。


 イロハはそれに気づいた。


 気づいて、何も言わなかった。


 クルムも何も言わない。


 やがて、彼は前を向いて歩き出した。


 歩幅は広い。


 でも、イロハが追えないほどではない。


 何度か、痛む足で遅れかけた。


 そのたびに、クルムの歩みがわずかに緩む。


 振り返りはしない。


 声もかけない。


 それでも、置いていかれない。


 イロハはその背中を見つめた。


 昨日までとは違う。


 何が違うのかは分からない。


 分からないまま、足を前へ出す。


 灰の街の外れへ。


 約束の庭へ。


 人が残したかもしれない場所へ。


 二人の間にある距離は、まだ近くない。


 けれど、昨日より少しだけ、歩きやすかった。


 朝の灰が、静かに舞っていた。

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