第20章 約束の庭
第2部 旅の始まり
街の外れへ向かう道は、灰に埋もれていた。
朝の光は薄い。
高い建物の影が遠ざかるにつれて、空は少しずつ広くなっていく。
けれど、明るくなった気はしなかった。
灰が舞っている。
細かく、白く、音もなく。
イロハの髪にも、服にも、水を包んだ布にも、静かに降り積もった。
クルムは前を歩いていた。
いつも通り、振り返らない。
だが、歩幅は昨日までと少し違った。
広い。
イロハとは合わない。
それでも、追えないほどではない。
痛む足で遅れかけると、クルムの歩みがほんのわずかに緩む。
止まるわけではない。
待つわけでもない。
ただ、距離が開きすぎる前に、少しだけ速度が落ちる。
イロハはそれに気づいていた。
気づいても、何も言わなかった。
言えば、たぶん消える。
そんな気がした。
昨日、自分は血を与えた。
クルムはそれを飲んだ。
その事実は、手の痛みと一緒に残っている。
布を巻かれた掌が、歩くたびにじんと痛む。
自分で選んだ痛み。
そう思うと、怖くなる。
けれど、その怖さは、ただ逃げたいだけの怖さではなかった。
クルムの背中を見る。
銀白の髪が、灰の朝に揺れている。
血を飲んだ後でも、完全に元に戻ったようには見えなかった。
でも、倒れてはいない。
歩いている。
それだけで、イロハは少しだけ息がしやすかった。
「手は」
突然、クルムが言った。
前を向いたまま。
イロハは一瞬、何を聞かれたのか分からなかった。
「手?」
「痛むか」
イロハは布を巻いた掌を見た。
痛い。
まだ熱を持っている。
でも、そう言うのは何となく悔しかった。
「少し」
「なら使うな」
「使うなって言われても、手は使うでしょ」
「余計なことに使うな」
「余計なことって?」
クルムは答えなかった。
イロハは少しだけ目を細める。
余計なこと。
それは、また血を差し出すなという意味だろうか。
それとも、何かを拾うな、触るな、開けるなという意味だろうか。
たぶん、全部だ。
イロハは布の上から掌を握った。
「分かった」
素直に答えると、クルムが一瞬だけ足を止めた。
振り返りはしない。
すぐにまた歩き出す。
「嘘が下手だ」
「今のは本当」
「そういう顔をしていない」
「顔なんて見てないでしょ」
「見なくても分かる」
イロハは返す言葉に詰まった。
それは少しずるい。
そう思った。
昨日までなら、そんな会話はなかった。
クルムはただ先を歩き、イロハはただ追いかけていた。
今も大きくは変わらない。
それでも、何かが少しだけ変わっている。
それがいいことなのか、悪いことなのかは分からなかった。
*
街の外れに出ると、景色が変わった。
高い建物は少なくなり、代わりに低い壁が続いていた。
崩れた塀。
折れた門柱。
地面に沈んだ石の道。
その奥に、広い空間が見えた。
草はほとんどない。
土は灰をかぶり、ところどころに石が突き出している。
最初は、ただの荒れ地に見えた。
だが、近づくにつれて分かった。
石は偶然に並んでいるのではない。
誰かが立てたものだ。
人の手で置かれたもの。
倒れているものもある。
割れているものもある。
半分土に埋もれているものもある。
それでも、そこには形があった。
死者のための場所。
イロハは足を止めた。
「ここが」
声が小さくなる。
「約束の庭?」
クルムは答えなかった。
ただ、門柱の前で立ち止まった。
門はもうない。
扉もない。
けれど、そこが入口だったことだけは分かった。
左右に残った石柱には、かすれた文字が刻まれている。
イロハには読めない。
文字の上には、蔓のような模様が彫られていた。
花にも見える。
血管にも見える。
手を伸ばせば触れられる距離だった。
でも、イロハは触れなかった。
ここは、勝手に触れてはいけない場所のように思えた。
「庭っていうから、もっと花があるのかと思った」
イロハは呟く。
「庭は、花のためだけにあるわけではない」
クルムが言った。
その声は低い。
いつもより、少し遠い。
「じゃあ、何のため」
「約束を置くためだ」
イロハはクルムを見た。
クルムはもう中へ歩き出していた。
イロハも後を追う。
門を越えた瞬間、街の音が遠くなった気がした。
風はある。
灰も舞っている。
遠くで獣の声もかすかに聞こえる。
それでも、ここだけは少し違った。
誰かが眠っている場所。
誰かが忘れないために作った場所。
そう思った。
*
石は、いくつも並んでいた。
墓だ。
イロハにも、それは分かった。
村にも墓はあった。
土を盛り、石を置き、簡単な印を刻む。
死んだ人の名前を、村の者が覚えておくための場所。
けれど、ここの墓は村のものとは違っていた。
形が一つではない。
細長い石。
低く丸い石。
板のように平たい石。
柱のように立つ石。
刻まれているものも違う。
数字のようなものが並ぶ墓。
花や鳥のような模様だけがある墓。
名前らしい文字が二つ刻まれている墓。
同じ場所に並んでいるのに、別々の決まりで作られたようだった。
イロハは一つの墓の前で立ち止まった。
そこには、読めない文字の下に、長い数字が刻まれていた。
日付だろうか。
村では、誰かが死んだ日を石に刻むことはあまりなかった。
覚えている者がいれば、それでよかったからだ。
でも、ここでは石に残している。
忘れないために。
忘れられても分かるように。
「これは、人間の墓?」
イロハが聞く。
クルムは少しだけ見る。
「おそらくな」
「じゃあ、こっちは?」
隣の石を指す。
そこには数字がない。
代わりに、円と線が絡むような模様が刻まれていた。
名前のような文字もあるが、人間の墓とは形が違う。
石の上には、小さな窪みがあった。
何かを置くための場所のように見える。
クルムはその石を見た。
ほんの少し、表情が変わった気がした。
「吸血鬼の墓だ」
イロハは息を呑む。
「吸血鬼にも、墓があるの」
「ある」
「死ぬの?」
聞いてから、自分でも乱暴な問いだと思った。
クルムは怒らなかった。
「死ぬ者もいる」
「でも、あなたは」
「私は残った」
短い答えだった。
それ以上聞くなという声。
イロハは口を閉じた。
吸血鬼の墓。
人間の墓。
それが同じ場所にある。
イロハは周囲を見回した。
別々の区画に分かれているわけではない。
人間の墓の隣に、吸血鬼の墓がある。
吸血鬼の墓の隣に、人間の墓がある。
荒れ果ててはいる。
倒れ、欠け、文字も薄れている。
それでも、混ざっている。
敵同士を、こんなふうには並べない気がした。
イロハは小さく言った。
「一緒に眠ってる」
クルムは答えない。
答えないまま、奥へ歩く。
イロハはその背中を追った。
*
庭の中央に近づくほど、墓は増えた。
倒れたものも多い。
中には、二つの墓が寄り添うように置かれている場所もあった。
同じ台座の上に、二つの石。
一つには日付らしい数字。
もう一つには、模様。
その間には、割れた小さな器が置かれていた。
花を入れていたのだろうか。
水を入れていたのだろうか。
イロハは屈み込んだ。
器の中は空だった。
灰だけが溜まっている。
「これは」
イロハは言いかけて、止めた。
何と聞けばいいのか分からなかった。
人間と吸血鬼が並んでいる。
ただそれだけなら、偶然かもしれない。
けれど、同じ台座にある。
同じ器を挟んでいる。
それは、偶然には見えなかった。
クルムはその墓を見下ろしていた。
顔には何も出していない。
でも、動かない。
イロハはその沈黙に気づいた。
「知ってる人?」
「知らん」
即答だった。
けれど、少しだけ早すぎた。
イロハは墓を見る。
読めない名前。
失われた関係。
分からないまま残った石。
「一緒にいた人たちなのかな」
クルムは答えない。
「家族?」
答えない。
「友だち?」
答えない。
「約束した人?」
クルムの赤い瞳が、ようやくイロハを見た。
冷たい目。
でも、怒っているだけではなかった。
「知らないと言った」
「うん」
イロハは頷く。
それ以上は聞かなかった。
けれど、胸の中では、もう何かが動き始めていた。
吸血鬼と人間は、ずっと殺し合っていたわけではないのかもしれない。
村で聞いた災厄の話。
封印を解けば世界が終わるという言葉。
吸血鬼は人を喰らう化け物だという恐怖。
それだけではなかったのかもしれない。
少なくとも、この場所には別の形が残っている。
同じ石の上に。
同じ灰の下に。
イロハはゆっくり立ち上がった。
「クルム」
「何だ」
「吸血鬼も、人間と一緒に眠っていたの」
風が吹いた。
灰が二人の間を流れる。
クルムはしばらく答えなかった。
遠くで、建物の軋む音が聞こえた。
やがて、低く言う。
「昔の話だ」
それだけだった。
でも、否定ではなかった。
イロハは墓を見た。
昔の話。
終わってしまった話。
それでも、ここに残っている話。
*
庭の奥には、大きな石碑が倒れていた。
半分に割れ、文字もほとんど読めない。
それでも、上の方に彫られた模様は残っていた。
二本の線が、途中で交わり、また別の方向へ伸びている。
道のようにも見える。
手を取り合う形にも見える。
その下に、かすかな文字。
イロハには読めない。
クルムがその前で足を止めた。
長い時間、動かなかった。
イロハは隣に立とうとして、少し後ろで止まった。
今は、近づきすぎてはいけない気がした。
クルムの背中が、いつもより遠い。
目の前にいるのに。
触れようと思えば届く距離なのに。
どこか、三千年の向こうにいるようだった。
「ここにも、誰かの名前があるの」
イロハが小さく聞く。
クルムは答えない。
石碑を見ている。
赤い瞳が、文字を追っている。
やがて、言った。
「名ではない」
「じゃあ、何」
「誓いだ」
誓い。
イロハはその言葉を胸の中で繰り返した。
約束の庭。
誓い。
ここは、ただ死者を埋める場所ではなかったのだろうか。
何かを忘れないための場所。
誰かと誰かが、同じ場所に残るための場所。
イロハは石碑を見た。
「何て書いてあるの」
クルムは答えない。
「読めるんでしょう」
「読める」
「じゃあ」
「読む必要はない」
その声は、硬かった。
イロハは唇を結ぶ。
読みたくないのだ。
たぶん。
そう思った。
クルムは石碑から目を離した。
その時、風が灰を払った。
倒れた石碑の下、半分埋もれた小さな墓標が見えた。
他の墓より小さい。
子どもの墓かもしれない。
イロハは息を呑んだ。
小さな石。
名前は読めない。
模様もほとんど削れている。
そこに刻まれているのが誰なのか、イロハには分からない。
イロハは何も聞かなかった。
聞けなかった。
小さな靴。
避難所の絵。
壁に刻まれた名前。
そして、この小さな墓。
子どもだけが、どこへ行っても残っている。
残っているのに、生きていない。
イロハは布を巻いた掌を握った。
手の痛みが、少しだけ強くなった。
*
昼に近づくころ、二人は庭の外れで少し休んだ。
開けた場所だった。
周囲に低い墓標があり、崩れた壁が風を遮っている。
街の高い建物は、ここからは遠くに見えた。
灰の向こうに沈んでいる。
イロハは水を少し飲み、食料をかじった。
クルムは食べなかった。
それにはもう、驚かなかった。
ただ、見てしまう。
腕の傷。
肩の裂けた服。
昨夜よりは落ち着いているように見える。
でも、完全に大丈夫なのかは分からない。
聞けば、黙れと言われる。
だから聞かなかった。
クルムは墓の並ぶ方を見ていた。
けれど、ずっとそこだけを見ているわけではなかった。
時折、庭の外れへ視線を向ける。
崩れた塀の向こう。
灰の街とは反対側。
低い丘がある方角へ。
イロハはそれに気づいた。
「何か、探してるの」
クルムは答えない。
「人間?」
「違う」
短い返事だった。
イロハは少し眉を寄せる。
「じゃあ、何」
クルムはしばらく黙っていた。
やがて、低く言った。
「場所だ」
「場所?」
「昔、あった場所だ」
それ以上、クルムは言わなかった。
イロハは庭の外れを見る。
灰の向こうに、低い丘の影がうっすらと沈んでいる。
名前も、何があるのかも分からない。
けれど、クルムはそこを知っている。
そんな気がした。
「ここに、人はいないのかな」
イロハが言った。
クルムは短く答える。
「生きた匂いはない」
「そっか」
分かっていた。
分かっていたけれど、少しだけ胸が沈む。
約束の庭。
共同慰霊地。
屋外集合地点。
記録は、残っている人はここへと言っていた。
でも、ここにも人はいない。
残っていたのは、墓だけだった。
イロハは膝を抱える。
「みんな、間に合わなかったのかな」
「知らん」
「誰かは来たのかな」
「痕跡はある」
「どこに」
クルムは近くの地面を指した。
灰の上に、かすかな足跡のようなものがあった。
人のものだろうか。
獣のものだろうか。
古すぎて、イロハには分からなかった。
「人?」
「古い」
「じゃあ、もういない?」
「少なくとも、生きた匂いはない」
イロハは黙った。
期待するな。
そう言われなくても、胸の奥でその言葉が響いた。
でも、確かめることだけは、やめたくなかった。
*
夕方まで、二人は約束の庭にいた。
イロハは墓の間を少しだけ歩いた。
クルムから離れすぎない範囲で。
何かを探すというより、ここに残されたものを見ていたかった。
人間の墓。
吸血鬼の墓。
同じ石に二つの名が刻まれた墓。
寄り添うように倒れた墓標。
割れた器。
灰に埋もれた小さな花飾りのようなもの。
花はもうない。
水もない。
それでも、誰かがここに何かを置いた。
そのことだけは分かった。
イロハは一つの墓の前でしゃがむ。
そこには、二つの名らしき文字が刻まれていた。
一つの文字列の下に、日付のような数字。
もう一つの下には、模様だけ。
その間に、短い線が刻まれている。
つなぐように。
切り離さないように。
「一緒にいたかったのかな」
呟くと、背後から声がした。
「勝手に読むな」
クルムだった。
いつの間にか近くにいた。
イロハは振り返る。
「読めないから、想像してるだけ」
「なお悪い」
「でも、そう見える」
「見えるものが正しいとは限らない」
「じゃあ、違うの」
クルムは答えなかった。
イロハは墓を見る。
「違うなら、違うって言えばいいのに」
「お前に説明する義務はない」
「そればっかり」
「事実だ」
冷たい言葉。
でも、イロハは前ほど怯えなかった。
少しだけ腹が立つ余裕があった。
「じゃあ、私は勝手に思う」
クルムの赤い瞳がこちらを見る。
「ここに眠ってる人たちは、敵同士じゃなかったんだって」
クルムは動かない。
「少なくとも、誰かはそう思って、この場所を作ったんだって」
「昔の話だ」
「うん」
「もう終わった」
「それでも、残ってる」
イロハは墓に視線を戻した。
「誰が忘れても、そこにあったものは消えないんでしょう」
クルムは黙った。
その言葉を、クルムが駅で言ったことを、イロハは覚えている。
クルムも覚えているはずだった。
風が吹く。
灰が墓の上を流れていく。
クルムは何も言わない。
イロハも、それ以上は言わなかった。
*
夜が近づいた。
空が暗くなるにつれて、約束の庭の墓標は影になっていく。
街の方角から、獣の声がかすかに聞こえた。
遠い。
だが、完全に消えたわけではない。
クルムは庭の外れに立っていた。
墓ではなく、崩れた塀の向こうを見ている。
灰の街とは反対側。
低い丘の影がある方角。
イロハは少し後ろで待った。
昨日なら、もっと離れていただろう。
けれど今は、離れすぎるのが嫌だった。
近づきすぎるのも怖い。
だから、数歩後ろ。
声が届く距離。
手を伸ばせば、届かない距離。
それでも、今はその距離が少しだけ落ち着いた。
掌の傷が痛む。
布の下で、じんじんと熱を持っている。
クルムがそれに気づいたのか、視線だけを向けた。
「痛むか」
「少し」
「使うなと言った」
「今は使ってない」
「そういう意味ではない」
「じゃあどういう意味」
クルムは答えない。
イロハは少しだけ息を吐いた。
こういう時、クルムは本当に言葉が足りない。
けれど、足りない言葉の隙間を考えるようになっている自分にも気づいた。
前なら、ただ怖かった。
今は、怖いまま、知りたいと思っている。
それが良いことなのかは分からなかった。
空がさらに暗くなる。
遠くの街が、黒い塊になっていく。
その時だった。
墓の向こうで、光が動いた。
イロハは息を呑んだ。
「クルム」
「見えている」
小さな灯だった。
一つではない。
いくつもの灯が、墓標の間を低く流れていく。
地面には触れていない。
青白い光を淡く揺らしながら、灰の上を浮かぶように進んでいる。
人が持つ火ではない。
けれど、ただの光にも見えなかった。
まるで、決められた道を忘れずに辿っているようだった。
「あれ、昨日の灯……?」
「おそらくな」
「ここへ来たの?」
「通っただけだ」
クルムは低く言った。
灯は墓の間を抜け、約束の庭の外へ流れていく。
街とは反対の方角。
灰の街のさらに外。
低い丘の影が、夜の中に沈んでいた。
その方角へ、灯が一つ、また一つと消えていく。
クルムの気配が変わった。
イロハはそれに気づいた。
さっきまで墓を見ていた時とは違う。
迷っていたものが、一つの形を取ったような沈黙だった。
「そこなの?」
イロハは小さく聞いた。
クルムは答えない。
「探してた場所って、あの方角にあるの?」
長い沈黙があった。
灯はもう、ほとんど見えない。
最後の一つが、丘の向こうで小さく瞬いた。
やがて、クルムが言った。
「おそらくな」
それだけだった。
でも、それだけで十分だった。
約束の庭は目的地ではなかった。
ここは、手がかりだったのだ。
クルムが探していた何かへ近づくための場所。
イロハは丘の方角を見つめた。
何があるのかは分からない。
人がいるのか。
機械だけが残っているのか。
それとも、クルムが忘れられない何かがあるのか。
分からない。
でも、クルムは知っている。
少なくとも、知っている場所を探している。
「明るくなったら、行くの」
クルムは丘の方角を見たまま答えた。
「向かう」
灯はもう消えていた。
けれど、イロハの中には、その光の列がまだ残っている。
人ではないかもしれない。
でも、何かが動いている。
どこかへ向かっている。
そして、その方角をクルムは知っている。
イロハはその事実に、胸の奥がざわつくのを感じた。
村を出てから、ずっと道を辿ってきた。
南の古道。
黒い道。
線路。
貯水場への案内。
避難所の印。
灰の街。
約束の庭。
どの道も、思っていた場所には連れていってくれなかった。
それでも、歩くしかない。
知らないままではいられない。
クルムが背を向けた。
「休むぞ」
「ここで?」
「獣は街側に多い。ここはまだましだ」
「墓の中で眠るの、怖くない?」
「死者は襲わん」
「生きてるものより?」
「生きているものの方が厄介だ」
イロハは少しだけ黙った。
それは、クルムらしい答えだった。
そして、少しだけ分かる気もした。
生きているものは、奪う。
迷う。
嘘をつく。
傷つける。
でも、生きているから、手を伸ばすこともできる。
血を与えることも。
誰かを待つことも。
約束を残すことも。
イロハは墓標の間に腰を下ろした。
失礼かもしれないと思ったが、もう歩けなかった。
クルムは少し離れた場所に立っている。
いつものように、見張るための距離。
けれど、完全に遠くはない。
イロハが顔を上げれば、そこにいる。
その距離に、少しだけ安心している自分がいた。
掌の痛みが、まだ残っている。
足も痛い。
身体も疲れている。
それでも、今夜は少し眠れるかもしれないと思った。
約束の庭に、灰が降る。
人間の墓にも。
吸血鬼の墓にも。
同じように。
イロハは目を閉じる前に、灯が消えた方角をもう一度見た。
明日、あの方角へ向かう。
その先に何があるのかは分からない。
人がいるのか。
別の廃墟があるのか。
もっと怖いものが待っているのか。
何も分からない。
それでも、胸の奥には小さな火が残っていた。
クルムが言った。
「眠れ」
イロハは目を閉じたまま、少しだけ口元を緩める。
「命令ばっかり」
「聞く気がないなら言わせるな」
「少しは聞いてる」
「少しでは足りん」
「じゃあ、明日も歩く」
返事はなかった。
けれど、クルムがどこかへ行く気配もなかった。
イロハはその沈黙を聞きながら、浅い眠りに落ちていった。
灰の向こうで、連なる灯はもう見えない。
それでも、その光は確かにあの方角へ消えていった。
約束の庭の外へ。
さらに遠くへ。
クルムが探していた場所へ。
イロハにはまだ分からない。
その方角にあるものが、クルムの沈黙をこれほど重くする理由を。
第2部 旅の始まり 完




