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終わりの名を持つ君へ  作者: そらいろは
第1部 最果ての村

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第7章 閃光

第1部 最果ての村

 階段は、思っていたよりも深く続いていた。


 一段降りるたび、外の声が遠ざかっていく。


 村人の怒鳴り声。

 外の者たちの叫び声。

 火が木を噛む音。


 そのすべてが、石の厚みに吸い込まれていくようだった。


 代わりに近づいてくるのは、低い音。


 ごうん、と。


 地の底で、何かが眠ったまま息をしているような音だった。


 イロハは壁に手を添えながら、階段を降りた。


 足元には淡い光が流れている。石の隙間を這うように、細く、青白く。松明もないのに、闇の底まで道が見えた。


 後ろでは、女が子どもを抱えて必死に降りてくる。


 子どもの息は浅かった。


 胸が小さく上下している。

 でも、声はもう出ない。


「もう少し」


 イロハは言った。


 何がもう少しなのか、自分でも分からなかった。


 水があるかもしれない。

 逃げられる場所があるかもしれない。

 外から追ってくる人たちから隠れられるかもしれない。


 そんな都合のいいものが、この下にあるとは思えない。


 それでも、そう言うしかなかった。


 言わなければ、足が止まってしまいそうだった。


     *


 階段の先に、広い空間があった。


 最初、イロハはそこを洞穴だと思った。


 けれど違った。


 壁も床も天井も、自然にできたものではない。大きな石を組んで作られている。石の表面には、古い文様がびっしりと刻まれていた。


 文字のようにも見える。

 星を結ぶ線のようにも見える。

 水の流れのようにも見える。


 そのすべてが、かすかに光っていた。


 空気は冷たい。


 けれど、淀んではいなかった。


 ずっと閉じられていた場所のはずなのに、どこかで静かに空気が巡っているようだった。


「ここは……」


 女が呟いた。


 イロハは答えなかった。


 答えられるはずがない。


 村の誰も知らない場所。


 村の誰も口にしなかった場所。


 それが、今、目の前にある。


 空間の奥に、それはあった。


 大きな扉だった。


 祠の木戸とはまるで違う。


 人が通るためのものとは思えないほど大きく、重く、冷たかった。左右の石壁と一体になっていて、どこからが扉で、どこからが壁なのか分からない。


 表面には、黒い線が幾重にも走っている。


 縄のように。

 鎖のように。

 傷跡のように。


 その中央に、掌ほどのくぼみがあった。


 イロハは息を呑んだ。


 開けてはいけない扉。


 子どもの頃から聞かされてきた言葉が、初めて本当の形を持った気がした。


 これだ。


 あの言葉は、この扉のことだった。


     *


「水は?」


 女の声がした。


 イロハは振り返る。


 女は子どもを床に下ろし、あたりを見回していた。必死だった。扉のことなど、ほとんど目に入っていないようだった。


「どこかに、水はないの?」


 イロハも周囲を見た。


 石の床。

 光る文様。

 壁に並ぶ古い柱。


 水の音はしない。


 井戸もない。

 壺もない。

 ただ、扉があるだけだった。


「ごめん」


 イロハは言った。


「分からない」


 女の顔が歪んだ。


 子どもの額に手を当てる。


「熱い……」


 その声が、ひどく小さく聞こえた。


 イロハは何か言おうとした。


 でも、言葉が出なかった。


 助けたいと思った。


 でも、助け方が分からない。


 自分には、何もできない。


 村にいた時と同じだ。


 外へ出たいと思っても出られない。

 知りたいと思っても教えてもらえない。

 目の前で誰かが苦しんでいても、何をすればいいのか分からない。


 何もできない。


 その思いが、胸の奥を締めつけた。


 その時、上の方から鈍い音が響いた。


 どん、と。


 祠の木戸を叩く音だった。


 女が顔を上げる。


 もう一度。


 どん。


 今度はさっきより強い。


「開けろ!」


 遠くから声が聞こえた。


「イロハ! そこを開けろ!」


 村の男の声だ。


 イロハは扉の前で身体を強張らせた。


 戻れない。


 ここにも水はない。


 上には村人たちがいる。


 その向こうには火がある。


 どこにも行けない。


 どこにも。


     *


 扉の中央のくぼみが、淡く光った。


 イロハは気づいて、一歩下がった。


 さっきまで、そこはただの石の凹みだったはずだ。


 なのに今は、呼吸するように明滅している。


 ごうん。


 地の底の音が、少し大きくなった。


 扉の表面を走る黒い線が、青白く浮かび上がる。


 女が子どもを抱き寄せた。


「何が起きてるの」


「分からない」


 イロハは首を振った。


 本当に分からない。


 分からないことばかりだった。


 くぼみの光が、イロハの手元へ伸びる。


 いや、違う。


 光が伸びているのではない。


 イロハの手のひらから落ちた血が、床の文様に触れていた。


 赤い血が、青白い線の上に一滴、落ちていた。


 その一滴から、光が広がっている。


「血……」


 イロハは呟いた。


 手のひらの傷がまだ痛む。


 祠の石段で転んだ時の傷。

 封じ縄のそばの石柱に触れた時の傷。


 その血が、ここまで連れてきたのだろうか。


 そんなことがあるのか。


 考える前に、床の文様が一斉に光った。


 部屋全体が、淡く明るくなる。


 壁に刻まれた線。

 床に刻まれた円。

 扉を縛るように走る黒い筋。


 すべてが、イロハの血に応えるように光を放つ。


 そして、また声ではない何かが響いた。


 ――名を。


 イロハの背筋が凍った。


 名を尋ねるな。


 村人たちの言葉が、頭の中で跳ねた。


 名を尋ねるな。


 それなのに、封印の奥から来るものは、名を求めている。


 ――名を。


 イロハは唇を震わせた。


 言ってはいけない気がした。


 答えてはいけない気がした。


 けれど、答えなければならない気もした。


 上では、まだ木戸を叩く音がする。


 子どもの息はさらに弱くなっている。


 女が泣いている。


 扉の奥では、何かが待っている。


 全部が、イロハに向かって押し寄せてくる。


「イロハ」


 女が言った。


 祈るような声だった。


「お願い。何でもいい。助けて」


 助けて。


 その言葉が、胸の奥に落ちた。


 誰かにそう言われたことが、イロハにはほとんどなかった。


 自分が誰かを助けられるなんて、思ったこともなかった。


 でも、今。


 ここで何もしなければ、この子は死ぬかもしれない。


 女も捕まるかもしれない。


 自分も、戻る場所を失うかもしれない。


 怖い。


 怖い。


 怖い。


 それでも。


「私は……」


 イロハは扉を見た。


 光るくぼみ。


 そこが、自分を待っているように見えた。


「私は、イロハ」


 声は震えていた。


「生きたい」


 言った瞬間、自分でも驚いた。


 助けたい、ではなかった。

 逃げたい、でもなかった。


 口から出たのは、その言葉だった。


 生きたい。


 ずっと言えなかった言葉。


 村の中で、誰にも言えなかった言葉。


 外へ行きたいとすら認められなかった自分の奥にあった、もっと小さくて、もっと強い願い。


 生きたい。


 こんな場所で終わりたくない。


 何も知らないまま、何も選べないまま、ただ閉じ込められたまま終わりたくない。


 イロハは震える手を上げた。


 くぼみに触れるつもりはなかった。


 でも、手が引き寄せられる。


 血のついた掌が、扉の中央へ近づいていく。


「イロハ、駄目!」


 遠くで誰かが叫んだ。


 それが女の声なのか、上から響く村人の声なのか、分からなかった。


 掌が、くぼみに触れた。


     *


 世界が止まった。


 音が消えた。


 上で木戸を叩く音も。

 女の泣き声も。

 子どもの浅い息も。

 イロハ自身の鼓動さえも。


 すべてが、白い沈黙の中へ沈んだ。


 扉の表面を走っていた黒い線が、端からほどけていく。


 縄が焼き切れるように。

 鎖が砕けるように。

 長い年月で固まった傷跡が、もう一度開くように。


 光が扉の奥へ吸い込まれる。


 その奥から、深い闇がのぞいた。


 闇の中に、誰かがいる。


 そう思った。


 姿は見えない。


 けれど、いる。


 眠っている。

 閉じ込められている。

 忘れられている。


 そして、まだ終わっていない。


 イロハの中に、知らない感情が流れ込んできた。


 怒り。

 悲しみ。

 憎しみ。

 喪失。


 どれも大きすぎて、イロハの身体には入りきらない。


 胸が裂けそうだった。


 誰の感情なのか分からない。


 でも、それは三千年も冷めなかったものだった。


 扉の奥で、何かがわずかに動いた。


 そして、声がした。


 今度は、はっきりと。


 低く、掠れて、長い眠りの底から這い上がってくるような声。


「……返せ」


 それは、誰かに向けられた言葉だった。


 イロハに向けられたものではない。


 けれど、その声に含まれた痛みだけは分かった。


 何かを失ったまま、ずっと夜の底に沈んでいた者の声だった。


 イロハは息を吸おうとした。


 その瞬間、扉の奥から光が噴き出した。


 白い閃光だった。


 地下の封印の間を満たし、階段を駆け上がり、祠の木戸を内側から押し開ける。


 森が白く染まる。

 村が白く染まる。

 燃え上がる火も、怒鳴る人々も、北の森も、南の古道も、すべてが一瞬だけ光に呑まれる。


 夜空へ、一本の光が立ち上った。


 それは祈りのようにも見えた。


 叫びのようにも見えた。


 そして、合図のようにも見えた。


 遠い空のさらに向こうへ届くほどの、まばゆい閃光だった。


 イロハは光の中で、扉の奥を見た。


 闇の底で、赤い瞳が開いた。

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