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終わりの名を持つ君へ  作者: そらいろは
第1部 最果ての村

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第6章 封印の間

第1部 最果ての村

 淡い光は、森の奥でゆっくりとまたたいていた。


 火の色ではない。

 松明の明かりでもない。


 もっと冷たくて、もっと古い光だった。


 イロハは封じ縄の手前で立ち尽くした。


 背後では、村の方から怒鳴り声が近づいてくる。


「止まれ!」


「封じ縄に近づけるな!」


「子どもを連れた外の女がいる!」


 枝を踏み折る音。

 松明が風を切る音。

 人の荒い息。


 追ってきている。


 村の者たちなのか、外の者たちなのか、もう分からなかった。


 女は子どもを抱いたまま、イロハのすぐ後ろで息を呑んでいた。


「ここは……何?」


 イロハは答えられなかった。


 封じ縄が目の前で揺れている。


 木と木の間に張られた太い縄。

 垂れ下がる黒い布。

 土に刺された古い札。


 その奥に、苔むした石段。


 そのさらに奥に、光。


 近づくな。

 触れるな。

 名を尋ねるな。


 何度も聞かされてきた言葉が、頭の中で重なった。


「行けない」


 イロハは呟いた。


 女が背後を振り返る。


「でも、戻れない」


 その声は震えていた。


 子どもが、女の腕の中で苦しそうに息をした。


 水、と言った声を、イロハは思い出した。


 広場には井戸があった。

 けれど、もう戻れない。


 残っているのは、ここだけだった。


 行ってはいけない場所だけが、残っていた。


     *


「いたぞ!」


 背後で声が上がった。


 イロハは振り返る。


 松明を持った村の男が二人、森の入口に立っていた。火の明かりで顔が赤く照らされている。怒っているようにも、怯えているようにも見えた。


「戻れ、イロハ!」


「その女から離れろ!」


 女は子どもを抱え直し、一歩下がった。


「お願いです」


 女が言った。


「この子が熱を出しているんです。水を――」


「黙れ!」


 男の一人が叫んだ。


「それ以上、北へ入るな!」


「水だけでいいんです!」


「祠に近づくな!」


 話がかみ合っていない。


 女は子どものことを言っている。

 村の男たちは祠のことしか見ていない。


 イロハには、そう見えた。


「待って!」


 イロハは叫んだ。


「この人たちは、祠なんて知らない! 水がほしいだけで――」


「お前は何も分かっていない!」


 男が松明を掲げた。


 その光に、封じ縄の黒い布が大きく揺れる。


 まるで、風が吹いたようだった。


 けれど風はなかった。


 イロハは息を止めた。


 封じ縄の奥で、また低い音がする。


 石が擦れ合うような音。


 いや。


 違う。


 何かが、目を覚まそうとしているような音。


「離れろ!」


 男が駆け寄ってきた。


 女が子どもを庇う。


 イロハは二人の間に立とうとした。


 その瞬間、足元の湿った土で滑った。


「イロハ!」


 誰かが叫んだ。


 イロハの身体が前へ傾く。


 とっさに手を伸ばした。


 掴んだのは、封じ縄の横に立っていた古い石柱だった。


 手のひらに痛みが走る。


 さっき転んだ時に切った傷が開いた。


 赤い血が、石の表面に滲む。


 その瞬間。


 石柱の奥で、淡い光が走った。


 細い線が、血の下から浮かび上がる。


 文字のようにも見えた。

 水の流れのようにも見えた。

 星を結ぶ線のようにも見えた。


 イロハは手を離そうとした。


 けれど、離せなかった。


 石が、手のひらを掴んでいるようだった。


「何をした!」


 村の男が叫ぶ。


「私じゃない!」


 イロハは叫び返した。


 本当に、何もしていない。


 触れるつもりなんてなかった。

 開けるつもりなんてなかった。


 ただ、転びそうになって、手をついただけだ。


 なのに、光は広がっていく。


 封じ縄の黒い布が、一枚、また一枚と揺れた。


 土に刺さっていた札が震える。


 苔むした石段の奥で、何かが応えるように低く鳴った。


 女が後ずさる。


 子どもが泣きそうな声を上げた。


「イロハ、手を離せ!」


 男が駆け寄ろうとする。


 だが、石柱から伸びた光が、地面を這うように広がった。


 男は足を止めた。


 光は封じ縄を越え、石段へ流れていく。


 古い石の隙間に染み込み、苔の下を走り、森の奥へ続いていく。


 イロハの耳元で、声ではない何かが響いた。


 言葉には聞こえない。


 けれど、意味だけが胸の奥に落ちてくる。


 ――誰だ。


 誰かの声ではなかった。


 封じ縄でも、石柱でもない。


 もっと古い何かが、触れた者を確かめている。


 ――誰が、ここにいる。


 ――誰が、触れた。


「知らない」


 イロハは震えながら呟いた。


「私は、知らない」


 なのに、光は止まらない。


     *


 地面が揺れた。


 森の奥で、石段が軋む。


 封じ縄の向こうから、冷たい空気が吹き出した。


 古い土と、濡れた石と、長い間閉じ込められていた闇の匂い。


 イロハはようやく手を引き剥がした。


 手のひらには、血がついている。


 石柱にも、同じ血が残っていた。


「戻れ!」


 村の男が叫ぶ。


 イロハは後ずさった。


 けれど、背後には女と子どもがいる。


 そのさらに後ろには、火と人の声がある。


 どこにも戻れない。


 封じ縄の奥で、石段の上にあった光が強くなった。


 今までただの闇に見えていた場所に、輪郭が浮かび上がる。


 小さな祠だった。


 屋根は低く、柱は黒ずみ、正面の木戸には古い文様が刻まれている。村人が祈るための場所というより、何かを隠すために作られた箱のようだった。


 その木戸が、音もなく少し開いていた。


 イロハは目を疑った。


 隙間の奥に、下へ続く階段が見えた。


 祠は、地面の上に建っているだけではなかった。


 その下に、村の誰も口にしなかった場所がある。


「行くな」


 村の男が言った。


 さっきまでの怒鳴り声とは違う。


 それはほとんど、願いのような声だった。


「頼む。そこへは行くな」


 イロハは動けなかった。


 行きたいわけではない。


 本当に、行きたいわけではなかった。


 でも、祠の奥から流れてくる光は、まるで道のように見えた。


 村の中へ戻る道はない。


 外の女と子どもを置いて逃げることもできない。


 男たちは近づいてくる。


 火も近づいてくる。


 そして、封印の奥から響く問いかけが、まだ胸の奥で鳴っている。


 ――誰だ。


 ――誰が、ここにいる。


 イロハは手のひらを握りしめた。


 血が滲む。


「私は……」


 声が震えた。


「イロハ」


 それが答えになったのかは分からない。


 けれど、祠の奥の光が一度、大きく脈打った。


     *


 女が小さく悲鳴を上げた。


 子どもがぐったりと女の腕の中で動かなくなったのだ。


「ねえ、起きて」


 女が子どもの頬を叩く。


「お願い、起きて」


 イロハの胸が冷たくなる。


 死んだのかと思った。


 そうではない。


 かすかに息はしている。


 でも、弱い。


 とても弱い。


「水を……」


 女の声が壊れそうだった。


 水。


 広場の井戸。


 でも、そこへは戻れない。


 イロハは祠の奥を見た。


 下へ続く階段。


 冷たい空気。


 淡い光。


 もしかしたら、地下なら水があるかもしれない。


 そう思ったのかもしれない。


 それとも、ただ逃げ道に見えただけかもしれない。


 どちらにしても、他に選べる場所はなかった。


「中へ」


 イロハは言った。


 女が顔を上げる。


「中?」


「奥に、降りる階段がある」


「でも、ここは」


「分からない」


 イロハは首を振った。


「私にも分からない。でも、ここにいたら捕まる」


 女は一瞬だけ迷った。


 そして、子どもを抱え直した。


 その時、村の男が駆け出した。


「行かせるな!」


 イロハは走った。


 封じ縄の下をくぐる。


 黒い布が頬に触れた。


 冷たかった。


 まるで濡れているようだった。


 石段を駆け上がる。


 古い苔で足が滑る。膝を打つ。手をつく。血がまた石に移る。


 背後で女の足音が続く。


 男たちの怒鳴り声も続く。


 祠の木戸は、人ひとりが通れるほどには開いていた。


 イロハは中へ飛び込んだ。


 暗い。


 狭い。


 けれど奥に、下へ続く階段がある。


 イロハは振り返った。


 女が子どもを抱えて入ってくる。


 そのすぐ後ろで、村の男が木戸に手をかけた。


 その瞬間、祠の奥から光が走った。


 木戸の文様が白く浮かび上がる。


 男の手が弾かれた。


「うわっ!」


 男が後ろへ倒れる。


 祠の木戸が、重い音を立てて閉まり始めた。


「待って!」


 イロハは叫んだ。


 誰に向かって叫んだのか、自分でも分からない。


 外にいる男へか。

 中へ入ろうとしている女へか。

 それとも、木戸そのものへか。


 女はぎりぎりで内側へ滑り込んだ。


 木戸が閉まる。


 外の怒鳴り声が、一気に遠くなった。


 暗闇。


 冷たい空気。


 そして、足元に続く地下への階段。


 女の腕の中で、子どもが小さく息をした。


 イロハは震える手で、壁に触れた。


 壁の奥を、淡い光が流れている。


 まるで、血管のように。


「ここは……」


 女が呟いた。


 イロハは答えられなかった。


 階段の下から、低い音が響く。


 石と石が擦れ合う音。


 長い眠りから、何かが目を覚ます音。


 イロハは一歩、階段を降りた。


 足元の光が、彼女を導くように奥へ伸びていく。


 下へ。


 さらに下へ。


 村の誰も知らない場所へ。


 そして、開けてはいけない扉の前へ。

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