第5章 北の森へ
第1部 最果ての村
戸を開けたのは、刃物を持った男ではなかった。
女だった。
外套の裾は泥で濡れ、髪は乱れ、片腕で小さな子どもを抱えている。息をするたび、肩が大きく上下していた。
女はイロハを見ると、目を見開いた。
イロハも動けなかった。
外の者。
そう思った瞬間、身体がこわばる。
けれど、目の前にいる女は、イロハを襲おうとしているようには見えなかった。
怖がっていた。
イロハと同じくらい、いや、それ以上に。
「ごめん」
女はかすれた声で言った。
「少しだけ、隠れさせて」
腕の中の子どもが、小さく咳をした。
まだ幼い。五つか六つくらいに見えた。顔は熱を持ったように赤く、唇は乾いて割れている。
「水……」
子どもが呟いた。
イロハは何も言えなかった。
水。
井戸なら広場にある。
けれど、そこでは今、村の者と外の者がぶつかっている。
女は小屋の中へ一歩入った。戸を閉めようとして、外の方を振り返る。
広場から怒鳴り声が響いた。
「北へ行かせるな!」
「火を消せ!」
「井戸を守れ!」
声が重なり、何が起きているのか分からない。
女は子どもを抱きしめたまま、小さく震えていた。
「お願い。少しでいい。この子を休ませたいだけなの」
イロハは喉を鳴らした。
この人たちは、悪い人ではない。
少なくとも、今ここで自分を傷つけようとしているわけではない。
そう思った。
けれど、その考えを口にする前に、外から足音が近づいてきた。
村の男の声がした。
「そこにいるのか!」
女の顔色が変わる。
「開けろ!」
戸が外から叩かれた。
イロハはびくりと肩を跳ねさせた。
「外の者を入れたのか!」
「違う!」
思わず叫んだ。
けれど、叫んだ瞬間、自分の声が余計にまずいものを呼び寄せたのだと分かった。
戸の向こうで、男が息を呑む気配がした。
「イロハ、離れろ!」
村の男が怒鳴った。
女は子どもを抱いたまま、後ずさる。
「待って」
イロハは言った。
「この人は――」
「離れろ!」
戸が外から乱暴に開かれた。
村の男が踏み込んでくる。
手には槍を持っていた。
女が子どもを庇うように身を縮める。
その動きに、男が槍を構えた。
「やめて!」
イロハは叫んだ。
男の目が一瞬、イロハへ向いた。
その隙に、女が小屋の奥へ逃げようとする。けれど奥には逃げ道などない。積まれた木箱と、古い藁束があるだけだ。
子どもが苦しそうに咳き込んだ。
その音に、男の顔がわずかに揺れた。
ほんの一瞬だった。
その一瞬で、外から別の叫びが響いた。
「火が回るぞ!」
赤い光が、小屋の壁の隙間から差し込んだ。
焦げた匂いがした。
藁だ。
どこかで燃え移った火が、風に押されてこちらへ来ている。
男が舌打ちした。
「外へ出ろ!」
「どっちへ!」
イロハが聞いた。
答えは返ってこなかった。
男は女を睨みつけたまま、外へ目を向ける。
その時、広場の方で誰かが叫んだ。
「西は駄目だ!」
「南にもいる!」
「北を塞げ!」
北。
その言葉だけが、イロハの耳に残った。
*
火の匂いが強くなった。
小屋の外で人が走る。怒鳴る。何かが倒れる。子どもの泣き声が聞こえる。
もう、村の者の声なのか、外の者の声なのか分からなかった。
女はイロハを見た。
「どこから出られるの」
その声は、責めるものではなかった。
ただ、必死だった。
イロハは答えられない。
南には古道がある。
西には沢がある。
東には畑がある。
広場には井戸がある。
でも今、そのどこにも行けない。
火と人と声が、全部の道を塞いでいる。
残っているのは、北だけだった。
村の北。
境界杭の向こう。
行ってはいけない場所。
封じ縄のある森。
「北は……」
イロハは言いかけて、言葉を飲み込んだ。
行ってはいけない。
そう言われてきた。
近づくな。
触れるな。
名を尋ねるな。
でも、ここにいたら焼けるかもしれない。
外へ出れば、誰かに捕まるかもしれない。
女の腕の中で、子どもがまた咳をした。
その小さな音で、イロハは決めた。
「こっち」
イロハは小屋の裏手を指した。
「北の家の裏を抜ければ、少しだけ人が少ない」
女は頷いた。
村の男が叫んだ。
「待て! そっちは駄目だ!」
イロハは振り返った。
男の顔には怒りだけではなく、恐れがあった。
イロハはその恐れを知っている。
村人たちが祠の話をする時の顔だ。
「北へは行くな!」
男が叫ぶ。
でも、火の赤い光がさらに強くなった。
屋根の端から、ぱち、と乾いた音がした。
イロハは走り出した。
*
小屋の裏手は暗かった。
月の光は薄く、足元はよく見えない。イロハは転びそうになりながら、家々の間を抜けた。
背後で女の荒い息が聞こえる。
子どもを抱えている分、女の足は遅かった。
「早く!」
言いかけて、イロハは口を閉じた。
そんなこと、言われなくても分かっているはずだった。
広場の方では、火がさらに大きくなっている。煙が風に流され、村の北側へ薄く広がっていた。
誰かが叫んでいる。
誰かが泣いている。
誰かが助けを呼んでいる。
イロハは耳を塞ぎたくなった。
外の者は怖かった。
けれど、村の者も怖かった。
誰もが怖がっている。
怖がりながら、誰かを押しのけ、誰かを疑い、誰かを傷つけようとしている。
どうして、こうなったのだろう。
ほんの少し前まで、あの人たちは水を求めていただけだった。
ほんの少し前まで、村人たちは水を守ろうとしていただけだった。
それだけだったはずなのに。
「止まれ!」
横合いから声がした。
イロハは足を止めかけた。
けれど、女が先に短く悲鳴を上げた。
村の若い男が、路地の向こうに立っていた。手には鍬を持っている。火の明かりを受けた顔は、血の気が引いて白かった。
「外の者を連れてる!」
「違う!」
イロハは叫んだ。
「この子が具合悪いだけ!」
「北へ行くな!」
「火が来てる!」
「祠に近づけるな!」
男は鍬を構えた。
イロハは息を呑んだ。
その時、女がイロハの腕を掴んだ。
「走って」
イロハは振り返った。
「でも、この先は――」
「いいから、走って!」
女は子どもを抱え直し、イロハを引くようにして横の細い道へ入った。
足元の石に躓き、イロハは膝を打った。
痛みが走る。
それでも立ち上がった。
手のひらを見ると、皮が破れて血がにじんでいた。
赤い。
火の明かりのせいで、いつもより濃く見えた。
イロハは手を握りしめ、また走った。
*
北の境界杭が見えた。
けれど、そこは完全に開いているわけではなかった。
村の方から、何人かがこちらへ回り込もうとしている。火の赤を背に、影が揺れていた。
まだ間に合う。
そう思った瞬間、イロハの足が震えた。
あと少し遅ければ、北も塞がれる。
境界杭の向こうには、北の森がある。
黒い木々が、口を開けて待っているように見えた。
女が足を止めた。
「この先は?」
イロハも止まった。
答えられなかった。
この先には、封じ縄がある。
その奥に、苔むした石段がある。
封印の祠がある。
開けてはいけない扉がある。
世界を終わらせるものがある。
そう聞かされてきた。
「行けない」
イロハは呟いた。
女が振り返る。
「どうして」
「行っちゃいけない場所だから」
「でも、後ろは?」
後ろ。
振り返ると、村の方が赤く揺れていた。
火と煙。
叫び声。
走る足音。
そして、こちらへ向かってくる複数の影。
村の者なのか、外の者なのか分からない。
ただ、誰も落ち着いてはいない。
誰かがイロハたちを見つけた。
「いたぞ!」
「北だ!」
「止めろ!」
女が子どもを抱きしめる。
子どもはもう声も出せない様子だった。
イロハは境界杭を見た。
古びた杭。
村と外を分けるもの。
ずっと越えたいと思っていた境界とは違う。
これは、南へ続く道ではない。
自由へ続く道ではない。
怖いものへ続く道だ。
それでも。
今、他に行ける場所はなかった。
「こっち」
イロハは境界杭を越えた。
足元の土が変わった気がした。
村の中の固く踏まれた土ではない。湿って、柔らかく、冷たい土。
北の森の匂いがした。
女も続いた。
その瞬間、後ろで誰かが叫んだ。
「越えたぞ!」
「止めろ!」
「封じ縄に近づけるな!」
イロハは振り返らなかった。
振り返れば、足が止まる気がした。
森の中へ走る。
枝が頬を掠めた。細い痛みが走る。袖が木の根に引っかかる。足元の苔で滑りそうになる。
息が苦しい。
でも止まれない。
少し先で、黒い布が風に揺れているのが見えた。
封じ縄。
昼に見たもの。
近づくなと言われたもの。
その向こうで、また低い音がした。
石と石が擦れ合うような音。
イロハの足が止まった。
女が背後で息を呑む。
「何、あれ」
イロハは答えられなかった。
黒い布の奥。
苔むした石段の先。
木々の影の向こう。
淡い光が、ゆっくりとまたたいていた。
まるで、誰かが暗闇の底から、こちらを見ているようだった。




