第4章 外の者たち
第1部 最果ての村
最初に聞こえたのは、怒鳴り声ではなかった。
人の声だった。
低く、かすれていて、何度も何度も同じ言葉を繰り返している。
「頼む」
そう聞こえた。
イロハは小屋の中で目を開けた。
眠っていたのか、眠れていなかったのか、自分でも分からない。薄い毛布を握った手には、汗がにじんでいた。
外はまだ暗い。
小さな窓の向こうに、広場の火が揺れている。北の方にも、見張りの松明が見えた。けれど、さっきより火の数が増えている気がした。
戸の前に立っていた見張りの男が、誰かと小声で話している。
「西の沢から来た」
「何人だ」
「五人。いや、六人かもしれん」
「武器は」
「持っている。だが、すぐ斬りかかる様子はない」
「村長は」
「もう広場にいる」
イロハは息を潜めた。
西の沢。
外の者。
来たのだ。
本当に。
*
遠くで、甲高い音が鳴った。
鍋か、鉄の板か。何かを叩いている。
一度。
二度。
三度。
村に危険を知らせる音だと、イロハは知っていた。けれど実際に聞いたのは初めてだった。
戸の前の見張りが、低く言った。
「ここを動くな」
イロハは戸の向こうへ答えた。
「分かってる」
「声を出すな。灯りもつけるな」
そう言うと、見張りの足音が少し遠ざかった。
完全に離れたわけではない。けれど、戸のすぐ前ではなくなった。
イロハはそっと立ち上がった。
小屋の壁に手をつき、窓へ近づく。
隙間風が冷たい。
窓から見える範囲は狭かった。村の広場の端と、井戸のあたりだけ。それでも、普段とは違うものが見えた。
男たちが集まっている。
槍を持つ者。
鍬を持つ者。
松明を持つ者。
誰も大きな声を出さない。
静かすぎるほど静かだった。
その静けさの向こうに、外の者たちは立っていた。
三人。
いや、その後ろにもう二人いる。
松明の光に照らされた彼らは、イロハが想像していた外の人間とは違っていた。
もっと堂々としていると思っていた。
もっと遠い場所の匂いをまとっていると思っていた。
この村の誰よりも、自由に見えるのだと思っていた。
けれど、そこにいたのは疲れた人たちだった。
泥に汚れた外套。
乾いた唇。
痩せた頬。
使い込まれた荷袋。
腰には短い刃物を下げている者もいた。
怖い。
けれど、悪い人たちには見えなかった。
「水を分けてほしい」
先頭に立つ男が言った。
声はかすれていた。
「沢は濁っていた。飲める水がない。少しでいい」
広場の空気が揺れた。
カシラギは答えなかった。
ただ、杖を握る手に力を込めている。
「ここは、お前たちの入る場所ではない」
「すぐ出ていく」
男は言った。
「水をもらえたら、それでいい」
「南へ戻れ」
「戻れない」
後ろにいた女が、震える声で言った。
「後ろには、もう何もない」
誰も動かなかった。
外の者たちは村へ入りたい。
村人たちは入れたくない。
その間にあるのは、ほんの数歩の距離だけだった。
けれどイロハには、その数歩が、村の境界杭よりも遠く見えた。
*
「子どもがいる」
女が言った。
その声に、イロハは窓枠を握る手に力を込めた。
外の者の後ろに、小さな影が見えた。
大人の外套に隠れるように立っている。年は、イロハよりもずっと下に見えた。顔はよく見えない。ただ、足元がふらついているのだけは分かった。
「お願いです」
女は言った。
「水だけでいい。この子に、少しだけ」
村人たちの間に、小さなどよめきが広がる。
誰かが「子どもなら」と呟いた。
別の誰かが「駄目だ」と言った。
カシラギは動かない。
「水は渡せない」
「なぜ」
外の男の声が少し荒くなった。
「井戸がある。見えている。あれは水だろう」
「これは村の水だ」
「分かっている。奪うと言っているんじゃない。分けてくれと言っている」
「入れることはできない」
「なら、外まで運んでくれ」
その言葉に、村人たちが顔を見合わせた。
ほんの少しだけ、空気が緩んだ気がした。
イロハは思った。
話せる。
この人たちは、話ができる。
怖いけれど、話せない相手ではない。
けれどその時、外の者の一人が北の方を見た。
松明の明かりが、北の森の方にも揺れていたからだ。
「あっちにも見張りがいるのか」
何気ない声だった。
けれど、広場の空気が一瞬で変わった。
村の男たちが槍を握り直す。
カシラギの顔が険しくなる。
「北を見るな」
低い声だった。
外の者たちは困惑したように黙った。
「見るな?」
「お前たちには関係ない」
「なら、なぜそんなに守っている」
外の男が言った。
「水をくれと言っているだけだ。何か隠しているのか」
「黙れ」
村の男が一歩前に出た。
槍の先が、松明の光を受けて鈍く光る。
外の者の男も、反射的に腰の刃物へ手をやった。
抜いてはいない。
ただ、手を添えただけだった。
それでも村人たちは息を呑んだ。
「武器に触るな!」
「そっちが槍を向けたんだろう!」
「下がれ!」
「水をくれ!」
声が重なった。
さっきまで、確かに言葉は届いていた。
それなのに、少しずつ届かなくなっていく。
イロハは窓の向こうを見つめた。
どうして。
どうして、誰も少しだけ待てないのだろう。
*
小さな影が、崩れるように膝をついた。
外の者の子どもだった。
女が叫んで駆け寄る。
「待って!」
村の男が叫んだ。
女は止まらなかった。
子どもを抱えようとして、井戸の方へ目を向ける。
ほんの一瞬だった。
けれど村の男たちには、それが井戸へ駆け込もうとしているように見えたのかもしれない。
「止めろ!」
誰かが叫んだ。
槍を持った男が前へ出る。
外の男が女を庇うように立った。
「触るな!」
「下がれ!」
「この子が死ぬ!」
「北へ行かせるな!」
最後の言葉だけが、妙に鋭く響いた。
北へ。
誰も北へ走ってはいなかった。
それなのに、村人たちの恐れはいつもそこへ向かう。
誰かの手がぶつかった。
松明が大きく揺れた。
刃物が抜かれたのか、槍が突き出されたのか、イロハには分からなかった。
ただ、短い悲鳴が上がった。
広場が一気に崩れた。
男たちが怒鳴る。
女が子どもの名を呼ぶ。
誰かが倒れる。
松明が地面に落ちる。
火が跳ねた。
乾いた藁に燃え移ったのか、広場の端が赤く明るくなる。
「火を消せ!」
「水を!」
「井戸に近づけるな!」
「違う、火だ!」
叫びが重なり、何が起きているのか分からなくなる。
イロハは窓から離れた。
足が震えている。
外へ行きたいと思っていた。
村の外から来る人を見てみたいと思っていた。
けれど、こんなものは知らない。
こんな外は、知らない。
こんな村も、知らない。
*
小屋の外で、何かが倒れた。
重い音だった。
イロハは肩を跳ねさせた。
「誰か……!」
かすれた声が聞こえた。
戸の前にいた見張りの男の声だ。
イロハは戸に手をかけた。
迷った。
けれど、次の瞬間、外から激しく戸が叩かれた。
「開けるな!」
見張りの声だった。
「何が――」
「開けるな!」
その声は途中で途切れた。
何かがぶつかる音。
低いうめき声。
そのあと、戸の向こうが静かになった。
イロハの喉が鳴った。
「……ねえ」
返事はない。
「そこにいるの?」
返事はない。
かわりに、別の足音が近づいてきた。
ゆっくりと。
一歩ずつ。
村の者の足音ではなかった。
イロハは後ずさった。
小屋の中に隠れる場所などない。古い木箱と、積まれた藁と、薄い毛布。それだけだ。
足音が戸の前で止まった。
誰かが、戸板に手を当てた。
ぎし、と木が鳴る。
イロハは息を止めた。
外の者が、すぐそこにいる。
その時、広場の方で大きな声が上がった。
「北へ行くな!」
北。
その言葉に、イロハの身体が強張った。
封印の祠。
大人たちが一番恐れていた場所。
外の者が本当に北へ向かったのか、それとも村人がそう思い込んだだけなのか、イロハには分からない。
ただ、村の声が北へ流れていく。
松明の火が、窓を赤く染める。
戸の向こうの気配が、一瞬だけ離れた。
逃げるなら、今しかない。
そう思った瞬間、戸が乱暴に開いた。




