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終わりの名を持つ君へ  作者: そらいろは
第1部 最果ての村

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第3章 封じ縄

第1部 最果ての村

 夕方近く、タエ婆に頼まれて薬草を取りに行くことになった。


 もちろん南の古道でも、西の沢でも、北の森でもない。村の東側、畑の脇にある草むらだ。


 けれどイロハは、籠を手にしたまま、いつの間にか北の方へ足を向けていた。


 行くつもりはなかった。


 本当に、ただ少しだけ見るつもりだった。


 昼に増えた北の見張りは、まだそこにいるのか。

 境界杭の向こうは、どんなふうになっているのか。

 大人たちがそこまで恐れる場所は、本当にあるのか。


 それだけ。


 そう自分に言い訳をしながら、イロハは家々の裏を抜けた。


 村の北側には、古い納屋や使われていない小屋が多い。人通りも少なく、夕方になると影が濃くなる。風が吹くたび、壊れた板戸がかたかたと鳴った。


 やがて、北の境界杭が見えた。


 見張りの姿はない。男たちの声は少し離れた場所から聞こえる。どうやら村の外周を確認しているらしい。


 イロハは息を潜めた。


 境界杭の手前で立ち止まる。


 ここから先は、村ではない。


 北の森だ。


 行ってはいけない場所。


 イロハは杭の向こうを見た。


 木々の間に、細い道が続いている。いつも南の荷車道で見る景色とは違って、そこには人の暮らしの匂いがほとんどなかった。杉の枝が空を隠し、足元は湿っている。


 その道の少し奥に、初めて見るものがあった。


 木と木の間に張られた、太い縄。

 垂れ下がる黒い布。

 土に刺された古い札。


 あれが、封じ縄。


 イロハは息を呑んだ。


 封じ縄のさらに奥には、古い石段が見えた。


 石の端には湿った苔がこびりつき、段の隙間から細い草が伸びている。誰かが歩いた跡はない。


 村の者が手を入れているのは、封じ縄のこちら側までなのだと分かった。


 何度も聞かされてきた言い伝えが、目の前で形を持った。


 北の森の奥。

 苔むした石段の先。

 封印の祠と呼ばれる場所。


 あれが、言い伝えの入口なのだ。


 イロハの心臓が、強く鳴った。


 怖い。


 でも、目を逸らせない。


 行きたいわけではなかった。


 ただ、そこに本当にあるのかを見てしまったら、見なかった頃には戻れない気がした。


 近づくな。

 触れるな。

 名を尋ねるな。


 村人たちの声が、頭の中で重なる。


 その時だった。


 森の奥で、何かが鳴った。


 獣の声ではない。


 木が軋む音でもない。


 石と石が擦れ合うような、低い音。


 イロハは息を止めた。


 封じ縄のさらに奥。


 石段の上。


 木々の影の向こう。


 何かが、かすかに光った気がした。


 白くもなく、赤くもない。

 ほんの一瞬、古い水面に月が映ったような淡い光。


 イロハは一歩、前へ出た。


 境界杭の向こうへ。


「何をしている!」


 怒鳴り声が響いた。


 イロハはびくりと肩を跳ねさせ、振り返る。


 見張り役の男が走ってきていた。顔を真っ赤にし、手には槍を握っている。


「そこを離れろ!」


「私は、ただ」


「境界を越えたのか!」


「ちょっとだけ……」


「戻れ!」


 男はイロハの腕を掴み、境界杭の内側へ乱暴に引き戻した。籠が地面に落ち、薬草が散らばる。


 痛い。


 けれど、イロハは声を上げなかった。


 声を上げれば、もっと大きな騒ぎになる。


 だが、もうすでに十分騒ぎになっていた。


 男の怒鳴り声を聞きつけて、村人たちが集まってくる。タエ婆もいる。村長のカシラギも、杖をつきながらやって来た。


「何があった」


 村長が問う。


 見張りの男は、イロハの腕を掴んだまま言った。


「こいつが境界杭を越えました。封じ縄の方を見ていた」


「触ってない!」


 イロハは思わず叫んだ。


「縄には触ってない!」


 村人たちの視線が突き刺さる。


 怖い。


 怒りよりも先に、怖さが来た。


 まるで自分が、もう何か取り返しのつかないことをしたかのようだった。


 村長はイロハを見た。


 その目は冷たかった。


「なぜここへ来た」


「……薬草を」


「薬草は東だ」


 言い逃れはできなかった。


 イロハは唇を噛む。


「少し、見たかっただけ」


「何をだ」


「祠を」


 その瞬間、空気が凍った。


 誰かが息を呑んだ。


 タエ婆が顔を歪める。


 村長の手が、杖の柄を強く握った。


「見てどうする」


 イロハは答えられなかった。


 見てどうする。


 自分でも分からない。


 ただ、知りたかった。


 見えないまま恐れることが嫌だった。

 知らないまま従うことが嫌だった。

 自分の世界の端に何があるのか、知りたかった。


「……何があるのか、知りたかった」


 小さく言うと、村長は目を細めた。


「知らなくていい」


「どうして」


「知らなくていいからだ」


「そればっかり」


 イロハの口から、言葉がこぼれた。


 言ってはいけないと分かっていた。


 けれど、止まらなかった。


「誰も知らないのに。何があるのかも、どうして開けたら世界が終わるのかも、誰も教えてくれないのに。どうして守れって言うの」


「イロハ!」


 タエ婆の声。


 それでも、イロハは村長を見た。


「世界って、どこまで?」


 村長は答えなかった。


 周りの大人たちも、誰も答えなかった。


 その沈黙が、答えだった。


 誰も知らない。


 世界がどこまでなのかさえ、誰も知らない。


 村長はゆっくり息を吐いた。


「連れていけ」


 その一言で、見張りの男がイロハの腕を引いた。


「今夜は小屋から出すな。明日の朝まで誰かを立たせる」


「そんな」


「当然だ」


 村長の声は冷たい。


「お前は境界を越えた。封印に近づこうとした。それがどういう意味か、分かっていない」


「分からないよ」


 イロハは言った。


「誰も教えてくれないんだから」


 村長の顔が険しくなった。


 けれど、彼はそれ以上何も言わなかった。


     *


 イロハは小屋へ連れ戻された。


 戸の前には、見張りが一人立てられた。外から掛け金をかけられたわけではない。けれど、出ようとすればすぐに見つかる。


 薄暗い小屋の中で、イロハは膝を抱えた。


 腕には、男に掴まれた跡が残っている。赤くなった肌を指でなぞると、少し痛んだ。


 痛みよりも、胸の奥が苦しかった。


 悪いことをしたのだろうか。


 少し越えただけだ。


 封じ縄には触っていない。

 石段にも近づいていない。

 祠を開けたわけでもない。


 それなのに、あの目。


 村人たちは、イロハを見ていた。


 まるで、すでに災いが始まっているかのように。


 イロハは小さな窓から外を見た。


 村はいつもより早く灯りを落としていた。広場には見張りの火がある。北の方にも、松明の明かりが揺れている。


 あの奥に、森がある。


 森の奥に、封じ縄がある。


 封じ縄の先に、石段がある。


 そして、その先に祠がある。


 一瞬だけ見えた淡い光を、イロハは思い出す。


 見間違いだったのかもしれない。


 でも、そうは思えなかった。


 あの場所には、何かがある。


 誰も知らない何かが。


 世界を終わらせるものなのか。

 ただの古い石の扉なのか。

 それとも、誰かがそこにいるのか。


 考えるなと言われたことばかりが、頭から離れない。


 夜が深くなる。


 外の見張りが、誰かと小声で話している。


「西の沢の方で、また犬が吠えたらしい」


「外の者か」


「分からん。だが、南の見張りも騒いでいる」


「村へ来るつもりか」


「声を落とせ」


 イロハは息を潜めた。


 外の者。


 南の古道。

 西の沢。

 村の外から来た人たち。


 怖い。


 でも、それだけではない。


 知りたい。


 その気持ちは、叱られても、閉じ込められても、消えなかった。


 むしろ、前より強くなっている。


 イロハは毛布を握りしめた。


 北の森の奥。

 封じ縄の先。

 苔むした石段。

 封印の祠。

 開けてはいけない場所。


 その向こうに何があるのか。


 目を閉じても、そればかりが浮かんでくる。


 けれど、泣いたあとみたいに身体は重かった。


 怒られた声も、村人たちの目も、胸の奥に沈んでいく。


 やがて、まぶたが落ちた。


 小屋の外で風が鳴る。


 村は、静かだった。


     *


 村の西を流れる沢で、水面が小さく揺れた。


 月のない夜だった。


 痩せた手が、暗い水をすくう。


 その手は震えていた。


 水は指の間からこぼれ、泥に落ちる。


 それでも、もう一度すくう。


 背後で、子どもが小さく咳をした。


 誰かが慌てて、その口を塞ぐ。


 村の犬が、一度だけ吠えた。


 そして、すぐに黙った。


 沢の向こうに、村の灯りが見えていた。

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