第2章 言ってない
第1部 最果ての村
朝になっても、村の空気は重いままだった。
いつもなら、井戸端には女たちの声が響いている。誰の畑の豆がよく育ったとか、誰の子が夜泣きしたとか、昨日の粥は薄すぎたとか。大した意味のない話が、朝の冷たい空気を少しだけ柔らかくしてくれる。
けれど、その日の井戸端には声が少なかった。
桶が水面を叩く音。
縄が軋む音。
水を汲み上げる女たちの息遣い。
それだけが、いつもより大きく聞こえた。
イロハは桶を抱えながら、広場の方を見た。
男たちが数人、槍や鉈を持って集まっている。普段は畑仕事に使う道具も、今日はまるで武器のように見えた。
「南の古道に、また足跡があった」
村長のカシラギの声が聞こえた。
「一人ではない。荷を引きずった跡もある。水を探しているなら、西の沢にも来るはずだ」
「追い払うのか」
「話をする必要はない」
低い声。
その言葉に、イロハは水桶を握る手に力を込めた。
話をする必要はない。
どうして。
外の者は、村の外から来た人間なのではないのか。
何かを知っているかもしれない。
村の外の道を。
南の丘の向こうを。
この村ではない場所を。
けれど、大人たちにとって外の者は、知りたい相手ではなく、近づけてはいけないものらしかった。
「北の見張りも増やす」
別の男が言った。
「外の者は南や西にいるんだろう。北まで来るか?」
「村に入られたら、どこへ行くか分からん。祠のことを知られでもしたら終わりだ」
祠。
その言葉が出るだけで、広場の空気がさらに沈む。
南の古道。
西の沢。
北の祠。
場所は離れているはずなのに、大人たちの恐れはいつも北へ向かう。
イロハには、それが不思議だった。
*
「イロハ」
名を呼ばれ、イロハは振り返った。
タエ婆が井戸端のそばに立っていた。昨日と同じように腰は曲がっていたが、顔つきはいつもより険しい。
「今日は境界杭に近づくんじゃないよ」
「境界杭?」
「村の外へ出ようとするんじゃない、ってことだよ」
「出ないよ」
「分かってるならいい。南の古道に、外の者の跡があったそうだ。西の沢にも近づいているらしい」
「外の者って、本当にいるの?」
「いるから騒ぎになっているんだろう」
タエ婆は周りを一度見回してから、声を落とした。
「それから、北の森にも近づくんじゃないよ」
「祠の方?」
「そうだよ。外の者が村に入り込んだら、どこへ行くか分からない。知らないからこそ、近づくこともある」
知らないからこそ、近づく。
その言葉は、少しだけイロハの胸に引っかかった。
「祠に何があるの?」
イロハは思わず聞いた。
タエ婆の眉がぴくりと動く。
「聞くんじゃない」
「タエ婆も知らないの?」
言った瞬間、井戸端の空気が止まった。
近くにいた女が、こちらを見た。別の女は、聞こえなかったふりをして桶を持ち上げた。
タエ婆は、すぐには答えなかった。
ただ、イロハを見つめる目の奥に、怒りとは違うものが浮かんだ。
怖れ。
たぶん、それだった。
「知らなくていいこともある」
「知らないのに、守ってるの?」
「イロハ」
タエ婆の声が少し強くなった。
「あの祠のことを、軽く口にしてはいけない。昔からそう決まっている」
「昔って、どのくらい昔?」
「……ずっと昔だよ」
「誰が決めたの?」
「いいから、近づくんじゃない」
タエ婆は話を終わらせるように背を向けた。
イロハはそれ以上聞けなかった。
大人たちはいつもそうだ。
昔から。
決まっている。
聞くな。
近づくな。
言葉は多いのに、答えは一つもない。
*
水を運び終えると、イロハは薪小屋の掃除を命じられた。
干してある薪を崩れないよう積み直し、床に散った木くずを集める。単調な仕事だった。身体を動かしている間は考えなくて済むはずなのに、頭の中にはずっと外の者のことがあった。
頭の中で、聞いたばかりの言葉がばらばらに浮かんでは消えた。
南の古道。
西の沢。
村の外から来た人たち。
そして、北の祠。
開けてはいけない扉。
世界を終わらせるもの。
誰も知らないのに、誰もが恐れている場所。
考えないようにしようとすると、余計にその言葉ばかりが残った。
昼過ぎになると、村の北端に見張りが増えた。
村の北には、古い境界杭が並んでいる。そこから先は村ではない。北の森だ。
森の奥には、封印の祠がある。
そう聞かされてきた。
けれどイロハは、祠を近くで見たことがない。
封じ縄も、石段も、開けてはいけない扉も、全部、大人たちの言葉の中にあるだけだった。
その日は、北の境界杭のあたりに見張り役の男が二人立っていた。
一人は槍を持ち、もう一人は弓を持っている。
村の者を森へ入れないため。
そして、万が一にも、外の者を祠へ近づけないため。
イロハは薪を抱えたまま、その見張りを遠くから見つめた。
普段の村には、こんな緊張はない。
外から来る者を恐れているだけではない。
村の中の誰かが、うっかり境界を越えてしまうことまで恐れている。
イロハには、そう見えた。
*
「おい、イロハ」
呼ばれて、イロハは振り向いた。
村の少年たちが三人、少し離れたところに立っていた。年はイロハと同じくらいか、少し下。昨日広場で遊んでいた子たちだ。
「お前、また南の道を見てただろ」
「見てただけ」
「外へ行きたいのか?」
「別に」
「嘘だ。いつも見てる」
少年の一人が、わざとらしく南の方を指差した。
「あっちへ行けば、外の者に会えるかもな」
「会いたいわけじゃない」
「じゃあ、何が見たいんだよ」
イロハは答えなかった。
何が見たいのか。
自分でも、うまく言葉にできない。
村ではない場所。
ここではないどこか。
自分のことを最初から厄介者として見ない誰か。
そんなものが本当にあるのか、知りたいだけだった。
「どうせ行けないくせに」
少年が笑った。
「外へ出たら、すぐ泣いて帰ってくるんだろ」
「泣かない」
「じゃあ行けばいいじゃん。南の道でも、西の沢でも」
「今日は見張りがいる」
「ほら、怖いんだ」
「怖くない」
「怖いから行かないんだろ」
「違う」
「親がいないからって、何でもできるわけじゃないもんな」
その言葉に、胸の奥がきゅっと縮んだ。
「……関係ない」
やっと出た声は、自分でも驚くほど小さかった。
「関係あるだろ。誰も止めてくれないから、外に行きたいとか言い出すんだ」
「言ってない」
「顔に出てる」
少年が笑った。
イロハはそれ以上言い返せなかった。
親。
イロハには、親がいない。
なぜいないのか、詳しく教えてくれた者はいない。ただ、物心ついた時には、すでに村の外れの空き小屋で眠り、食事はその時々で余裕のある家から分けてもらっていた。
古い服を渡されることもあった。
仕事を言いつけられることもあった。
熱を出せば、薬草を煎じてくれる者もいた。
けれど、誰かが親代わりだったわけではない。
誰かの娘ではなく、村で生かされている子。
それがイロハだった。
見張りの男がこちらに気づき、少年たちはすぐに散っていった。
イロハだけが、その場に残る。
「外に行きたいとか言い出すんだ」
少年の声が、耳の奥に残っていた。
「言ってない」
そう返した自分の声まで、あとから遅れてよみがえる。
言っていない。
けれど、否定しきれない。
そのことが、悔しかった。




