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終わりの名を持つ君へ  作者: そらいろは
第1部 最果ての村

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第1章 境界の向こう

第1部 最果ての村

 この村には、絶対に開けてはいけない扉がある。


 開けば、世界が終わる。


 子どもの頃から、イロハはそう聞かされてきた。


 北の森の奥。

 苔むした石段の先。

 封印の祠と呼ばれる場所。


 そこには何が眠っているのか。

 誰が封じたのか。

 なぜ、開けば世界が終わるのか。


 誰も教えてはくれない。


 それなのに、村人たちは祈るように同じ言葉を繰り返す。


 近づくな。

 触れるな。

 名を尋ねるな。


 北の森へ行くな。

 封印の祠に近づくな。


 そして、村の境界を越えるな。


 けれどイロハは、村の外を見たかった。


     *


 村の南には、古い境界杭が並んでいる。


 大人の腰ほどの高さしかない、灰色の杭だ。雨に打たれ、風に削られ、表面には細かなひびが入っている。それでも村の者たちは、その杭をただの目印とは見なさなかった。


 杭の内側が村。

 杭の向こうが外。


 たったそれだけのことが、イロハにはいつも不思議だった。


 境界杭の向こうには、古い荷車道が南へ伸びている。


 道といっても、もう車輪の跡はほとんど残っていない。草に埋もれ、ところどころ土が割れ、低い木の枝が道の上へ伸びている。それでも、まっすぐ南へ続いていることだけは分かった。


 どこへ続いているのか、イロハは知らない。


 南の丘の向こう。

 そのさらに向こう。

 村の誰も話したがらない場所。


 そこには、別の村があるのだろうか。

 海というものがあるのだろうか。

 空の端まで続く、大きな道があるのだろうか。


 イロハは境界杭の手前に立ち、つま先で土を擦った。


 あと一歩。


 たった一歩踏み出せば、そこは村の外だ。


 けれど、その一歩は踏み出せない。


 踏み出してはいけないと、何度も言われてきたからではない。


 踏み出した先に何があるのか、本当は何も知らないからだ。


「イロハ!」


 背後から名前を呼ばれた。


 イロハは肩を跳ねさせ、振り返る。


 村の方から、タエ婆がこちらへ歩いてきていた。腰の曲がった小柄な老婆で、いつも薬草の匂いをまとっている。足は遅いが、目だけは妙に鋭い。


「またそこにいたのかい」


「見てただけ」


「見るだけでも、近づきすぎだよ」


 タエ婆は境界杭をちらりと見て、それからイロハの顔を見た。


「朝の水汲みは終わったのかい」


「まだ」


「なら、さっさとおいで。井戸の水は勝手に桶へ入ってくれないよ」


「分かってる」


 イロハは小さく答えた。


 境界杭の向こうを、もう一度だけ見る。


 南へ伸びる古い荷車道は、朝の薄い光の中で静かに続いていた。


 まるで、こちらへ来いとも、来るなとも言わずに。


     *


 村は小さかった。


 家は二十ほど。畑と井戸と、風除けの石垣。南には古い荷車道があり、西には沢がある。北には森があり、その奥に封印の祠がある。


 外の世界から見れば、どこにでもある寂れた村なのかもしれない。


 けれどイロハにとっては、この村が世界のすべてだった。


 朝は井戸で水を汲み、畑の草を抜き、薪を運ぶ。昼には粥を食べ、夕方には鶏を小屋へ戻す。夜になれば火を落とし、朝になればまた同じことを繰り返す。


 変わらない毎日。


 大人たちは、それを幸せと呼んだ。


 イロハには、少しも分からなかった。


 井戸端では、女たちが小声で話していた。


「昨日の夜、西の方で犬が吠えていたよ」


「沢の方かい」


「分からない。でも、うちの人が見に行ったら、畑の端に足跡があったって」


「獣じゃなくて?」


「人の足跡だそうだよ」


 イロハは桶を井戸の縁に置いた。


 人の足跡。


 その言葉だけで、胸の奥が少し熱くなる。


 村の外から来た人。


 外を知っている人。


 南の道の先から来たのかもしれない人。


 もっと聞きたかった。


 けれど、女たちはイロハに気づくと、すぐに口を閉ざした。


「何をぼうっとしてるんだい」


 一人が言った。


「水を汲んだら、さっさと運びな」


「……はい」


 イロハは桶に縄を結び、井戸の中へ落とした。


 水面が跳ねる音がする。


 縄を引きながら、さっきの言葉を頭の中で繰り返した。


 人の足跡。


 外の者。


 その人は、どこから来たのだろう。


 どこへ行くつもりなのだろう。


 この村に、何を見つけるつもりなのだろう。


     *


 昼前、村の広場に男たちが集まった。


 村長のカシラギを囲むように、畑仕事を途中で抜けてきた男たちが立っている。手には鍬や鉈、古びた槍があった。


 イロハは粥の椀を抱えたまま、家の陰に身を寄せた。


「南の古道に足跡がある」


 カシラギの声は低かった。


「一人ではない。西の沢にも近づいている」


「盗人か」


「分からん。だが、村に入れるな」


「祠の方は?」


 誰かがそう言った瞬間、広場の空気が変わった。


 イロハは椀を持つ手を止めた。


 祠。


 北の森の奥にある、開けてはいけない場所。


「北にも見張りを置く」


 カシラギが言った。


「外の者が何も知らずに入り込めば、どこへ向かうか分からん」


「封じ縄は?」


「触れさせるな。近づけるな」


 男たちが重く頷く。


 イロハには、それが不思議だった。


 外の者は南の古道や西の沢にいるはずなのに、大人たちの顔は北の祠の話をした時が一番険しくなる。


 まるで、村にとって本当に怖いのは外の者ではなく、祠に近づかれることのようだった。


「イロハ」


 突然、名を呼ばれた。


 イロハはびくりとした。


 カシラギがこちらを見ていた。白い髭を伸ばした痩せた老人で、杖を持っている。村の誰もが彼に逆らわない。


「聞いていたのか」


「……聞こえただけ」


「聞こえたことを、覚えるな」


 意味の分からない言葉だった。


「覚えるなって、どうやって」


 言ってから、しまったと思った。


 近くにいた男が眉をひそめる。


 カシラギは怒鳴らなかった。


 ただ、静かに言った。


「いらぬことを考えるな、ということだ」


 イロハは椀を握りしめた。


「はい」


 そう答えるしかなかった。


     *


 昼の粥は、いつもより少しだけ濃かった。


 豆が二つ入っていた。芋の欠片も入っていた。


 イロハは広場の端に座り、一人で椀を抱えた。


 近くでは、小さな子どもたちが丸い石を転がして遊んでいる。笑い声が上がるたび、イロハはそちらを見ないようにした。


 混ざりたいわけではない。


 そう思う。


 けれど、楽しそうな声を聞くと、胸の奥が少しだけ空っぽになる。


「イロハは来るなよ」


 そう言われたことがある。


 いつのことだったかは覚えていない。


 理由も覚えていない。


 ただ、その時の笑い声だけは覚えている。


 それからイロハは、自分から輪の中へ入らなくなった。


 村が嫌いかと聞かれたら、たぶん違う。


 熱を出した時、タエ婆は苦い薬を作ってくれた。冬の夜、隣家の女が古い上着を持ってきてくれたこともある。腹が減って動けなくなった時、誰かが残り物の粥を分けてくれたこともあった。


 けれど、それは家族ではなかった。


 親切ではあっても、居場所ではなかった。


 この村に、自分のための場所はない。


 そう思うたび、イロハは南の道を見たくなる。


 外には何かがある。


 そう信じたいだけなのかもしれない。


     *


 夕方、イロハはまた南の境界杭の近くにいた。


 行くつもりはない。


 ただ見るだけ。


 自分にそう言い聞かせながら、草の陰にしゃがむ。


 南の古道は、昼よりも暗く見えた。木々の影が道に落ち、先の方は薄い闇に溶けている。


 この道のどこかに、外の者がいる。


 そう思うと、怖かった。


 けれど同じくらい、胸が騒いだ。


「何をしている」


 背後から低い声がした。


 イロハは振り返る。


 見張り役の男が立っていた。手には槍を持っている。


「何も」


「境界杭に近づくなと言われただろう」


「越えてない」


「越えなければいいと思っているのか」


 男は近づいてきた。


 イロハは一歩下がる。


「外の者が近くにいる。子どもがうろつくな」


「子どもじゃない」


「子どもだ」


 男は短く言った。


「戻れ」


 イロハは唇を噛んだ。


 言い返したかった。


 でも、槍の先が夕方の光を受けて鈍く光っているのを見て、声が出なくなった。


 イロハは何も言わず、村の方へ歩き出した。


 背中に、男の視線が刺さる。


 境界杭の向こうから、かすかに風が吹いた。


 その風が、村の中の空気より少しだけ冷たい気がした。


     *


 夜。


 イロハは村の外れの小屋で、薄い毛布にくるまっていた。


 小屋といっても、昔は物置だった場所だ。壁には隙間があり、風の強い日は土埃が入る。屋根の端からは雨漏りもする。


 それでも、イロハの寝る場所はそこだった。


 小屋の中にいると、自分がひとりだということばかり思い知らされた。

 だからイロハは、夜になるとよく外に出た。

 星を見上げているあいだだけは、胸の奥のざわめきが少しだけ遠のいた。


 けれどその夜は、外へ出る気にはなれなかった。


 犬が吠えていた。


 一度。

 二度。

 少し間を置いて、また。


 西の方だ。


 イロハは毛布の中で目を開けた。


 外の者。


 南の古道。

 西の沢。

 北の祠。


 今日聞いた言葉が、眠ろうとするたびに頭の中へ戻ってくる。


 いらぬことを考えるな。


 カシラギはそう言った。


 けれど、考えるなと言われるほど、考えてしまう。


 なぜ村の外へ出てはいけないのか。

 なぜ北の祠に近づいてはいけないのか。

 なぜ何も知らないまま、言いつけだけを守らなければいけないのか。


 小さな窓から、星が見えた。


 村の上にある星も、南の道の向こうにある星も、きっと同じだ。


 そう思うと、少しだけ胸が軽くなった。


 けれど、犬の声はまだ止まない。


 遠くで、誰かが戸を開ける音がした。男たちの声が低く交わされる。足音が広場の方へ集まっていく。


 イロハは毛布を握りしめた。


 外で何かが起きている。


 けれど、自分には何も教えてくれない。


 やがて、犬の声がぴたりと止んだ。


 静けさが落ちる。


 その静けさの中で、イロハは息を潜めた。


     *


 その夜、村の西の外れで、乾いた枝が踏み折られた。


 一つではない。

 二つでもない。


 複数の足音が、水の匂いをたどるように、闇の中でゆっくりと近づいていた。

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