序章 封印
世界が、赤く燃えていた。
空は黒い煙に覆われ、星は見えない。
倒れた塔。
砕けた橋。
割れた硝子。
炎を映す水路。
人の叫び声は、もう遠かった。
残っているのは、火の音と、瓦礫が崩れる音と、誰かが震えながら祈る声だけだった。
「封印陣、起動」
白い衣を着た男が叫んだ。
その声も震えていた。
広場の中央には、巨大な円が刻まれている。
石の床を削り、銀色の線を埋め込み、幾重にも文字を重ねた円。
そこに、赤い光が走った。
円の外では、人間たちが膝をついていた。
祈る者。
泣く者。
剣を握ったまま立てなくなった者。
血に濡れた手で、震えながら印を結ぶ者。
誰も勝った顔などしていなかった。
ただ、恐れていた。
広場の中央に立つ、ひとりの男を。
白い肌。
青みを帯びた銀白の長い髪。
深い赤の瞳。
その男の足元には、折れた刃と、砕けた鎧と、血があった。
人の血。
吸血鬼の血。
区別のつかないほど混ざり合った赤が、石畳の隙間を流れていた。
男は笑っていなかった。
泣いてもいなかった。
ただ、赤い瞳で人間たちを見ていた。
その目を見た者から、声を失っていく。
憎しみ。
怒り。
それだけでは足りない。
もっと深く、もっと黒く、底のないものが、その瞳の奥で燃えていた。
「これ以上は、持たない!」
「構わん、閉じろ!」
「まだ中に――」
「閉じろ!」
誰かが叫んだ。
誰の声だったのか、もう分からない。
封印陣の光が強くなる。
広場の石が震えた。
男の足元から、白い鎖のような光が伸びる。
一本。
また一本。
それは男の足首に絡み、腕に絡み、胸に絡み、喉元へ迫った。
男は動かなかった。
逃げようともしない。
ただ、ゆっくりと顔を上げた。
その赤い瞳が、封印陣の外にいる人間たちを見た。
誰もが、殺されると思った。
この場にいる全員が、最後に焼き尽くされるのだと思った。
けれど、男が口にした言葉は、呪いではなかった。
「……返せ」
低い声だった。
掠れていた。
それでも、広場にいた誰もが聞いた。
「返せ」
白い光が、男の身体を縛っていく。
それでも男は叫んだ。
「返せ」
その声に、人間たちの何人かが顔を伏せた。
耳を塞いだ者もいた。
祈りを強めた者もいた。
けれど、誰も答えなかった。
返せるものなど、もうどこにもなかった。
「封印、固定!」
白い光が爆ぜた。
広場が消える。
炎が消える。
叫び声が消える。
赤い瞳だけが、最後まで残った。
憎しみでもなく。
怒りでもなく。
何かを失った者の目だった。
次の瞬間、世界は白に呑まれた。
そして、何も聞こえなくなった。
ただ、光の奥で、最後の声だけが残った。
「返せ」




