第56章 灰の下の水
第5部 灰の向こう
小さな緑は。
石の割れ目に。
張りつくように生えていた。
イロハは。
まだ触れない。
顔だけを近づける。
「これ、何?」
「知らん」
「クルムでも?」
「植物の名をすべて知っていると思うな」
「三千年生きてるのに」
「三千年、草の名前を覚えていたわけではない」
「もったいない」
「何がだ」
イロハは少し笑った。
それから。
また緑を見る。
小さい。
指先より。
ずっと小さい。
でも。
灰色ではない。
それだけで。
目が離せなかった。
*
ぽつ。
水の音。
イロハが顔を上げる。
「もっと奥からする」
「ああ」
「行く?」
「足元を見ろ」
「分かってる」
立ち上がる。
今度は。
クルムの袖を掴まなかった。
代わりに。
壁へ手を添える。
一歩。
床を確かめる。
もう一歩。
クルムが先を歩く。
その背中が。
ぎりぎり見える距離。
離れすぎない。
近づきすぎない。
それで進む。
*
通路は。
少しずつ下っていた。
空気も。
さらに冷たくなる。
足元の湿り気が増える。
ぽつ。
ぽつ。
水の音。
今度は。
一つではない。
「いっぱい聞こえる」
「ああ」
曲がり角。
その先。
イロハが止まった。
「……わ」
壁。
天井。
石。
そこから。
水が滲んでいる。
細い筋になって。
いくつも。
下へ流れている。
床には。
浅いくぼみ。
そこへ。
透明な水が溜まっていた。
「水」
イロハが一歩出る。
「待て」
止まる。
「飲まないよ」
「足元だ」
見る。
水の向こう。
床が途切れている。
暗い。
深さは分からない。
「危な」
「だから見ろ」
「見てる」
「今見た」
「……はい」
イロハは。
少し手前へ戻った。
*
クルムが。
水の近くへしゃがむ。
匂い。
指先。
少しだけ舐める。
イロハが見る。
「どう?」
「水だ」
「飲める?」
「少なくとも、今までのものと変わらん」
イロハは。
水筒を出した。
でも。
すぐには汲まない。
「これ」
「何だ」
「機械から出てないよね」
「ああ」
「どこから来てるの?」
「地面の下だろう」
「雨?」
「それもあるかもしれん」
「じゃあ」
イロハは。
天井を見る。
「ずっと残ってた?」
「分からん」
「でも今ある」
「ああ」
その返事を聞いてから。
イロハは水筒を水へ近づけた。
ゆっくり。
汲む。
冷たい。
指にも。
水が触れる。
今度は。
消えない。
*
一口。
飲む。
「冷たい」
「ああ」
「こっちの方が好きかも」
「水に好き嫌いがあるのか」
「あるよ」
「そうか」
もう一口。
飲む。
それから。
水筒を満たす。
「クルムも飲む?」
「いらん」
「また?」
「ああ」
「ほんとに平気?」
「お前よりはな」
「便利」
クルムが見る。
「それは前にも聞いた」
「じゃあ訂正」
「何だ」
「ちょっとずるい」
「変わらん」
*
水の流れは。
さらに奥へ続いていた。
イロハは。
くぼみの端を辿る。
そこ。
また。
緑。
「あ」
今度は。
一つではない。
小さな緑が。
石の隙間に点々とある。
黒い苔のようなもの。
細い芽。
葉とは呼べないくらいの。
薄い緑。
「いっぱいある」
声が。
自然と小さくなる。
クルムも。
隣へ来る。
「ここだけ?」
「見てみるか」
二人で。
水際を辿る。
奥。
また緑。
さらに。
小さなもの。
イロハがしゃがむ。
「これ」
指さす。
石の割れ目から。
二枚だけ。
小さな葉が出ている。
「葉っぱ」
「ああ」
「本物の」
「ああ」
「今、生きてる」
「ああ」
イロハが。
クルムを見る。
「今日はちゃんと何回でも答えてくれるんだ」
「同じことを聞くからだ」
「だって確認したい」
「好きにしろ」
「じゃあもう一回」
「やめろ」
イロハは笑った。
*
その葉の近く。
土のようなものが。
少しだけ溜まっている。
イロハは。
手を伸ばす。
途中で止めた。
「取ったら」
「何だ」
「持っていけるかな」
クルムは答えない。
イロハは。
小さな葉を見る。
「エデンのは持って帰れなかった」
「記録だからな」
「これは本物」
「ああ」
「持っていけば」
指先。
あと少し。
触れられる。
「……外でも育つかな」
「灰の上でか」
「分かんない」
「水も土もない」
「そうだよね」
手を引く。
少し。
名残惜しそうに。
「じゃあ、ここに置いとく」
「珍しいな」
「何が」
「持っていかないのか」
「持っていって死んだら嫌だから」
イロハは。
葉の周りに落ちていた小さな石を。
一つだけ。
そっと横へ避けた。
光が。
少しだけ。
葉へ届く。
「これくらいならいい?」
「知らん」
「じゃあ触らない方がよかった?」
「もう動かしただろう」
「……戻す?」
「好きにしろ」
考える。
結局。
石はそのままにした。
*
上。
遠く。
灰嵐の音。
まだ。
聞こえている。
でも。
ここでは。
水の音の方が大きい。
イロハは。
浅い水の横に座った。
クルムも。
少し離れて。
壁へ背を預ける。
「ねえ」
「何だ」
「昔も、こういうところあった?」
「地下水か」
「うん」
「あった」
「緑も?」
「場所による」
「クルム、こういうところ来たことある?」
「ある」
「一人で?」
クルムが黙る。
イロハは。
すぐには次を聞かなかった。
水面を見る。
ぽつ。
波紋。
少しして。
「一人の時もあった」
クルムが言った。
イロハが顔を上げる。
「そうなんだ」
「ああ」
「誰かと来た時も?」
「……あった」
それ以上は。
聞かなかった。
代わりに。
「じゃあ、こういう水の音も覚えてる?」
「ああ」
「三千年前の?」
「ああ」
イロハは。
少し考える。
「今の音と同じ?」
クルムが。
水を見る。
「似ている」
「そっか」
イロハは。
それだけで。
少し嬉しそうに笑った。
*
「何がおかしい」
「別に」
「笑っただろう」
「昔と今で、同じものもあるんだなって」
水。
石。
小さな緑。
「クルムが覚えてる音と、私が今聞いてる音が似てるなら」
イロハは。
指先で水面へ触れる。
波紋。
一つ。
広がる。
「全部なくなったわけじゃない」
クルムは。
何も言わなかった。
でも。
否定もしなかった。
*
しばらくして。
灰嵐の音が。
少し遠くなった。
イロハが。
天井を見る。
「弱くなった?」
「少しな」
「戻る?」
「まだ早い」
「じゃあ待つ」
今度は。
迷わなかった。
水際。
小さな緑。
暗い通路。
ここにいる。
それでよかった。
イロハは。
膝を抱える。
「眠っていい?」
「寝ろ」
「クルムは?」
「起きている」
「ずっと?」
「ああ」
「ずるい」
「何がだ」
「私だけ寝るの」
「なら起きていろ」
「寝る」
イロハは。
壁へ背を預けた。
少しして。
ずる。
身体が傾く。
クルムの方へ。
肩。
触れる。
イロハの目が開く。
「あ」
「何だ」
「ごめん」
身体を戻そうとする。
「動くな」
「え?」
「眠いなら寝ろ」
イロハは。
少しだけ迷った。
「重くない?」
「軽い」
「それ褒めてる?」
「事実だ」
イロハは笑った。
そのまま。
肩を借りる。
「じゃあ、ちょっとだけ」
「ああ」
*
水の音。
ぽつ。
ぽつ。
灰嵐。
遠く。
低く。
イロハの呼吸が。
少しずつ。
ゆっくりになる。
クルムは。
動かなかった。
肩にかかる。
小さな重み。
その向こう。
石の隙間。
緑。
昔。
似た水の音を。
誰かと聞いた。
その記憶を。
クルムは。
追わなかった。
今は。
別の呼吸が。
すぐ隣にある。
*
イロハが目を覚ました時。
灰嵐の音は。
ほとんど消えていた。
「……寝た?」
「ああ」
「どれくらい?」
「知らん」
「またそれ」
身体を起こす。
クルムの肩を見る。
「ごめん」
「何が」
「ずっと乗ってた?」
「ああ」
「起こしてよ」
「寝ろと言った」
「そうだけど」
イロハは。
少し気まずそうに。
髪を直す。
それから。
緑を見る。
まだ。
そこにある。
「よかった」
「何が」
「消えてない」
「消えるわけないだろう」
「分かってる」
立ち上がる。
水筒。
確認。
いっぱい。
もう一つの容器にも。
水を入れる。
「持っていくのは水だけ」
「ああ」
「緑は置いてく」
「ああ」
イロハは。
最後に。
小さな葉を見る。
「また来れるかな」
「道を覚えていればな」
金属板を出す。
でも。
ここには。
灯の線がない。
イロハは少し考えて。
端の空いている場所へ。
下向きの矢印。
水。
小さな葉。
三つを刻んだ。
「これで忘れない」
「読めるのはお前だけだ」
「それでいい」
*
二人は。
来た通路を戻る。
今度は。
イロハも。
暗さに少し慣れていた。
クルムの袖には。
掴まらない。
でも。
何歩か進むたび。
前を見る。
銀白の髪。
そこにある。
それを確かめて。
また進む。
階段。
上。
蓋。
クルムが手をかける。
「開けるぞ」
「うん」
わずかな隙間。
外の光。
灰は。
まだ舞っている。
でも。
さっきほどではない。
イロハは。
一度。
地下を振り返った。
もう。
緑は見えない。
「行こう」
「ああ」
二人は。
灰の世界へ戻った。
水を持って。
そして。
灰の下には。
まだ生きているものがあると知って。




