第54章 生きている道
第5部 灰の向こう
金属板の線は。
地図としては。
頼りなかった。
距離が分からない。
高さも。
道の形も。
ただ。
点と点が。
線でつながっている。
イロハは。
何度目か分からないくらい。
板を見る。
前を見る。
また板を見る。
「合ってる?」
「私に聞くな」
「見てるだけ」
「なら黙って見ろ」
「はいはい」
右手。
崩れた建物。
左。
灰に埋まった低い壁。
金属板には、次の点まで一本の線が引いてある。
けれど。
目の前に。
その線らしい道はない。
イロハは少し考えた。
「……これ、道じゃないんだ」
「何がだ」
「線」
金属板を指でなぞる。
「灯が飛ぶところをつないでるだけなら、地面に道がなくてもいい」
「そうだろうな」
「じゃあ、線の真下を歩かなくてもいい」
イロハは顔を上げる。
遠く。
灰の向こう。
低い塔のような影。
最初に見つけた給水の塔ほど高くない。
横へ。
長い。
板の中で。
次の点には、雫とは違う印が添えられていた。
「たぶん」
「何だ」
「あれ」
「行くのか」
「うん」
金属板をしまう。
今度は。
足元に残った古い道を選んで。
歩き出した。
*
途中。
水を飲む。
二口。
蓋を閉める。
「もう少し飲め」
「まだ平気」
「喉が渇いてからでは遅い」
イロハは。
水筒を見る。
「……もう一口」
飲む。
今度は。
言われる前に止めた。
「これで?」
「ああ」
「珍しい」
「何がだ」
「満足した」
「水を飲んだだけだ」
イロハは鞄へ戻す。
少し重い。
でも。
この重さは。
嫌ではなかった。
*
近づくにつれて。
建物の形が見えてくる。
低い。
横長。
屋根の一部は崩れている。
外側には。
平たい台。
二つ。
どちらも。
三本の脚が収まりそうな跡がある。
「ここにも」
「ああ」
イロハは。
すぐに台へ近づかなかった。
周囲を見る。
灰。
風。
音。
何もない。
石を一つ拾う。
台の前へ投げる。
転がる。
止まる。
「大丈夫そう」
「そう見えるだけだ」
「分かってる」
慎重に。
一歩。
また一歩。
台へ近づく。
雫の印。
探す。
ない。
「水じゃない」
「らしいな」
代わりに。
別の印。
輪。
その中心から。
短い線が四方へ伸びている。
「何これ」
「知らん」
「聞く前から言わないで」
「どうせ聞くだろう」
「聞くけど」
イロハは。
台の表面へ顔を近づける。
小さな光。
点いていない。
「死んでる?」
その時。
奥の建物から。
音がした。
かすかに。
低く。
「……生きてる」
「機械に言うな」
「またそれ」
*
入口は。
閉じていた。
取っ手もない。
イロハは。
壁に沿って歩く。
小さな印。
人。
その横。
飛ぶ機械に似た形。
「クルム」
「見えている」
「人と機械」
「ああ」
「一緒に使う場所?」
「そうかもしれん」
イロハは。
壁の下を見る。
そこだけ。
灰が少ない。
何かが。
何度も通ったように。
「ここ」
しゃがむ。
指で。
灰を払う。
細い線。
扉の前から。
台へ。
また扉へ。
「何か動いてる」
「最近か?」
「分かんない」
クルムが。
線を見る。
「風だけでは、こうはならん」
イロハは立ち上がった。
扉を見る。
「入る?」
「お前が決めろ」
「……入る」
すぐには触らない。
周囲。
印。
床。
壁。
確認する。
そして。
入口の横。
小さなくぼみを見つけた。
「手?」
「形はな」
エデンの扉を思い出す。
イロハは。
包帯をずらした。
「待て」
手が止まる。
「何?」
「同じものとは限らん」
「じゃあどうする?」
「まず近づけろ」
「触らず?」
「ああ」
イロハは。
手のひらを。
少し離したまま近づける。
何もない。
さらに。
近づける。
光。
「わ」
青白い線が。
手のひらをなぞった。
触れていない。
それだけで。
扉の奥から。
音。
低い。
鍵が外れるような音。
「開いた?」
「らしいな」
「触らなくてよかった」
「覚えておけ」
「うん」
*
扉が。
少しだけ開く。
中は暗い。
イロハは。
クルムを見る。
「先」
「分かっている」
クルムが入る。
イロハは。
数歩後ろ。
中へ。
足を踏み入れた瞬間。
床の脇。
細い光が点いた。
一つ。
その先。
また一つ。
奥へ。
順番に。
「案内してる?」
「そう見える」
二人は。
光に沿って歩く。
通路。
左右。
小さな部屋。
空。
壊れた棚。
金属の部品。
何に使うのか。
分からない。
そして。
奥。
広い部屋。
イロハが止まった。
「……なにこれ」
*
部屋の中央。
飛ぶ機械が。
一機。
置かれていた。
動かない。
片側。
輪が一つ。
折れている。
胴体にも。
大きな傷。
その周り。
細い腕のような機械が。
何本も伸びている。
一本が動いた。
「動いた」
「ああ」
先端。
小さな器具。
壊れた部分へ近づく。
光。
短い音。
また。
別の腕。
新しい部品を持ってくる。
イロハは。
声を落とした。
「直してる」
「そうだな」
動かない飛ぶ機械。
その横。
外した部品。
新しい部品。
一本。
また一本。
自動で。
交換されていく。
「誰もいないのに」
「ああ」
「ずっと?」
「知らん」
「でも」
イロハは。
部屋を見回す。
まだ動く腕。
光。
機械。
「これがあるから、飛べるんだ」
「少なくとも、壊れたら直せるらしい」
「じゃあ」
外で見た灯。
何度も。
何年も。
もっと長く。
壊れて。
戻って。
直されて。
また飛ぶ。
そんなことを。
繰り返しているのかもしれない。
*
修理されている機械の横。
壁。
薄い表示。
イロハが近づく。
文字。
読めない。
でも。
図なら分かる。
飛ぶ機械。
矢印。
台。
建物。
また飛ぶ機械。
「これ」
指をさす。
「帰ってきて」
次。
「直して」
次。
「また出る?」
「そう見える」
「自分で?」
「命令が残っているんだろう」
イロハが振り返る。
「誰の?」
クルムは答えない。
「人?」
「おそらくは」
「その人、まだいる?」
「分からん」
「いなくても?」
「命令だけは残る」
イロハは。
修理される機械を見る。
「三千年も?」
「三千年かどうかも分からん」
「途中で作られたかもしれない?」
「それもある」
イロハは黙った。
その可能性は。
今まで。
あまり考えていなかった。
古い世界のものが。
ただ残っている。
そう思っていた。
でも。
誰かが。
後から作ったのなら。
「クルム」
「何だ」
「これ、新しいのかな」
飛ぶ機械を見る。
「見た目だけでは分からん」
「でも」
「古い部品を替え続ければ、どこからが元の機械かも分からなくなる」
イロハは。
少し考える。
「じゃあ」
「何だ」
「三千年前の機械が、今も同じ機械って言えるの?」
クルムが。
珍しく。
すぐには答えなかった。
「知らん」
「そこも?」
「ああ」
イロハは。
少し笑った。
*
突然。
部屋の奥で。
音。
修理の腕が止まる。
一斉に。
飛ぶ機械の胴体。
白い灯。
一つ。
点く。
イロハが身構える。
「直った?」
機械の脚が。
ゆっくり伸びる。
三本。
身体が少し持ち上がる。
輪が。
一つ。
回る。
次。
もう一つ。
全部。
低い音を立て始める。
「下がれ」
クルムが前へ出る。
イロハは。
言われた通り。
一歩。
下がった。
飛ぶ機械が。
床から浮く。
ほんの少し。
そのまま。
ゆっくり向きを変える。
白い光。
イロハへ。
止まる。
『――人――』
同じ声。
イロハは。
息を止める。
『――確認――』
次。
短い音。
『――経路――継続――』
「何て?」
「経路」
クルムが言う。
「道、という意味に近い」
「継続は?」
「続ける」
イロハは。
浮いている機械を見る。
「道を、続ける?」
機械は。
答えない。
そのまま。
出口へ向かっていく。
*
二人も。
距離を取って追う。
外。
飛ぶ機械は。
台の上で一度止まった。
白い灯。
点滅。
台も。
応える。
そして。
機械は上昇した。
建物の屋根より高く。
灰の空へ。
ゆっくり向きを変える。
飛び去る。
「また行った」
「ああ」
「直して、また」
「ああ」
イロハは。
しばらく見送った。
あの灯は。
ただ。
残っていたのではない。
壊れれば。
直される。
止まれば。
また動く。
誰もいないように見える世界で。
今も。
何かを続けている。
*
建物の外壁。
別の表示が点いた。
点。
線。
イロハが近づく。
「また地図」
今いる場所らしい点が。
白く光っている。
そこから。
線が何本も伸びている。
隣には。
輪から四方に線が伸びた印。
イロハは外の台を見る。
同じ印。
「ここだ」
白い点を指す。
「今いるところ」
「そうだろうな」
「でも、向きが分かんない」
表示の線は。
上にも下にも伸びている。
イロハは金属板を出した。
最初の給水塔。
次の給水施設。
途中で見た壊れた台。
自分で刻んだ点をなぞる。
「ここに来るまで、水の場所を二つ見た」
「ああ」
「一つは大きい建物で、その前に壊れた台があった」
表示を探す。
雫の印。
二つ。
近い位置にある。
一方は白く。
もう一方は暗い。
イロハは暗い方を指した。
「こっちが壊れてた場所?」
「印だけでは分からん」
「うん」
イロハは考えた。
表示の白い点。
暗い点。
その並び。
金属板には、壊れた台から給水施設へ進み、そこからここへ来た順番が残っている。
「じゃあ、こっちが給水施設」
白い雫を指す。
「その手前が、壊れてた台」
「なぜだ」
「ここに来る前に見た順番と同じだから」
クルムが表示を見る。
「逆に見ているかもしれんぞ」
「……あ」
イロハは金属板を裏返しかけた。
止まる。
「そうだ。向きが違ったら、全部逆になる」
表示を見る。
建物の外を見る。
そして。
さっき飛び立った機械を思い出す。
「クルム、あの機械、どっちへ飛んだ?」
「あちらだ」
クルムが指す。
灰の向こう。
低い建物の屋根が途切れる方角。
イロハは表示へ戻る。
白い点の横。
短い線の上を。
小さな光が動いていた。
ゆっくり。
別の点へ。
「これ」
その動く光を指す。
「さっき出ていったやつ?」
「そうかもしれん」
「こっちへ動いてる」
イロハは外を見て。
また表示を見る。
金属板を回す。
一度。
もう少し。
「……こうかな」
表示で光が進む方向と。
実際に飛び去った方向。
二つが重なる向きに。
金属板を合わせた。
すると。
給水施設からここまで来た線も。
大まかに同じ向きになった。
「合った」
「何が」
「向き」
イロハは。
もう一度確かめる。
壊れた台。
給水施設。
今いる建物。
表示の点を。
指で順番に辿る。
「ここまで来た順番も同じ」
「なるほど」
「じゃあ、この図をこっち向きに見ればいい」
「そう見えるな」
イロハは金属板の端に。
小さな矢印を刻んだ。
「これで逆さまにしない」
*
向きを合わせると。
さっきまで入り組んでいた線が。
少しだけ見やすくなった。
イロハは表示を指で追う。
白く点いた場所。
暗い場所。
灰色の場所。
いくつもある。
「これ全部、行けるのかな」
「全部ではないだろう」
「暗いところは壊れてる?」
「そうとは限らん。通信が途切れているだけかもしれん」
「つうしん?」
「機械同士が情報をやり取りすることだ」
「さっきの光みたいに?」
「ああ」
イロハは。
壊れた台を示しているらしい暗い点を見る。
そこは実際に。
動いていなかった。
けれど。
別の暗い点が壊れているかどうかは。
まだ分からない。
「じゃあ、白いところも絶対に使えるわけじゃない?」
「そうだな」
「……困る」
イロハは頬を膨らませた。
それでも。
白い点の方へ指を動かした。
「でも、暗いところよりは確かめる価値がある」
*
線が集まっている場所を探す。
一つ。
二つ。
三つ。
白い点同士を結ぶ線は。
途中で分かれ。
また別の点へつながっている。
その先。
少し離れたところに。
高い柱の印があった。
柱の上から。
いくつもの線が。
外へ広がっている。
イロハはそこに指を置いた。
「これ、何?」
クルムが見る。
「分からん」
「塔?」
「そう見える」
イロハは。
表示の別の場所を探す。
今いる建物の印。
修理する輪。
給水施設の雫。
それぞれ。
建物の外にあったものと合っている。
「じゃあ、これも何かの建物だよね」
「おそらくな」
「しかも」
イロハは柱の印から伸びる線を辿った。
「水のところにも」
別の線。
「ここにも」
さらに。
遠くの点へ。
「まだ続いてる」
途中。
暗い点もある。
でも。
白い点を経由して。
柱まで線がつながっていた。
「これって、灯が通る道?」
「そうかもしれん」
「でも、さっきの灯は空を飛んでた」
「ああ」
「なら、この線が全部、地面の道ってわけじゃない」
金属板を指で叩く。
「さっき確かめた」
クルムは答えなかった。
イロハは。
柱の印を見つめる。
「飛ぶ機械が行く場所をつないでるのか」
少し考える。
「それとも、光で話せる場所をつないでるのか」
「両方かもしれん」
「じゃあ」
柱から広がる線を見る。
「ここは、たくさんの場所と話せるのかも」
クルムが柱の印を見る。
「あり得る」
イロハはもう一度、線を辿った。
白い点。
分かれ道。
別の白い点。
柱。
「ここへ行けば、もっと先の場所も分かるかな」
「少なくとも、ここより広い範囲を扱っている可能性はある」
イロハは頷いた。
その時。
柱の横にある小さな印が目に入った。
「……待って」
金属板を出す。
エデンで写したもの。
壁に現れた新しい印。
それと。
柱の横の印。
並べる。
丸。
短い線。
小さな切れ目。
完全に同じではない。
けれど。
ほかの印より。
ずっと似ている。
「これ」
クルムも覗く。
「似ているな」
「エデンで出てきたやつ」
「ああ」
イロハは指先を移す。
柱の印。
そこから伸びる線。
「エデンに届いたものって」
少し言葉を探す。
「ここを通ったのかな」
「分からん」
「でも、ここがたくさんの場所とつながってるなら」
金属板の印を見せる。
「どこから来たのか、ここなら調べられるかもしれない」
クルムは。
表示を見た。
「それが目的か」
「うん」
イロハは柱の印を指す。
「次、ここ」
*
「行けるのか」
クルムが聞いた。
イロハは表示をもう一度見る。
今いる修理施設。
柱のある場所。
その間。
線は一本ではない。
いくつか。
途中の点を通っている。
最初に目についた線を辿る。
暗い点。
その先も暗い。
「……これはやめる」
指を戻す。
別の線。
白い点。
その次。
雫の印。
「こっちは水」
さらに辿る。
また白い点。
もう一つ。
雫。
そして。
柱の印。
「こっちなら」
イロハは指で一つずつ確かめる。
「水があるかもしれない場所を、二つ通れる」
「白い点でも、使えるとは限らんぞ」
「分かってる」
「水が出ないこともある」
「その時は、次に進む前に残りを確かめる」
水筒へ手を当てる。
「足りなかったら、戻る」
「戻る道は?」
イロハは。
自分が来た方の線を辿った。
修理施設。
給水施設。
最初の塔。
「ここは歩いた」
白い雫の印を指す。
「水が出た場所も覚えてる」
「途中の設備が止まったら?」
「……別の道を探す」
「なければ」
イロハは黙った。
表示を見る。
暗い点。
白い点。
線。
もう一度。
水筒に触れる。
「じゃあ、水が足りなくなる前に戻る」
クルムは少しだけ目を細めた。
「距離は分からんぞ」
「うん」
「一日で着くとも限らん」
「だから、最初の水の場所に着くまでに、どれくらい減るか確かめる」
イロハは。
金属板に。
小さな印を二つ刻んだ。
行きに通る雫。
戻る時にも使える雫。
「道を間違えたら、これを見て戻る」
クルムはしばらく黙っていた。
そして。
「考えたな」
イロハが目を丸くする。
「今、褒めた?」
「事実を言っただけだ」
「もう一回言って」
「行くぞ」
「あ、逃げた」
イロハは笑った。
金属板をしまいかける。
そこで。
思い直して。
もう一度出した。
表示と比べる。
点の位置。
線の曲がり方。
雫の順番。
一つずつ。
最後まで写してから。
ようやくしまった。
「よし」
「終わったか」
「うん」
「では行くぞ」
クルムが歩き出す。
イロハは。
その横に並んだ。
*
建物を離れる。
背後。
修理の場所は。
また静かになった。
でも。
止まってはいない。
次に。
壊れた機械が戻れば。
また。
動き始めるのだろう。
イロハは金属板を見る。
今いる修理施設。
最初に目指す雫。
その次の雫。
遠くの柱。
指先で。
順番に辿る。
外の風景と照らし合わせる。
線そのものは。
地面には残っていない。
飛ぶ機械なら。
崩れた道も。
裂けた地面も。
越えていける。
でも。
イロハには翼がない。
足で歩くしかない。
それでも。
次に確かめる場所は分かっている。




