第51章 灰に残る跡
第5部 灰の向こう
道は。
思ったより長く残っていた。
灰に埋もれ。
ところどころ割れ。
建物の残骸に塞がれている。
それでも。
完全には消えていない。
イロハは先を歩いた。
一歩。
止まる。
地面を見る。
また一歩。
後ろから。
「遅い」
「落ちるよりいいでしょ」
「さっきまで落ちかけていたがな」
「だから見てるの」
クルムは何も言わなくなった。
イロハはしゃがむ。
灰の表面を指で払う。
下から。
黒い地面。
細い亀裂。
その向こうは固そうに見える。
小石を投げた。
転がる。
沈まない。
「こっちは大丈夫」
「私に報告しているのか」
「自分に言ってる」
「そうか」
イロハは立ち上がった。
そのまま進む。
しばらくすると。
後ろの足音が少し近づいた。
*
昼なのか。
夕方なのか。
空を見ても分からない。
灰色の雲が。
ずっと同じ明るさで広がっている。
風だけが変わる。
強くなった。
イロハは顔を伏せる。
灰が頬へ当たる。
「目、痛い」
「閉じろ」
「歩けないじゃん」
「なら止まれ」
イロハは立ち止まった。
近くに。
半分崩れた壁がある。
そこまで移動する。
風を避ける。
クルムは壁の外に立ったままだ。
「入らないの?」
「必要ない」
「灰、平気なの?」
「ああ」
「便利」
「何がだ」
「吸血鬼」
クルムがこちらを見る。
「便利でなるものではない」
「分かってるよ」
イロハは壁にもたれた。
少し休む。
足が痛い。
喉も乾いている。
エデンの中では。
森を歩いても。
疲れ方まで本物だった。
でも。
今の疲れとは違う。
あちらには。
水があった。
木陰があった。
雨も。
匂いも。
ここには。
何もない。
イロハは鞄を探る。
容器を出す。
口をつける前に。
中を見る。
少ない。
一口だけ飲んだ。
蓋を閉める。
「あとどれくらいある」
クルムが聞く。
「今日いっぱいは、たぶん」
「見せろ」
「やだ」
「なぜ」
「自分で分かる」
容器を軽く振る。
かすかな音。
「これくらい」
「たぶんで飲むな」
「一口しか飲んでないよ」
「次からもっと減らせ」
「それじゃ飲んだ気しない」
「死ぬよりいい」
イロハは返事をしなかった。
鞄へ戻す。
壁の外を見る。
「次に何か見つけるなら」
「何だ」
「食べ物より水がいい」
「ああ」
「絶対、水」
立ち上がる。
風は。
少し弱くなっていた。
*
壁を出て。
しばらく歩いたところで。
イロハが止まった。
「クルム」
「何だ」
「ここ」
道の端。
灰の積もり方が。
そこだけ違っていた。
イロハはしゃがむ。
丸い。
大きな円を描くように。
灰が薄くなっている。
中心には。
元の地面が見えていた。
「風かな」
「なら、もっと広く削れる」
イロハは周囲を見る。
すぐ近くには。
同じような場所はない。
円の中へ入る。
「……あ」
灰の薄い場所に。
小さなくぼみがある。
一つ。
少し離れて。
もう一つ。
さらに。
三つ目。
イロハは順に指さした。
「三つ」
ほぼ同じ大きさ。
ほぼ同じ深さ。
中心を囲むように並んでいる。
「足跡?」
「人間のものではない」
「動物?」
「三本足の獣を探してみるか」
「いないの?」
「少なくとも私は知らん」
イロハは一つに指を入れる。
灰の下。
硬い地面まで押されている。
「重かったのかな」
「かもしれん」
「でも」
円の外を見る。
足跡がない。
車輪の跡も。
引きずった跡も。
どこから来たのか。
どこへ行ったのか。
何も残っていない。
「変」
「ああ」
「ここに来たのに」
立ち上がる。
「ここから歩いてない」
クルムは円の外を見る。
「そう見えるな」
イロハは空を見た。
灰色。
何もいない。
「……飛んできた?」
「可能性はある」
その言葉に。
イロハはもう一度、三つのくぼみを見る。
一瞬。
遠い記憶が引っかかった。
灰の向こう。
低いところを動いていた。
いくつもの光。
けれど。
まだ。
うまくつながらない。
*
二人は道へ戻った。
今度は。
イロハが道の両側まで見るようになった。
地面だけではない。
崩れた建物。
管。
溝。
水が溜まりそうな場所。
何もない。
灰。
乾いた土。
割れた金属。
「水って、どこにあるんだろ」
「低い場所を探せ」
「川とか?」
「あればな」
「見えない」
「だから歩いている」
古い道が。
大きく左へ曲がる。
その先。
灰の向こうに。
細長い塔が見えた。
上半分は折れている。
イロハは足を止めた。
「塔」
「ああ」
「人がいた場所なら、水もあったかも」
「昔はな」
「昔でもいい」
イロハが歩き出す。
「管とか残ってるかもしれない」
「飲めるとは限らんぞ」
「見るだけ」
道を外れる。
塔へ近づく。
その途中で。
イロハの足がまた止まった。
「……ここも」
塔の根元。
円形に灰が薄くなっている。
そして。
三つのくぼみ。
さっきと同じ並び方。
「同じだ」
「ああ」
振り返る。
最初の円は。
もう見えない。
二つの間には。
続く跡がない。
「やっぱり飛んでる」
「そう考える方が自然だろう」
イロハは塔を見る。
水を探しに来たはずだった。
でも。
ここにも。
飛んできた何かの跡がある。
*
塔の根元には。
灰に半分埋もれた低い台があった。
四角い。
人の腰ほどの高さ。
金属でできている。
上面は平らで。
中央に浅い窪み。
周囲には。
三か所。
小さな跡。
「これ」
イロハが円の中のくぼみを見る。
次に。
台を見る。
「同じ位置」
「そうだな」
「ここに降りるの?」
「何かがな」
イロハは灰を払う。
上面に。
細い線が現れる。
円。
そこから伸びる短い線。
「待って」
鞄から。
金属板を出す。
エデンで写した印。
並べる。
完全に同じではない。
けれど。
似ている。
「これ、エデンの」
「ああ」
「関係ある?」
「可能性はある」
イロハはさらに灰を払った。
台の横。
別の印が現れる。
丸みのある形。
下へ細く尖っている。
「……これ」
「何だ」
「水っぽくない?」
雫。
そう見えた。
イロハは顔を近づける。
その下。
細い溝がある。
溝は。
塔の根元へ続いていた。
イロハが立ち上がる。
辿る。
灰を払う。
細い管。
途中で割れている。
「管だ」
「ああ」
割れた先へ手を伸ばす。
止まる。
「濡れてる」
クルムが近づく。
灰の下。
管の周りだけ。
色が少し濃い。
イロハが指先を近づける。
「触るな」
止める。
「水?」
クルムがしゃがむ。
匂いを確かめる。
「分からん」
「でも濡れてる」
「ああ」
「こんなに乾いてるのに」
イロハは周囲を見る。
灰。
乾いた地面。
なのに。
ここだけ。
湿っている。
その時。
管の割れ目から。
一滴。
透明なものが落ちた。
灰の上に。
小さな黒い点ができる。
イロハの目が見開かれた。
「水」
「飲むな」
「飲まないよ」
すぐ答える。
でも。
目は離さない。
もう一滴。
落ちない。
「どこから来てるの」
「分からん」
「まだ中にある?」
「それも分からん」
イロハは塔を見る。
壊れている。
古い。
なのに。
水らしきものが。
今。
出た。
*
台の側面で。
小さな光が点いた。
「光った」
「ああ」
一度。
消える。
しばらくして。
また点く。
イロハは。
光。
水の印。
管。
順番に見る。
「これ、動いてる」
「ああ」
「水のための機械?」
「決めつけるな」
「でも印がある」
「水を使うだけかもしれん」
「運ぶとか?」
「かもしれん」
「作るとか?」
「知らん」
イロハは少し考える。
そして。
円形の跡を見る。
ここへ降りた。
何か。
「これを使うやつがいる」
「可能性は高い」
「今も?」
「跡が新しいならな」
イロハの手が。
鞄の水筒へ触れた。
軽い。
「だったら」
台を見る。
「そいつ、水がある場所を知ってるかもしれない」
クルムの視線がイロハへ向く。
「あるいは、これを使っているだけだ」
「どっちでもいい」
「何?」
「水が関係してるなら」
管を見る。
黒く湿った灰。
「何もないところを歩くより、こっちを調べたい」
クルムは答えない。
「水、なくなるんでしょ」
「ああ」
「だったら」
イロハは台を見る。
「待つ」
*
「どれくらい」
クルムが聞いた。
イロハは空を見る。
分からない。
太陽も見えない。
時間も。
灯が来る保証もない。
少し考える。
「……長くは待たない」
「曖昧だな」
「水があと少ししかないから」
「なら今すぐ探しに行く方がいい」
「でも」
イロハは管を見る。
もう一度。
一滴。
今度は落ちなかった。
「ここには、水が来てる」
クルムは黙る。
「たぶん」
「たぶんを増やすな」
「じゃあ、湿ってる」
「ああ」
「それは本当」
イロハは塔の根元に座った。
鞄を膝へ乗せる。
「少しだけ待つ」
クルムはしばらく立っていた。
やがて。
近くの崩れた壁へ寄る。
「何か来ても、すぐ出るな」
「分かってる」
「本当に分かっているか」
「隠れて見る」
「近づくな」
「向こうが来たら?」
「私より前に出るな」
イロハは少し笑った。
「分かった」
*
どれくらい待ったのか。
分からない。
イロハは途中で。
水筒を出した。
飲まない。
残りを見るだけ。
戻す。
台の光は。
同じ間隔で点いている。
白。
消える。
白。
消える。
「来ないね」
「ああ」
「やっぱり探しに行く?」
「お前が決めろ」
「そう言うと思った」
イロハは立ち上がった。
「じゃあ戻る」
道の方を見る。
「この場所は覚えた」
金属板へ。
塔らしい線を一つ刻む。
その横に。
雫の形。
「何を描いた」
「水かもしれない場所」
「飲めるとは限らん」
「だから『かもしれない』」
金属板をしまう。
「行こう」
その時。
台の光が。
二度。
続けて点いた。
白。
白。
消える。
イロハが止まる。
「今までと違った」
「ああ」
少し間。
また。
二度。
「……返事?」
「何への」
「分かんない」
低い音。
イロハが顔を上げた。
風ではない。
遠く。
低く。
一定。
クルムの表情が変わる。
「隠れろ」
「うん」
今度は。
聞き返さなかった。
*
二人は。
塔の根元にある崩れた壁へ移動した。
イロハは壁の陰。
クルムは少し前。
低い音が。
ゆっくり近づいてくる。
イロハは隙間から覗く。
灰。
最初は何もない。
やがて。
遠くに。
一つの光が灯った。
次。
少し横に。
もう一つ。
その向こうにも。
また一つ。
三つだけではない。
さらに。
灯が続く。
同じくらいの間隔で。
横へ。
連なっている。
イロハの目が大きくなった。
「……あれ」
クルムは答えない。
「見たことある」
灰の向こう。
低いところを。
いくつもの灯が進んでいる。
同じ間隔を保ったまま。
イロハの中で。
遠い夜の景色が戻った。
まだ旅を始めて間もない頃。
灰の向こうを動いていた。
何なのか分からないまま。
遠ざかっていった光。
「前にもいた」
「ああ」
クルムが答えた。
イロハが見る。
「覚えてる?」
「忘れん」
「……そっか」
イロハはもう一度、灯を見る。
「あの時のと同じ?」
「断言はできん」
「でも」
「似ている」
以前より。
ずっと近い。
だから。
今度は分かる。
灯は地面の上を走っているのではない。
崩れた建物の屋根より少し高いところを。
浮いて進んでいる。
「飛んでる」
「ああ」
音も。
そこから聞こえている。
灯の列が。
ゆっくり向きを変えた。
塔の方へ。
「こっちに来てる」
「ああ」
イロハは。
台を見る。
雫の印。
湿った管。
残り少ない自分の水。
そして。
近づいてくる灯。
「クルム」
「何だ」
「あれが、ここを使うなら」
「……」
「水のこと分かるかもしれない」
返事はない。
「逃げる?」
今度は。
クルムがすぐには答えなかった。
灯を見る。
距離を測るように。
「まだだ」
イロハは壁の陰へ身体を寄せた。
水筒を握る。
軽い。
逃げた方が安全かもしれない。
でも。
あの灯を逃せば。
次に水につながるものを見つけられる保証はない。
イロハは動かなかった。
*
塔の根元。
平たい台の側面で。
小さな光が白く点いた。
一度。
消える。
もう一度。
遠くの灯も。
ほとんど同じ間を置いて。
一つだけ光った。
イロハが台を見る。
次に。
空の灯を見る。
「返事してる?」
クルムは答えない。
白い点。
連なる灯。
もう一度。
交互に。
光る。
その時。
管の割れ目から。
一滴。
透明なものが落ちた。
灰の上に。
小さな黒い点を作る。
イロハは。
その一滴を見た。
そして。
近づいてくる灯を見る。
あの夜。
ただ遠くに見えていたものが。
今。
水の痕跡が残る場所へ。
まっすぐ向かっていた。




