第50章 楽園の外へ
第4部 選ぶ道
エデンの奥へ進んでも。
答えはなかった。
あるのは。
扉。
白い壁。
眠った機械。
そして。
膨大な記録。
開けば。
また何かが出てくる。
森。
海。
人間。
吸血鬼。
戦争。
災厄。
知らない世界が。
いくらでも。
イロハは途中で足を止めた。
クルムが数歩先で振り返る。
「どうした」
「もういい」
「何が」
「見るの」
クルムは何も言わない。
イロハは周囲を見る。
まだ扉はいくつもある。
全部開けることもできるのかもしれない。
何日かければ終わるのかも分からない。
「全部見ても」
白い壁を指でなぞる。
「たぶん、全部は分かんない」
「今さら気づいたか」
「うるさい」
イロハは手を離した。
「それに」
クルムを見る。
「ここにないこともある」
クルムは答えなかった。
*
二人は最初の大きな部屋へ戻った。
葉。
水。
人。
牙。
いくつもの印が、まだ壁に浮かんでいる。
イロハは葉の印を見る。
触れれば。
また森へ行ける。
大きな木。
川。
雨。
夜に咲く白い花。
今度は別の森を選ぶこともできるだろう。
海も。
星空も。
もう一度見たい。
そう思った。
でも。
手は伸ばさなかった。
代わりに。
部屋の端へ歩く。
あの時。
新しい光が現れた場所。
エデンの中からではなく。
外から何かが届いたように見えた場所。
壁には。
まだ印が残っていた。
「消えてない」
「ああ」
小さな印。
他の記録とは少し違う。
イロハには読めない文字が、その横に並んでいる。
「これ、やっぱり記録じゃないのかな」
「知らん」
「またそれ」
「知らんものは知らん」
イロハはしゃがむ。
腰から薄い金属板を取り出した。
灰の街から持ってきたもの。
道。
曲がり角。
印。
ここへ来るまでに使った線が残っている。
その空いている場所へ。
壁の印を見ながら。
尖った石片で刻み始めた。
クルムが見る。
「何をしている」
「写してる」
「見れば分かる」
「じゃあ聞かないで」
少し歪んだ。
イロハは舌打ちする。
もう一度。
今度はゆっくり。
印の形。
その横に。
自分に分かるよう、小さな線をつける。
「文字は写さないのか」
「読めないもん」
「形だけでも残しておけばいい」
イロハの手が止まる。
壁を見る。
長い文字列。
「全部?」
「好きにしろ」
「多すぎる」
少し考えて。
印のすぐ隣にある短い部分だけを写す。
「これでいい」
「読めんぞ」
「今はね」
金属板を持ち上げる。
「いつか読める人がいるかもしれない」
「いなければ?」
「その時はその時」
クルムは何も言わなかった。
*
部屋を出る。
長い廊下。
初めて来た時は。
床が抜けないか確かめた。
暗い場所ではクルムを先に行かせた。
今は。
イロハが歩いている。
分かれ道。
一度立ち止まる。
右。
違う。
左。
壁の印を確認する。
そのまま進む。
クルムは後ろにいる。
「こっち」
「聞いていない」
「でもついてきてる」
「出口は同じだ」
「はいはい」
角を曲がる。
少し先に。
大きな扉。
入ってきた場所。
イロハは足を止めた。
振り返る。
白い廊下。
その向こうには。
森も。
海も。
星空もある。
でも。
本物ではない。
記録されたもの。
失われたもの。
もしかしたら。
どこかに残っているかもしれないもの。
「クルム」
「何だ」
「森って」
「何だ」
「本当に、もうないのかな」
「知らん」
「海は?」
「あるだろう」
「綺麗なやつ」
「知らん」
「星が見える場所は?」
クルムが少し黙る。
「あるかもしれん」
イロハは扉を見る。
「そっか」
それだけ言った。
*
扉の前。
手を置く場所。
イロハは包帯をずらす。
手のひらを当てた。
光。
一瞬。
低い音。
重い扉が動き始める。
途中で。
止まった。
「また?」
イロハが顔をしかめる。
クルムが横を通る。
扉へ手をかける。
「そのまま押していろ」
「うん」
イロハは手を離さない。
クルムが力を入れる。
重い音。
隙間が広がる。
外から。
風が入ってきた。
冷たい。
乾いた。
灰の匂い。
イロハは目を細める。
ついさっきまで。
花の匂いも。
水の匂いも。
雨上がりの森の匂いも知っていた。
だから。
余計に違いが分かる。
「……灰くさい」
「今さらか」
「前は知らなかったもん」
「何を」
「ほかの匂い」
クルムが扉を押す手を止めない。
人一人が通れるほどになる。
「先に行け」
「うん」
イロハは外へ出た。
*
空は灰色だった。
やっぱり。
青くない。
木もない。
鳥の声も。
川の音も。
ない。
風が灰を運んでいる。
イロハはしばらく立っていた。
クルムも外へ出る。
背後で。
扉がゆっくり閉じていく。
最後の隙間から。
エデンの白い光が一本だけ伸びる。
細く。
細く。
そして。
消えた。
再び。
灰の世界。
「がっかりしたか」
クルムが言った。
「何が?」
「外だ」
イロハは空を見る。
「ちょっと」
「そうか」
「でも」
足元の灰を蹴る。
薄く舞う。
「前と同じには見えない」
クルムがこちらを見る。
「森があったって知ったから」
イロハは歩き出す。
「海も」
また一歩。
「人がいっぱいいたことも」
地面の割れ目を跨ぐ。
「吸血鬼も」
クルムは何も言わない。
「この灰の下に、何があったかも」
イロハは止まった。
振り返る。
「知らなかった時より、見たいものが増えた」
*
「それで」
クルムが言った。
「どこへ行く」
イロハは黙った。
金属板を出す。
エデンまで来るために使った線。
その端。
さっき新しく刻んだ印。
見ても。
行き先は分からない。
道も。
距離も。
そこに何があるのかも。
イロハは顔を上げる。
「分かんない」
「……」
「でも、戻らない」
「村へか」
「うん」
迷わなかった。
「ここにも住まない」
「そうか」
「それで」
金属板を見る。
「この印が何なのかも知りたい」
壁の向こうから届いた。
新しい何か。
三千年経った今も。
エデンへ届いたもの。
「人かもしれない」
「かもしれんな」
「機械かもしれない」
「ああ」
「吸血鬼かも」
「可能性は低い」
「ゼロじゃない?」
クルムは少し黙った。
「知らん」
「じゃあ、ゼロじゃない」
「そういう意味ではない」
「でも分かんないんでしょ」
クルムが面倒そうに目を細める。
イロハは少し笑った。
*
風が吹く。
灰が横へ流れる。
その向こう。
古い道の跡が見える。
来た時とは。
別の方向にも続いている。
途中で消えているけれど。
イロハはそちらへ歩いた。
「待て」
後ろから声。
止まる。
クルムが近づく。
地面を見る。
「そこは沈んでいる」
イロハも見る。
灰の下。
わずかに色が違う。
しゃがむ。
石を拾う。
投げる。
落ちた。
灰の下へ。
少し遅れて。
崩れる音。
「……危な」
「見ろ」
「見てる」
「見ていないから止めた」
「次から見る」
イロハは左へ回る。
地面を確かめる。
一歩。
もう一歩。
通れる。
クルムもついてくる。
しばらく歩いてから。
イロハが振り返った。
「クルム」
「何だ」
「クルムはどこか行きたいところないの?」
「ない」
すぐに返ってきた。
以前なら。
その答えで終わっていたかもしれない。
イロハは少し考える。
「じゃあ」
前を向く。
「しばらく私についてきて」
足音が止まった。
イロハも止まらない。
数歩。
後ろから。
「なぜ」
「一人だと死にそうだから」
「自覚はあるのか」
「あるよ」
少し間を置く。
「それに」
「何だ」
イロハは振り返らない。
「まだクルムのこと、分かんないから」
返事はない。
「だから、知りたい」
風。
灰。
足音。
しばらくして。
もう一つの足音が近づいた。
イロハの横。
少し後ろ。
「勝手にしろ」
「うん」
*
道は途中で二つに分かれていた。
右。
左。
どちらにも。
標識はない。
地図もない。
イロハは立ち止まる。
右を見る。
灰。
左を見る。
灰。
「どっち」
クルムが聞いた。
「今考えてる」
「そうか」
イロハは風を見る。
灰の流れ。
地面。
遠くの崩れた建物。
右には大きな亀裂。
左には。
かすかに。
何かが続いている。
道だった跡。
イロハは左へ向いた。
「こっち」
「理由は」
「道が残ってる」
「それだけか」
「今は」
歩き出す。
クルムも来る。
行き先は。
まだない。
でも。
それでよかった。
あの丘へ向かっていた時とは違う。
あの時は。
クルムの行く先を追っていた。
今は。
イロハが先を歩く。
灰の中。
何があるかも分からない道を。
一歩。
また一歩。
後ろではなく。
前を見ながら。
少しして。
クルムの足音が。
イロハの歩幅に合った。
*
遠く。
灰の向こうで。
一つの光が瞬いた。
イロハは気づかなかった。
クルムだけが。
一度。
そちらを見る。
光はすぐに消えた。
「クルム?」
「何でもない」
「ほんと?」
「ああ」
イロハは少し疑った顔をした。
でも。
歩き続けた。
クルムも。
その横を歩く。
楽園は。
二人の後ろで。
もう見えなくなっていた。
残された世界は。
灰色のまま。
それでも。
道は。
まだ、終わっていなかった。
*
~第4部 選ぶ道 完~




