第49章 記録にない理由
第4部 選ぶ道
欠けた記録は、まだ光っていた。
弱く。
同じ間隔で。
人。
牙。
その間にある空白。
イロハはもう触れなかった。
代わりに。
その周囲を見る。
壊れた記録だけがあるわけではない。
隣にも。
その隣にも。
小さな印が並んでいる。
「こっちは?」
クルムが見る。
「知らん」
「同じ頃の記録かな」
「さあな」
イロハは一番近い印へ指を伸ばした。
途中で止める。
クルムを見る。
「これは?」
「勝手にしろ」
さっきとは違う。
止めない。
イロハは触れた。
*
町だった。
燃えていない。
人もいる。
けれど。
静かだった。
道の端に、人が集まっている。
壁には大きな紙のようなもの。
文字。
絵。
赤い牙の印。
「何て書いてある?」
クルムが目を向ける。
「……吸血鬼に関する告知だ」
「何の?」
「近づくな。血を渡すな。見つけたら知らせろ」
イロハは眉を寄せる。
「前と全然違う」
「ああ」
血を渡す場所。
人間と吸血鬼が並んでいた場所。
子どもが吸血鬼へ近づいていた家。
そんな記録を見たばかりだった。
今は。
人々が牙の印を避けるように歩いている。
一人の男が。
壁の紙を剥がそうとした。
すぐに別の人間が止める。
言い争い。
周囲に人が集まる。
「反対してる人もいる」
「ああ」
次の瞬間。
記録の端に別の文字が浮かぶ。
イロハには読めない。
「何?」
クルムが少し目を細める。
「……協力者」
「誰の?」
「吸血鬼の」
「それが何?」
「処罰対象、とある」
イロハは黙った。
「血を渡した人?」
「それだけではないだろう」
「かくまったり?」
「ああ」
「前は約束だったのに」
クルムは答えない。
*
別の記録へ移る。
暗い部屋。
人間が何人も座っている。
机の上には紙。
壁には地図。
牙の印。
赤い線。
誰かが話している。
クルムが聞く。
「何て?」
「……血の提供が、吸血鬼を増長させたと」
「増長?」
「強くした、という意味だ」
「でも、血がないと生きられないんでしょ」
「ああ」
「じゃあ、渡さなかったら?」
「飢える」
「それで?」
「人を襲う者も出る」
イロハが人々を見る。
「じゃあ余計に危なくない?」
「そう考える者もいただろう」
議論している。
反対する者。
賛成する者。
机を叩く者。
黙っている者。
壁には。
襲撃。
供血。
被害。
数字が並ぶ。
「どっちが正しいの?」
「知らん」
「クルムなら?」
「その頃の私に聞け」
「今聞いてる」
クルムは少し黙った。
「血を断てば、穏やかに終わるとは限らん」
「だよね」
「だからといって、続ければすべてうまくいくわけでもない」
イロハは口を閉じる。
また。
簡単ではない。
*
記録が変わる。
外。
広場。
人が多い。
中央に。
いくつかの台。
イロハの足が止まった。
「これ……」
誰かが縛られている。
人間。
一人ではない。
その近く。
牙の印をつけられた者もいる。
吸血鬼なのか。
人間なのか。
遠くて分からない。
声が響く。
罪。
協力。
血。
反逆。
断片だけが聞こえる。
クルムの顔から。
少しずつ表情が消えていく。
イロハはすぐに気づいた。
「止める?」
「いや」
短い。
再現は続く。
一人の人間が。
群衆の前で何かを叫んでいる。
別の人間が反論する。
押さえ込まれる。
その背後。
牙の印。
血を渡した者。
吸血鬼を守った者。
かくまった者。
同じ場所に集められている。
「みんな吸血鬼じゃない」
「ああ」
「人間もいる」
「ああ」
「どうして?」
「吸血鬼とのつながりを切るためだろう」
「つながり?」
「血を渡す家。かくまう家。契約を残す家」
イロハは前に見た記録を思い出す。
血を渡す人。
その家族。
守られる子ども。
「その人たちも?」
「ああ」
クルムの声は低かった。
*
場面の端に。
細い文字の列が現れた。
途中まで。
また欠ける。
イロハは近づく。
「これも壊れてる」
「そうだな」
「同じ頃だけ?」
クルムは答えない。
イロハは別の記録を開く。
今度は。
途中から始まった。
広場。
歓声。
怒号。
光。
そこで終わる。
「こっちも」
次。
また途中だけ。
拘束された人影。
何かを読み上げる声。
その先がない。
「これも」
さらに。
別のもの。
音声だけ。
雑音。
そして。
消える。
イロハは手を止めた。
「変」
「何が」
「災厄の記録は、あんなに残ってた」
クルムを見る。
「クルムが町を壊したところも。人を殺したところも。封じられたところも」
「ああ」
「なのに、その前だけ」
壁を見る。
「壊れてる」
返事はない。
「たまたま?」
「かもしれん」
「でも、同じ頃のばっかり」
クルムの赤い瞳が、並んだ欠損を見る。
「……そうだな」
それ以上は言わなかった。
*
イロハは壁の端へ移動した。
そこに。
細い線。
記録同士をつないでいるように見える。
一つ。
また一つ。
多くは続いている。
けれど。
問題の場所だけ。
線が切れていた。
「ここ」
指をさす。
「途中がない」
「見れば分かる」
「違う」
イロハは首を振る。
「前と後はある」
災厄の前。
人間と吸血鬼が共にいた記録。
血の約束。
反発。
供血制限。
協力者への処罰。
その後。
燃える町。
人を殺すクルム。
封印。
「ここだけ抜けてる」
指で、空白をなぞる。
「一番知りたいところ」
クルムは何も言わなかった。
*
少し離れた壁に。
別の表示が浮かんだ。
文字のほかに。
小さな四角。
いくつかは白。
いくつかは灰色。
一つだけ。
黒い。
「これ何?」
クルムが見る。
「記録の状態かもしれん」
「白いのは?」
「分からん」
「灰色は?」
「分からん」
「黒いのは?」
「……分からん」
「全部分かんないじゃん」
「だからそう言っている」
イロハは黒い四角を見る。
その横に。
欠けた記録と同じ印。
「これ、さっきのやつじゃない?」
クルムも見る。
「そう見える」
「じゃあ、何か意味あるんだ」
「意味はあるだろう」
「読めない?」
「文字が崩れている」
イロハはしばらく眺める。
でも。
分からないものは分からない。
手を伸ばしかけて。
やめた。
さっき言われた。
触るな。
そこだけは守る。
*
「エデンって」
イロハが言った。
「何でも残してると思ってた」
「何でもではない」
「でも、すごくいっぱいある」
「ああ」
「森も。海も。人間も。吸血鬼も」
「そうだな」
「なのに」
欠けた場所を見る。
「残ってないものもある」
「ああ」
「誰かが消したのかな」
クルムはすぐに答えなかった。
「壊れただけかもしれん」
「でも、同じところばっかり」
「そう見えるだけかもしれん」
「クルムはどう思う?」
長い沈黙。
「分からん」
いつもの言葉。
でも。
今は少し違って聞こえた。
本当に分からないのか。
答えたくないのか。
イロハには判断できない。
だから。
決めなかった。
*
少しして。
イロハは別の記録を開いた。
今度は。
文章ばかりだった。
映像はない。
人の名前らしきもの。
場所。
日付のようなもの。
長い文字列。
「読める?」
「少し」
「何て?」
クルムが目で追う。
「……事件記録」
「何の?」
「複数ある」
さらに追う。
「吸血鬼による襲撃」
次。
「人間側の報復」
次。
「供血契約者の拘束」
少し間が空く。
「処刑」
イロハの目が止まる。
「誰の?」
「そこまでは読めん」
「吸血鬼?」
「分からん」
文字の一部が欠けている。
名前も。
年齢も。
場所も。
途中から読めない。
「また」
イロハが呟く。
クルムは黙った。
イロハは一つ下を見る。
「これは?」
クルムの表情が止まった。
ほんの一瞬。
それだけ。
「何?」
「……同じだ」
「処刑?」
「ああ」
「誰?」
「読めん」
イロハは文字を見る。
そこに。
小さな印があった。
人。
牙。
そして。
太陽。
イロハは眉を寄せる。
「太陽?」
クルムは答えなかった。
「これ、どういう意味?」
「知らん」
短い。
イロハはそれ以上聞かなかった。
*
白い部屋へ戻った。
今度は。
イロハの方から記録を閉じた。
「もういいのか」
「今日は」
壁にはまだ、いくらでも記録がある。
開けば。
もっと見つかるかもしれない。
でも。
見れば分かるとは限らない。
むしろ。
分からないことが増えた。
「記録って」
イロハが言う。
「残ってても、全部は分かんないんだね」
「ああ」
「見たことしか残らないから?」
「それもある」
「思ったことは?」
「残らん」
「どうしてやったかも?」
「本人が残さなければな」
イロハはクルムを見る。
「じゃあ」
少し迷う。
「クルムの理由も、エデンにはない?」
「少なくとも」
クルムは壁を見る。
「今見たものにはない」
「クルムの中にはある?」
赤い瞳がイロハを見る。
「ああ」
やっぱり。
ある。
エデンにはないものが。
クルムの中には。
「いつか話してくれる?」
今度は。
長く沈黙した。
イロハは待つ。
急かさない。
やがて。
「分からん」
返ってきた。
前なら。
もっと聞いたかもしれない。
どうして。
いつなら。
何が嫌なのか。
でも。
イロハは頷いた。
「そっか」
それだけ。
*
クルムが壁から離れる。
イロハもついていく。
数歩。
足を止めた。
振り返る。
欠けた記録。
人。
牙。
その間の空白。
何度見ても。
そこには何もない。
けれど。
何もなかったわけではない。
その前にも。
その後にも。
人は生きていた。
吸血鬼も。
誰かが血を渡し。
誰かが守り。
誰かが恐れ。
誰かが憎み。
そして。
何かが起きた。
記録には残らなかった。
あるいは。
残っていたものが、失われた。
イロハにはまだ分からない。
それでも。
空白の向こう側に。
クルムが人を殺し始めた理由がある。
それだけは。
もう分かっていた。
イロハは前を向く。
クルムは少し先にいる。
追いつく。
何も聞かず。
隣に並んだ。
クルムは何も言わなかった。
そのまま。
二人で、エデンの奥へ歩いていった。




