第46章 均衡を守る者
第4部 選ぶ道
線は、消えなかった。
人。
獣。
植物。
吸血鬼。
いくつもの印が、複雑につながっている。
一本だけではない。
人から吸血鬼へ。
吸血鬼から獣へ。
獣から植物へ。
植物から人へ。
また別の線が伸びる。
イロハは少し離れて、全体を見た。
「分かんない」
「そうだろうな」
「クルムは分かる?」
「全部は無理だ」
壁には文字も流れている。
イロハには読めない。
クルムも、ところどころしか追えていない。
「さっき、均衡って言ったよね」
「ああ」
「これのこと?」
「おそらくな」
「均衡って何?」
「偏りすぎないことだ」
「何が?」
「色々だ」
「それじゃ分かんない」
クルムは面倒そうに壁を見る。
「一つが増えすぎれば、別のものが減る。一つが消えれば、それを食っていたものも困る」
イロハは図を見る。
「みんなつながってるから?」
「ああ」
その時。
図の一部が光った。
森。
獣。
人。
三つの印。
景色が切り替わる。
*
広い草原だった。
その先に森がある。
草を食べる獣の群れ。
イロハは数えようとして、途中でやめた。
「多い」
「ああ」
時間が進む。
群れはさらに増えた。
草原の緑が薄くなる。
地面が見える場所が増えていく。
森の端。
若い木の芽も食べられていた。
「食べすぎてる?」
「そう見えるな」
さらに時間が進む。
草が減る。
土が露出する。
雨。
地面が流れる。
川が濁る。
イロハは眉を寄せた。
「獣がいるだけなのに」
「多すぎるんだろう」
次の瞬間。
森から別の獣が出てきた。
大きい。
牙がある。
一頭ではない。
草を食べていた群れが逃げる。
「食べるの?」
「ああ」
「かわいそう」
「そうだな」
「でも」
イロハは草原を見る。
捕食する獣が増える。
草を食べる獣は減る。
しばらくすると。
草が戻り始めた。
「……戻った」
クルムは答えない。
今度は捕食する獣の数が増えていく。
群れを追う。
森の外へ。
さらに。
人の住む場所へ近づく。
「あ」
家。
畑。
人。
その前に。
白い肌の者が現れた。
吸血鬼だった。
*
一人の吸血鬼が、森との境に立つ。
大きな獣が近づく。
襲いかかる。
吸血鬼がかわす。
首を掴む。
地面へ押さえつける。
けれど。
殺さなかった。
しばらく押さえた後。
森の方へ放す。
獣が逃げていく。
別の一頭。
今度は何度も戻ろうとする。
吸血鬼が倒した。
動かなくなる。
イロハはその違いを見る。
「全部倒さない」
「ああ」
「でも、来るやつは倒す」
「そうだな」
「どうして分けてるんだろ」
クルムは答えない。
イロハは記録を追った。
人の暮らす場所。
その外。
畑。
さらに外。
森。
吸血鬼たちは、その間を歩いている。
「境目にいる」
イロハが言った。
クルムが見る。
「何が」
「吸血鬼」
指をさす。
「人のところにもいる。でも、森の中にもいる」
別の記録。
夜。
吸血鬼が森を歩いている。
罠にかかった獣を外す。
別の場所では。
増えすぎた獣を狩る。
さらに別の場所では。
人間が森へ入ろうとするのを止めていた。
「今度は人を止めてる」
「ああ」
「なんで?」
記録の人間が何かを訴える。
森を指す。
木を指す。
吸血鬼は首を振る。
別の道を示す。
「木を取りに行きたいのかな」
「そう見える」
「でも入れない」
「ああ」
「吸血鬼が守ってる?」
クルムはすぐには答えなかった。
「そう見えるだけだ」
「違うの?」
「本人が何を考えていたかは分からん」
イロハは吸血鬼を見る。
「でも、止めてる」
「それは事実だ」
*
文字が流れる。
声。
『――――』
『――生態――』
『――捕食――』
『――人口――』
『――境界――』
クルムの目が細くなる。
「何?」
「人間側の記録だ」
「何て書いてあるの?」
「吸血鬼がいる地域では、生き物の数が大きく偏りにくい」
「なんで?」
「だから、それを調べているんだろう」
記録が進む。
地図。
いくつもの地域が並ぶ。
一つ。
吸血鬼が多い土地。
もう一つ。
ほとんどいない土地。
さらに別の土地。
数字が並んでいる。
イロハには分からない。
けれど。
色の違いなら分かる。
吸血鬼がいる場所では。
森。
獣。
人の住む場所。
それぞれが一定の範囲に収まっている。
吸血鬼が少ない場所。
人の住む場所が広がる。
森が小さくなる。
獣が減る。
別の獣が増える。
「……違う」
イロハが言った。
「何が」
「こっち」
吸血鬼の少ない方を指す。
「人の場所が、どんどん広がってる」
「ああ」
「森がなくなってる」
「ああ」
イロハはもう一方を見る。
「こっちは止まってる」
「そう見えるな」
「吸血鬼が止めてたの?」
「分からん」
「また?」
「何度言わせる」
クルムは壁を見る。
「この記録を作ったのは人間だ」
イロハは彼を見る。
「それが何?」
「人間が見て、人間が数字にして、人間が意味をつけた」
「嘘ってこと?」
「そうは言っていない」
クルムは少し間を置く。
「だが、数字が合っていても、理由まで正しいとは限らん」
イロハは地図へ戻る。
「じゃあクルムはどう思う?」
「何を」
「吸血鬼が森を守ってたってこと」
「知らん」
「昔いたんでしょ」
「すべての吸血鬼を知っていたわけではない」
少し強い。
でも。
怒ってはいない。
イロハは黙って続きを見る。
*
別の記録。
今度は大きな町。
周囲を畑が囲んでいる。
さらにその外に森。
町には人間と吸血鬼の両方がいた。
夜になる。
人間の多くが家へ帰る。
吸血鬼が外へ出ていく。
「交代みたい」
イロハが言った。
昼。
人間が働く。
畑。
店。
道。
夜。
吸血鬼が動く。
森。
境界。
遠くへ続く道。
荷物を運ぶ者を護衛する者。
獣を追い払う者。
壊れた柵を直す人間のそばに立つ者。
「昼と夜で分かれてる」
「ああ」
「便利だね」
「そうだな」
次。
町の外。
畑を広げようとしている人間たち。
木に印をつけている。
そこへ吸血鬼が来る。
話し合い。
人間が地図を広げる。
吸血鬼が別の場所を指す。
何度かやり取り。
最後には。
伐る場所が変わった。
「また止めた」
「全部ではない」
クルムが言う。
確かに。
木は伐られている。
ただ。
森の奥までではない。
「守るんじゃなくて」
イロハは考える。
「使いすぎないようにしてた?」
「そういう契約だった可能性はある」
「なんで吸血鬼が?」
「森がなくなれば、獣も減る」
「うん」
「獣が減れば、人の住む場所が広がる」
「うん」
「人が増えれば、血は増える」
「じゃあいいじゃん」
クルムがイロハを見る。
「そう単純ではない」
「なんで?」
「増えすぎた人間は争う」
短い言葉だった。
イロハは黙る。
「土地を求める。水を求める。食べ物を求める」
クルムは記録の町を見る。
「人間同士だけではない。吸血鬼ともぶつかる」
「だから増えすぎない方がよかった?」
「私はそう言っていない」
「でも」
「結果としてそうなることがあった、というだけだ」
イロハは口を閉じた。
また決めつけそうになった。
記録を見る。
*
時間が進む。
同じ町。
人が増えた。
家が増えた。
畑も広がった。
血を提供する場所も大きくなっている。
吸血鬼も増えている。
けれど。
森はまだ残っていた。
川も澄んでいる。
道の外へ出ると。
獣の姿もある。
壁に文字。
声。
『――均衡――』
今度は、イロハにもその音が分かった。
「また言った」
「ああ」
続く言葉をクルムが拾う。
「……人間」
次。
「吸血鬼」
さらに。
「生態系」
声が乱れる。
戻る。
「……調整」
イロハが首を傾げる。
「吸血鬼が調整してたってこと?」
「この記録はそう考えているらしい」
「クルムは?」
「違う」
即答だった。
イロハが見る。
「違うの?」
「私たちは、そのために生きていたわけではない」
クルムの赤い瞳が、記録の中の吸血鬼を見る。
「森を守るために生まれたわけでもない。人間の数を調整するためでもない」
「じゃあ何のため?」
「そんなものはない」
「ない?」
「お前は何のために生まれた」
イロハは答えられなかった。
「……分かんない」
「同じだ」
クルムは言う。
「生きていただけだ」
吸血鬼が人を守る。
獣を狩る。
森へ入り。
血を受け取る。
人間と話す。
「人間が後から意味をつけた」
「均衡を守る者って?」
「ああ」
「でも、本当にそうなってた」
「結果としてな」
クルムはそこで言葉を切った。
*
記録が切り替わる。
今度は。
吸血鬼が減っていた。
最初は、わずか。
一つの町から数人が消える。
別の場所。
血の提供所が閉じている。
さらに別の場所。
人間と吸血鬼の間に柵。
その前で誰かが叫んでいる。
イロハの表情が変わる。
「これ……」
クルムは何も言わない。
記録は進む。
吸血鬼がいた地域。
印が減る。
一つ。
また一つ。
その代わり。
人の住む場所が広がっていく。
森へ道が伸びる。
木が切られる。
畑が増える。
町が大きくなる。
イロハはしばらく見ていた。
「前に見たのと同じだ」
「ああ」
「街が広がって、森が減ってる」
「そう見える」
「吸血鬼が減った後に」
イロハは言いかけて。
止めた。
地図をもう一度見る。
「……これだけじゃ、理由までは分からないんだよね」
クルムの赤い瞳が、一瞬だけイロハを見る。
「ああ」
それだけ。
イロハは記録へ戻る。
吸血鬼が減ったから、人間が広がったのか。
人間が広がったから、吸血鬼が減ったのか。
別の理由があったのか。
この記録だけでは分からない。
*
さらに時間が進む。
人の街は大きくなる。
道が増える。
夜も明るくなる。
機械が増える。
森が減る。
それでも。
人間は前へ進んでいるように見えた。
病を治す。
食べ物を増やす。
遠くへ行く。
高い建物を作る。
できることが増える。
その一方で。
地図から。
吸血鬼の印が一つずつ消えていく。
イロハは黙って見ていた。
「クルム」
「何だ」
「この時、吸血鬼はどうしてたの?」
「知らん」
「クルムは?」
少し間が空いた。
「時代が違う」
「これ、クルムより後?」
「一部はな」
イロハは地図を見る。
三千年という時間。
長すぎて。
まだうまく想像できない。
「じゃあ、クルムも知らない吸血鬼がいたんだ」
「当然だ」
「クルムが眠ってる間にも」
「ああ」
吸血鬼の印がまた一つ消える。
「ずっと生きてたんだね」
返事はない。
「吸血鬼も」
イロハは小さく言う。
「クルムがいない間も」
クルムは地図を見たままだった。
*
最後に残ったのは。
二つの地図だった。
一つ。
人間と吸血鬼が共にいた時代。
森。
町。
獣。
川。
それぞれが色分けされている。
もう一つ。
吸血鬼の印がほとんど消えた後。
人の領域が大きく広がっている。
森は小さい。
町は巨大。
道があらゆる場所を結んでいる。
イロハは二つを見比べる。
「どっちが正しかったんだろ」
「正しい?」
「こっちは森がいっぱいある」
古い方。
「でも、人ができることは少ない」
新しい方。
「こっちは森が少ない。でも、病気を治したり、遠くまで行ったりできる」
少し考える。
「どっちがいいの?」
「知らん」
「クルムなら?」
「決める必要がない」
「なんで?」
「どちらも、もう終わった世界だ」
イロハは黙った。
少し冷たい答えに聞こえた。
けれど。
クルムは二つの地図を見ている。
「それに」
珍しく、言葉が続いた。
「残すものを選べば、失うものも出る」
イロハは彼を見る。
「全部は無理?」
「少なくとも、あの者たちにはな」
白い光の中。
二つの地図が消えていく。
*
エデンの部屋が戻った。
イロハは壁を見る。
牙の印。
その隣に。
人。
建物。
機械。
そして。
赤い印。
前に見た記録で、増え続けていたもの。
イロハはそちらへ目を移す。
人間が繁栄した。
森が減った。
吸血鬼も減った。
でも。
それだけでは。
世界が灰に覆われた理由にはならない。
「まだ続きがある」
「ああ」
クルムが答える。
イロハは赤い印を見る。
前は怖かった。
今も怖い。
けれど。
手を伸ばした。
「見る」
クルムは止めなかった。
指先が、赤い光へ触れる。
その瞬間。
部屋中の光が消えた。
これまでとは違う。
何も再現されない。
真っ暗なまま。
低い音だけが響いた。
そして。
遠くで。
一つ。
赤い光が灯った。




