第45章 血を与えた者たち
第4部 選ぶ道
イロハの指が止まった。
牙。
前にも一度、触れた印。
あの時は。
人間の隣を歩く吸血鬼を見て、途中でやめた。
知れば。
クルムのことまで知ってしまう気がしたから。
けれど今は。
人間だけを見ても、分からないことが増えた。
イロハは横を見る。
クルムは何も言わない。
「今度は見る」
「好きにしろ」
イロハは牙の印へ触れた。
白い部屋が暗くなる。
*
夕暮れだった。
最初に現れたのは、壁に囲まれた小さな町。
石の家。
狭い道。
門。
前の記録で見た大きな街より、ずっと古く見える。
人々が行き交っている。
その中に。
白い肌。
赤い瞳。
「いる」
イロハが呟く。
吸血鬼だった。
一人ではない。
道の向こうにも。
家の前にも。
人間と話している者がいる。
誰も逃げない。
子どもがその横を走っていく。
人間の女が、吸血鬼へ何かを渡した。
紙のようなもの。
吸血鬼が受け取り、頷く。
「普通にいる」
「ああ」
「人間の町なのに」
「ここでは、そうだったんだろう」
イロハは歩き出す。
道の先に、人が集まっていた。
建物の前。
列ができている。
「何してるの?」
「さあな」
近づく。
列に並んでいるのは人間だった。
男。
女。
若い者。
年を取った者。
一人ずつ、中へ入っていく。
イロハも後を追った。
*
部屋の中には椅子が並んでいた。
一人の男が座る。
腕を台へ置く。
隣には人間。
その向こうに吸血鬼。
細い器具が男の腕へ当てられた。
透明な容器の中へ、赤いものが流れていく。
イロハは足を止めた。
「血……」
「ああ」
男は苦しんでいない。
隣の人間と話している。
時々笑っている。
血が一定の量まで溜まると、器具が外された。
腕に布が巻かれる。
男は立ち上がる。
代わりに、次の人が座った。
「これ」
イロハはクルムを見る。
「クルムが言ってたやつ?」
クルムは記録を見たまま答える。
「そうだろうな」
血の約束。
人間が血を与える。
吸血鬼が守る。
星の見えない丘で聞いた話。
言葉だけだったものが、今。
目の前で動いている。
「みんな自分で来てるの?」
「この記録だけなら、そう見える」
「怖くなかったのかな」
「怖かった者もいるだろう」
「でも来た」
「ああ」
イロハは列を見る。
誰かに引きずられてきた者はいない。
逃げようとしている者も。
首輪をつけられた者も。
ただ。
自分の番を待っている。
声が流れた。
『――――供血――』
聞き取れない言葉の中に、クルムが反応する。
「何?」
「血を提供する者について話している」
「何て?」
クルムは耳を澄ませる。
『――契約――』
『――保護――』
『――家族――』
そこで声が乱れた。
「それだけだ」
イロハは透明な容器を見る。
「取られるんじゃなくて」
少し考える。
「渡してたんだ」
「そういう場所もあった」
クルムが答えた。
*
突然。
低い音が町に響いた。
人々が一斉に顔を上げる。
「何?」
門の方から声。
走る足音。
さっきまで血を受け取っていた吸血鬼たちが動いた。
早い。
人間とは比べものにならない。
イロハが目で追うより先に、建物の外へ消える。
「行く」
イロハも走った。
門の外。
何かがいた。
大きな獣。
一頭ではない。
痩せた身体。
長い牙。
町へ近づこうとしている。
門の前には数人の人間。
その前へ。
吸血鬼が出た。
戦いは長くなかった。
一人が獣を引きつける。
別の一人が横から入る。
人間では持ち上げられそうもない身体が宙へ飛んだ。
地面へ叩きつけられる。
残った獣が逃げる。
吸血鬼は追わなかった。
町から離れたのを確認すると。
そのまま門の中へ戻る。
「……守った」
イロハが言った。
「ああ」
「本当に」
言葉が止まる。
血を渡す人間。
町を守る吸血鬼。
聞いていた通りだった。
門のところで。
さっき血を渡していた男が、一人の吸血鬼に声をかけた。
何か言う。
吸血鬼が短く返す。
男が笑った。
それだけ。
大げさに頭を下げることも。
怯えることもなかった。
近所の誰かと話しているように見えた。
「ずっと、こんな感じだったの?」
「ずっとではない」
「じゃあ、どれくらい?」
「場所による。時代にもよる」
イロハはクルムを見る。
「うまくいってたところもあった?」
「ああ」
「うまくいかなかったところも?」
「あった」
クルムはそれ以上言わなかった。
*
景色が変わる。
今度は町ではない。
一軒の家。
食卓の上に、小さな器が置かれていた。
人間が二人。
吸血鬼が一人。
紙のようなものを挟んで座っている。
一人の人間が、自分の指先を小さく切った。
血が一滴。
器の中へ落ちる。
次に吸血鬼が手を伸ばした。
何かをする。
記録が少し乱れた。
イロハにはよく見えない。
声。
『――名――』
そこだけ、クルムが顔を上げた。
イロハも気づく。
「名前?」
「ああ」
「これも約束?」
「そうだろう」
人間が何かを言う。
吸血鬼も答える。
紙へ印が残る。
互いに頷いた。
「血だけじゃないの?」
「契約による」
「名前も?」
「普通の名を残すことはあった」
クルムは短く答えた。
イロハは彼を見る。
以前聞いた話を思い出す。
名前。
血。
約束。
けれど。
それ以上は聞かなかった。
目の前の記録を見る。
契約が終わると。
人間の一人が奥の部屋から子どもを呼んだ。
小さな子。
吸血鬼を見る。
少しだけ怖そうにしている。
それでも。
親の後ろへ隠れるだけで、逃げない。
吸血鬼がしゃがんだ。
子どもと同じ高さになる。
何か言う。
子どもが少しだけ顔を出す。
吸血鬼は手を伸ばさなかった。
ただ待っている。
やがて。
子どもの方から近づいた。
イロハは黙って見ていた。
「この子も血を渡すの?」
「いや」
クルムがすぐに答えた。
「契約したのは親だ」
「じゃあ、この子は?」
「守られる側だろう」
イロハは子どもを見る。
「家族ごと?」
「そういう契約もあった」
「血をくれる人だけじゃないんだ」
「ああ」
「その人が大事にしてる人も?」
クルムは一瞬だけ黙る。
「契約に入っていればな」
イロハはまた記録を見る。
親の後ろから出てきた子どもが。
今は吸血鬼のすぐ近くに立っている。
*
次の記録。
さらに古い。
石造りの家。
夜。
人間の男が一人、扉の外に立っている。
その横には吸血鬼。
二人は同じ方向を見ていた。
遠く。
火が上がっている。
別の集落らしい。
男が何か言った。
吸血鬼が頷く。
そして。
男は家へ戻った。
吸血鬼だけが暗闇へ走っていく。
場面が変わる。
別の記録。
洪水。
川からあふれた水。
人間では動かせないほど大きな木を、吸血鬼がどかしている。
その向こうから人々が逃げる。
次。
崩れた建物。
瓦礫の下から人を引き出す吸血鬼。
次。
夜道。
人間の一団の前後を、二人の吸血鬼が歩いている。
護衛。
その代わり。
別の日。
同じ人々が血を渡している。
「町だけじゃないんだ」
イロハが言った。
「家も」
次の景色。
「旅する人も」
また次。
「色々」
「ああ」
クルムは静かに答える。
イロハは少し考えた。
「血って」
「何だ」
「吸血鬼にとって、そんなに大事なんだよね」
「ああ」
「ないと生きられない」
「そうだ」
「人間は、それを知ってて渡してた」
「ああ」
「その代わり、守ってもらった」
「ああ」
イロハは記録を見る。
「どっちが上だったの?」
クルムの視線が動く。
「何?」
「人間と吸血鬼」
「なぜ上下を決める」
「だって」
イロハは少し言葉を探す。
「吸血鬼の方が強いでしょ」
「ああ」
「だったら、無理やり取れたんじゃないの?」
クルムはしばらく黙った。
「取る者もいた」
イロハは彼を見る。
「いたんだ」
「ああ」
「でも、ここにいる吸血鬼はしない」
「そうだな」
「なんで?」
クルムは記録の中の人間を見る。
「奪えば、次の日から敵になる」
短く言う。
「守れば、次の日も血を渡す者がいる」
「それだけ?」
「最初は、それだけだった者もいるだろう」
「最初は?」
クルムは答えない。
記録の中。
血を渡した人間が、吸血鬼へ何かを渡した。
小さな包み。
吸血鬼が困ったような顔をする。
人間が笑う。
受け取る。
「……仲良くなることもあった?」
「あった」
クルムはそれだけ答えた。
*
景色が変わる。
大きな町。
時代が進んでいる。
建物も。
服も。
最初に見たものより新しい。
町の中心に、大きな掲示板のようなものがあった。
文字。
図。
数字。
人間と吸血鬼の印。
イロハには読めない。
「何て書いてある?」
クルムが見る。
「血の提供量。登録された家。保護区域」
「そんなのまで決めてたの?」
「ああ」
「町全部で?」
「ここではそうらしい」
地図の上。
人間の住む場所。
吸血鬼の住む場所。
その間に線が引かれている。
けれど。
壁ではない。
道がつながっている。
両方から人が行き来している。
「別々なのに、一緒なんだ」
「そういう時代もあった」
イロハは地図を見る。
一つの場所を指す。
「ここは?」
丸い印がいくつも重なっている。
人間。
吸血鬼。
動物。
森。
クルムが文字を追う。
「……管理区域」
「何を管理するの?」
「そこまでは分からん」
イロハは首を傾げる。
記録が切り替わった。
*
森だった。
けれど。
少し前に歩いた保存された森とは違う。
これは誰かが見せるための景色ではない。
記録の中の出来事。
人間が数人。
その先に吸血鬼がいる。
さらに奥。
大きな獣。
一頭。
二頭。
もっといる。
吸血鬼たちは、人間ではなく。
獣の群れを見ていた。
「何してるの?」
「さあな」
獣が一頭。
森の外へ向かう。
その先には、人の住む場所。
吸血鬼が動いた。
獣の前へ出る。
追い返す。
別の一頭も。
さらに。
一頭だけ倒した。
残りは森の奥へ逃げる。
イロハは眉を寄せる。
「全部殺さないんだ」
「必要がないからだろう」
「町を守るなら、全部倒した方がよくない?」
クルムは記録を見つめる。
「それでは別のものが増える」
「別のもの?」
「……」
クルムは壁に流れる文字へ目を向けた。
何かを読もうとしている。
けれど。
途中で表示が崩れた。
「何?」
「読めん」
「少しも?」
「一部だけだ」
「何て?」
クルムは少し間を置いた。
「均衡」
「きんこう?」
「ああ」
「何の?」
答えはなかった。
森の上に。
いくつもの印が浮かび上がる。
人。
獣。
植物。
吸血鬼。
線で結ばれていた。
一つだけではない。
何本も。
複雑に。
イロハはその図を見上げる。
「これも、つながってるの?」
クルムはしばらく見たあと。
「ああ」
そう答えた。
イロハはもう一度、森を見る。
人間が血を与える。
吸血鬼が人を守る。
それだけだと思っていた。
けれど。
エデンに残された記録は。
その約束が、もっと大きなものの中にあったことを示していた。




