↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
終わりの名を持つ君へ  作者: そらいろは
第4部 選ぶ道

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
44/60

第43章 保存された森

第4部 選ぶ道

 白い部屋に、静けさが戻っていた。


 さっきまで頭上を埋め尽くしていた星はない。


 森も。


 海も。


 雪も。


 目の前にあるのは、白い壁と、並んだ機械だけだった。


 イロハはしばらく壁を見上げていた。


 葉。


 動物。


 人。


 建物。


 いくつもの印が並んでいる。


 そして、その端には、さっき増えたばかりの見知らぬ印。


 そちらも気になった。


 けれど。


 イロハの指は、葉の印へ向かった。


「また森か」


 クルムが言った。


「うん」


「さっき見ただろう」


「見たけど、すぐ変わっちゃったから」


 森。


 雪。


 海。


 星。


 どれも初めて見るものばかりで、目で追うだけで精いっぱいだった。


「今度は、ちゃんと見たい」


 イロハは葉の印に触れた。


 すぐには何も起こらなかった。


 代わりに、壁にいくつもの小さな景色が浮かぶ。


「いっぱいある」


 森だけでも、一つではないらしい。


 背の高い木が並ぶ場所。


 地面まで緑に覆われた場所。


 霧の中に沈む森。


 赤や黄色の葉に覆われた森。


 見たことのない景色が並んでいる。


「森って、こんなに違うの?」


「ああ」


 クルムが答える。


「場所も、気候も違えばな」


「どれがいい?」


「好きにしろ」


「クルムに聞いてるの」


「なぜ私が選ぶ」


「知ってるから」


「知っていることと、選ぶことは別だ」


 イロハは口を尖らせる。


 それから、一つの景色を指した。


 大きな木々。


 その間を細い川が流れている。


「じゃあ、これ」


 触れる。


 光が消えた。


     *


 森が現れた。


 今度は驚いて走り出さなかった。


 イロハは、その場に立ってゆっくり周囲を見る。


 前に見た森より暗い。


 木が高く、枝が空を覆っている。


 葉の間から落ちる光は少ない。


 地面には苔が広がっていた。


 湿った空気。


 水の音。


 遠くから鳥の声。


 イロハは一歩進む。


 足元の感触を確かめる。


 柔らかい。


 けれど、もう本物だとは思わない。


 そこにあるように感じるだけ。


 それでも。


「すごい」


 小さく言った。


 クルムが横を通り過ぎる。


「さっきも言っていたな」


「だって、すごいものはすごいでしょ」


 イロハも歩き出す。


 今度はクルムの少し横。


 森の中には細い道が続いていた。


「こういう森も、昔は普通にあった?」


「あった」


「クルムも歩いた?」


「ああ」


「こういうところを?」


「似た場所ならな」


 イロハは周りを見る。


「何しに?」


「何もしない」


「何もしないのに森に来るの?」


「歩くだけのこともある」


「なんで?」


 クルムがイロハを見る。


「理由がなければ歩いてはいけないのか」


「そうじゃないけど」


 イロハは少し考えた。


 これまでクルムと歩いた道には、いつも目的があった。


 生き延びるため。


 何かを探すため。


 星の見えない丘へ行くため。


 何もない日に、ただ歩くクルム。


 今の姿からは、少し想像しにくかった。


「昔のクルムって、暇だったんだね」


「そういう話ではない」


「じゃあ何?」


「もういい」


 イロハは少し笑った。


     *


 道の脇に、赤い実がなっていた。


 イロハは足を止める。


 前なら、すぐに手を伸ばしていた。


 今は見るだけにする。


「これ、知ってる?」


 クルムが振り返る。


「ああ」


「食べられる?」


「食べられる」


「どんな味?」


「酸っぱい」


「甘くない?」


「少しは甘い」


「どっち?」


「酸っぱい方が強い」


 イロハは実を覗き込む。


「食べたことあるんだ」


「ああ」


「好き?」


「別に」


「嫌い?」


「別に」


「またそれ」


 クルムは歩き出そうとする。


「待って」


「何だ」


「じゃあ、好きなものは?」


「何の話だ」


「食べ物」


「ない」


「絶対ある」


「ない」


「一個くらいあるでしょ」


「なぜそこまで知りたがる」


 イロハは少し考える。


「なんとなく」


「なら答える必要もないな」


「ずるい」


 クルムは歩き出す。


 イロハもついていく。


 数歩。


「……葡萄」


 クルムが言った。


 イロハは足を止めた。


「え?」


「何度も聞くから答えただけだ」


「ぶどう?」


「ああ」


「何それ」


 クルムも止まる。


 少し面倒そうな顔をした。


「小さな実が、いくつも房になっている」


「赤い?」


「赤いものもある。緑も、黒に近いものも」


「味は?」


「甘い」


「酸っぱくない?」


「ものによる」


「じゃあ好きなんだ」


「一番ましだったと言っただけだ」


「言ってないよ」


 クルムが黙った。


 イロハは笑った。


「やっぱり好きなんじゃん」


「うるさい」


 歩き出す背中を追う。


 イロハは、葡萄というものの形を頭の中で想像した。


 うまくできなかった。


 いつかエデンの中で見つけられるかもしれない。


 そう思った。


     *


 少し進んだところで、クルムが足を止めた。


 イロハも止まる。


「何?」


 道の脇。


 白い蕾がいくつも伸びていた。


 細い茎の先で、まだ閉じている。


「これ知ってるの?」


「ああ」


 今度はイロハが聞く前に答えた。


 それが少し意外だった。


「何て花?」


 クルムが名前を口にした。


 聞いたことのない音だった。


「もう一回」


 繰り返される。


 イロハも真似する。


 うまく言えない。


「難しい」


「覚えなくていい」


「どんな花?」


「夜に開く」


 イロハは蕾へ顔を近づけた。


「今は?」


「見れば分かるだろう」


「閉じてる」


「ならそういうことだ」


「夜になったら見られる?」


「この記録がそこまで続けばな」


 イロハは白い蕾を見る。


「クルム、この花好きだった?」


「なぜそうなる」


「知ってるから」


「知っている花が全部好きなわけではない」


「じゃあ嫌い?」


 クルムは少し黙った。


「嫌いではない」


 イロハは顔を上げる。


「それ、クルムの好きって意味でしょ」


「違う」


「葡萄と同じ」


「違うと言っている」


 イロハは笑った。


 先へ進もうとして。


 振り返る。


 クルムはまだ花を見ていた。


 ほんの一瞬だけ。


 すぐに視線を外し、歩き出す。


 イロハは何も聞かなかった。


     *


 森を歩いていると、空が少しずつ暗くなった。


 葉の間から見えていた青が消えていく。


 風が冷たくなる。


「夜になるの?」


「違う」


 クルムが空を見る。


「雨だ」


「雨?」


 ぽつ。


 頬に冷たいものが触れた。


 イロハは空を見る。


 もう一つ。


 額。


 肩。


 腕。


 やがて、葉を叩く音が増えていった。


 ざあ、と森全体が鳴り始める。


「すごい」


 イロハは手を広げる。


 雨が掌へ当たる。


 冷たい。


 けれど、やはり濡れない。


「雨まで作れるんだ」


 クルムは近くの木の下へ移動した。


 イロハが見る。


「濡れないよ」


「分かっている」


「じゃあ、なんでそこ行くの」


「癖だ」


「癖?」


「昔からそうしていた」


 イロハも木の下へ入る。


 葉に当たった雨が大きな雫になって落ちてくる。


 肩に当たる。


 冷たい。


 でも濡れない。


「昔も雨宿りした?」


「ああ」


「一人で?」


 言ってから。


 イロハは口を閉じた。


 雨の音だけが続く。


 聞かない方がよかったかもしれない。


「ごめん」


「何がだ」


「また聞きすぎた」


 クルムは雨を見る。


「お前は本当にそればかりだな」


「だって」


「聞きたいなら聞けばいい」


 イロハはクルムを見る。


「いいの?」


「答えるかどうかは私が決める」


 少し考える。


 確かにそうだ。


「じゃあ」


 イロハは木の幹へ背を預けた。


「昔のクルムって、今と同じだった?」


「同じなわけがない」


「どんなだった?」


 しばらく返事がない。


 雨の向こうで、木々が揺れている。


「今よりは」


 クルムが言う。


「よく喋った」


 イロハは目を丸くした。


「クルムが?」


「その反応は何だ」


「だって」


「忘れろ」


「無理」


「忘れろ」


「今のは絶対覚えてる」


 イロハは笑う。


「何喋ってたの?」


「もう答えん」


「えー」


「答えるかどうかは私が決めると言っただろう」


「ずるい」


「そういうものだ」


 クルムは雨の向こうを見る。


 けれど。


 さっきまでのように、完全に会話を切ってしまったわけではなかった。


 イロハも、それ以上は追わなかった。


     *


 雨が止む。


 森の匂いが変わった。


 土の匂いが強い。


 葉に残った水滴が、光を受けている。


 イロハは木の下から出た。


「雨の後って、こんな匂いになるんだ」


「ああ」


「クルムは好き?」


「何でも好き嫌いを聞くな」


「だって、知りたいから」


 口にしてから。


 イロハ自身が少し驚いた。


 前にも同じことを言った。


 でも今度は、何を知りたいのか自分でも分かった。


 森のことではない。


 昔の世界だけでもない。


 クルムが何を好きで。


 何を嫌って。


 どんなふうに生きていたのか。


 それが知りたい。


 クルムは何も言わず歩き出した。


 イロハも隣を歩く。


     *


 やがて、森の中に大きな湖が現れた。


 イロハは岸辺まで行き、座った。


 水面に空と木々が映っている。


 クルムは少し離れて立っている。


「座らないの?」


「必要ない」


「疲れない?」


「疲れない」


「便利」


 イロハは膝を抱える。


 湖の向こうまで森が続いていた。


「これ全部、残したんだよね」


「ああ」


「どうしてだろ」


「何が」


「森なんて、昔はいくらでもあったんでしょ」


「ああ」


「それなのに、こんなふうに残そうと思った」


 湖面へ指を伸ばす。


 触れる。


 波紋が広がった。


「なくなるって分かってたのかな」


 クルムは答えない。


「それとも、なくなり始めてから残したのかな」


「知らん」


「そっか」


 イロハは水面を見る。


 本物ではない。


 それでも、ここにはある。


「残してくれてよかった」


「そうか」


「うん」


 イロハは頷いた。


「これがなかったら、知らなかったから」


 森も。


 雨の匂いも。


 見たことのない果実も。


 夜に咲く花も。


「葡萄のことも」


「それはどうでもいい」


「私は気になる」


「勝手にしろ」


「見つけたら教えてね」


「なぜ私が」


「好きなんでしょ」


「好きとは言っていない」


 イロハは笑った。


     *


 空がゆっくり暗くなっていく。


 今度は雨雲ではない。


 本当に夜が近づいているらしい。


 鳥の声が減る。


 代わりに、虫の音が森の中に広がった。


 イロハは歩きながら、道の脇を見る。


「あ」


 足を止めた。


 昼には閉じていた白い蕾。


 それが開いている。


 大きな白い花。


 暗くなった森の中で、淡く浮かんで見えた。


「咲いた」


 クルムも止まる。


 イロハは花へ近づいた。


 甘い香り。


 さっきよりずっと強い。


「これ、クルムが知ってたやつ」


「ああ」


「ほんとに夜に咲くんだ」


 しばらく花を見る。


「いい匂い」


「そうか」


「クルムも嫌いじゃないんでしょ」


「……ああ」


 イロハはクルムを見る。


 それ以上、からかわなかった。


 白い花へ視線を戻す。


 名前は覚えられなかった。


 でも。


 この花を見れば、きっと思い出す。


「覚えとく」


「名も言えなかっただろう」


「名前じゃないよ」


 イロハは花を見る。


「クルムが嫌いじゃない花」


「そんなものを覚えてどうする」


「分かんない」


 イロハは笑った。


「でも、覚えてたい」


 クルムは何も言わなかった。


 少しして歩き出す。


 イロハも隣に並ぶ。


 保存された森の夜を、二人で歩いていく。


 イロハはもう、次に何が現れるのかだけを楽しみにしているわけではなかった。


 この世界を知っているクルムが。


 次に何を話してくれるのか。


 それも少し、楽しみになっていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。