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終わりの名を持つ君へ  作者: そらいろは
第4部 選ぶ道

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第42章 エデン

第4部 選ぶ道

 大きな壁に浮かんだ光は、しばらく消えなかった。


 葉。


 水。


 人。


 いくつもの形が、一つの円の中に収められている。


 その上には、イロハには読めない文字が並んでいた。


「ここ……何なの」


 クルムは答えない。


 赤い瞳が、壁の文字を追っている。


「読める?」


「少し待て」


 イロハは黙った。


 壁の文字は、途中で何度か乱れた。


 欠ける。


 戻る。


 また別の文字へ切り替わる。


 クルムの眉がわずかに寄った。


「古いな」


「クルムより?」


 赤い瞳がこちらを向く。


「喧嘩を売っているのか」


「違うよ」


「なら黙っていろ」


 イロハは口を閉じた。


 でも、少しだけ笑った。


 もう一度、部屋を見る。


 広い。


 天井は高く、暗闇の中まで続いている。


 壁沿いには黒い板。


 透明な箱。


 細長い棚。


 見たことのない機械。


 どこにも木はない。


 土もない。


 水もない。


 灰の街で一瞬だけ見た、あの緑とはまるで違う。


 イロハは少しだけ肩を落とした。


 その時。


 部屋の奥で、小さな音がした。


 ピッ。


 続いて、声が流れる。


『――――――』


 イロハは顔を上げた。


「何?」


 人の声だった。


 男とも女とも分からない。


 平らで、感情が薄い。


 けれど確かに言葉を話している。


『――エデン――』


 その一語だけが、はっきり耳に残った。


「エデン?」


 イロハが繰り返す。


 クルムが壁を見る。


「そう言ったな」


「何?」


「この場所の名だろう」


 声は続く。


 イロハにはほとんど分からない。


 聞いたことのない言葉。


 知っている音に似たものもある。


 けれど、文章になると意味をつかめなかった。


「クルムは?」


「全部ではない」


「少しは分かる?」


「ああ」


「何て言ってるの」


 クルムは耳を澄ませた。


 声の中から、途切れ途切れに言葉を拾う。


「……環境」


 少し間を置く。


「生態。文明。記録」


「それだけ?」


「欠けている」


 イロハは壁を見る。


「何かを残す場所?」


「そうらしい」


「何を?」


「今言っただろう」


「それじゃ全然分かんない」


 クルムは答えなかった。


 その瞬間。


 部屋の明かりが消えた。


「え?」


 真っ暗になる。


 イロハは反射的に横を向く。


「クルム?」


「いる」


 すぐ近くから声がした。


 次の瞬間。


 足元に光が走った。


 緑。


 イロハは息を呑む。


 灰色だった床を覆うように、草が広がっていく。


「……え」


 一本の木が現れた。


 さらに一本。


 その奥にも。


 また、その奥にも。


 白い壁が消える。


 黒い機械が消える。


 天井も消えた。


 代わりに。


 青い空が広がった。


「……うそ」


 イロハは動けなかった。


 頭上には、どこまでも続く青。


 白い雲。


 その下を、小さな鳥が飛んでいる。


 木々が揺れた。


 葉と葉が擦れる音がする。


 遠くから、水の流れる音。


 頬に風が触れた。


 イロハの髪が揺れる。


「風……」


 草の匂いがした。


 湿った土。


 木。


 水。


 村の畑とも、祠のある北の森とも違う。


 濃い匂いだった。


 イロハは一歩踏み出した。


 靴の下で草が沈む。


 柔らかい。


 もう一歩。


 葉の間から落ちる光が腕の上を動いた。


「クルム」


「何だ」


「これ……」


 声が震える。


「本物?」


 クルムは周囲を見ている。


「まだ分からん」


 イロハは木へ近づいた。


 幹へ手を伸ばす。


 ざらりとした感触。


「触れる」


 もう一度触る。


「本当に木みたい」


「木を知っているだろう」


「こんな大きいのは知らない」


「珍しくもなかった」


 イロハは振り返った。


「これが?」


「ああ」


「こんなのがいっぱいあったの?」


「あった」


「どこに?」


「そこら中に」


「そこら中?」


「昔はな」


 イロハはもう一度、周囲を見る。


 信じられない。


 見渡す限り緑だ。


 灰色ではない。


 枯れてもいない。


 生きているように見える。


 木の間を駆け抜ける。


「待て」


 クルムの声が飛んできた。


 イロハは足を止める。


 少し先に細い川があった。


 水が光を反射している。


「水!」


 近づこうとして。


 イロハは一度足元を見る。


 地面を確かめる。


 それから川辺まで進んだ。


 しゃがむ。


 水面に自分の顔が映っている。


「これも本物?」


「触れば分かる」


「そればっかり」


 イロハは笑って、手を伸ばした。


 冷たい。


「冷たい!」


 指を動かす。


 水面に波紋が広がった。


「クルム、これ飲める?」


「やめておけ」


「なんで?」


「本当に水かも分からん」


 イロハは手を引いた。


 掌を見る。


 濡れているような感覚はある。


 けれど。


 水滴がない。


「……あれ」


 もう一度触る。


 冷たい。


 水が指の間を流れる。


 手を上げる。


 何もついていない。


「何これ」


 クルムが近づいてくる。


 イロハは掌を見せた。


「濡れてない」


「そうだな」


「でも冷たかった」


「ああ」


「じゃあ何?」


「知らん」


「クルムでも?」


「初めて見るものを知っているわけがない」


 イロハは少し驚いた。


「クルムでも初めてなんだ」


「三千年前に、何もかも存在していたわけではない」


「そっか」


 妙に嬉しかった。


 自分だけが何も知らないわけではない。


 クルムにも知らないものがある。


 イロハはまた川を見た。


「じゃあ、一緒に分かんないんだ」


 クルムが横を見る。


「何が嬉しい」


「別に」


 イロハは立ち上がった。


     *


 森の奥から、鳥の声がした。


 イロハは顔を上げる。


「今の何?」


「鳥だ」


「それは分かるよ。何て鳥?」


「知らん」


「知らないの?」


「すべての鳥の名を覚えていると思うな」


「三千年も生きてるのに」


「関係ない」


 イロハは少し笑った。


 別の音。


 草むらが揺れる。


 小さな動物が飛び出した。


 四本足。


 長い耳。


「これ!」


「兎だ」


「うさぎ?」


「ああ」


 イロハはしゃがむ。


 兎がこちらを見る。


「かわいい」


「そうか」


「触れるかな」


「やめておけ」


「また?」


「さっきから何でも触ろうとするな」


「だって気になる」


「だからといって触るな」


 イロハは手を引っ込めた。


 兎は草の向こうへ走っていく。


「昔もいた?」


「ああ」


「クルム、触ったことある?」


 クルムは答えない。


「ある?」


「ある」


「かわいかった?」


「覚えていない」


「絶対覚えてるでしょ」


 赤い瞳がイロハを見る。


「余計なことまで覚えているわけではない」


「吸血鬼は忘れないんじゃなかったの?」


「忘れないことと、いちいち思い出すことは違う」


 イロハは少し考えた。


「じゃあ、今思い出した?」


「……うるさい」


 イロハは笑った。


 クルムは前を向く。


 その横顔が、少しだけ昔を見ているように見えた。


 けれど、誰と兎を見たのかまでは聞かなかった。


     *


 風が強くなった。


 木々が大きく揺れる。


 葉が舞った。


 イロハは一枚を取ろうと手を伸ばす。


 指先が葉へ触れる。


 感触がある。


 そのまま掴もうとした瞬間。


 葉が手をすり抜けた。


「……え?」


 イロハは振り返る。


 もう一枚。


 今度は両手で取ろうとする。


 やはり、すり抜ける。


 その時。


 鳥が一本の木へ向かって飛んできた。


 枝へ近づく。


 そして。


 幹をすり抜けた。


 イロハは動きを止めた。


「今……」


 森全体が揺れた。


 木の幹に細い光の線が走る。


 空が一瞬だけ消える。


 その向こうに白い天井が見えた。


 川が途切れる。


 緑の下から、冷たい床が現れる。


 すぐに元へ戻った。


 イロハは足元を見る。


「これ……」


 風は吹いている。


 草の匂いもする。


 水は冷たい。


 木にも触れた。


 なのに。


「本物じゃない?」


「そうらしいな」


 クルムは静かに答えた。


 イロハは川へ戻る。


 手を入れる。


 冷たい。


 それでも、やはり濡れない。


 目の前にあるのに。


 そこにはない。


「じゃあ、何なの」


 その問いに答えるように。


 森の中へ、あの平らな声が流れた。


『――エデン――』


 続く言葉。


 イロハには分からない。


 クルムが耳を澄ませる。


「……環境」


 次。


「記録」


 さらに。


「再構成」


「再構成?」


「残したものから、もう一度作っているらしい」


 イロハは周囲を見る。


「森を?」


「森そのものではない」


 クルムは木々を見る。


「形。色。音。温度。匂い。風。生き物の動き」


「全部?」


「そう聞こえる」


 イロハは自分の手を見る。


「触った感じまで?」


「それも含むのだろう」


「そんなことできるんだ」


「できているだろう」


 イロハは黙った。


 確かに。


 目の前にある。


 そこにはないのに。


 ここに立てば、森の中にいる。


「じゃあ、この森はもうないの?」


「それは分からん」


 イロハは顔を上げる。


「分からない?」


「ここにあるのが記録だというだけだ」


「本物がどこかに残ってるかもしれない?」


「可能性はある」


 イロハは少しだけ息を吐いた。


「そっか」


 森を見る。


 本物ではなかった。


 少し寂しい。


 でも。


 灰の街で一瞬見ただけの緑の中を、今は歩いている。


 その風を知った。


 匂いも。


 水の冷たさも。


「昔は、こういうところ歩いた?」


 イロハは聞いた。


「ああ」


「よく?」


「場所による」


「好きだった?」


 クルムは答えなかった。


 イロハが見る。


「何」


「珍しい質問だと思っただけだ」


「なんで?」


「今までのお前なら、もっと別のことを聞いた」


「どんな?」


「何を食べられるか、とかな」


「それも聞きたい」


「やはりな」


 イロハは笑った。


「でも、クルムが昔どんなところにいたのかも知りたい」


 クルムの表情から、ほんの少しだけ何かが消えた。


 イロハは気づいた。


 それ以上は続けなかった。


     *


 森が薄れていく。


 緑が消える。


 代わりに冷たい風が吹いた。


「寒っ」


 イロハは肩をすくめる。


 辺り一面が白くなる。


 雪。


 遠くには白い山々。


 足元にも雪が積もっている。


 踏むと、沈む感覚まである。


「これ雪?」


「ああ」


「こんなにあるの?」


「あるところにはな」


 イロハはしゃがみ、手ですくおうとする。


 冷たい。


 けれど、やはり手には残らない。


「不思議」


 次。


 景色が変わる。


 海。


 大きな水が、見渡す限り続いている。


 イロハは言葉を失った。


「……これ全部、水?」


「ああ」


「向こうまで?」


「もっと先までだ」


「終わりは?」


「ある」


「見える?」


「ここからは見えん」


 イロハは波打ち際まで走る。


 水が足元を覆う。


 濡れない。


 それでも波の力を感じる。


「クルム、海に入ったことある?」


「ある」


「泳いだ?」


「ああ」


 イロハが振り返る。


「泳げるの?」


「なぜ泳げないと思った」


「何となく」


「失礼な奴だな」


「吸血鬼って泳ぐんだ」


「人間よりは沈みにくい」


「なんで?」


「知らん」


「知らないんだ」


「何でも理由を知っているわけではない」


 イロハは笑う。


 波が何度も足元へ来る。


 次。


 海が消えた。


 暗くなる。


 イロハは顔を上げた。


「……あ」


 星だった。


 空いっぱいに。


 数えられないほど。


 星の見えない丘で、どれだけ見上げてもなかった光。


 それが頭上を埋め尽くしている。


 イロハは何も言えなくなった。


 ただ見上げる。


「これが……」


「ああ」


 クルムも空を見た。


「星」


 イロハはしばらく黙っていた。


「昔は、毎晩見えた?」


「場所による」


「でも、珍しくなかった?」


「珍しくはなかった」


「いいな」


 クルムは答えない。


「クルムも星、見てた?」


 沈黙。


 イロハは横を見る。


 赤い瞳が、星空を見上げている。


「見ていた」


 それだけだった。


 誰と。


 どこで。


 イロハは聞かなかった。


 星の見えない丘を思い出したからだ。


     *


 夜空が消える。


 白い部屋が戻ってきた。


 森も。


 海も。


 雪も。


 星も。


 全部なくなる。


 イロハはしばらくその場に立っていた。


 何もない床。


 冷たい壁。


 機械。


 さっきまでいた世界が、嘘のようだった。


「すごいところだね」


 イロハが言った。


「ああ」


 珍しく、クルムも否定しなかった。


 壁に、いくつもの印が浮かび上がる。


 葉。


 動物。


 人。


 建物。


 機械。


 そして。


 牙のような形。


 イロハの目が止まる。


「これ」


 指を向ける。


「吸血鬼?」


「そう見えるな」


 イロハは近づいた。


 指で触れる。


 部屋が再び変わる。


 街。


 建物。


 人々。


 その中に。


 白い肌。


 赤い瞳。


 吸血鬼がいる。


 人間の隣を歩いていた。


 話している。


 何かを手渡している。


 誰も逃げない。


 誰も叫ばない。


 約束の庭で見たものが、動いているようだった。


「本当に、一緒にいたんだ」


「ああ」


 クルムが答えた。


 景色はすぐに乱れた。


 人の姿が歪み。


 消える。


 白い部屋へ戻った。


 イロハは牙の印を見た。


 もう一度触れようとして。


 止めた。


 クルムを見る。


 星の見えない丘。


 名の消えた墓。


 知れば憎むかもしれない。


 あの言葉を思い出す。


 手を下ろした。


「今日はやめる」


 クルムがイロハを見る。


「見たいのではなかったのか」


「見たいよ」


「なら見ればいい」


「でも、急がなくてもいいから」


 クルムは何も言わなかった。


     *


 その時。


 壁の端で小さな光が点いた。


 イロハは振り向く。


「何?」


 さっきまでなかった。


 細い線が現れる。


 その線は、部屋の外から中央へ伸びていた。


 そこを、小さな光が進んでくる。


 ピッ。


 中心まで届く。


 壁の一角に、新しい印が増えた。


 イロハは近づいた。


「今、増えたよね」


「ああ」


「これも昔のもの?」


 クルムが画面を見る。


 答えない。


 もう一つ。


 外から光が来る。


 途中で消えた。


 少し待つ。


 また。


 同じ方向から光が現れる。


「これ……」


 イロハは線を指した。


「外から来てる?」


「そう見える」


「今?」


「分からん」


「でも、この印、さっきなかった」


「ああ」


「じゃあ、新しく来たんじゃないの?」


「古い処理が遅れて動いている可能性もある」


「三千年も?」


「だから分からんと言っている」


 イロハは黙る。


 壁を見る。


 森。


 海。


 雪。


 星。


 ここに残されているものは、遠い昔のものだと思っていた。


 失われたもの。


 過ぎ去ったもの。


 けれど。


 もし今の光が、本当に新しいものなら。


「まだ、どこかから送られてる?」


 クルムの赤い瞳が線を追う。


「かもしれんな」


「誰が?」


「知らん」


「人間?」


「知らん」


「機械?」


「知らん」


「吸血鬼?」


 クルムがイロハを見る。


「なぜそうなる」


「だって分かんないから」


 クルムは答えなかった。


 その時。


 線の向こう側で、小さな光が瞬いた。


 一度。


 もう一度。


 今度は、こちらまで来ない。


 遠くで点いて。


 消えた。


 イロハはその場所を見つめる。


 誰かがいるのか。


 何かが動いているのか。


 それすら分からない。


     *


「エデン」


 イロハは、小さくその名を口にした。


 ここには失われた世界が残っている。


 見るだけではない。


 歩ける。


 音を聞ける。


 匂いを感じる。


 風に触れられる。


 もう存在しないかもしれない世界の中を、まるでそこにいるように歩くことができる。


 そして。


 三千年経った今も、この場所へ何かが届いている。


 誰が作ったのか。


 何のために、ここまでして世界を残したのか。


 なぜ今も動いているのか。


 外から何を受け取っているのか。


 何一つ分からない。


 イロハは、さっき星が広がっていた場所を見上げた。


 今は白い天井しかない。


 それでも。


 もう一度見たいと思った。


 森も。


 海も。


 星も。


 そして。


 それらを知っているクルムの話も。

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