第40章 私が先に行く
第4部 選ぶ道
灰の街を離れると、道はすぐに細くなった。
建物の影がなくなる。
両側には崩れた壁や折れた柱が残り、その向こうには灰色の地面が広がっていた。
イロハは手にした金属板を見る。
細い線。
途中に刻んだいくつかの印。
前の建物で、画面を見ながら自分で写したものだ。
何度見ても、頼りない。
イロハは顔を上げた。
道はまっすぐ続いている。
少し先に、傾いた標柱。
さらに向こうには、灰に半分埋もれた舗装の跡が見えた。
イロハは金属板をしまい、そのまま歩き出す。
クルムの足音は後ろから聞こえてきた。
しばらく歩いてから、イロハは足を止める。
前方で道の端が大きく崩れている。
近づかず、少し離れたところから覗く。
灰の下に空洞があるらしい。
イロハは道の反対側へ寄った。
足先で地面を軽く押す。
固い。
そこを選んで進む。
後ろから何も言われない。
それが少し気になって、振り返った。
クルムと目が合う。
「何だ」
「何でもない」
「なら前を見ろ」
「見てるよ」
イロハは前を向いた。
数歩進む。
今度は振り返らなかった。
*
しばらくすると、道が二つに分かれた。
イロハは立ち止まる。
右。
左。
どちらにも人の足跡はない。
金属板を取り出した。
線は途中でわずかに曲がっている。
けれど、それだけではどちらか分からない。
イロハはしゃがんだ。
右の道を見る。
少し先から灰が深くなっている。
古い舗装もほとんど見えない。
左は比較的平らだった。
ところどころ、地面から石の縁が出ている。
「……左」
イロハは立ち上がった。
クルムを見る。
彼は何も言わない。
「何か言わないの?」
「何を」
「合ってるとか」
「なぜ私に聞く」
イロハは口を尖らせた。
もう一度、二つの道を見る。
それから左へ向いた。
「じゃあ、こっちにする」
そのまま歩き出した。
クルムもついてくる。
*
最初は歩きやすかった。
灰も浅い。
地面も固い。
イロハは少し歩調を上げた。
だが、しばらくすると舗装が途切れた。
道の先に黒い裂け目が走っている。
イロハは足を止める。
近づこうとして、一歩目で止まった。
さっき見た崩れた道を思い出したからだ。
足元に落ちていた小石を拾う。
前へ投げた。
石が裂け目の手前に落ちる。
その周りの灰が崩れた。
縁の一部まで一緒に落ちていく。
しばらくして、ずっと下の方から小さな音が返ってきた。
「……深い」
イロハはそれ以上近づかなかった。
「向こうまで行ける?」
「私は行ける」
クルムが答える。
「私は?」
「落ちたいなら行け」
「やめとく」
イロハはすぐに裂け目へ背を向けた。
数歩戻ってから、金属板を取り出す。
線を見る。
裂け目。
道。
もう一度、線。
「こっちじゃなかった」
「そうだな」
クルムが言った。
イロハは振り返る。
「分かってた?」
「可能性は考えた」
「言ってよ」
「お前が選んだ」
イロハは少しだけ黙った。
それから金属板をしまった。
「じゃあ戻る」
クルムが先へ出ようとする。
「待って」
イロハはその横を抜けた。
「私が先」
「また間違えるぞ」
「その時はまた戻る」
それだけ言って、来た道を歩き出した。
*
分かれ道へ戻った。
今度はすぐには右へ入らなかった。
イロハは左の道を見る。
次に右。
そして、周囲を見回した。
灰の中に何かが突き出している。
「……あれ」
道の脇へ近づく。
細い棒だった。
その先に、曲がった板がついている。
半分ほど灰に埋もれている。
イロハは袖で表面を払った。
文字らしきもの。
読めない。
けれど、その下に矢印のような形が残っていた。
右を指している。
さらに、その横。
小さな印がある。
イロハは金属板を取り出した。
見比べる。
画面から写した印。
標識に残る印。
線の曲がり。
もう一度、右の道を見る。
「似てる」
クルムが近づいてくる。
「何が」
イロハは二つの印を交互に指す。
「これ」
クルムは見る。
「似ているな」
イロハは金属板をしまった。
右へ向かう。
「こっち」
「今度は聞かないのか」
「聞いたじゃん」
「何を」
「似てるかどうか」
イロハは金属板をしまった。
そのまま右の道へ足を踏み入れる。
クルムは何も言わず、後ろからついてきた。
*
右の道は歩きにくかった。
一歩ごとに足が沈む。
イロハは何度も靴を灰から引き抜いた。
「重い……」
「戻るか」
「戻らない」
即答してから、少し先を見る。
灰の薄そうな場所を探す。
道の中央より、端の方が地面が見えている。
そちらへ移る。
少し歩きやすくなった。
さらに進む。
途中、灰の中に細い亀裂があった。
イロハは立ち止まり、迂回する。
今度はクルムに言われる前に。
後ろから足音がついてくる。
しばらくすると、道は緩い下り坂になった。
瓦礫が少なくなっていく。
代わりに、灰に埋もれた低い丘が増えた。
ところどころに枯れた木が立っている。
枝だけを空へ伸ばしていた。
イロハは一本を見上げる。
昨日――ではない。
少し前、灰の街の画面で見た緑を思い出す。
葉が重なり。
光が差し。
風に揺れていた森。
「クルム」
「何だ」
「昔の森って、全部あんな感じだったの?」
「全部ではない」
「もっと木が多いところも?」
「あった」
「花は?」
「あった」
「動物も?」
「あった」
イロハは枯れた枝を見上げたまま歩く。
「そっか」
少し先へ進んでから、
「見てみたいな」
と呟いた。
クルムは答えなかった。
イロハも返事を求めなかった。
*
しばらくして、道がまた途切れた。
今度は崩落ではない。
灰の下から太い根のようなものが道を持ち上げている。
イロハはしゃがんだ。
触れようとして、手を止める。
「これ、木の根?」
「違う」
クルムが答えた。
「じゃあ何?」
「管だ」
イロハは灰を少し払う。
下から錆びた金属が現れた。
「ほんとだ」
その管は、道を横切って先へ伸びている。
イロハは金属板を見る。
そこにも途中を横切る線を描いていた。
位置が近い。
「これかも」
イロハは管をまたぎ、先へ進む。
数歩進んでから振り返った。
「合ってる?」
「何が」
「画面にあった途中の線」
クルムは管を見る。
「おそらくな」
「じゃあ、まだこの道でいい」
再び前を向いた。
*
昼を過ぎた頃。
道の向こうに、黒いものが見えた。
イロハは歩調を緩める。
最初は灰雲の影かと思った。
違う。
横へ伸びている。
近づくにつれて、その高さが分かる。
「壁……?」
イロハは止まった。
高い。
村の境界杭など比べものにならない。
人が簡単に越えられる高さではない。
左右へ伸び、灰の向こうへ消えている。
ところどころ崩れてはいる。
だが、大部分はまだ残っていた。
イロハは金属板を開く。
指で線を追う。
途中に描いた大きな横線。
その向こうに、最後の印。
顔を上げる。
目の前の壁。
もう一度、板。
「たぶん、これ」
クルムが隣から覗く。
「何が」
「この線」
イロハは板を指した。
「壁だったんだと思う」
「そうかもしれん」
イロハは壁の左右を見る。
崩れている場所もある。
だが、そこまで行くには遠い。
正面には道が続いている。
壁へ向かって真っ直ぐ。
「なら、入口もあるはず」
イロハは歩き出した。
「なぜだ」
「道が壁で終わるなら、こんなふうに真っ直ぐ作らないでしょ」
少し進む。
灰の向こうに、壁の切れ目が見えてきた。
イロハの歩調が速くなる。
「あった」
大きな門だった。
閉じている。
長い時間、誰も通していないように灰が積もっていた。
イロハは門の前で立ち止まる。
見上げる。
「……大きい」
門には文字が刻まれている。
やはり読めない。
中央に、一つの印。
イロハはすぐに金属板を見る。
線の先に写した印。
似ている。
「ここだ」
クルムは門を見る。
「そうらしいな」
イロハは金属板をしまった。
そして、門の前まで近づいた。
灰を手で払う。
金属の表面が現れる。
中央に、小さなくぼみがあった。
手の形に近い。
イロハはそこへ手を伸ばす。
「待て」
クルムの声。
イロハの手が止まった。
あと少しで触れる距離。
イロハは振り返る。
「危ない?」
「分からん」
クルムがくぼみを見る。
「古い施設だ。何が残っているか分からない」
イロハは自分の手を見る。
そのまま触れることはしなかった。
周囲を調べる。
くぼみの下。
門の端。
床。
似た仕掛けがないか探す。
「他にはなさそう」
クルムは何も言わない。
イロハはもう一度、くぼみを見る。
そして、自分の掌を見る。
傷は布の下にある。
「これに触るしかないなら」
一度、息を吸う。
「触ってみる」
クルムを見る。
「何か起きたら、引っ張って」
「最初から私に触らせればいいだろう」
「でも、人の手の形なんでしょ」
イロハはクルムの白い手を見る。
「クルム、人じゃないし」
赤い瞳が細くなる。
「失礼な奴だな」
「間違ってないでしょ」
イロハはくぼみへ向き直った。
今度は迷わなかった。
掌を押し当てる。
冷たい。
一瞬。
何も起こらない。
その直後。
門の奥で、小さな音がした。




