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終わりの名を持つ君へ  作者: そらいろは
第4部 選ぶ道

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第39章 途切れた記録

第4部 選ぶ道

 灰の街へ戻った頃には、朝の白い光が街の奥まで届いていた。


 太陽は見えない。


 厚い灰雲の向こうから、濁った光が落ちているだけだ。


 崩れた壁。


 割れた窓。


 道を塞ぐ瓦礫。


 誰も歩かなくなった街は、前に来た時と何も変わっていなかった。


 クルムが前を歩いている。


 けれど、今回はただその背中についていくのではない。


 この街へ戻りたいと言ったのはイロハだった。


 あの建物に残っていたものを、もう一度確かめたい。


 その先に何かあるなら、探したい。


 自分でそう決めた。


「こっち」


 イロハは言った。


 クルムが止まる。


 赤い瞳がこちらを向いた。


「何だ」


「記録のあった建物。こっちだったと思う」


 イロハは道の先を指した。


 クルムはそちらを見る。


「違う」


「え」


「あっちだ」


 反対側を指された。


 イロハは黙った。


 崩れた建物を見比べる。


 どちらも同じように見える。


「……似てるんだもん」


「お前が決めるのではなかったのか」


「行く場所は決めたよ。道まで全部分かるとは言ってない」


 クルムは何も言わなかった。


 イロハは、少しだけ呆れられた気がした。


「分かってるなら、最初から教えてよ」


「聞かれなかった」


「そういうところ、嫌い」


「そうか」


 クルムは歩き出した。


 イロハも追う。


 今も少し腹は立つ。


 でも、それでいい気もした。


 自分で行き先を選ぶことと、何もかも一人でやることは、きっと同じではない。


     *


 記録の残る建物は、前と同じように静かだった。


 入口の割れた扉を越える。


 床には灰が積もっている。


 壁の一部は剥がれ、天井から細い管が垂れ下がっていた。


 誰もいない。


 それなのに、完全に死んだ場所には見えない。


 奥の部屋では、まだ弱い光が点いていた。


 イロハはそこへ入る。


 いくつもの黒い画面。


 割れたもの。


 何も映らないもの。


 時折、薄い光だけが走るもの。


 前にも見た場所だ。


「これ」


 イロハは一つの画面の前に立った。


 クルムは入口の近くにいる。


「何だ」


「前に、ここが動いた」


 今は暗い。


 イロハは指で触れてみた。


 何も起こらない。


 もう一度触る。


 少し強く。


「壊したいのか」


「違う」


「なら叩くな」


「叩いてない」


「同じだ」


 イロハは手を引っ込めた。


 前はどうやって動いたのだろう。


 画面の周りを見る。


 床。


 壁。


 机。


 そして、画面の下に小さな窪みを見つける。


 イロハはそこへ手を伸ばした。


 掌が近づいた瞬間、


 ピッ。


 小さな音がした。


「わっ」


 反射的に手を引く。


 画面の端に光が灯った。


「動いた」


 クルムは何も言わない。


 細い光の線が画面の中を走る。


 やがて、いくつもの文字らしきものが浮かび上がった。


 イロハは顔を近づける。


「……分かんない」


 形は文字に見える。


 けれど、村で使っていたものとは違う。


 似ているものもある気がする。


 それでも、意味までは分からなかった。


「クルム、読める?」


「一部なら」


 イロハは振り返る。


「読めるの?」


「私が眠る前にも使われていた形が混じっている」


「じゃあ、何て書いてある?」


 クルムは画面を見る。


 しばらく黙った。


「欠けすぎている」


「全然?」


「すべては無理だ」


 その時、画面が大きく乱れた。


 文字が消える。


 代わりに、いくつもの点と線が現れた。


 イロハは目を細める。


「何これ」


 中央付近に、一つだけ明るく点滅する印がある。


 そこから何本もの細い線が伸びていた。


 ほとんどは、途中で消えている。


 一本だけ。


 遠くまで続いている。


 画面の端にある別の印まで。


 イロハは顔を近づけた。


「これ……道?」


「分からん」


 クルムも画面を見る。


 点滅する印の周囲には、四角や細い筋がいくつも描かれている。


 イロハは少し考えた。


「これ、街じゃない?」


「なぜそう思う」


「ここ」


 画面の一角を指す。


「大きい道が二つ交わってる。外にも同じ場所があった」


 クルムが目を細める。


 イロハは別の形を指した。


「それに、この細長いの。線路じゃないかな」


 以前歩いた線路跡。


 街へ入る前に見た位置を思い出す。


 正確かどうかは分からない。


 けれど、似ている。


「じゃあ、この光ってるのが、今いるところ?」


「可能性はある」


 クルムが答えた。


 断言ではない。


 でも、イロハにはそれで十分だった。


 点滅する印から、一本の線が街の外へ伸びている。


 そして、遠くにある別の印へつながっている。


 線の上では、小さな光がゆっくり移動していた。


 こちらから、向こうへ。


 何度も。


 同じ動きを繰り返している。


「何かを送ってるみたい」


 イロハは呟いた。


 光がまた、こちら側の印から向こう側へ走る。


 途中で一度消えかける。


 それでも、最後の印まで届く。


「前に見たのも、これだったのかな」


「知らん」


「でも、この建物だけで終わってない」


 イロハは画面を見つめた。


「何かが、向こうにつながってる」


 何なのかは分からない。


 人が移動する道なのか。


 物を運ぶための線なのか。


 何かを伝えるためのものなのか。


 けれど、一本だけ残った線の先に、別の場所がある。


 それだけは見て取れた。


「行ってみたい」


 イロハは言った。


「何があるかも分からんぞ」


「だから行くの」


「何もないかもしれない」


「それでも」


 イロハは画面を見る。


 点滅する二つの印。


 途中で途切れずにつながる一本の線。


「ここにいても、分かんないから」


 クルムは何も言わなかった。


     *


 問題は、どうやってそこまで行くかだった。


 画面を眺めているだけでは、建物を出た途端に分からなくなる。


「これ、持っていけないかな」


 イロハは画面を見る。


「持てばいい」


「持てると思う?」


「お前が言った」


「本気で答えてないでしょ」


 クルムは黙っている。


 イロハはため息をついた。


 もう一度、画面を見る。


 線の形。


 途中にあるいくつかの印。


 曲がる場所。


 大きな筋と交わる場所。


 全部覚えるのは難しい。


 床の近くに、薄い金属板が落ちていた。


 イロハは拾い上げる。


 表面は錆びているが、まだ形は残っている。


 尖った破片を使い、そこへ線を引いた。


「何をしている」


「写すの」


 点滅している場所を丸で描く。


 そこから一本の線を伸ばす。


 途中の曲がり。


 交差する線。


 最後の印。


「……こんな感じ」


「雑だな」


「分かればいいの」


「分からなくなる」


「じゃあ、クルムも覚えて」


「なぜ私が」


「クルムは忘れないんでしょ」


 口にした瞬間、イロハは手を止めた。


 墓標。


 忘れられない名。


 果たせなかった約束。


 あの丘で聞いた言葉が蘇る。


「……ごめん」


 イロハは小さく言った。


 クルムが見る。


「何に謝っている」


「昨日……じゃない。さっきまで、あの墓にいたから」


 うまく言えない。


「忘れないって、簡単に言うことじゃなかったかなって」


「事実だ」


「でも」


「覚えればいいのだろう」


 イロハは顔を上げる。


「この線」


 クルムは画面を見た。


「覚えてくれるの?」


「お前が迷えば面倒だ」


 いつもの言い方だった。


 イロハは少しだけ笑った。


「ありがとう」


「礼を言うな」


「じゃあ言わない」


「もう言った」


「細かい」


 クルムは答えなかった。


 イロハは金属板にもう一本、線を刻んだ。


 自分でも覚える。


 クルムにも覚えてもらう。


 それで十分だった。


     *


 部屋を出ようとした時だった。


 奥で、別の光が点いた。


 イロハは振り返る。


「今、何か光った」


 壁際にある小さな画面だった。


 さっきまで真っ暗だったはずなのに、薄い光が揺れている。


 近づく。


 何かの文字が浮かぶ。


 やはり読めない。


 いくつかの印が点滅し、そのうちの一つが、先ほどの線の先にあった印と似ていた。


「これ」


 イロハが振り返る。


「さっきの向こう側の印に似てない?」


 クルムも近づく。


「似ているな」


 その直後。


 画面が白く光った。


 そして、映像が現れた。


 イロハは息を呑んだ。


 緑。


 画面いっぱいに、緑が広がっている。


 太い幹。


 幾重にも伸びた枝。


 無数の葉が、風に揺れている。


 その隙間から、眩しい光が落ちていた。


 灰がない。


 枯れた地面もない。


 どこまでも緑が続いている。


「……何、これ」


「森だ」


 クルムが言った。


 イロハは画面を見たまま瞬きをする。


「森?」


「そうだ」


「でも、こんな……」


 村の近くにも木はあった。


 祠のある北の森にも。


 けれど、こんな景色ではなかった。


 土まで覆い隠すような緑。


 光を受けて揺れる葉。


 画面の向こうでは、細い何かが空を横切った。


 鳥だったのかもしれない。


 イロハが顔を近づける。


 その瞬間。


 映像は消えた。


「あ」


 黒い画面に戻る。


 何度触れても、もう反応しない。


「待って」


 イロハは何度か画面に手を近づける。


 何も起こらない。


「今の場所……どこ?」


「知らん」


「この線の先かな」


「分からん」


「今も、あるのかな」


 クルムは答えなかった。


 イロハは暗い画面を見る。


 さっきの緑が目の奥に残っている。


 あれが何だったのか分からない。


 昔の景色なのか。


 どこか遠くにある場所なのか。


 今も残っているのか。


 それとも、もうどこにもないのか。


 何一つ分からない。


 けれど。


「見たい」


 イロハは言った。


「何を」


「あそこ」


「どこだ」


「分かんない」


 クルムの目が細くなる。


「でも、あの線の先と関係あるかもしれない」


「関係がないかもしれん」


「うん」


 イロハは頷いた。


「だから確かめたい」


 クルムは暗い画面を見る。


「期待すれば、違った時に失望する」


 イロハは少し考えた。


「じゃあ、期待しない方がいいの?」


「知らん」


「またそれ」


 イロハは画面に映った自分の影を見る。


 緑はもうない。


 灰に汚れた自分の顔だけがある。


「でも、ちょっとくらい期待してもいいと思う」


 クルムは答えない。


「あんな場所が、まだどこかにあるかもしれないって」


 口にすると、胸の奥が少しだけ熱くなった。


 外の世界を見たい。


 村にいた頃から、ずっとそう思っていた。


 けれど、実際に見た外の世界は、灰と廃墟ばかりだった。


 それでも。


 もし、どこかにあんな緑が残っているなら。


 自分の目で見てみたい。


 画面ではなく。


 本当に。


     *


 建物を出る頃には、朝の光が街全体に広がっていた。


 相変わらず太陽は見えない。


 空は灰色のままだ。


 イロハは手にした金属板を見る。


 そこには、自分で刻んだ一本の線がある。


 正しいかどうかも分からない。


 その先に何があるのかも分からない。


 さっき見た緑とつながっている保証もない。


 それでも、今はその線しかなかった。


「最初は、こっちだよね」


 イロハは街の外へ続く道を指す。


 画面で見た線と、周囲の形を思い出す。


 クルムが少し先を見る。


「そちらでいい」


「よかった」


 イロハは歩き出そうとして、止まった。


「途中から分かんなくなったら?」


「その時に考えろ」


「クルムも覚えてるんでしょ」


「覚えている」


「じゃあ大丈夫」


「何がだ」


「二人とも分かんなくなるよりいいでしょ」


 クルムは何も言わない。


 イロハは先へ進む。


 数歩歩いてから、クルムが隣に来た。


 少しだけ速い。


 イロハも歩幅を広げる。


 それでも離れそうになると、クルムの歩調がわずかに落ちた。


 前ほど距離は開かない。


 街の出口が近づく。


 その先には、灰に埋もれた道が続いている。


 イロハは一度、手の中の金属板を見た。


 一本の線。


 その先の印。


 そして、一瞬だけ映った緑。


 何が待っているのかは分からない。


 生きた森があるのかもしれない。


 何も残っていないかもしれない。


 そもそも、あの映像と行き先には何の関係もないかもしれない。


 でも、確かめなければ分からない。


 イロハは前を見た。


 クルムが選んだ旅は、星の見えない丘で終わった。


 今は、イロハが見つけた一本の線を辿っている。


 どこへ続くのかも知らない道を。


 自分で選んで。


 灰の街を抜ける風が、二人の間を通り過ぎた。


 その向こうに、ほんの一瞬見た緑があるのか。


 答えはまだ、灰の向こうに隠れていた。

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