第38章 行き先のない夜
第4部 選ぶ道
「行くぞ」
そう言われてから、どれくらい歩いただろう。
イロハは、クルムの背中を追いながら、何度も丘の上を振り返りそうになった。
けれど、振り返らなかった。
小さな墓。
白い石。
星のように地面に散っていた光。
誰のものなのか、クルムは答えなかった。
イロハも、それ以上は聞けなかった。
聞いてはいけない気がした。
丘を下りる道は暗かった。
草は膝のあたりをかすめ、足元の石は夜露で湿っている。
クルムは前を歩いている。
白い肌。
青みを帯びた銀白の長い髪。
深い赤の瞳。
その背中は、いつもと同じように遠かった。
でも、少しだけ違って見えた。
今までクルムは、どこかへ向かっていた。
道を知っているように。
行き先があるように。
灰の街でも、崩れた道でも、壊れた建物の間でも、クルムは迷わなかった。
迷っていないように見えた。
イロハは、その後ろを必死に追いかけてきた。
けれど、あの小さな墓の前で、何かが終わったのだと分かった。
クルムが探していた場所は、あそこだった。
なら、この先はどこへ行くのだろう。
イロハは足元を見ながら、しばらく迷った。
それから、小さく声を出した。
「ねえ」
クルムは振り向かない。
でも、聞こえている。
「これから、どこへ行くの」
少し間があった。
クルムは前を向いたまま答えた。
「知らん」
イロハは足を止めそうになった。
「知らんって……決めてないの?」
「決める必要がない」
その言葉は、夜風より冷たかった。
でも、嘘ではないのだと思った。
クルムには、もう行き先がない。
少なくとも、今は。
丘の下には、壊れた街の影が広がっている。
遠くの建物は黒く沈み、折れた塔の先だけが星明かりに浮かんでいた。
どこへでも行けるように見えて、どこへ行っても同じようにも見えた。
イロハは、急に足元が頼りなくなった。
今までは、クルムが進む方へ進めばよかった。
怖くても、分からなくても、置いていかれないように歩けばよかった。
けれど、行き先がなくなった途端、世界は広すぎた。
広すぎて、何も選べない場所のように思えた。
「村に戻るか」
クルムが言った。
イロハはすぐには答えられなかった。
燃えた村。
境界杭。
祠のある北の森。
封じ縄の先。
自分を見なかった大人たち。
戻れば、何かがあるのだろうか。
誰かが待っているのだろうか。
村は、イロハの生まれた場所だった。
けれど、帰る場所だったのかは分からない。
あそこに戻っても、きっとまた同じだ。
誰かの決めた境界の内側で、息をひそめて生きるだけになる。
イロハは首を横に振った。
「戻らない」
「外は、お前が思っていたものではない」
「うん」
「これから先も、いいものばかりではない」
「分かってる」
「分かっていない」
クルムの声は冷たい。
「お前はまだ、何も見ていない」
その言葉は、イロハの胸に刺さった。
たしかに、そうなのだと思った。
自分はまだ何も知らない。
世界がどうして壊れたのか。
人間が何をしたのか。
吸血鬼が何なのか。
クルムが何を失ったのか。
あの小さな墓が誰のものなのか。
何も知らない。
知らないのに、怖がっている。
知らないのに、決めつけそうになる。
村の大人たちが、祠の奥にあるものを災厄とだけ呼んでいたように。
自分も、知らないまま何かを怖いものにしてしまうのかもしれない。
それは嫌だった。
「だから、知りたい」
イロハは言った。
クルムの赤い瞳が、わずかに細くなる。
「知ってどうする」
「分かんない」
「分からないことばかりだな」
「うん」
イロハは頷いた。
「でも、分からないまま戻ったら、私はずっと同じ場所にいる気がする」
村にいても。
村の外にいても。
誰かが決めた境界の内側に。
それが嫌だった。
ただ外に出たいのではない。
自分の足で、どこに立つのかを決めたかった。
イロハは、灰の街で見た建物を思い出す。
埃をかぶった部屋。
割れた画面。
途切れた音。
誰もいないのに、まだ何かを残そうとしていた場所。
あの時、イロハにはほとんど意味が分からなかった。
けれど、いくつかの言葉だけは耳に残っている。
保全。
転送。
認証不足。
記録。
どこかへ送られている。
どこかに残されている。
そういう気配だけが、壊れた画面の奥にあった。
「あの記録」
イロハは言った。
「灰の街で見た、記録の残ってた建物」
クルムは黙っている。
「あれ、全部じゃなかった。途中で切れてた。でも、どこかへ送ってるみたいだった」
「だから何だ」
「あれの行き先を探したい」
言った瞬間、胸の奥が少しだけ震えた。
怖かった。
自分で言ったことなのに、本当にその先へ行くのかと思うと怖かった。
けれど、言葉を引っ込めたいとは思わなかった。
「世界に何があったのか、知りたい。吸血鬼が何なのかも、人間が何をしたのかも」
イロハは一度、丘の上を見そうになった。
でも、見なかった。
あの小さな墓を思い浮かべる。
名も知らない誰かの墓。
クルムが探していた場所。
戻らないものが眠る丘。
「知らないまま、怖いだけで終わらせたくない」
クルムは長く黙っていた。
夜風が、二人の間を抜けていく。
壊れた街の向こうで、淡い灯がいくつか動いていた。
人の灯なのか。
人ではない何かなのか。
イロハには分からない。
でも今は、それを追いたいわけではなかった。
ただ、世界のどこかに残されたものを、自分の目で確かめたかった。
何も知らないまま、誰かの言葉だけで怖がるのをやめたかった。
「お前が決めるのか」
やがて、クルムが言った。
イロハは息を呑む。
その言葉は、突き放すようでもあり、試すようでもあった。
今まで、行き先を決めていたのはクルムだった。
進む道を選び、止まる場所を決め、危険を判断していた。
イロハはついていくだけだった。
置いていかれないように。
生き残るために。
でも今、次の道はまだ誰のものでもない。
クルムの目的地は、あの丘で終わった。
なら、この先を誰が決めるのか。
イロハは外套の端を握りしめた。
「決めたい」
声は小さかった。
でも、夜に消えなかった。
「私が、決めたい」
クルムはイロハを見る。
深い赤の瞳に、星明かりが映っていた。
「お前が選んだ先に、望んだものがあるとは限らない」
「うん」
「知れば、戻れなくなることもある」
「それでも、知りたい」
クルムはしばらく何も言わなかった。
やがて、前を向く。
「勝手にしろ」
その言葉は、置いていくという意味ではなかった。
少なくとも、イロハにはそう聞こえた。
胸の奥が少しだけ緩む。
「うん」
*
夜がさらに深くなった。
二人は丘の麓まで下りていた。
見上げれば、さっきまでいた場所が黒い影になっている。
白い石は、もう見えない。
けれど、イロハの中には残っていた。
地面に星がある場所。
名のない墓。
クルムがようやく辿り着いた場所。
そして、クルムの行き先が終わった場所。
足元の道は崩れていた。
古い石畳はところどころ割れ、草が隙間から伸びている。
イロハが一つの石につまずきかけると、クルムの歩調がわずかに落ちた。
ほんの少しだけ。
振り向きもしない。
待っているとは言わない。
けれど、距離は離れすぎなかった。
イロハはそれに気づいて、何も言わずに歩いた。
前を行く背中は、まだ遠い。
怖いと思う。
分からないと思う。
でも、もうただ追いかけているだけではなかった。
自分で選んだ行き先がある。
まだ名前も知らない場所。
灰の街の記録が送られていた先。
そこに何があるのかは分からない。
望んだ答えがあるのかも分からない。
知ってよかったと思えるのかも分からない。
それでも、イロハは行くと決めた。
「その記録の行き先」
クルムが不意に言った。
イロハは顔を上げる。
「探せるの?」
「灰の街に戻れば、痕跡はあるだろう」
「戻るの?」
「お前が決めたのだろう」
イロハは一瞬黙った。
それから、小さく頷いた。
「うん。戻る」
灰の街へ。
あの記録の建物へ。
そこから、どこかへ続くはずの道へ。
クルムは何も言わず、進む向きを変えた。
それはとても自然な動きだった。
今までのように、クルムが勝手に決めた道ではない。
イロハが選んだ行き先へ向かうために、クルムが道を取った。
それだけのことなのに、イロハは胸の奥が熱くなった。
旅はまだ続く。
けれど、少しだけ変わった。
クルムの背中を追うだけだった道が、初めて自分の足元にも伸びた気がした。
空には星があった。
丘の上には、もう見えない地面の星があった。
その間を、二人は歩いていく。
戻るためではなく。
逃げるためでもなく。
知るために。
イロハが選んだ、まだ形の見えない道へ。




