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終わりの名を持つ君へ  作者: そらいろは
第3部 遠い夜

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第37章 災厄の名

第3部 遠い夜

 最初に壊れたのは、広場だった。


 石畳に引かれていた白い線は、踏み砕かれ、焦げ、血に濡れて消えた。


 柱は折れた。


 器は割れた。


 刃は捻じ曲がった。


 人間たちは逃げた。


 誰かの名を呼び、誰かを押しのけ、誰かの手を離しながら、広場の外へ散っていった。


 クルムは追わなかった。


 少なくとも、最初は。


 腕の中に、アルバがいた。


 軽い。


 あまりにも軽い。


 それが、広場に残ったどんな悲鳴よりも、クルムの足を縛っていた。


 朝日が差している。


 アルバの肌に、もう光を当てたくなかった。


 クルムは外套で小さな体を包んだ。


 白い石を、アルバの胸元に戻す。


 血で汚れた石。


 約束の石。


 地面にある星。


 それをアルバの手に握らせようとして、指が動かないことに気づいた。


 もう、握り返さない。


 クルムはしばらく、その手を見ていた。


「……行くぞ」


 誰に言ったのか、自分でも分からなかった。


 アルバにか。


 セレーネにか。


 自分にか。


 広場の端で、リナが泣いていた。


 ラウルが娘を抱え、マイラが震えながらその肩を支えている。


 クルムは一度だけ、そちらを見た。


 リナの顔が歪む。


 謝ろうとしたのかもしれない。


 止めようとしたのかもしれない。


 けれど、声は出なかった。


 クルムも何も言わなかった。


 言えば、何かが壊れる。


 もう十分に壊れているのに、それでも、まだ壊してはいけないものがどこかに残っている気がした。


 だから、クルムは背を向けた。


 アルバを抱いたまま、広場を出た。


 誰も止めなかった。


 誰も近づけなかった。


 人間たちは、道を開けるだけだった。


 朝の光の中を、吸血鬼は歩いた。


 腕の中の子が、二度と朝を見ることはないと知りながら。


     *


 その丘は、街から離れた場所にあった。


 かつて人間の道が通っていたらしい。


 けれど今は、草に覆われ、石の標も倒れ、誰も近づかない場所になっていた。


 クルムは、夜を待たなかった。


 日差しは肌を焼いた。


 成体の吸血鬼であるクルムにとって、それは死ではない。


 だが、苦痛ではあった。


 光は肌を裂き、血を滲ませ、力を鈍らせる。


 それでも、クルムは歩いた。


 アルバを抱いたまま。


 外套の中に閉じ込めるようにして。


 何度も、もっと強く抱きしめそうになった。


 だが、そのたびに力を抜いた。


 壊してしまいそうだった。


 もう戻らないものを、これ以上傷つけたくなかった。


 丘の上には、白い小石が散っていた。


 灰色の土の中に、小さな白がいくつも混じっている。


 昼の光の下では、ただの石だった。


 けれど夜になれば、きっと星のように見える。


 アルバに見せるはずだった場所。


 クルムの脳裏に、幼い声が蘇る。


 ――父さん。


 ――地面に星がある場所って、本当にあるの?


 ある。


 今さら、そう答えた。


 遅すぎる答えだった。


 クルムは丘の一番静かな場所を選んだ。


 素手で土を掘った。


 爪が割れた。


 血が混じった。


 それでも掘った。


 痛みはすぐに消える。


 消える痛みなど、今はどうでもよかった。


 アルバを横たえる。


 髪を整える。


 不器用な指で、淡い亜麻金の髪を撫でた。


 何度か結ぼうとした。


 うまくいかなかった。


 その時、また別の声が蘇った。


 ――動かないの。


 ――足が動いているわ。


 セレーネの声だった。


 髪を結う指。


 穏やかな横顔。


 アルバはきっと、足は髪じゃないもん、と言い返した。


 セレーネは、そういう問題ではありません、と笑った。


 もう、どちらの声も新しく増えることはない。


 クルムは白い石をアルバの胸元に置いた。


 リナの石。


 約束の石。


 それから、丘に散っていた小さな白い石を、ひとつ、またひとつと拾った。


 墓のまわりに置いた。


 星のように。


 夜になったら、アルバが寂しくないように。


 そんなことに意味があるのかは分からなかった。


 意味など、もうどこにもないのかもしれなかった。


 それでも、置いた。


 最後に土をかける時、手が止まった。


 顔が見えなくなる。


 そう思うと、どうしても動けなかった。


「アルバ」


 呼んだ。


 返事はなかった。


「……すまない」


 その言葉は、風に紛れた。


 何に対する謝罪なのか、分からなかった。


 守れなかったこと。


 間に合わなかったこと。


 最後の言葉を聞けなかったこと。


 人間を憎むなと言われたとしても、もう憎まずにはいられないこと。


 何もかもに対して、遅かった。


 クルムは土をかけた。


 一握りずつ。


 小さな体が見えなくなるまで。


 丘の上に、ひとつの墓ができた。


 名は刻まなかった。


 刻める手がなかった。


 刻める言葉もなかった。


 ただ、白い石を置いた。


 星のように。


 夜になれば、きっと光る。


 アルバが見たがっていた星が、地面にある。


 クルムは墓の前に座り込んだ。


 日が傾いても、動かなかった。


 空に星が出ても、動かなかった。


 星は美しかった。


 アルバが見れば、きっと喜んだ。


 ――ねえ、父さん。


 ――ほら、本当に地面にも星がある。


 そんな声が聞こえた気がした。


 クルムは目を閉じた。


 聞こえた気がした声は、すぐに消えた。


 吸血鬼は忘れない。


 だから、消えない。


 消えないはずなのに、もう新しい声は増えない。


 そのことだけが、永遠のように重かった。


     *


 次の夜、街の鐘が鳴った。


 警鐘だった。


 人間たちは広場の死者を片づけ、門を閉ざし、家々に灯をともした。


 誰も夜を信じられなくなっていた。


 吸血鬼が来る。


 そう噂が走った。


 子を殺された成体が来る。


 赤い瞳の災いが来る。


 夜が来る。


 クルムは丘を下りた。


 白い石の墓を背にして。


 手には何も持っていなかった。


 武器など必要なかった。


 街に近づくと、門の上から矢が降った。


 銀を混ぜた矢。


 血を染み込ませた布。


 古い言葉を書いた札。


 すべて、クルムに届いた。


 届きはした。


 肌を裂き、血を流させ、わずかに足を鈍らせた。


 けれど、止められなかった。


 門が壊れた。


 叫びが上がった。


 誰かが言った。


「災厄だ」


 その声が、最初だった。


 名前ではなかった。


 クルムを呼ぶためのものではなかった。


 恐怖が、形を持つために吐き出した言葉だった。


「災厄が来た」


 声は広がった。


 家から家へ。


 通りから広場へ。


 広場から別の街へ。


 クルムという名を知る者は少なかった。


 アルバの父と呼ぶ者は、もうほとんどいなかった。


 セレーネの伴侶と知る者も、口を閉ざした。


 残ったのは、災厄という呼び名だけだった。


 クルムはそれを否定しなかった。


 肯定もしなかった。


 どう呼ばれようと、アルバは戻らない。


 どう恐れられようと、セレーネは戻らない。


 だから、意味がなかった。


 最初に向かったのは、あの男たちの家だった。


 紙を貼った者。


 石を投げた者。


 輪を歪めた者。


 刃を落とした者。


 命じた者。


 名前を覚えていた。


 顔も覚えていた。


 声も覚えていた。


 吸血鬼は忘れない。


 一人ずつ、壊した。


 逃げても無駄だった。


 隠れても無駄だった。


 祈っても無駄だった。


 許してくれという声も、命じられただけだという声も、家族だけはという声も、届かなかった。


 届かない声があることを、クルムはもう知っていた。


 アルバの最後の声が届かなかったように。


 人間たちの声も、クルムの奥までは届かなかった。


 だが、夜が明ける頃には、区別が少しずつ崩れ始めていた。


 命じた者。


 従った者。


 見ていた者。


 怖くて黙っていた者。


 止めようとして止められなかった者。


 逃げた者。


 何も知らなかった者。


 境目が、血の中で曖昧になっていく。


 セレーネなら、止めただろう。


 アルバなら、泣いただろう。


 リナなら、叫んだだろう。


 それでも、手は止まらなかった。


 止める声が、もう隣にいなかった。


     *


 街はひとつでは終わらなかった。


 噂が先に走り、クルムが後から来た。


 ある街では、門を開いて許しを乞うた。


 ある街では、弓と火で迎え撃った。


 ある街では、かつて吸血鬼と血の約束を結んでいた家々が、先に縛り上げられていた。


 人間たち自身が、吸血鬼とのつながりを断った証にするためだった。


 血を与えていた者。


 夜の守りを受けていた者。


 吸血鬼の名を、恐怖ではなく親しみを込めて呼んでいた者。


 そうした家々は、いつの間にか人間の側からも罪人と呼ばれるようになっていた。


 吸血鬼を恐れる人間たちは、吸血鬼そのものだけでなく、吸血鬼を知る者たちまで切り捨て始めた。


 約束を粛清するのか。


 守るために結んだものを。


 生きるために選んだものを。


 罪と呼び、裏切りと呼び、自分たちの恐怖を鎮めるために壊すのか。


 クルムは、そう思った。


 そう思ったはずだった。


 だが、その怒りの矛先さえ、やがて血の匂いの中で曖昧になっていった。


 人間は変わらない。


 そう思った。


 そう思えば、楽だった。


 人間はすべて同じだと決めれば、迷わずに済んだ。


 だが、そう決めようとするたびに、邪魔をする声があった。


 ――星を見るって、約束しただけなのに。


 リナの声。


 ――アルバは、そんなこと望んでない。


 その声は、クルムを止めなかった。


 ただ、傷を深くした。


 止まれないまま、痛みだけが増えていった。


 ラウルの顔も、何度か思い出した。


 マイラの震える手も。


 リナの泣き顔も。


 そのたびに、クルムは別の顔を重ねた。


 石を投げた男。


 広場で笑った男。


 刃を落とした男。


 そうしなければ、足が止まりそうだった。


 足が止まれば、アルバの墓の前に戻ってしまう。


 戻れば、もう動けなくなる。


 だから、進んだ。


 復讐という言葉は、まだ足りなかった。


 怒りという言葉も、足りなかった。


 これは、もっと壊れたものだった。


 戻らないものを前にした者が、戻らない世界ごと引き裂こうとする行いだった。


 やがて、人間たちはクルムを名で呼ばなくなった。


 災厄。


 白い災厄。


 赤い目の災厄。


 夜を連れてくる災厄。


 その呼び名だけが、土地から土地へ広がっていった。


 クルムは、その名を背負った。


 望んだわけではない。


 だが、拒む理由もなかった。


     *


 吸血鬼は、クルムだけではなかった。


 まだ遠い土地に残る者がいた。


 人間との約束を抱えたまま隠れる者もいた。


 約束を捨て、人里を離れた者もいた。


 人間を守ることを諦めきれない者もいた。


 けれど、クルムが災厄と呼ばれるようになったことで、人間たちの恐怖は吸血鬼すべてへ向かった。


 人間たちは学んでいった。


 成体の吸血鬼は殺せない。


 刃では止まらない。


 火でも止まらない。


 日光は苦しめるが、終わらせることはできない。


 未完成の縛りの輪では砕かれる。


 歪めた術では、近づく前に壊される。


 だから、殺すのではなく、まず封じるしかない。


 その結論に辿り着くまでに、多くの街が焼けた。


 多くの名が消えた。


 多くの声が、二度と戻らなくなった。


 人間たちは、古い約束の印を集めた。


 契約の庭に残っていた輪。


 家を守るための境界。


 血を捧げた器。


 名を記した石。


 そして、セレーネが内側から支えた、あの縛りの輪の痕跡。


 守るための術は、捕らえるための術へ変えられていった。


 もう一度。


 今度は、もっと強く。


 もっと深く。


 成体の吸血鬼を、肉体ごと世界から切り離すために。


 クルムはその動きを知っていた。


 知らないはずがなかった。


 人間たちが血を集め、石を運び、地下を掘り、古い言葉を刻んでいることを。


 自分を閉じ込める場所を作っていることを。


 それでも、止めに行かなかった。


 行けなかったのかもしれない。


 その頃には、クルムの中で時間の形が壊れていた。


 夜も昼も、街も森も、人間の声も血の匂いも、すべてが同じところを巡っていた。


 返せ。


 返せ。


 返せ。


 その言葉だけが残っていた。


 誰に向けても足りない。


 何を壊しても戻らない。


 いくら血を流しても、アルバの最後の声は聞こえない。


 いくら叫んでも、セレーネは輪の向こうから戻らない。


 だから、終わりが必要だった。


 自分で選んだわけではない。


 望んだわけでもない。


 けれど、どこかで、終わりを待っていたのかもしれない。


     *


 その夜、人間たちはクルムを地下へ誘い込んだ。


 祠の下。


 石に囲まれた広い空間。


 壁には古い印が刻まれていた。


 血の匂いが濃かった。


 人間たちの血。


 契約者の血。


 罪人と呼ばれた者の血。


 恐怖に震えながら差し出された血。


 あらゆる血が、石の溝を満たしていた。


 クルムは中央に立った。


 周囲に人間たちがいた。


 武器を持つ者。


 術を唱える者。


 泣いている者。


 震えている者。


 憎しみに燃える者。


 誰もが、クルムを見ていた。


 災厄を封じるために。


 その言葉が、人々の胸を支えていた。


 災厄。


 そう呼べば、ひとつにできる。


 父を失った者も。


 子を失った者も。


 自分たちが何をしたのかを知っている者も。


 知らない者も。


 すべてをひとつの恐怖にまとめられる。


 クルムは笑わなかった。


 怒りもしなかった。


 ただ、壁の印を見た。


 そこに、セレーネが支えた輪の面影があった。


 歪められ、重ねられ、強くされている。


 あの時は、家を潰すはずだった輪。


 セレーネが内側から支えた輪。


 今度は、クルムを閉じるために作られている。


 皮肉だと思った。


 思っただけだった。


「災厄を、ここに封じる」


 誰かが宣言した。


 声が震えていた。


「二度と地上へ出さない」


 石の溝が光る。


 血が白く輝く。


 古い言葉が空気を裂く。


 クルムの足元に輪が生まれた。


 今までのものとは違った。


 粗くない。


 歪んでいない。


 憎しみだけで作られたものではない。


 恐怖と、技術と、犠牲と、忘れられた約束。


 そのすべてを混ぜて、ようやく形にしたものだった。


 体が重くなる。


 骨が軋む。


 血が内側から凍る。


 今度の輪は、砕けなかった。


 クルムは一歩進もうとした。


 進めなかった。


 人間たちが叫ぶ。


 何人かが倒れる。


 血を吐く者もいた。


 術は、人間側にも軽くなかった。


 それでも、誰も止めなかった。


 止めれば、また災厄が地上へ出る。


 そう信じていた。


 クルムの体に、石のような冷たさが絡みつく。


 腕が動かない。


 足が沈む。


 視界が白く濁る。


 この封印が、後に残された吸血鬼たちを追い詰める術の始まりになることを、クルムは知らなかった。


 ただ、閉じていく世界の中で、広場を思い出した。


 刃が落ちる瞬間。


 アルバの唇が動いた瞬間。


 声はあった。


 届かなかった声。


 何を言った。


 何を残した。


 それだけが、どうしても分からない。


 クルムは歯を食いしばった。


 封印の光が全身を縛る。


 人間たちの声が遠くなる。


 災厄。


 封じろ。


 終わらせろ。


 その言葉の奥で、別の声が揺れた。


 その時、クルムの脳裏に、幼い声が蘇った。


 ――父さん。


 ――地面に星がある場所って、本当にあるの?


 あった。


 あったんだ、アルバ。


 だが、見せるのが遅すぎた。


 続いて、別の声が蘇る。


 ――動かないの。


 ――足が動いているわ。


 セレーネの声だった。


 髪を結う指。


 穏やかな横顔。


 怖いものだけを見ないで、と娘に残した声。


 クルムは目を閉じた。


 憎しみではなく、その声たちが最後に残った。


 星を数える小さな声。


 地面の星を探す約束。


 もう呼べない名。


 封印が閉じていく。


 光がすべてを覆う。


 人間たちの声が消える。


 世界が遠ざかる。


 最後に、クルムは口を開いた。


「……返せ」


 その声だけが、石の部屋に残った。


 災厄と呼ばれた男は、そこで封じられた。


 だが、彼が本当に失ったものの名を、人間たちは知らなかった。



〜第3部 遠い夜 完〜

第3部 遠い夜 完

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