↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
終わりの名を持つ君へ  作者: そらいろは
第3部 遠い夜

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
37/59

第36章 返せ

第3部 遠い夜

 刃が落ちた。


 その瞬間、広場の音が消えた。


 リナの叫びも。


 人々の息を呑む声も。


 男たちの怒号も。


 すべてが、遠くへ押し流されたようだった。


 クルムは走っていた。


 白い線が足元で弾ける。


 人間たちが仕掛けた縛りの輪が、いくつも立ち上がる。


 そのたびに光が裂け、クルムの肌が切れた。


 血が飛んだ。


 だが、止まらなかった。


 傷は塞がる。


 痛みは残らない。


 残らないはずだった。


 けれど、胸の奥だけが、焼けるように痛かった。


「アルバ!」


 名を呼ぶ。


 声は広場を裂いた。


 だが、アルバは答えなかった。


 柱のそばで、小さな体が崩れた。


 白い石が、服の内側からこぼれ落ちる。


 ころん、と音を立てて、石畳の上を転がった。


 星の欠片のような石。


 リナにもらった石。


 地面に星がある場所へ一緒に行く約束の石。


 それが朝日に照らされて、白く光っていた。


 クルムは手を伸ばした。


 まだ届かない。


 届かない。


 ほんの数歩。


 ほんの数息。


 それだけの距離が、あまりにも遠かった。


 アルバの唇が、最後に動いていた。


 声はあった。


 たしかに、声はあった。


 けれど、広場の悲鳴と怒号と、落ちる刃の音に呑まれて、クルムの耳には届かなかった。


 何を言った。


 何を言おうとした。


 何を、私に残そうとした。


 分からなかった。


 クルムには、分からなかった。


 その事実だけが、刃より深く胸を裂いた。


     *


 広場に立っていた人間たちは、動けなかった。


 誰も歓声を上げなかった。


 誰も勝利を叫ばなかった。


 ただ、そこにあったものを見ていた。


 殺せると叫んでいた男でさえ、一瞬、言葉を失っていた。


 柱。


 白い線。


 朝の光。


 倒れた小さな体。


 そして、広場の端から歩いてくる成体の吸血鬼。


 白い肌。


 青みを帯びた銀白の長い髪。


 深い赤の瞳。


 その姿を見て、人々が後ずさる。


 誰かが転んだ。


 誰かが祈りの言葉を口にした。


 誰かが、子どもを抱き寄せた。


 クルムは何も見ていなかった。


 人間たちを見ていなかった。


 広場も。


 柱も。


 刃を持った者も。


 ただ、アルバだけを見ていた。


 足元で、縛りの輪がまた光る。


 白い線が、今度は腰の高さまで伸び上がった。


 クルムの進路を塞ぐ。


 男がようやく我に返り、叫んだ。


「輪を閉じろ!」


 人間たちが慌てて器を倒す。


 血が石畳に広がる。


 赤黒い線が白い輪に混ざり、クルムの周囲を囲もうとした。


「近づけるな!」


「成体は殺せない!」


「封じろ!」


 言葉が飛び交う。


 けれど、どの声もクルムには届かなかった。


 白い輪に手を伸ばす。


 触れた瞬間、光が弾けた。


 皮膚が裂ける。


 骨まで焼くような痛みが走る。


 だが、クルムは手を引かなかった。


 そのまま握り潰すように、白い線を掴んだ。


 光が悲鳴のような音を立てた。


 輪が歪む。


 砕ける。


 石畳に刻まれていた線が、黒く焦げて消えた。


 人間たちが息を呑む。


「そんな」


 誰かが呟いた。


「効いていない」


 違う。


 効いていないわけではない。


 クルムの手は裂けていた。


 血も出ている。


 痛みもある。


 だが、止まる理由にはならなかった。


 もう、何も。


 止まる理由にはならなかった。


 クルムは柱の前にたどり着いた。


 膝をつく。


 アルバのそばに。


 白い石が、少し離れたところに落ちている。


 クルムはそれを拾わなかった。


 拾えなかった。


 手を伸ばせば、先に触れなければならないものがあった。


 アルバ。


 小さな体。


 ほんの少し前まで、声を出していた子。


 父さん、と呼んでいた子。


 地面に星がある場所を見たいと言っていた子。


 人間を全部嫌いになりたくないと言った子。


 クルムは手を伸ばした。


 触れる。


 冷たくなり始めていた。


 朝日に晒された肌は、いつものようにすぐ戻らなかった。


 傷は塞がらなかった。


 幼い吸血鬼の不死は、日によって剥がされていた。


 だから、人間の刃が届いてしまった。


 クルムはその事実を理解した。


 理解してしまった。


 それでも、心が追いつかなかった。


「アルバ」


 呼ぶ。


 返事はない。


「アルバ」


 もう一度呼ぶ。


 返事はない。


「起きろ」


 声が低くなる。


「アルバ」


 広場のどこかで、リナが泣き叫んでいた。


 ラウルが何かを言っていた。


 マイラが娘を押さえながら泣いていた。


 だが、それも遠かった。


 クルムの世界には、もうアルバしかいなかった。


 そして、そのアルバが返事をしない。


     *


「離れろ」


 男の声がした。


 クルムは動かなかった。


「その子から離れろ、化け物」


 男は震えていた。


 それでも声を張った。


 恐怖を隠すために。


 人々に見せるために。


 自分がまだ勝っていると信じるために。


「見ただろう!」


 男は広場へ向かって叫んだ。


「幼い吸血鬼は殺せる! 我々は恐れる必要などない!」


 誰も応えなかった。


 広場の人間たちは、勝利ではなく、別のものを見ていた。


 倒れた子。


 そのそばに跪く父。


 そして、父の背中から滲み出す、言葉にならないもの。


 恐怖は、そこから始まっていた。


「聞こえないのか」


 男が一歩近づく。


「それはもう死んだ。人間を惑わすものは、ここで」


 その言葉は、最後まで続かなかった。


 クルムの手が動いた。


 速かった。


 誰も見えなかった。


 次の瞬間、男は広場の石畳に叩きつけられていた。


 声も出なかった。


 体が折れる音だけが、乾いて響いた。


 人々が悲鳴を上げる。


 刃を持っていた人間が後ずさる。


 クルムは立ち上がった。


 ゆっくりと。


 アルバの血が、指に触れていた。


 小さな白い石が、足元にある。


 クルムはそれを拾った。


 掌の中に収める。


 白い石は、血で汚れていた。


 クルムはその石を見つめた。


「……リナと」


 声がした。


 広場の端。


 リナだった。


 泣きながら、押さえつけられながら、それでも声を出していた。


「アルバは、私と……星を見るって……」


 言葉にならない嗚咽が混ざる。


「約束、しただけなのに……」


 クルムの赤い瞳が、ゆっくりとリナの方を向いた。


 リナは震えた。


 それでも、目を逸らさなかった。


「ごめんなさい」


 リナは泣きながら言った。


「ごめんなさい。私、逃がしたかったのに。アルバを、逃がしたかったのに」


 ラウルが娘を抱き寄せようとする。


 だが、リナは泣きながら続けた。


「アルバは、最後まで私を悪くないって言った」


 クルムは何も言わなかった。


 その言葉が届いているのか、届いていないのか、誰にも分からなかった。


 ただ、白い石を握る手に、力が入った。


 石が割れるほどではなかった。


 壊さないように。


 それだけは、まだ残っているかのように。


     *


 朝日は、広場を明るくしていった。


 星はもう見えなかった。


 空は白く、冷たく、どこまでも遠い。


 クルムはアルバを抱き上げた。


 軽かった。


 あまりにも軽かった。


 昨日まで、腕の中で暴れていた。


 嫌だと叫んだ。


 父さんまで行かないで、と服を掴んだ。


 母さんが守ったものを壊さないで、と泣いた。


 その子が、今は何も言わない。


 動かない。


 重ささえ、ほとんどない。


 クルムはアルバの髪に触れた。


 星の髪飾りはなかった。


 どこかで落ちたのかもしれない。


 それとも、捕らえられた時に奪われたのかもしれない。


 分からなかった。


 分からないことばかりだった。


 アルバが最後に何を言ったのか。


 どうして、自分は間に合わなかったのか。


 なぜ、セレーネもアルバも、手の届くところにいたはずなのに戻らないのか。


 なぜ、人間は奪うのか。


 なぜ、守ったものから奪われるのか。


 なぜ。


 なぜ。


 なぜ。


 答えはなかった。


 広場の人間たちは、道を開けるように後ずさっていた。


 誰も近づかなかった。


 誰も止めなかった。


 ただ、朝日の中で、クルムがアルバを抱いて立っているのを見ていた。


 その時、刃を持っていた男が震えながら叫んだ。


「近づくな!」


 クルムは振り向いた。


 その男は、さっきアルバの前に立っていた者だった。


 刃を持ち上げた者。


 命じられて、刃を落とした者。


 男の手は震えていた。


 刃も震えていた。


「俺は、命じられただけだ」


 男は後ずさる。


「俺が決めたんじゃない。皆が望んだ。評議が、街が、人間が」


 クルムは黙って見ていた。


「仕方なかったんだ」


 男は叫んだ。


「あれは吸血鬼だ。人間じゃない。殺さなければ、いつか」


 言葉は、そこで止まった。


 クルムの目を見たからだ。


 赤い瞳。


 深い赤。


 そこには、怒りだけがあるわけではなかった。


 悲しみも。


 恐怖も。


 後悔も。


 全部が焼け落ちた後に残る、底のない穴のようなものがあった。


 男は刃を落とした。


 石畳に当たり、乾いた音が響く。


「許してくれ」


 男は言った。


 クルムは、ほんの少し首を傾けた。


 まるで、その言葉の意味が分からないかのように。


 許す。


 何を。


 誰が。


 誰に。


 セレーネは、怖いと決める前に見なさいと言った。


 アルバは、人間を全部嫌いになりたくないと言った。


 リナは泣いていた。


 ラウルは娘を守ろうとしていた。


 マイラは震えていた。


 迷っていた者もいた。


 泣いていた者もいた。


 止めようとした者もいた。


 それでも、アルバは戻らない。


 セレーネも戻らない。


 ならば。


 クルムの中で、最後の何かが音もなく切れた。


     *


 最初の悲鳴が上がった。


 それが誰のものだったのか、誰にも分からなかった。


 刃を持っていた男か。


 命令を出した男か。


 逃げようとした誰かか。


 クルム自身にも分からなかった。


 気づけば、広場に血が広がっていた。


 人間たちが逃げる。


 押し合い、転び、叫び、互いを踏みつける。


 クルムはアルバを抱いたまま、歩いていた。


 片腕で小さな体を抱き、もう片方の手で、人間を払いのけた。


 それだけで、人間の体は壊れた。


 叫びが増える。


 白い朝の光の中で、赤が広がる。


 誰かが縛りの輪を起動させようとした。


 器を倒し、血を撒き、古い言葉を叫ぶ。


 だが、輪は立ち上がる前に砕けた。


 クルムが踏み抜いたからだ。


 白い線が黒く焦げ、消える。


「逃げろ!」


「化け物だ!」


「助けてくれ!」


「誰か、成体を封じる術を!」


 声が重なる。


 それらの声は、もうクルムの中で意味を持たなかった。


 人間。


 人間。


 人間。


 その言葉だけが、黒く膨らんでいく。


 セレーネが守った人間。


 アルバが信じた人間。


 リナのように泣く人間。


 ラウルのように頭を下げる人間。


 マイラのように震える人間。


 石を投げた人間。


 紙を貼った人間。


 輪を歪めた人間。


 刃を落とした人間。


 見ていた人間。


 止めなかった人間。


 区別が、崩れていく。


 名前が、形を失っていく。


 ラウル。


 リナ。


 マイラ。


 そういう名だけが、かろうじて遠くに揺れていた。


 だが、それさえも、血の匂いに呑まれて薄くなっていく。


「やめて!」


 リナの声がした。


 クルムの足が止まった。


 リナは広場の端で、ラウルに抱えられていた。


 泣きながら、こちらを見ている。


「アルバは、そんなこと望んでない!」


 その言葉は、たしかに届いた。


 届いたはずだった。


 けれど、クルムは答えられなかった。


 アルバが何を望んだのか、知らない。


 最後に何を言ったのかも、知らない。


 声はあった。


 でも、届かなかった。


 だから、分からない。


 分からないまま、アルバは戻らない。


 それが、クルムをさらに深いところへ落とした。


 リナの声が、遠ざかる。


 ラウルが娘を抱えて逃げる。


 クルムは追わなかった。


 追えなかったのかもしれない。


 アルバの白い石を握る手が、まだ壊すことを拒んでいたのかもしれない。


 けれど、他の人間たちには向き直った。


 広場に残った者たち。


 命令した者。


 刃を持った者。


 逃げ遅れた者。


 誰が誰なのか、もう見分ける気力はなかった。


     *


 朝の広場は、災厄の始まりになった。


 後にそう呼ばれることになる。


 だが、その時のクルムに、災厄という名はなかった。


 復讐という言葉さえ、まだ形になっていなかった。


 ただ、抱いているものが軽すぎた。


 戻らないものが多すぎた。


 セレーネ。


 アルバ。


 小さな星の石。


 星を見る約束。


 髪を結う手。


 人間を全部嫌いになりたくないと言った声。


 全部が、腕の中で冷えていくようだった。


 クルムは広場の中央に立った。


 周囲には、倒れた人間たちがいた。


 逃げていく足音が遠ざかっていく。


 朝日はますます明るくなる。


 その光の中で、クルムはアルバを抱きしめた。


 壊さないように。


 もう壊れてしまったものを、それ以上壊さないように。


 そして、初めて声を出した。


 叫びではなかった。


 怒号でもなかった。


 低く、掠れた声だった。


「……返せ」


 誰に向けた言葉なのか、分からなかった。


 刃を落とした者にか。


 命じた者にか。


 見ていた者にか。


 人間という種にか。


 空にか。


 世界にか。


 それとも、もう声の届かない誰かにか。


「返せ」


 もう一度言った。


 今度は、少し大きかった。


 広場の端で、誰かが泣いた。


 誰かが逃げた。


 誰かが祈った。


 クルムは聞いていなかった。


 腕の中のアルバだけを抱いていた。


「返せ」


 三度目の声は、広場の石に染み込むように低かった。


 その言葉だけが、朝の光の中に残った。


 星の見えない空の下で。


 人間と吸血鬼の約束が、完全に壊れた朝だった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。