第35章 日の下の裁き
第3部 遠い夜
夜の終わりは、こんなに冷たかっただろうか。
アルバは、石の床の上に座らされていた。
両腕には鉄の輪がかけられている。
足首にも、同じものがある。
輪の内側には細かな線が刻まれていて、肌に触れるたび、力が少しずつ削られていくようだった。
痛い。
けれど、傷の痛みとは違う。
体の奥にある何かを、細い針で引き抜かれていくような痛みだった。
アルバは膝を抱えようとして、腕が動かないことに気づく。
縄が柱に結ばれていた。
古い倉庫のような場所だった。
広場の近くにある建物。
窓は高く、小さい。
外からは人の声が聞こえた。
ひそひそとした声。
誰かを呼ぶ声。
荷を運ぶ音。
木を立てる音。
朝の準備をしている。
処刑の準備をしている。
アルバは胸元に触れようとした。
白い石。
リナにもらった石。
でも、手は届かなかった。
石は服の内側にある。
そこにあることだけは、かろうじて分かる。
こつん、と胸に触れる小さな硬さ。
それだけが、まだアルバと約束をつないでいた。
「寒い」
小さく呟いた。
吸血鬼は、人間より夜に強い。
冷たい風にも、暗い場所にも慣れている。
それなのに、今は寒かった。
体が弱っているのだと分かった。
腕の輪が力を奪っている。
足元に引かれた白い線が、逃げ道を狭めている。
完全なものではない。
きっと、母ならそう言った。
閉じ損ねた輪。
歪められた古い術。
本来は守るためのもの。
それを、縛るために使っている。
母の声が頭の中に響いた気がして、アルバは目を閉じた。
怖いものだけを、見ないで。
あなたは、星を見る子でしょう。
見ようとした。
けれど、高い窓の外には星がなかった。
夜明けが近づいている。
星は薄くなっている。
空のどこかにまだ残っているはずなのに、ここからは見えなかった。
扉の向こうで足音がした。
鍵が開く。
入ってきたのは、広場で声を上げていた男だった。
その後ろに、二人の人間がいる。
手には長い布。
水の入った器。
それから、細い刃。
アルバは刃を見た。
体がこわばる。
男はそれに気づいて、笑った。
「怖いか」
アルバは答えなかった。
「化け物の子でも、恐怖は知っているらしい」
「私は、化け物じゃない」
声が震えた。
でも、言った。
男の眉が少し動く。
「では何だ」
「アルバ」
自分の名を言う。
「私は、アルバ」
男は鼻で笑った。
「名を持つなら、人間と同じだと思っているのか」
「人間と同じじゃなくても、名前はある」
「そういうところが厄介だ」
男は近づいてきた。
「言葉を持つ。子どもの姿をしている。泣き、怯え、約束などと言う。だから人は惑わされる」
アルバは男を見上げる。
「惑わせてなんかいない」
「お前がそう思っていなくても、同じだ」
男はしゃがみ、アルバの顔を覗き込んだ。
「人間はな、優しそうなものに弱い。小さいものに弱い。自分を見つめてくる目に弱い」
その言い方が、ひどく嫌だった。
リナのことを言っているようにも聞こえた。
ラウルのことを言っているようにも。
母のことを言っているようにも。
「だから、見せなければならない」
「何を」
「お前たちは、人間ではないということを」
男は立ち上がった。
「そして、殺せるということを」
アルバの喉が詰まった。
殺せる。
その言葉は、前にも聞いた。
幼いものなら、日を浴びせれば弱る。
日。
アルバは高い窓を見た。
空は少しずつ白くなっている。
「父さんが来る」
気づくと、そう言っていた。
男は一瞬だけ口を閉じた。
その目に、ほんのわずかな恐れが浮かぶ。
それはすぐに隠された。
「来るだろうな」
男は言った。
「だから急ぐ」
*
広場には、人が集められていた。
まだ朝日は出ていない。
けれど、空の端は灰色に明るみ始めている。
冷たい光が、建物の屋根を薄く縁取っていた。
広場の中央には、木の柱が立てられている。
その周りに、白い線が引かれていた。
昨日の夜、アルバの足を止めたものに似ている。
でも、もっと粗い。
もっと歪んでいる。
輪というより、無理やり閉じた傷跡のようだった。
アルバは男たちに引きずられるようにして、広場へ出された。
足に力が入らない。
鉄の輪が重い。
周囲から声が上がった。
「本当に子どもだ」
「吸血鬼の子だ」
「あんなに小さいのか」
「でも、赤い目をしている」
「化け物だ」
「違う、子どもじゃないか」
いろいろな声が混ざっていた。
恐怖。
好奇心。
嫌悪。
同情。
どれも同じ人間の声だった。
アルバは顔を上げた。
人の群れの中に、リナを探した。
すぐには見つからなかった。
けれど、広場の端。
大人たちに囲まれた場所に、ラウルがいた。
マイラもいる。
そして、リナも。
リナはラウルに抱き止められていた。
泣いている。
叫ぼうとして、マイラに口を押さえられている。
ラウルの顔は青白かった。
腕に布が巻かれている。
怪我をしているのかもしれない。
アルバと目が合った。
ラウルは何かを言おうとした。
でも、近くにいた人間が彼の肩を押さえた。
血を差し出した家。
裏切り者の家。
そう呼ばれているのかもしれない。
リナたちは、ここに立たされている。
見せられている。
アルバは胸が痛くなった。
リナは裏切っていない。
ラウルも、マイラも。
それなのに、同じ場所に立たされている。
アルバを見せられている。
アルバが殺されるところを、見せられようとしている。
「見ろ」
男が広場に向かって声を上げた。
「これが、血を求めるものだ」
ざわめきが広がる。
「子どもの姿をしている。言葉も話す。泣く。怯える。人の名を呼ぶ」
男の声はよく通った。
広場の隅まで届くように作られている声だった。
「だからこそ、人間は騙される」
「違う!」
リナの声がした。
人の間から、細く、裂けるように響いた。
「アルバは、騙してなんかない!」
広場が一瞬静まる。
リナは泣きながら続けた。
「約束しただけだよ! 星を見るって、約束しただけ!」
アルバはリナを見た。
胸元の白い石が、服の下で揺れた気がした。
男がリナの方を向く。
「契約者の娘よ」
その声は冷たかった。
「お前が、どれほど深く惑わされたか。皆が見ている」
「違う!」
「黙らせろ」
誰かがリナを押さえた。
ラウルが前に出ようとして、別の男に殴られた。
マイラが小さく悲鳴を上げる。
「やめて!」
アルバは叫んだ。
腕の縄が食い込む。
「ラウルを叩かないで!」
男はゆっくりこちらを見る。
「ほら、こうして人間をかばう」
「悪いことじゃない」
「それが、お前たちの毒だ」
「毒じゃない!」
「人間に情を持たせ、血を差し出させ、家に入らせる」
「違う!」
アルバは息を荒げた。
「ラウルは、自分で選んだ。母さんはちゃんと聞いた。傷を先に閉じた。血をもらったあと、家を守った。獣から守った」
広場の空気が揺れた。
どこかで、誰かが息を呑んだ。
それは、以前にも言った言葉に似ていた。
広場で、母と父のそばに立って、人間たちへ言った言葉。
あの時も、声は届かなかった。
でも、言わずにはいられなかった。
「それを見てないのに、勝手に悪いものにしないで」
男の顔から笑みが消えた。
「やはり、よく喋る」
男は近くの人間へ合図をした。
アルバは柱に縛りつけられた。
背中に硬い木が当たる。
腕を後ろへ回され、鉄の輪ごと固定される。
白い線が足元で淡く光った。
体がさらに重くなる。
空が明るくなっていく。
アルバは顔を上げた。
まだ太陽は出ていない。
でも、朝が来る。
そのことが、こんなにも怖いとは思わなかった。
*
東の空が白み始めると、アルバの肌が少しずつ痛み出した。
最初は、冷たい針で撫でられるような感覚だった。
それが、だんだん熱に変わっていく。
服から出ている手首。
頬。
首元。
そこに、見えない刃が触れているようだった。
アルバは息を詰める。
成体の吸血鬼なら、日光だけで死ぬわけではない。
父はそう言っていた。
でも、幼い吸血鬼は違う。
日を浴びれば、不死性が弱る。
再生する力が失われる。
昔、父が一度だけ言ったことがある。
その時、母は少し怖い顔をしていた。
今なら分かる。
それは、ただの知識ではなかった。
恐ろしい現実だった。
太陽はまだ顔を出していない。
それなのに、体の内側がきしみ始めている。
鉄の輪が重い。
白い線が足を縛る。
逃げられない。
遠くで、誰かが言った。
「本当に弱るのか」
「見れば分かる」
「成体には効かないのでは」
「幼いものなら効く」
言葉が、石のように降ってくる。
アルバは目を閉じた。
怖いものだけを、見ないで。
母の声。
でも、今は怖いものしか見えない。
広場。
人間たち。
柱。
白い線。
朝の光。
リナの泣き顔。
それから、父の姿がないこと。
父さん。
アルバは心の中で呼んだ。
来ないで。
来て。
どちらも本当だった。
来てほしい。
助けてほしい。
でも、来たら父は人間を殺すかもしれない。
母が守ったものを壊してしまうかもしれない。
リナたちも巻き込まれるかもしれない。
それは嫌だった。
けれど、一人でここにいるのも怖かった。
アルバは唇を噛んだ。
血の味がした。
すぐに塞がるはずの小さな傷。
けれど、塞がらなかった。
血が、ゆっくり滲み続ける。
アルバはそれを感じて、初めて本当に震えた。
治らない。
いつもなら消える痛みが、残っている。
日が近い。
力が失われている。
自分は、死ぬことができる体になっていく。
その意味が、体の奥から迫ってきた。
「怖い」
小さく漏れた。
誰にも聞こえないはずだった。
けれど、広場の端でリナが泣き声を上げた。
聞こえたのかもしれない。
それとも、アルバの顔を見ただけで分かったのかもしれない。
「やめて」
リナが泣いていた。
「お願い、もうやめて」
男は広場に向かって言った。
「見ろ。血を恐れ、日を恐れ、人間の情けを乞う。これを神聖なもののように扱っていた者がいる。これに血を差し出していた者がいる」
人々の中から、小さな声が上がった。
「でも、子どもだ」
誰かが言った。
別の声が続く。
「あんなふうに泣くのか」
「本当に、殺すのか」
迷いが広がった。
それは小さかった。
でも、確かにあった。
アルバはその声を聞いた。
人間の中にも、迷う人がいる。
怖がっているだけの人がいる。
声の大きい人に流されている人がいる。
母が言っていたこと。
母が信じようとしたもの。
それは、まだここに少しだけ残っているのかもしれない。
アルバは顔を上げた。
涙で視界が滲んでいる。
それでも、広場を見た。
怖いものだけではなく。
迷っている人たちも。
泣いているリナも。
倒れそうになりながら立っているラウルも。
マイラがリナを抱きしめている姿も。
全部、見ようとした。
「私は」
声がかすれた。
でも、言った。
「人間を、全部嫌いになりたくない」
広場が静かになった。
男がこちらを見る。
アルバは続けようとした。
うまく息が吸えない。
朝の光が強くなっていく。
「母さんが、守ったから」
言葉が途切れる。
「リナが、泣いてるから」
喉が焼けるようだった。
「だから」
その先は、声にならなかった。
男は顔をしかめた。
「もう十分だ」
*
太陽が昇った。
最初の光が、広場の石畳を白く照らした。
それがゆっくりと柱へ伸びてくる。
アルバは逃げようとして、縄が鳴った。
鉄の輪が食い込む。
白い線が足元で強く光る。
逃げられない。
光が、足に触れた。
その瞬間、声が出た。
自分の声とは思えないほど、細く、痛い声だった。
熱い。
熱いのに、体の奥は冷たくなっていく。
足元から力が抜ける。
肌が焼ける痛みよりも、内側の何かが崩れていく感覚の方が怖かった。
再生する力。
戻る力。
吸血鬼として当たり前にあったもの。
それが、朝の光にほどかれていく。
アルバは柱にもたれた。
膝が折れそうになる。
縄がなければ、倒れていた。
「見ろ!」
男が叫んだ。
「日を浴びれば、吸血鬼も弱る!」
歓声は上がらなかった。
広場にあったのは、息を呑む音だった。
誰もが見ていた。
弱っていく子どもを。
アルバはぼんやりとリナを探した。
リナは泣き叫んでいた。
ラウルがその前に立とうとして、また押さえ込まれている。
マイラは目を逸らせず、口元を震わせている。
アルバは思った。
リナに見せたくない。
こんな姿を。
約束した時の顔を、最後にしてほしかった。
星を見る約束。
白い石。
リナの手。
それだけを覚えていてほしかった。
でも、吸血鬼は忘れない。
リナは人間だから、いつか忘れられるのだろうか。
それなら、その方がいいのかもしれない。
忘れてもいい。
泣かないでほしい。
アルバはそう思った。
けれど、胸の石はまだそこにあった。
忘れたくない。
忘れてほしくない。
矛盾した気持ちが、痛みの中で混ざっていく。
男が刃を持った人間に合図をした。
細い刃ではない。
もっと重いもの。
首を落とすための刃。
アルバはそれを見た。
不思議と、少しだけ音が遠くなった。
広場の声。
リナの泣き声。
男の声。
全部が水の中のようにぼやける。
代わりに、別の声が聞こえた気がした。
動かないの。
足が動いているわ。
母の声。
父さん、地面に星がある場所って本当にあるの?
いつか連れていく。
父の声。
怖いものだけを、見ないで。
あなたは、星を見る子でしょう。
アルバは空を見上げた。
太陽がまぶしい。
星は見えない。
それでも、星がなくなったわけではない。
見えないだけ。
届かないだけ。
母も、そうなのだろうか。
見えないだけで、どこかにいるのだろうか。
アルバは胸元の白い石を感じた。
小さな星。
リナにもらった星。
父と探すはずだった、地面の星。
まだ、ここにある。
*
遠くで、悲鳴が上がった。
人々の列が乱れる。
広場の端で、何かが倒れた。
次の瞬間、空気が変わった。
冷たい。
重い。
夜よりも暗いものが、朝の広場に流れ込んできた。
アルバは顔を上げた。
人の間を割るように、白い影が走る。
青みを帯びた銀白の髪。
白い肌。
深い赤の瞳。
「父さん」
声になったかどうか分からなかった。
クルムが来た。
来てしまった。
間に合ったのか。
間に合っていないのか。
アルバには分からなかった。
ただ、父の顔だけが見えた。
あんな顔は、見たことがなかった。
怒っている。
怖がっている。
壊れそうになっている。
全部が同時にそこにあった。
人間たちが後ずさる。
男が叫ぶ。
「近づけるな!」
白い線が光る。
広場に仕込まれていた縛りの輪が、クルムの足元で立ち上がる。
だが、クルムは止まらなかった。
光が弾ける。
肌が裂ける。
血が飛ぶ。
それでも、クルムは進んだ。
傷はすぐに塞がっていく。
成体の吸血鬼。
殺せないもの。
封じるしかないもの。
人間たちが恐れたものが、そこにいた。
「アルバ!」
クルムの声が広場を裂いた。
アルバは笑おうとした。
できなかった。
体がもう、うまく動かなかった。
言わなきゃ。
そう思った。
父に言わなければならないことがある。
母が言ったこと。
自分が見たこと。
リナは悪くないこと。
人間を全部同じにしないでほしいこと。
でも、喉が焼けて、声が出ない。
クルムが走ってくる。
その向こうで、男が刃を持つ者へ叫んだ。
「今だ!」
時間がゆっくりになった。
刃が上がる。
リナが叫ぶ。
ラウルが何かを叫ぶ。
クルムの赤い瞳が見開かれる。
アルバは、最後の力で唇を動かした。
声は、出た。
けれど、あまりにも小さかった。
広場の悲鳴と怒号に呑まれ、クルムに届いたのかどうかも分からなかった。
それでも、アルバは言おうとした。
憎しみではない言葉を。
母が守ったものを壊さないための言葉を。
父を止めるための言葉を。
——朝の光が、すべてを白く染めた。




