第34章 差し出された子
第3部 遠い夜
朝になっても、白い花は窓の下に残っていた。
短い赤い糸も、土の上に落ちたままだった。
アルバは窓の内側から、それを見下ろしていた。
夜のうちは、星明かりのせいで白く見えていた花は、朝の薄い光の中では少し汚れていた。
花びらの端が潰れている。
赤い糸は、途中で切れていた。
結ばれていたものを、無理に引きちぎったように。
アルバは胸元の白い石を握った。
リナが会いたがっている。
明日の夜。
古い井戸のそばで。
夜中に聞いた人間の声が、まだ耳の奥に残っている。
本当かどうか分からない。
罠かもしれない。
でも、リナの名前を聞いた瞬間、心はもう動いてしまっていた。
扉の留め具が鳴った。
アルバは振り返る。
クルムが戻ってきた。
外套の裾に土がついている。
夜の間、どこかを歩いていたのだろう。
赤い瞳は、いつもより暗かった。
クルムは部屋に入ると、すぐに窓の下を見た。
白い花。
赤い糸。
その二つを見た瞬間、目が細くなる。
「誰が来た」
アルバは答えられなかった。
「アルバ」
声が低くなる。
「誰が来た」
「……分からない」
「何を言った」
隠しても無駄だと思った。
父は嘘を嫌う。
それに、匂いだけで分かることもある。
アルバは白い石を握ったまま言った。
「リナが、会いたがっているって」
クルムの顔から、温度が消えた。
「いつ」
「今夜。古い井戸のそば」
「行くな」
すぐだった。
考える間もないほど、すぐに言われた。
アルバは唇を噛む。
「でも」
「罠だ」
「本当にリナかもしれない」
「だから罠だ」
アルバは顔を上げた。
「リナはそんなことしない」
「リナがしなくても、他の人間が使う」
「リナは悪くない」
「悪くない者でも、餌にはされる」
その言葉に、胸が詰まった。
餌。
父は何でもそう言う。
危ないもの。
近づくなというもの。
信じるなというもの。
でも、リナは餌ではない。
約束をした子だ。
手を握ってくれた子だ。
「私が行かなかったら」
アルバは言った。
「本当にリナが困ってたら、どうするの」
「私が見る」
「父さんが行ったら、リナは怖がる」
「怖がればいい」
「父さん」
「怖がって逃げるなら、それでいい」
クルムは窓の下の花を見たまま言った。
「お前が行く必要はない」
「でも、リナは私を呼んだんだよ」
「呼ばれたから行くな」
「約束したんだよ」
「約束が、お前を守るとは限らない」
その言葉は、前にも聞いた。
約束は安全を保証するものではない。
父はずっとそう言っていた。
でも、母は違うことも言っていた。
約束は、守りたいと思うからするものだと。
怖いものだけを見ないで、と。
あなたは、星を見る子でしょう、と。
アルバは胸元の石を握りしめた。
「父さんは、全部捨てろって言うの?」
クルムは振り返った。
「リナも、ラウルも、マイラも。母さんが守った人たちも。全部、見ないことにしろって言うの?」
「生きるためなら」
「母さんは、そうしなかった」
部屋の空気が、張りつめた。
言ってはいけないことを言ったのかもしれない。
でも、もう止まらなかった。
「母さんは、見ないことにしなかった。人間が怖くても、間違っても、全部同じにしなかった。だからラウルたちを助けた」
「その結果が、これだ」
クルムの声は静かだった。
静かすぎて、痛かった。
「セレーネは戻らない」
アルバは息を呑む。
クルムは続けた。
「お前まで戻らなくなるなら、私はセレーネが守ったものごと壊してでも止める」
その言葉には、怒りよりも深い恐怖があった。
アルバには分かった。
父はアルバを閉じ込めたいのではない。
失いたくないのだ。
母が戻らなくなった場所から、もう誰も外へ行かせたくないのだ。
でも、それでも。
アルバは窓の下の白い花を見た。
潰れた花。
切れた赤い糸。
それを見ないふりはできなかった。
*
その日の夜、クルムは早くから家を出た。
「私が古い井戸を見る」
そう言った。
「お前はここにいろ」
アルバは頷いた。
頷くしかなかった。
クルムは扉に留め具をかけ、窓を確かめた。
それから、最後にアルバを見る。
「出るな」
「……うん」
「誰が来ても、声を出すな」
「うん」
「私が戻るまで、ここにいろ」
アルバはもう一度頷いた。
クルムはしばらくアルバを見ていた。
その目は、疑っているというより、祈っているようだった。
行くな。
頼むから。
言葉にはしなかったけれど、そう聞こえた。
扉が閉まる。
足音はすぐに消えた。
父の気配が遠ざかっていく。
アルバはしばらく動かなかった。
動けば、自分が何をしようとしているのか分かってしまう気がした。
胸元の白い石が、服の内側で小さく揺れた。
リナが会いたがっている。
古い井戸のそばで。
父は古い井戸へ行った。
きっと、そこに誰かがいるなら捕まえるつもりだ。
でも、もしリナが本当にいたら。
父を見て逃げてしまうかもしれない。
怖がって、何も言えないかもしれない。
それとも、父が着く前に別の誰かに連れていかれるかもしれない。
アルバは立ち上がった。
扉は開かない。
窓も開かない。
クルムが留めたものは、子どもの力では動かなかった。
でも、家にはひとつだけ、父が見落とした場所があった。
台所の奥。
薬草を乾かすための小さな通気口。
昔、アルバがそこから外の光を見ようとして、セレーネに叱られたことがある。
危ない場所ではないわ。
でも、勝手に出入りする場所でもないの。
母の声が、ふと蘇る。
アルバは通気口の前に立った。
子ども一人がぎりぎり通れるほどの隙間。
大人は無理だ。
クルムは気づかなかったのではない。
きっと、アルバがそこを使うとは思わなかったのだ。
アルバは少しだけ迷った。
「ごめんなさい」
誰に向けた言葉なのか、自分でも分からなかった。
父にか。
母にか。
それとも、約束にか。
アルバは通気口の板を外し、体を滑り込ませた。
肩が擦れる。
服の袖が引っかかる。
髪飾りが外れそうになる。
それでも、外へ出た。
夜の空気が冷たかった。
空には星が出ていた。
アルバは一度だけ振り返る。
母のいない家。
父が閉じた家。
守られているはずの場所。
そこから一歩、外へ出た。
*
古い井戸は、街外れの崩れた石垣のそばにあった。
もう水はほとんど残っていない。
誰も使わなくなった場所。
草が伸び、石畳の隙間から細い葉が出ている。
アルバは物陰に身を寄せながら進んだ。
父の気配はない。
それが逆に怖かった。
古い井戸へ行ったはずなのに、どこにもいない。
違う場所へ誘い出されたのかもしれない。
胸が強く鳴る。
「リナ」
小さく呼んだ。
返事はなかった。
もう一歩進む。
井戸の影に、誰かがいた。
小さな体。
肩までの髪。
アルバは息を呑んだ。
「リナ」
今度は、はっきり呼んだ。
影が震える。
リナが振り向いた。
顔は涙で濡れていた。
「アルバ……」
その声を聞いた瞬間、アルバは駆け寄りそうになった。
けれど、リナが首を横に振った。
必死に。
「来ちゃだめ」
アルバの足が止まる。
「え?」
「逃げて」
リナの声は震えていた。
「お願い。逃げて」
「リナが呼んだんじゃないの?」
「違う」
リナは泣きながら言った。
「私は、呼びたくなかった。呼んじゃだめって思った。でも、あの人たちが」
言葉が途切れる。
アルバは周囲を見る。
暗い。
静かすぎる。
草の影。
崩れた石垣。
井戸の周り。
そこに、人の気配があった。
「リナ」
アルバは一歩下がる。
「一緒に逃げよう」
「無理」
「大丈夫。私、走れる」
「私だけじゃない」
リナは両手を握りしめた。
「お父さんとお母さんも、見られてる。逃げたら、家を燃やすって。お父さんを罪人にするって。血を差し出した家だから、見せしめにするって」
アルバは言葉を失った。
ラウル。
マイラ。
リナ。
みんな、逃げたはずだった。
なのに、逃げ切れていなかった。
「ごめんね」
リナが言う。
「違う」
アルバは首を横に振った。
「リナは悪くない」
「でも、私、ここに来た」
「逃げてって言うためでしょ」
リナは泣きながら頷いた。
「アルバなら、来ちゃうと思った。だから、来たら逃がさなきゃって。でも」
その時、暗闇から声がした。
「そこまでだ」
男の声だった。
アルバはリナの前へ出る。
石垣の影から、数人の人間が現れた。
広場で声を上げていた男がいた。
石を投げた夜に見た顔もあった。
知らない顔もある。
手には縄。
鉄の輪。
赤黒く染まった布。
そして、小さな器。
血の匂いがした。
アルバの体がこわばる。
「やはり来た」
背の高い男が言った。
「吸血鬼の子どもは、人間の真似をする」
「リナを離して」
アルバは言った。
声が震えた。
でも、下がらなかった。
男は笑った。
「離しているだろう。あの娘は自分の足で来た」
「違う!」
リナが叫んだ。
「私は、アルバを逃がそうと」
男がリナを見る。
それだけで、リナの声が止まった。
「契約者の娘が、まだ吸血鬼をかばうか」
「リナは関係ない」
アルバは言った。
「私に用があるなら、私だけにして」
「そうするつもりだ」
男はゆっくり近づいてくる。
「小さい方がいい。そう言った者がいた」
アルバの背筋が冷たくなった。
井戸の影で聞いた言葉。
小さい方。
見せしめ。
あれは、自分のことだった。
「成体は殺せない」
別の男が言った。
「だが、幼いものなら日を浴びせれば弱る」
リナが悲鳴のような声を上げた。
「やめて!」
アルバはリナを振り返る。
その一瞬を、人間たちは逃さなかった。
赤黒い布が投げられる。
アルバは避けようとした。
けれど、足元に白い線が走った。
細い輪。
完全なものではない。
でも、足首に絡みつくように光った。
体が一瞬重くなる。
その隙に、縄が腕に巻きついた。
「離して!」
アルバは腕を振った。
子どもとはいえ、吸血鬼だった。
人間の腕くらいなら、振り払えた。
けれど、すぐ近くでリナが押さえつけられる。
「動けば、この娘の家がどうなるか分かるな」
男の声がした。
アルバの動きが止まった。
リナが首を横に振る。
「だめ、アルバ。私のことは」
「嫌だ」
アルバは息を荒げながら言った。
「嫌だよ」
リナを置いて逃げられない。
ラウルたちを見捨てられない。
母が守ったものを、壊したくない。
でも、その気持ちごと、利用されている。
アルバにも分かった。
分かったのに、動けなかった。
男が近づき、アルバの腕に鉄の輪をかけた。
冷たい。
重い。
輪の内側に刻まれた線が、肌に触れる。
痛みというより、力が吸われるような感覚がした。
不完全なもの。
歪んだもの。
セレーネなら、きっとそう言っただろう。
でも、今ここに母はいない。
クルムもいない。
アルバは一人だった。
「吸血鬼も捕らえられる」
男が周囲に向かって言った。
「幼いものなら、恐れることはない」
「違う!」
リナが泣き叫んだ。
「アルバは、何もしてない!」
「何もしていないから役に立つ」
男は冷たく言った。
「人間どもに見せるにはな」
その言葉の意味を、アルバはすぐには理解できなかった。
見せる。
誰に。
何を。
吸血鬼も殺せるということを。
そう思った瞬間、足の力が抜けそうになった。
それでも倒れなかった。
白い石が胸元で揺れている。
リナとの約束の石。
アルバはそれを握ろうとした。
けれど、腕を縛られていて届かない。
リナが泣いている。
アルバは必死に笑おうとした。
うまくできなかった。
「リナ」
アルバは言った。
「泣かないで」
「ごめん」
「謝らないで」
「ごめん、アルバ」
「リナは悪くない」
その言葉を、何度も言った気がする。
でも、今度は最後のような気がして、怖かった。
男たちがアルバを引く。
リナが駆け寄ろうとして、別の人間に止められる。
「アルバ!」
リナの声が夜に響いた。
アルバは振り返る。
リナの顔。
泣いている顔。
星を見る約束をした顔。
その顔を忘れたくなかった。
「石、持ってるから」
アルバは言った。
「ずっと」
リナが大きく目を見開いた。
それから、崩れるように泣いた。
*
クルムは、最初から古い井戸へ向かっていた。
だが、街外れへ続く道の途中で、血の匂いが分かれた。
ひとつではない。
三つ。
それぞれ違う方向へ伸びていた。
短く切られた赤い糸。
踏み潰された白い花。
血を含ませた布。
それらが、道の石の隙間に置かれていた。
誘導だ。
クルムはすぐに理解した。
人間どもが、自分を殺せないことは分かっている。
だから、倒そうとはしていない。
迷わせようとしている。
遅らせようとしている。
それでも、無視できなかった。
三つのうち、ひとつにアルバの匂いが混じっていたからだ。
薄く、頼りなく、けれど確かに。
アルバの髪。
アルバの服。
アルバが触れた石。
どこから手に入れたのかは分からない。
だが、そこにあった。
クルムは舌打ちをした。
罠だ。
分かっている。
けれど、もし本当にアルバがそちらへ連れられていたら。
その可能性を捨てられなかった。
一つ目の痕跡を潰す。
違う。
二つ目を追う。
また違う。
三つ目には、血だけがあった。
人間の血。
古い薬草の匂い。
匂いを散らすための、粗末な細工。
こんなものに惑わされたわけではない。
分かっていた。
分かっていながら、確認せずにはいられなかった。
そのわずかな遅れが、致命的だった。
クルムが古い井戸に着いた時、そこにはもう誰もいなかった。
草が踏み荒らされている。
土の上に、白い花が落ちている。
短い赤い糸も。
それから、アルバの服の袖の切れ端があった。
クルムはそれを拾い上げた。
指先が、かすかに震える。
匂いが残っていた。
アルバ。
リナ。
複数の人間。
血。
古い縛りの輪。
そして、恐怖。
クルムの赤い瞳が、闇の中で静かに燃えた。
「アルバ」
低く、名を呼ぶ。
返事はない。
夜は深い。
東の空は、まだ暗い。
けれど、遠くに朝の気配があった。
クルムは顔を上げる。
人間たちの匂いは、街の中心へ向かっていた。
広場の方へ。
人を集める場所へ。
見せしめをする場所へ。
クルムの手の中で、布の切れ端が音もなく潰れた。
行かなければならない。
すぐに。
今すぐに。
それなのに、胸の奥で別のものが叫んでいた。
また、間に合わなかったのか。
セレーネ。
アルバ。
守ると決めたものが、指の間からこぼれていく。
クルムは走り出した。
夜を裂くように。
人間の街へ。
朝が来る前に。
まだ、間に合うと信じるために。
けれど、遠くの空は少しずつ白み始めていた。




