第33章 それでも約束を
第3部 遠い夜
母のいない朝は、音が少なかった。
火のはぜる音。
器を置く音。
水を汲む音。
そういうものは、前と同じようにある。
けれど、その間にあったはずの声がない。
アルバ、と呼ぶ声。
髪を結うから座りなさい、と言う声。
そんなに足を揺らさないの、と笑う声。
それがないだけで、家は別の場所のようになった。
アルバは椅子に座り、膝の上で白い石を握っていた。
リナにもらった石。
約束のしるし。
もう片方の手には、窓辺に残されていた星の髪飾りがある。
母がよく使っていたものだった。
白い石で作られた、小さな星。
髪につけると、母はいつも少し離れて眺めた。
よく似合うわ、と言った。
でも、今は誰も髪を結んでくれない。
アルバは自分で髪をまとめようとした。
何度やっても、うまくいかなかった。
低い位置で結ぼうとしても、横の髪がこぼれる。
結び目はゆるむ。
星の髪飾りは、指の間で冷たかった。
「貸せ」
低い声がした。
アルバは顔を上げる。
クルムが立っていた。
いつからそこにいたのか、分からなかった。
「父さん、結べるの?」
「結べない」
「じゃあ、なんで貸せって言ったの」
「お前よりはましだ」
アルバは少し迷ってから、紐を渡した。
クルムはアルバの後ろに立つ。
母のように髪をすくう手つきではなかった。
指は硬く、不器用で、時々髪を引っ張った。
「痛い」
「我慢しろ」
「母さんは痛くなかった」
言ってから、アルバは口を閉じた。
部屋が静かになる。
クルムの手が止まった。
背中越しに、父が何を考えているのか分からない。
アルバは白い石を握った。
「……少しだけ痛い」
小さく言い直した。
クルムは何も言わず、もう一度髪を結び始めた。
しばらくして、結び目ができた。
母が結ってくれた時より、少し曲がっている。
髪もいくらかこぼれている。
けれど、ほどけてはいなかった。
クルムは星の髪飾りを手に取る。
それを髪に差そうとして、少し迷った。
どうつければいいのか分からないらしい。
アルバは手を伸ばした。
「それは、ここ」
自分で髪飾りを差す。
鏡を見ると、やはり少し曲がっていた。
でも、星はそこにあった。
「変?」
「変ではない」
「似合う?」
クルムはすぐには答えなかった。
それから、低く言った。
「セレーネは、似合うと言うだろうな」
アルバは鏡を見たまま頷いた。
「うん」
それ以上、何も言えなかった。
*
その日から、クルムは扉に新しい留め具をつけた。
窓にも、内側から細い金具を渡した。
夜はもちろん、昼間でさえ外へ出ることを許さなかった。
「人間に近づくな」
クルムは何度も言った。
「街にも行くな。契約者の家にも行くな。声をかけられても答えるな」
「ラウルたちは?」
「離れた」
「ちゃんと着いたかな」
「知る必要はない」
「リナは?」
「知る必要はない」
アルバは唇を噛んだ。
知る必要はない。
その言葉は、父がよく使う。
危ないことを遠ざける時。
見せたくないものを隠す時。
アルバの手が、胸元の白い石を探した。
「私は知りたい」
クルムの目がこちらを見る。
赤い瞳。
そこに怒りはあった。
でも、それよりも深いものがあった。
怖れ。
アルバは、そう感じた。
「知ってどうする」
「無事なら、よかったって思う」
「無事ではなかったら」
アルバは答えられなかった。
クルムは続ける。
「お前はまた近づく。助けたいと言う。信じたいと言う。母親が守ったものだから壊したくないと言う」
言葉が、胸に刺さった。
全部、アルバが思っていることだった。
「悪いこと?」
「悪い」
クルムは即座に言った。
「お前を殺す」
「リナは殺さない」
「リナだけではない」
「ラウルもマイラも悪くない」
「悪くない者が、お前を守れるとは限らない」
アルバは黙った。
それは、反論しづらかった。
リナは悪くない。
でも、リナは石を投げる人を止められなかった。
ラウルは悪くない。
でも、ラウルは紙を貼る人を止められなかった。
マイラは悪くない。
でも、マイラは母を戻してくれない。
悪くないことと、守れることは違う。
父が前にも言っていたことを思い出した。
「じゃあ、母さんは間違えたの?」
アルバは聞いた。
クルムの顔が変わった。
空気が一瞬で冷たくなる。
それでも、アルバは目を逸らさなかった。
「母さんは、ラウルたちを助けた。私も父さんも助けた。母さんが守ったものは、間違いなの?」
「違う」
クルムの声は低かった。
「なら、どうして」
「セレーネが正しくても、人間が正しいとは限らない」
「でも、人間全部が間違いじゃない」
「全部を見分けられると思うな」
「見分けたい」
「見分けようとして、近づくな」
「じゃあ、何も見ないの?」
クルムは答えなかった。
アルバは白い石を握りしめる。
「母さんは、怖いものだけを見ないでって言った」
「だから死んだ」
その言葉が落ちた瞬間、アルバの中で何かが止まった。
クルムも、言った直後に気づいたようだった。
けれど、もう遅い。
言葉は戻らない。
アルバは息を吸う。
喉が痛かった。
「死んでないって、父さんが言った」
声が震えた。
「あれは死じゃないって、父さんが言った」
クルムは口を閉じた。
「父さんが言ったんだよ」
アルバは立ち上がった。
椅子が床をこすって音を立てた。
「母さんは戻らない。でも、死んでない。そう言ったのは父さんだよ」
「アルバ」
「母さんのことを、そんなふうに言わないで」
クルムは動かなかった。
赤い瞳が、ほんの少し伏せられる。
「……悪かった」
それは、とても小さな声だった。
謝る父を、アルバはほとんど見たことがなかった。
だから余計に、胸が痛くなった。
怒りたいのに、怒りきれない。
泣きたいのに、泣きたくない。
アルバは椅子に座り直した。
星の髪飾りが、少し揺れた。
*
夕方近く、クルムは外へ出た。
アルバを残して。
「鍵を開けるな」
出る前に、そう言った。
「誰が来てもだ」
「父さんが帰ってきたら?」
「私なら開けられる」
「じゃあ、誰にも開けない」
「そうしろ」
扉が閉まる。
留め具が外からも内からも動かないようにされた音がした。
アルバはしばらく扉を見ていた。
それから窓へ行く。
金具の隙間から、外が見えた。
街の方角。
ラウルたちがいた家の方角。
そこには、何も見えない。
人影もない。
煙もない。
ただ、遠くの空が薄く赤くなっているだけだった。
アルバは胸元の白い石を取り出した。
リナの手の温かさを思い出す。
指先が一瞬だけ触れた時のこと。
石、持ってて。
持ってる。ずっと。
私も忘れない。
アルバと、星を見る約束。
それが最後の言葉になった。
最後。
その言葉が嫌だった。
最後にしたくない。
母の声も。
リナとの約束も。
何もかも、終わったものにしたくなかった。
「約束は、なくならないよ」
アルバは小さく言った。
自分で言った言葉だった。
でも今は、自分に言い聞かせるために言っていた。
窓の外で、風が草を揺らす。
扉の向こうに母はいない。
街の向こうにリナがいるのかも分からない。
それでも、石は手の中にある。
消えていない。
だから、約束も消えていないはずだった。
そう思いたかった。
*
夜になっても、クルムは戻らなかった。
アルバは灯りをつけずに座っていた。
暗い方が、窓の外の星が見えるからだ。
母の声を思い出す。
あなたは、星を見る子でしょう。
星を見る。
怖いものだけではなく。
暗いものだけではなく。
憎しみだけではなく。
でも、星は遠い。
手を伸ばしても届かない。
白い石とは違う。
母の手とも違う。
窓の外に、ふと小さな音がした。
アルバは顔を上げる。
風ではなかった。
草を踏む音。
小さな、迷うような足音。
アルバは息を殺した。
父ではない。
父の足音なら、もっと音がしない。
獣でもない。
獣なら、もっと低く息をする。
窓の外に、人影があった。
小さい。
子どもではない。
でも、大人にしては頼りない影。
誰かが、窓の下に何かを置いた。
それから、すぐに離れていく。
「待って」
アルバは思わず声を出しそうになり、口を押さえた。
鍵を開けるな。
誰が来てもだ。
父の声が頭に響く。
アルバは窓に近づいた。
金具の隙間から下を見る。
白いものがあった。
小さな花。
そして、短い赤い糸。
胸が鳴った。
ラウルの家の玄関にあったものと同じ。
血の約束の印。
でも、器はない。
花も少し潰れている。
赤い糸も短く、端がほつれていた。
アルバは窓に手をかける。
金具が邪魔をする。
外に出られない。
扉も開かない。
父が閉じたから。
守るために。
アルバは唇を噛んだ。
外へ出てはいけない。
分かっている。
人間に近づいてはいけない。
それも分かっている。
でも、あの白い花と赤い糸が、ただの飾りではないことも分かっていた。
リナが何かを伝えようとしているのかもしれない。
ラウルたちが困っているのかもしれない。
それとも、誰かが罠として置いたのかもしれない。
クルムなら、そう言うだろう。
罠だ。
近づくな。
考えるな。
アルバは白い石を握った。
「でも」
声がこぼれた。
小さく、震えていた。
「でも、約束だから」
その時、扉の外で気配がした。
アルバは振り返る。
クルムが戻ってきたのだと思った。
けれど、足音は扉の前で止まったまま、動かなかった。
低い声がした。
人間の声だった。
「……リナが、会いたがっている」
アルバの息が止まる。
声はすぐに続いた。
「明日の夜。古い井戸のそばで」
それだけだった。
足音が遠ざかる。
アルバは動けなかった。
リナ。
リナが会いたがっている。
本当かどうか分からない。
罠かもしれない。
父に言えば、絶対に止められる。
それでも。
アルバは白い石を胸に押し当てた。
母の言葉が浮かぶ。
怖いと決める前に、見なさい。
嫌いと決める前に、選びなさい。
そして、父の言葉も浮かぶ。
見れば、離れられなくなる。
どちらも、アルバの中にあった。
どちらも忘れたくなかった。
窓の外には、白い花と赤い糸が残っている。
星の光は弱かった。
でも、消えてはいなかった。
アルバは震える手で白い石を握りしめた。
「リナが呼んでるなら」
誰に言うでもなく、呟いた。
「行かないと」
その言葉は、決意というより、祈りに近かった。
母が守ったものを、憎しみだけで終わらせたくない。
父が恐れるものから、目を逸らしたくない。
リナとの約束を、最後の言葉にしたくない。
たとえ怖くても。
たとえ間違っているかもしれなくても。
それでも、約束を。
アルバはそう思った。




