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終わりの名を持つ君へ  作者: そらいろは
第3部 遠い夜

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第32章 戻らない母

第3部 遠い夜

 ラウルの家は、静かだった。


 静かすぎるほどだった。


 前なら、夜に近づくと、小さな生活の音が聞こえた。


 マイラが器を置く音。


 ラウルが火に薪を足す音。


 リナが何かを落として、慌てて拾う音。


 人間の家の音。


 けれど、その夜は違った。


 灯りはついている。


 赤い糸も結ばれている。


 白い花も、玄関の横に置かれている。


 それなのに、家全体が息を潜めているようだった。


 アルバはセレーネの手を握っていた。


 強く握りすぎているのは分かっている。


 でも、離せなかった。


 母は何も言わず、その手を握り返してくれていた。


 クルムは前を歩いていなかった。


 今日は、アルバたちのすぐそばにいた。


 いつでも手を伸ばせる距離。


 いつでも抱えて逃げられる距離。


 その近さが、逆に怖かった。


「中へ入る前に」


 クルムが低く言った。


「何があっても、私から離れるな」


 アルバは頷いた。


「母さんからも?」


「セレーネが離れろと言ったら、私の方へ来い」


 アルバは母を見上げた。


 セレーネはクルムを見て、少しだけ眉を寄せる。


「そんなことは言わないわ」


「言う時がある」


「ないわ」


「ある」


 二人の声は静かだった。


 言い合いなのに、怒鳴り声ではない。


 でも、アルバには分かった。


 父も母も、今夜を怖がっている。


 扉が開いた。


 ラウルが顔を出す。


 その顔は、昨日よりさらに疲れていた。


「来てくださって、ありがとうございます」


 セレーネは頷く。


「決めたの?」


 ラウルはすぐには答えなかった。


 家の中へ視線を戻す。


 その奥に、マイラとリナがいた。


 荷物がまとめられている。


 大きなものはない。


 布包みが二つ。


 水袋。


 薬の小瓶。


 食べ物を入れた小さな袋。


 それだけだった。


 アルバは胸元の白い石に触れた。


「どこかへ行くの?」


 リナは答えなかった。


 代わりに、ラウルが静かに言った。


「この家を、しばらく離れます」


 しばらく。


 その言葉は、はっきりしなかった。


 戻ってくるつもりなのか。


 もう戻らないのか。


 アルバには分からなかった。


 リナが一歩前に出た。


「アルバ」


 声が震えていた。


 アルバはリナの前へ行く。


 何か言いたかった。


 行かないで。


 一緒に星を見る約束はどうなるの。


 地面に星がある場所を見つけたら、教えるって言ったのに。


 でも、言えなかった。


 リナの家は石を投げられた。


 紙を貼られた。


 赤い糸を何度も切られた。


 井戸の影では、小さい方がいいと言われた。


 行かないでと言うには、あまりにも怖いことが増えすぎていた。


「どこへ行くの?」


 やっと出た言葉は、それだった。


「南の親戚のところ」


 リナは言った。


「お父さんが、少しだけって」


「少しだけ?」


「うん」


 リナは頷いた。


 でも、その頷きは弱かった。


 信じたいけれど、自分でも信じきれていない顔だった。


 アルバは胸元から白い石を出した。


「これ、まだ持ってる」


 リナは石を見て、小さく頷いた。


「うん」


「だから、約束はなくならないよ」


 リナの目が揺れた。


「……うん」


「遠くへ行っても、私は忘れない」


 アルバが言うと、リナは唇を震わせた。


「私も忘れない」


「本当?」


「うん。アルバと、星を見る約束」


 その言葉を聞いて、アルバは石を握りしめた。


 セレーネがラウルに言う。


「夜が深いうちに出ましょう。人目の少ない道を使えば、街の外までは行ける」


「はい」


「荷物はそれだけ?」


「ええ」


「足りないものは後で届けるわ」


 クルムが低く言った。


「後では遅い」


 セレーネは振り返る。


 クルムは外を見ていた。


 家の中ではない。


 扉の向こう。


 道の先。


 闇の奥。


「来ている」


 その一言で、家の中の空気が凍った。


     *


 最初に聞こえたのは、足音ではなかった。


 低い唸りのような音。


 風でもない。


 獣でもない。


 誰かが、地面の下で太い糸を引いているような音だった。


 アルバは思わずセレーネの手を握る。


 セレーネの手が、一瞬だけ強くなる。


 クルムは扉の前へ出た。


 外には、誰もいないように見えた。


 けれど、道の石が淡く光っていた。


 細い線。


 白い線。


 それが土の上を這うように、家の周りへ広がっていく。


 アルバは息を呑んだ。


「何、あれ」


 セレーネが小さく言う。


「縛りの輪……」


「輪?」


 聞き返すより先に、家の外で声がした。


「血を鍵にしろ」


 別の声が続く。


「輪を閉じろ」


「逃がすな。成体は殺せない。縛ればいい」


 クルムの赤い瞳が、燃えるように光った。


「どこで、それを知った」


 クルムの声は、アルバが聞いたことのないほど低かった。


 外の人影は答えない。


 代わりに、白い線がさらに強く光った。


 白い線は家の周りを囲み始めていた。


 玄関。


 窓。


 裏口。


 壁の下。


 赤い糸のすぐそば。


 線は、生き物のように伸びていく。


 クルムが一歩外へ出る。


 瞬間、白い線が鋭く光った。


 空気が裂けるような音がして、クルムの前に透明な壁のようなものが立ち上がる。


 クルムの手がそれに触れた。


 白い火花が散る。


 焦げた匂いがした。


「父さん!」


 アルバが叫ぶ。


 クルムは手を引いた。


 手の甲に浅い裂け目ができている。


 だが、すぐに塞がっていく。


 それでも、クルムの顔は険しかった。


「これは…」


 セレーネが言った。


「古い縛りの輪を、無理に歪めている。家を全て巻き込んでいるわ」


 アルバには、母の言っている意味がすべて分かったわけではなかった。


 けれど、セレーネがその輪を知っていることだけは分かった。


 約束の庭で古い印を読み、赤い糸の意味を教えてくれた時と同じ顔をしていた。


 母は、血で境界を作る古い術を知っている。


 本来は、家や契約の場所を守るためのもの。


 人間と吸血鬼の約束を残すためのもの。


 それが今、別のものに変えられている。


 それだけは、アルバにも分かった。


「破る」


 クルムが言う。


「中に人間がいるわ」


「だから何だ」


「力任せに破れば、輪が潰れる。ラウルたちまで、ただでは済まない」


 クルムは黙った。


 アルバは周囲を見る。


 ラウルの家。


 マイラ。


 リナ。


 ラウル。


 セレーネ。


 クルム。


 自分。


 全部が白い線の内側にある。


 閉じ込められようとしている。


 その時、外の闇に人影が見えた。


 数人。


 顔はよく見えない。


 けれど、手に何かを持っている。


 古い金属の輪。


 血の入った器。


 紙の束。


 石に刻まれた文字。


 アルバには、それらの意味は分からなかった。


 でも、危ないものだと分かった。


 外の誰かが叫んだ。


「輪を絞れ」


「吸血鬼を外へ出すな」


「中の人間ごと押さえ込め」


 その言葉に、セレーネの顔が変わった。


 怒りではなかった。


 恐怖でもなかった。


 何かを決めてしまった顔だった。


 白い線がさらに強く光る。


 家が軋む。


 窓の板が震える。


 器が床に落ち、割れる。


 リナが小さく悲鳴を上げた。


 マイラが娘を抱きしめる。


 ラウルが二人の前に立つ。


 セレーネが一歩前へ出た。


「全員、奥へ」


 声は静かだった。


 けれど、逆らえない力があった。


「母さん?」


「アルバ。クルムのそばにいて」


「母さんは?」


「輪を止めるわ」


 その言葉が、少し変に聞こえた。


 いつもの母なら、もっとやさしく笑う。


 大丈夫、と言う。


 でも、今は言わなかった。


 輪を止める。


 それだけだった。


 クルムがセレーネの腕を掴んだ。


「何をする気だ」


「このままでは、全員巻き込まれる」


「だから破る」


「破れば人間たちが死ぬ」


「なら、担いで出る」


「もう遅いわ。輪が家を掴んでいる。あなたが触れただけであれだけ反応した。ラウルたちは通れない」


「なら、お前も通れない」


 セレーネはクルムを見た。


 その目は、悲しいほど静かだった。


「私は、内側からなら触れられる」


 クルムの手に力が入る。


「やめろ」


「まだ何も言っていないわ」


「言わなくても分かる」


「なら、止めないで」


「止める」


「クルム」


 セレーネは初めて、少しだけ声を震わせた。


「アルバをお願い」


 アルバの胸が冷たくなった。


 お願い。


 その言葉は、戻ってくる人の言葉ではない気がした。


「嫌だ」


 アルバは言った。


 声が勝手に出た。


「嫌だ。母さんも一緒に来て」


 セレーネがこちらを見る。


 やさしい目だった。


 それが余計に怖かった。


「行くわ」


「嘘」


「嘘じゃない」


「一緒に来て」


「あなたを行かせるために、私はここにいるの」


 分からない。


 分かりたくない。


 アルバは首を横に振った。


「母さん」


 セレーネは手を伸ばし、アルバの頬に触れた。


 その手は温かかった。


 いつもと同じ手だった。


 髪を結ってくれる手。


 熱を測ってくれる手。


 約束の庭で花を置いた手。


「怖いと決める前に、見なさい」


 セレーネは言った。


「嫌いと決める前に、選びなさい」


「今じゃなくていい」


 アルバは泣きそうになりながら言った。


「今、言わなくていい」


「今だから言うの」


 白い線がさらに強く光る。


 家の床に亀裂が走った。


 クルムがセレーネを引き戻そうとする。


 セレーネはその手に、自分の手を重ねた。


「あなたも」


 彼女は静かに言った。


「あの子に、憎しみだけを残さないで」


 クルムの顔が歪んだ。


「それを、今、私に言うのか」


「今しか言えないかもしれないから」


「ふざけるな」


「ふざけていないわ」


「なら残れ」


「残るわ」


 セレーネは微笑んだ。


「だから、あなたはアルバを連れて出て」


     *


 セレーネは、白い線の中心へ歩いていった。


 家の中央。


 床に浮かび上がった輪の中。


 そこに立つと、彼女の足元から淡い光が広がった。


 外の人影がざわめく。


「何をしている」


「輪がずれる」


「止めろ」


 セレーネは止まらなかった。


 自分の手首に爪を立てる。


 血が滲む。


 アルバは息を呑んだ。


 母の血。


 吸血鬼の血。


 それが白い線に落ちた瞬間、光が一気に揺れた。


 家を締めつけていた力が、少しだけ緩む。


 セレーネは目を閉じた。


 そして、アルバが知らない古い言葉を口にした。


 名前ではなかった。


 祈りでもなかった。


 ただ、崩れかけた輪を押さえるための言葉のように聞こえた。


 白い線が、セレーネの足元へ集まっていく。


 家を囲んでいた線が、少しずつほどける。


 その代わりに、セレーネを中心にした輪が濃くなっていく。


 クルムが叫んだ。


「セレーネ!」


 その声を、アルバは初めて聞いた気がした。


 父の声ではない。


 吸血鬼の声でもない。


 誰かを失いかけている人の声だった。


 セレーネは目を開ける。


 クルムを見た。


 アルバを見た。


 それから、ラウルたちを見た。


「今なら出られる」


 その声は細かった。


 でも、はっきりしていた。


「行って」


 クルムは動かなかった。


 アルバも動けなかった。


 ラウルが言葉にならない声を漏らす。


「セレーネ様」


「急いで」


 クルムがアルバを抱き上げた。


 アルバは暴れた。


「嫌だ!」


「黙れ」


「母さんが!」


「黙れ!」


 クルムの声が、家の中に響いた。


 アルバは一瞬止まった。


 父の腕は強い。


 痛いほどではない。


 でも、絶対に離さない力だった。


 ラウルはマイラとリナを連れ、開いた扉へ向かう。


 白い線はまだある。


 けれど、セレーネの血が落ちた場所から、細い道のように光が薄くなっていた。


 クルムはその道を見極め、ラウルたちを先に出した。


 リナが振り返る。


「アルバ!」


 アルバはクルムの腕の中で手を伸ばした。


 リナも手を伸ばす。


 届かない。


 けれど、一瞬だけ、指先が触れた。


 温かかった。


 それから、リナは外へ押し出された。


 マイラが続く。


 ラウルが続く。


 クルムは最後にアルバを抱えたまま、扉へ向かう。


 アルバは母を見る。


 セレーネは光の輪の中に立っていた。


 淡い髪が揺れている。


 血が床へ落ちている。


 それでも、彼女は倒れていない。


 まっすぐ立っている。


「母さん!」


 アルバが叫ぶ。


 セレーネは、泣きそうに笑った。


「アルバ」


 声が遠い。


「怖いものだけを、見ないで」


 アルバは息を呑んだ。


 セレーネの唇が、もう一度動く。


「あなたは、星を見る子でしょう」


 それだけだった。


 クルムが扉を抜ける。


 次の瞬間、背後で光が弾けた。


     *


 音はなかった。


 大きな爆発もなかった。


 家が崩れることもなかった。


 ただ、光が内側へ吸い込まれるように縮んだ。


 白い線が、セレーネの立つ場所へ集まり、細く細く閉じていく。


 外にいた人影たちは、何が起きたのか分からない様子で後ずさっていた。


 古い金属の輪が割れる。


 紙が燃える。


 血の器が砕ける。


 術を仕掛けた者たちの手から、道具が落ちる。


 クルムがアルバを地面に下ろした。


 そして、扉へ戻ろうとした。


 家の入口は開いている。


 床も、壁も、炉もある。


 けれど、家の中央だけが違っていた。


 そこには、薄い白い輪が残っていた。


 水面に張った氷のような、半透明の膜。


 その向こうに、セレーネが立っていた。


 ほんの数歩先にいる。


 手を伸ばせば届きそうな距離にいる。


 それなのに、届かない。


「セレーネ」


 クルムが呼んだ。


 セレーネは顔を上げた。


 唇が動く。


 けれど、声は聞こえなかった。


「セレーネ!」


 クルムが白い輪へ手を伸ばす。


 触れた瞬間、鋭い光が弾けた。


 クルムの手の甲が裂け、血が飛ぶ。


 傷はすぐに塞がった。


 けれど、白い輪は揺らぎもしなかった。


 セレーネは膜の向こうで、静かに首を横に振った。


 来ないで。


 そう言っているように見えた。


「母さん!」


 アルバが叫んだ。


 セレーネの目がアルバを見る。


 やさしい目だった。


 でも、その姿は少しずつ遠くなっているように見えた。


 そこに立っているのに。


 同じ部屋にいるのに。


 世界の奥へ沈んでいくように。


 白い膜が濃くなる。


 セレーネの輪郭が薄れていく。


 消えるのではない。


 閉じ込められていくのでもない。


 あの輪を、内側から支えている。


 アルバには、なぜかそう分かった。


 白い輪が閉じた。


 そこに残ったのは、床に刻まれた淡い円と、触れられない冷たい光だけだった。


 セレーネの姿は、もう見えなかった。


 けれど、いなくなったのではない。


 あの輪の奥にいる。


 同じ部屋の中にいながら、同じ場所にはいない。


 アルバはそう感じた。


 だからこそ、余計に苦しかった。


 手を伸ばせば届きそうだった場所が、世界で一番遠くなってしまったから。


 外の人影たちは、逃げ始めた。


 一人、また一人。


 自分たちの仕掛けたものが、何に変わったのか分からないまま、闇へ散っていく。


 クルムがそちらを向いた。


 その瞬間、夜の空気が変わった。


 冷たい。


 重い。


 息ができなくなるほどの殺意が、クルムの周りに満ちる。


 アルバは初めて、本当の意味で父を怖いと思った。


 クルムが一歩踏み出す。


 逃げる人間たちの方へ。


「父さん」


 声が出た。


 クルムは止まらない。


「父さん!」


 アルバは走って、その外套を掴んだ。


 クルムの足が止まる。


 けれど、振り返らない。


 アルバは両手で外套を握った。


 手が震える。


 涙で前が見えない。


「行かないで」


 クルムは何も言わない。


 闇の向こうで、逃げる足音が遠ざかっていく。


 追えば届く。


 父なら、きっと届く。


 そして、戻らないかもしれない。


「母さんを閉じた人間を殺しに行くの?」


 アルバの声は震えていた。


 クルムは答えなかった。


 ただ、夜の向こうを見ていた。


「行かないで」


 小さな声だった。


「母さんが守ったものを、壊しに行かないで」


 クルムの肩がわずかに動いた。


 アルバは続けた。


「母さん、ラウルたちを助けた。リナも、マイラも、私も。母さんが守ったのに」


 言葉が涙で途切れる。


「それを、父さんが壊さないで」


 長い沈黙が落ちた。


 夜の中で、逃げる足音はもう聞こえなくなっていた。


 クルムは動かなかった。


 拳を握りしめている。


 その手から、血が滲んでいた。


 自分の爪が食い込んでいるのだ。


 やがて、クルムは低く言った。


「……お前がいる」


 それだけだった。


 誰に言ったのか、分からなかった。


 アルバにか。


 自分にか。


 輪の奥のセレーネにか。


 クルムは振り返らなかった。


 それでも、逃げた人間たちを追わなかった。


     *


 その夜、セレーネは戻らなかった。


 朝になっても。


 昼が過ぎても。


 次の夜が来ても。


 母は戻らなかった。


 家の中央には、白い輪の痕が薄く残っていた。


 擦っても消えない。


 水をかけても消えない。


 触れようとすると、指先が冷たく痺れた。


 そこに、セレーネが立っていた。


 それだけを示す痕だった。


 ラウルたちは、その日のうちに家を離れた。


 クルムが何も言わず、街の外れまで送った。


 誰も襲ってこなかった。


 誰も石を投げなかった。


 ただ、遠くから見ている人間たちがいた。


 その目を、アルバは覚えている。


 恐怖。


 後悔。


 安堵。


 何を見ているのか分からない目。


 リナは別れ際、アルバの手を握った。


 強く。


 前よりも強く。


「ごめんね」


 リナは言った。


「リナは悪くない」


 アルバは答えた。


 何度目か分からない言葉だった。


 でも、今度は自分でも本当にそう思えているのか分からなかった。


 リナは悪くない。


 ラウルも悪くない。


 マイラも悪くない。


 でも、人間の誰かが母を閉じた。


 セレーネが守った人間もいる。


 セレーネを閉じた人間もいる。


 それを全部、人間という一つの言葉で呼ばなければならないことが、アルバには苦しかった。


「石、持ってて」


 リナが言った。


「持ってる。ずっと」


「私も忘れない」


 リナは泣きそうな顔で言った。


「アルバと、星を見る約束」


 アルバは頷いた。


「私も忘れない」


 それが、リナと交わした最後の言葉になった。


     *


 家に戻ると、静かだった。


 静かすぎた。


 スープの匂いがしない。


 髪を結う声がしない。


 アルバの足音だけが、部屋の中で大きく響く。


 窓辺には、白い石の髪飾りが置かれていた。


 セレーネがよく使っていたもの。


 アルバの髪につけてくれた、星の飾り。


 それだけは残っていた。


 アルバはそれを手に取る。


 冷たい。


 でも、母の指の感触を思い出した。


 髪をすくう手。


 動かないの、と笑う声。


 危ない場所ではないわ、と言った声。


 約束したから、と言った声。


 全部が思い出せる。


 でも、どこにもいない。


「母さん」


 呼んだ。


 返事はない。


 吸血鬼は忘れない。


 父が何度も言った言葉。


 それが、初めて怖いと思った。


 忘れないなら。


 この静けさも。


 この部屋も。


 戻らない声も。


 ずっと残るのだろうか。


 アルバは髪飾りを胸に抱いた。


 泣き声が出た。


 止めようとしても、止まらなかった。


 クルムは扉のところに立っていた。


 部屋には入ってこない。


 慰める言葉も言わない。


 ただ、そこにいた。


 アルバは涙でにじむ目で父を見る。


「母さん、帰ってくる?」


 クルムは答えなかった。


 その沈黙が、答えだった。


「死んだの?」


 それにも答えなかった。


 長い沈黙の後、クルムは言った。


「あれは死ではない」


 アルバは息を止める。


「じゃあ、帰ってくる?」


「戻れないという点では、同じだ」


「どうして」


「閉じ込められたのではない」


 クルムの声は低かった。


「あいつが、閉じ損ねた輪を支えている」


「支えてる?」


「本来なら、輪は家ごと潰れていた。あいつはそれを、自分で押さえた」


「じゃあ、助けられないの?」


 クルムは答えなかった。


 アルバの胸が冷たくなる。


「父さんなら、壊せないの?」


「壊せば、あいつごと壊れる」


 それはあまりにも残酷な答えだった。


 でも、父は嘘をつかなかった。


 アルバは髪飾りを握りしめる。


「嫌だ」


 小さく言った。


「嫌だよ」


 クルムは何も言わない。


 ただ、赤い瞳を伏せた。


 その顔を見て、アルバは初めて思った。


 父も、同じなのだ。


 泣かないだけで。


 叫ばないだけで。


 壊れていないように見えるだけで。


 母が戻らない夜を、父も見ている。


 アルバはゆっくり立ち上がった。


 髪飾りを握ったまま、クルムのそばへ行く。


 父の服を掴む。


 クルムは動かなかった。


「行かないで」


 アルバは言った。


「父さんまで、行かないで」


 クルムは長いあいだ黙っていた。


 それから、ぎこちなく手を上げた。


 アルバの頭に触れる。


 母のようにやわらかくはなかった。


 不器用で、少し硬い手だった。


 でも、そこにあった。


「行かない」


 クルムは言った。


 低い声だった。


「お前がいる間は」


 その言葉が、約束なのかどうか、アルバには分からなかった。


 けれど、その夜、アルバは父の服を掴んだまま泣いた。


 母のいない部屋で。


 星の髪飾りを握りしめて。


 戻らないものがあることを、初めて知った夜だった。

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