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終わりの名を持つ君へ  作者: そらいろは
第3部 遠い夜

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第31章 封じるという言葉

第3部 遠い夜

 夜が更けるころ、アルバは水を汲みに外へ出た。


 ほんの少しだけ。


 ラウルの家のすぐ近くにある井戸まで。


 セレーネに許可をもらい、クルムが見える場所にいることを約束して。


 家の中では、ラウルとマイラが小さな声で話していた。


 リナは眠っている。


 本当に眠れているかどうかは、分からない。


 アルバは水桶を持ち、井戸へ向かった。


 夜の空気は冷たかった。


 星は出ている。


 けれど、ラウルの家の周りでは、星を見る気になれなかった。


 壁に貼られた紙。


 打ちつけられた板。


 短くなった赤い糸。


 それらが視界の端に入り続ける。


 井戸のそばに着いた時、石壁の影で声がした。


 人間の声。


 低く抑えられている。


 アルバは足を止めた。


 聞いてはいけない気がした。


 でも、聞こえてしまう。


「……血だけでは足りない」


「契約者を罰しても、吸血鬼が残る」


「成体は殺せない」


「なら、殺す必要はない」


 アルバの背筋が冷たくなった。


 成体。


 殺せない。


 それは父や母のことだ。


「封じればいい」


 誰かが言った。


 封じる。


 その言葉だけが、夜の中で妙にはっきり聞こえた。


「古い術を探している者がいる」


「吸血鬼の名と血を使うらしい」


「人間の血も鍵になると聞いた」


「本当に効くのか」


「試せば分かる」


 アルバの手から水桶が滑り落ちそうになった。


 その瞬間、背後に気配が立った。


 クルムだった。


 彼はアルバの肩に手を置き、声を出すなというように軽く力を込めた。


 人間たちの声は、まだ続いている。


「幼いものなら、日を浴びせれば弱る」


「まずは小さい方がいい」


「見せしめになる」


 アルバは呼吸を忘れた。


 小さい方。


 それが誰を指しているのか、考えたくなかった。


 クルムの手が、アルバの肩で強くなる。


 痛いほどではない。


 けれど、父の怒りが伝わってきた。


 それ以上聞かせないように、クルムはアルバをそっと後ろへ下がらせた。


 足音を立てず、井戸から離れる。


 家の灯りが見えるところまで戻って、ようやくアルバは息を吸った。


「父さん」


 声が震えた。


「今の」


「忘れろ」


「無理だよ」


「なら、セレーネには言うな」


「どうして」


「言えば、あいつは止めに行く」


 アルバは黙った。


 その通りだと思った。


 母なら、きっと行く。


 危ないと分かっていても。


 人間と話そうとする。


 止めようとする。


 見ないままでは守れないと言って。


「でも、言わなかったら」


「私が見る」


「父さん一人で?」


「十分だ」


「十分じゃないよ」


 アルバは思わず言った。


 クルムの赤い瞳がこちらを見る。


 怖かった。


 でも、引かなかった。


「父さんが見て、母さんが知らなかったら、二人が離れる」


 クルムは一瞬、何も言わなかった。


 その沈黙が、先ほどの広場よりも重く感じた。


「お前は」


 クルムが低く言った。


「余計なところを見る」


「母さんが、ちゃんと見なさいって言った」


「見るなと言ったものまで見るな」


「でも、聞こえた」


 アルバは胸元の石を握る。


 手が震えていた。


「小さい方って、私のこと?」


 クルムの表情が消えた。


 怒りも、苦しさも、全部消えたように見えた。


 それが一番怖かった。


「お前には近づけさせない」


「リナにも?」


「……」


「リナの家にも?」


「必要なら、近づけさせない」


「必要なら?」


「お前を守るためなら」


 アルバはその言葉を聞いた。


 父の声は冷たくない。


 ただ、硬かった。


 絶対に曲がらないもののように。


「ラウルたちは?」


 アルバは聞いた。


「母さんが守りたい人たちは?」


 クルムは答えなかった。


 その沈黙だけで、アルバは少し分かってしまった。


 父は守る。


 自分を。


 母を。


 でも、人間たちを同じ強さで守るかは分からない。


 今までは守っていた。


 ラウルの家の前にも立っていた。


 窓も塞いだ。


 赤い糸も見ていた。


 でも、心の一番奥では、人間から離れろと思っている。


 アルバはそれが怖かった。


 父が間違っているからではない。


 父が怖がっているものも、今夜聞いてしまったからだ。


     *


 家に戻ると、セレーネはすぐに二人の様子に気づいた。


「何かあったの?」


 クルムは答えなかった。


 アルバもすぐには言えなかった。


 でも、母の目から逃げられなかった。


 セレーネはアルバの前に膝をつき、目線を合わせる。


「アルバ」


 その声だけで、胸がいっぱいになった。


 隠してはいけない。


 そう思った。


 父に言うなと言われた。


 でも、母に隠せない。


「聞こえたの」


 アルバは小さく言った。


「井戸のところで。人間たちが話してた」


 クルムが目を閉じた。


 セレーネの表情は変わらない。


 けれど、空気が静かに冷えた。


「何を?」


 アルバは言葉を選ぼうとした。


 でも、選べなかった。


「成体は殺せないから、封じるって」


 セレーネの指が、一瞬だけ止まった。


「それから」


 言いたくなかった。


 でも、言わなければならない気がした。


「幼いものなら、日に当てれば弱るって。まずは小さい方がいいって」


 セレーネの顔から、血の気が引いた。


 クルムが低く言う。


「だから言うなと言った」


「隠す話ではないわ」


 セレーネの声は震えていなかった。


 だからこそ、怖かった。


「誰が話していたの」


「影で、顔は見えなかった」


 アルバは俯く。


「でも、声は人間だった」


 それしか言えなかった。


 人間。


 広すぎる言葉。


 リナも人間だ。


 ラウルも、マイラも人間だ。


 白い花を置いた老女も人間だ。


 でも、井戸の影でそんなことを話していたのも、人間だった。


 同じ言葉で呼ぶには、あまりにも違いすぎる。


 それでも、同じ言葉でしか呼べない。


 アルバはそれが苦しかった。


 セレーネは立ち上がった。


「ラウルに伝えるわ」


「必要ない」


 クルムが言った。


「必要あるわ」


「奴に何ができる」


「自分の家を守る準備ができる」


「相手は家だけを狙っていない」


「だからこそよ」


 クルムはセレーネの前に立った。


「お前は、まだ話せば止まると思っているのか」


「話さなければ、何も止まらない」


「話して止まったものがあったか」


 セレーネは黙った。


 その沈黙は痛かった。


 クルムは続ける。


「血は罪になった。次は封じると言い出した。次は殺せるものから殺す。順番通りだ」


「まだ、そう決まったわけではない」


「決まってからでは遅い」


 アルバは二人の間で立ち尽くした。


 父の言うことは怖い。


 でも、嘘には聞こえない。


 母の言うことは優しい。


 でも、今夜はその優しさが傷つきそうで怖い。


「母さん」


 アルバは声を出した。


 セレーネがこちらを見る。


「行くの?」


「ラウルたちに伝えるだけよ」


「危なくない?」


「危ないかもしれない」


 母は嘘をつかなかった。


「でも、行くの?」


「ええ」


「どうして」


 セレーネは少しだけ微笑んだ。


 疲れた笑みだった。


「約束したから」


 その言葉は、前にも聞いた。


 何度も聞いた。


 きれいな言葉だった。


 温かい言葉だった。


 でも今は、少し怖かった。


 約束は、良いものだから人を縛る。


 父の声が、胸の中で響く。


 セレーネはアルバの髪を撫でた。


「大丈夫。ひとりでは行かないわ」


 そしてクルムを見る。


「あなたも来て」


 クルムは答えなかった。


 でも、拒みもしなかった。


 それが今の二人の精一杯の約束なのだと、アルバは思った。


     *


 その夜、ラウルの家へ戻る道は、前よりも長く感じた。


 星は出ている。


 けれど、アルバは見上げなかった。


 胸元の白い石を握って歩く。


 リナとの約束の石。


 今は、その石が自分の居場所を知らせる印のようにも思えてしまう。


 小さい方。


 その言葉が、耳から離れない。


 父は前を歩いていない。


 アルバとセレーネのすぐ横にいる。


 いつでも手が届く距離。


 いつでも抱えて逃げられる距離。


 その近さが、守られている証なのに、かえって危険を感じさせた。


 ラウルの家に着くと、赤い糸はまだ結ばれていた。


 白い花もある。


 窓の板もそのまま。


 小さな灯りが揺れている。


 ラウルが扉を開けた。


 セレーネの顔を見るなり、彼は何かを察したようだった。


「中へ」


 短く言った。


 家の中にはリナもいた。


 アルバを見ると、リナは立ち上がりかけた。


 でも、セレーネとクルムの顔を見て、そのまま止まった。


 何かがあったのだと、分かったのだろう。


 アルバはリナへ笑おうとした。


 うまくできなかった。


 セレーネはラウルに、井戸の影で聞いた話を伝えた。


 成体吸血鬼を封じるという言葉。


 名と血を使うという噂。


 幼い吸血鬼を日に当てるという言葉。


 聞いているうちに、ラウルの顔が白くなった。


 マイラは口元を押さえた。


 リナはアルバを見た。


 その目に恐怖が浮かぶ。


 アルバが怖いのではない。


 アルバが危ないと知った目だった。


「そんなこと」


 リナが震える声で言った。


「させない」


 小さな声だった。


 誰かを止められるほどの力はない。


 それでも、そう言った。


 アルバは胸元の石を握った。


「私も」


 アルバは答えた。


「リナたちに、石を投げさせない」


 二人の言葉は、小さかった。


 広場の声には届かない。


 紙の文字も消せない。


 封じると話す影の声も止められない。


 でも、その小さな言葉が、家の中に少しだけ残った。


 ラウルはゆっくりと頭を下げた。


「申し訳ありません」


 誰に向けた言葉なのか、アルバには分からなかった。


 セレーネにか。


 クルムにか。


 アルバにか。


 それとも、自分の娘にか。


 クルムは冷たく言った。


「謝罪はいらない。決めろ」


「何を」


「この家を捨てるか、残るか」


 リナが息を呑んだ。


 マイラの顔が歪む。


 ラウルはすぐには答えなかった。


 その沈黙の中で、赤い糸が外の風に揺れる音がした気がした。


 セレーネは何も言わなかった。


 母は逃げろとも、残れとも言わなかった。


 選ぶのはラウルたちだと分かっているからだ。


 けれど、選ぶということは、こんなにも重いのか。


 アルバは初めて知った。


 ラウルは長い沈黙の後、静かに言った。


「一晩、考えさせてください」


「一晩で済む話ではない」


 クルムが言う。


「それでも、今すぐ娘に家を捨てろとは言えません」


 リナが父を見る。


 何か言いたそうだった。


 でも、言えなかった。


 その夜、誰もそれ以上強く言わなかった。


     *


 帰り道、星が少しだけ霞んで見えた。


 雲はない。


 けれど、アルバの目にはそう見えた。


 父と母は黙って歩いている。


 いつもより近い距離なのに、遠く感じた。


 同じ危険を見ている。


 同じ言葉を聞いた。


 それなのに、二人の中で答えが違っている。


 父は離れろと言う。


 母は伝えに行く。


 父は先に壊せと言いたい。


 母はまだ止めたいと思っている。


 アルバはどちらも分かる気がした。


 だから、苦しかった。


「母さん」


「なあに」


「血の約束は、罪なの?」


 セレーネは足を止めた。


 クルムも止まる。


 夜道の真ん中で、三人は立ち止まった。


 セレーネはアルバの前に膝をつく。


「違うわ」


 はっきりした声だった。


「誰かがそう呼んでも?」


「ええ」


「たくさんの人がそう呼んでも?」


「それでも」


 アルバは母の目を見る。


 薄い夜の中で、母の瞳は静かだった。


「血の約束は、痛みを伴うわ。怖さもある。間違えることもある。利用しようとする者もいる」


 セレーネはゆっくり言った。


「でも、相手を見て、言葉を交わして、互いに選んだものまで、罪と呼ばせてはいけない」


「どうして?」


「それを罪と呼べば、相手を選ぶ心まで奪われるから」


 アルバには全部は分からなかった。


 でも、胸の奥で何かが震えた。


 リナが怖くても、約束を覚えていると言ったこと。


 ラウルが自分で血を差し出していると言ったこと。


 母が頭を下げて血を受けたこと。


 それらを全部、罪という短い言葉で塗りつぶされる。


 それが嫌だった。


 クルムが低く言った。


「言葉だけなら、まだましだ」


 セレーネはクルムを見た。


「言葉は、刃の前に来る」


「ええ」


「なら、刃が来る前に折るべきだ」


「刃を持っていない手まで折るの?」


 クルムは黙った。


 セレーネは静かに続ける。


「まだ迷っている人がいる。怖がっているだけの人がいる。声の大きい人に流されている人がいる」


「その迷いが、お前を殺すと言った」


「それでも、私は見分けたい」


「見分けている間に、奪われる」


 クルムの声が、低く震えた。


 怒りではなかった。


 恐れだった。


 セレーネも、それに気づいたのだろう。


 少しだけ表情をやわらげた。


「奪わせないために、あなたがいるのでしょう」


「私は、すべてを守れるわけではない」


 その言葉は、とても静かだった。


 静かすぎて、アルバの胸に残った。


 父は、自分が強いことを知っている。


 でも、すべてを守れないことも知っている。


 だから、怖い。


 アルバは初めて、父の怖さを少しだけ分かった気がした。


 セレーネはクルムに近づき、そっと手を伸ばした。


 クルムは避けなかった。


 母の手が、父の手に触れる。


「それでも、守りたいものを選ぶのでしょう」


 クルムは答えなかった。


 夜道の上で、二人はしばらくそうしていた。


 アルバは胸元の白い石を握る。


 守りたいものを選ぶ。


 選べば、戻れないこともある。


 父の言葉も思い出す。


 どちらも本当なのだと思った。


     *


 家に戻ると、アルバは窓辺に座った。


 白い石を外し、手のひらに乗せる。


 星明かりの中で、石は小さく光っていた。


 リナがくれた石。


 人間の子どもが、吸血鬼の子どもにくれたもの。


 その石が、今は危険の印にも見える。


 でも、アルバは紐を外さなかった。


 手放せと言われたら怒る。


 そう言った。


 父は手放せと言わなかった。


 母も言わない。


 なら、自分で持つ。


 怖くても。


 重くても。


 窓の外には星があった。


 遠い星。


 見ていると、遠くまで行ける気がした星。


 でも今は、遠くを見るより、近くのものを見る方が難しい。


 リナの震える手。


 ラウルの疲れた顔。


 マイラの沈黙。


 母の揺れない声。


 父の怒りの奥にある恐れ。


 どれも近くにあるのに、どうすればいいのか分からない。


 アルバは石を胸元に戻した。


 冷たさが肌に触れる。


「罪じゃない」


 小さく呟いた。


 誰に聞かせるためでもなかった。


 自分の中で、約束の名前を守るためだった。


 血を罪と呼ぶ声は、きっとこれからも増える。


 紙にも書かれる。


 広場でも叫ばれる。


 井戸の影でも囁かれる。


 それでも、アルバは知っている。


 母が血を受ける前に頭を下げたこと。


 ラウルが自分の意思で頷いたこと。


 リナが白い石を渡してくれたこと。


 約束の庭で、人間と吸血鬼が同じ土の下に眠っていたこと。


 それらを、罪という一言だけにはしたくなかった。


 窓の外で、星が瞬いた。


 夜はまだ深い。


 そして、その深い夜のどこかで、誰かがまた別の言葉を用意している気がした。

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