第30章 血を罪と呼ぶ者
第3部 遠い夜
ラウルの家の窓には、板が打ちつけられたままだった。
割れたところを塞ぐための板。
夜の風を防ぐための板。
けれどアルバには、それが傷口を覆う布のように見えた。
塞いでいる。
でも、傷が消えたわけではない。
玄関の横には、小さな器が置かれている。
新しい白い花が数本。
その下には、リナと結び直した赤い糸。
短く、不格好な結び目。
前よりも細く見える。
けれど、まだそこにあった。
アルバはその糸を見るたびに、胸元の白い石に触れた。
何度でも結ぼう。
そう言った自分の声を思い出す。
言った時は、強い言葉だと思った。
今は、少し怖い。
何度でも。
それは、何度も切られるかもしれないということでもある。
ラウルの家へ通う回数は増えていた。
セレーネは薬を持っていく。
クルムは外に立つ。
アルバは、以前のように家の中へ入ることもあれば、木立の陰で待たされることもあった。
リナとは話せた。
でも、前と同じではなかった。
リナは笑う。
約束を忘れていないと言う。
白い石を見ると、少しだけ嬉しそうにする。
けれど、窓の外で足音がすると、すぐに黙る。
誰かの声が近づくと、アルバから半歩離れる。
それをアルバは責められなかった。
リナは怖いのだ。
怖いだけだ。
それが分かるから、余計に苦しかった。
*
その夜、ラウルの家へ向かう途中で、セレーネが足を止めた。
街へ続く道の端。
古い石壁に、紙が貼られていた。
人間の手で書かれたものだった。
風で端が揺れている。
紙の上には、黒い文字が並んでいる。
アルバは読めない文字も多かったが、いくつかの言葉は分かった。
血。
約束。
禁じる。
人間。
罪。
その字だけが、夜の中で浮かんで見えた。
「母さん」
アルバはセレーネを見る。
「何て書いてあるの?」
セレーネは紙を見つめたまま、しばらく黙っていた。
クルムが横から読む。
声は低かった。
「血を差し出す行いを、街の掟に背くものとする」
アルバは意味が分からなかった。
「背く?」
「逆らうということだ」
「誰に?」
「街に」
「街って、誰?」
クルムは答えなかった。
セレーネが静かに言った。
「皆のため、という名前を使う人たちよ」
アルバは紙を見た。
皆のため。
そう書かれているのだろうか。
でも、その紙はリナの家を守ってくれるようには見えなかった。
ラウルを助けるようにも。
マイラの傷を治すようにも。
ただ、赤い糸を切る人たちの声に似ていた。
「血の約束は悪いことなの?」
アルバは聞いた。
セレーネはすぐには答えなかった。
その沈黙だけで、アルバは胸が苦しくなった。
母は、悪いことだとは思っていない。
でも、悪いことだと言う人が増えている。
それが分かった。
「悪いことではないわ」
やがてセレーネは言った。
「けれど、悪いことにしたい人たちがいる」
「どうして」
「怖いから」
クルムが短く言った。
「怖いものを遠ざけるだけでは足りない者がいる。遠ざけた後に、自分が正しいと証明したがる」
アルバは紙を見つめる。
黒い字。
夜に貼られた薄い紙。
それだけなのに、石よりも重く感じた。
「紙なのに」
アルバは小さく言った。
「石より怖い」
セレーネの目が、少しだけ悲しそうに揺れた。
「言葉は、石より遠くまで届くことがあるわ」
風が吹いた。
紙の端が揺れる。
破れそうで、破れない。
クルムが手を伸ばした。
紙を剥がそうとする。
しかし、セレーネが止めた。
「剥がしても、また貼られるわ」
「なら、貼った者の手を折る」
「そうすれば、別の誰かが貼る」
「全員の手を折ればいい」
「クルム」
セレーネの声が静かに沈んだ。
クルムは黙った。
アルバは二人を見上げる。
父の怒りは分かる。
でも、母の言うことも分かる気がする。
紙を破っても、言葉は消えない。
石を取り上げても、投げた人の心は変わらない。
なら、どうすればいいのだろう。
アルバには分からなかった。
*
ラウルの家に着くと、そこにも同じ紙が貼られていた。
門柱の横。
赤い糸のすぐ近く。
ラウルはすでにそれを見ていたのだろう。
扉を開けた時、顔色はいつもより悪かった。
「剥がしても、また貼られます」
ラウルは言った。
「今朝、井戸の近くにも。畑の柵にも。市場の入り口にも」
「誰が貼ったの」
アルバが聞くと、ラウルは少しだけ困った顔をした。
「分かりません」
「分からないの?」
「夜のうちに貼られていました」
クルムが低く言う。
「分からないのではなく、言わないだけだ」
ラウルは否定しなかった。
その沈黙が答えだった。
家の中には、マイラとリナがいた。
マイラは縫い物をしている。
でも、針を持つ手が止まっている時間の方が長かった。
リナは窓の近くに座っていた。
板で塞がれた窓。
その隙間から、外を見ている。
アルバが入ると、リナは振り返った。
「アルバ」
声は小さい。
けれど、ちゃんと名前を呼んでくれた。
アルバはそれだけで少し安心した。
「来たよ」
「うん」
「紙、見た?」
聞くと、リナは俯いた。
「見た」
「嫌だった?」
「うん」
「私も嫌だった」
リナは顔を上げる。
少しだけ驚いたようだった。
「アルバも?」
「うん。だって、変だもん」
「でも、あれを書いた人たちは、自分たちが正しいって思ってる」
「正しいと思えば、何を書いてもいいの?」
リナは答えられなかった。
アルバも答えは知らなかった。
でも、胸の中にざらざらしたものが残る。
ラウルとセレーネは、奥で話をしていた。
声は小さい。
けれど、吸血鬼の耳には聞こえる。
「評議に呼ばれました」
ラウルの声。
「いつ?」
「明日の夕刻です」
「何を話すの」
「血の約束を続けるかどうか。おそらく、私たちの家だけでは済みません」
セレーネは黙った。
クルムが壁際に立ったまま言う。
「行くな」
ラウルは苦笑した。
「行かなければ、認めたことにされます」
「行けば、囲まれる」
「それでも、行かねばなりません」
「死にに行くのか」
「いいえ」
ラウルの声は静かだった。
「生きるために行きます」
アルバはその言葉を聞いた。
生きるために行く。
怖いところへ。
自分を責める人たちの前へ。
それもまた、強さなのだろうか。
でも、リナは震えていた。
アルバはその手を見た。
膝の上で強く握られた手。
白くなるほど力が入っている。
アルバはそっと近づき、その隣に座った。
手を伸ばす。
リナは一瞬だけ迷った。
それでも、逃げなかった。
アルバの指が触れると、リナの手は冷たかった。
「大丈夫って言いたいけど」
アルバは小さく言った。
「今は、言っていいか分からない」
リナは驚いたようにアルバを見る。
それから、少しだけ目を伏せた。
「うん」
「でも、ここにいる」
リナの手が、弱く握り返してきた。
「うん」
その返事だけでよかった。
*
翌日の夕刻、街の広場には人が集まっていた。
前より多い。
広場の中央には、古い石の台がある。
その上に、街の年長者たちが並んでいた。
背の高い男もいる。
石を投げた夜に最後まで残った男。
彼は堂々とした顔で立っていた。
まるで、自分が街を守っているかのように。
ラウルは広場へ向かった。
セレーネは少し離れて立つ。
クルムはさらに後ろ。
アルバは母のそばにいた。
リナとマイラは家に残っている。
本当は来たがっていた。
でも、ラウルが止めた。
見なくていい、と。
アルバはその言葉を聞いて、少しだけ胸が痛かった。
見ることが大事だと母は言う。
でも、見なくていいものもあると父は言う。
どちらが正しいのか、まだ分からない。
広場では、年長者の一人が紙を読み上げていた。
血を差し出す行いを慎むこと。
吸血鬼を人間の家へ入れないこと。
夜の守りを吸血鬼に頼らないこと。
人間の身は人間で守ること。
言葉は整っていた。
乱暴ではない。
石を投げる声とは違う。
けれど、アルバには同じものに聞こえた。
赤い糸を切る手と、同じ方向を向いている。
ラウルが前へ出た。
「それでは、夜の獣から家々を守る方法はありますか」
年長者は顔をしかめた。
「人間だけで夜番を組めばよい」
「これまで何度も試しました」
「それでも、人間は人間で立つべきだ」
「立った者が何人死んだか、忘れたのですか」
広場がざわめいた。
ラウルは声を荒げていない。
でも、その言葉は重かった。
「私たちは、弱いから血を差し出しているのではありません。守られるためだけでもありません。互いに生きるための約束です」
「互いに?」
背の高い男が笑った。
「血を飲む側と、血を取られる側が、互いにだと?」
「取られてはいません」
「そう思わされているだけだ」
「違います」
「証明できるのか」
ラウルは言葉に詰まった。
アルバは拳を握る。
まただ。
相手がどれだけ説明しても、聞きたいものしか聞かない。
自分で選んだと言えば、選ばされたと言う。
約束だと言えば、支配だと言う。
守られたと言えば、飼われたと言う。
言葉がどんどん別の形に変えられていく。
セレーネの手が、アルバの肩に置かれた。
今は言ってはいけない。
アルバは唇を噛んだ。
背の高い男は、広場の人々へ向き直る。
「人間の血は、人間のものだ」
その声は大きかった。
「血を差し出す者は、家族を危険にさらしている。街を危険にさらしている。吸血鬼に道を開いている」
人々の間に頷く者がいた。
迷う者もいた。
俯く者もいた。
けれど、誰も強く反論しない。
声の大きい者の言葉が、広場に広がっていく。
「血を差し出すことを、今後は罪と呼ぶべきだ」
アルバは息を止めた。
罪。
紙に書かれていた言葉。
それが今、人の口からはっきり出た。
血の約束が。
ラウルが自分で差し出した血が。
母が頭を下げて受け取った血が。
家を守るための約束が。
罪と呼ばれた。
ラウルの顔が白くなる。
セレーネの手が、アルバの肩で少し強くなった。
クルムの気配が、後ろで冷たく膨らむ。
広場にいた子どもが泣き出した。
その泣き声で、何人かが振り返る。
泣いている子の母親は、その子を抱きしめながらセレーネたちを見た。
怖がっている目。
責める目。
助けを求める目。
全部が混じっていた。
アルバはその目を忘れられないと思った。
*
評議は、結論を出さずに終わった。
けれど、それは何も決まらなかったという意味ではなかった。
言葉は広場に残った。
血は罪。
吸血鬼と関わる者は危うい。
人間は人間で守るべきだ。
誰かが口にすれば、別の誰かが繰り返す。
繰り返されるうちに、最初からそうだったような顔をする。
アルバはそれが怖かった。
石よりも。
怒鳴り声よりも。
広場から帰る途中、クルムは一度も口を開かなかった。
セレーネも黙っていた。
ラウルだけが、疲れた顔で言った。
「まだ、止められます」
クルムが笑った。
笑ったと言っても、冷たい息が漏れただけだった。
「何を見てそう思う」
「全員が同じ考えではありませんでした」
「同じでなくても、黙っていた」
「迷っているのです」
「迷いは、声の大きい方へ流れる」
ラウルは返せなかった。
セレーネが静かに言った。
「それでも、迷っている人がいるなら、まだ終わりではないわ」
クルムはセレーネを見る。
「その迷いが、お前たちを殺す」
お前たち。
ラウルたちだけではない。
セレーネも。
アルバも。
その中に入っている気がした。
アルバは父の顔を見る。
父は怒っている。
けれど、それだけではない。
怖がっている。
もしかすると、母や自分よりもずっと先のものを見て、怖がっている。
セレーネは静かに答えた。
「だから、目を逸らさないの」
「目を逸らさなければ刃が止まるのか」
「止まらないかもしれない」
「なら」
「それでも、誰が刃を握っているのか見なければ、守れない」
クルムは何も言わなくなった。
夜道に足音だけが残る。
アルバは胸元の石を握った。
リナは今、家で待っている。
今日の広場で何が言われたか、きっと聞くことになる。
血が罪と呼ばれたことも。
ラウルの約束が、街の前で責められたことも。
その時、リナは何を思うのだろう。
自分は何を言えるのだろう。
*
ラウルの家に戻ると、リナが扉の前で待っていた。
マイラも後ろにいる。
二人とも、不安そうだった。
ラウルは娘の前で少しだけ笑った。
「大丈夫だ」
その声はやさしかった。
でも、リナはすぐに分かったのだろう。
大丈夫ではないことを。
「何て言われたの」
リナが聞く。
ラウルは一瞬、答えに迷った。
その迷いの間に、リナの顔がさらに不安になる。
アルバは見ていられなくなった。
「リナ」
呼ぶと、リナがこちらを見る。
アルバは何を言えばいいのか分からなかった。
血が罪と呼ばれた。
そう言うのは残酷な気がした。
何もなかった。
そう言うのは嘘になる。
だから、アルバは胸元の石を取り出した。
リナにもらった白い石。
「まだ持ってる」
リナの目が揺れる。
「うん」
「リナは?」
リナは一度、胸元に手を当てた。
そこには何もない。
でも、彼女は小さく頷いた。
「覚えてる」
それだけだった。
約束という言葉を、口にしなかった。
口にするのが怖かったのかもしれない。
外でその言葉が別のものに変えられたばかりだから。
でも、覚えてると言った。
アルバはそれで十分だと思いたかった。
マイラがラウルの腕に触れる。
「中へ」
ラウルは頷いた。
家族は家の中へ戻っていく。
セレーネも続こうとして、ふと足を止めた。
クルムが家の外に立ったままだった。
「入らないの?」
セレーネが聞く。
「外を見る」
「今夜は何もないわ」
「お前はそう言う」
「あなたは、いつも最悪を見る」
「最悪は、見ていない時に来る」
セレーネは何か言おうとして、やめた。
アルバは二人の間に流れる沈黙を見ていた。
同じ家を守っている。
同じ人たちを心配している。
それなのに、二人の立っている場所が少しずつ離れていく気がした。
家の外には、まだ剥がされていない紙が揺れていた。
薄い紙だった。
けれど、その紙に書かれた言葉は、夜が深くなっても消えなかった。




