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終わりの名を持つ君へ  作者: そらいろは
第3部 遠い夜

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第29章 石を投げる夜

第3部 遠い夜

 その夜、アルバは眠れなかった。


 窓辺に座り、胸元の白い石を手の中で転がしていた。


 リナにもらった石。


 約束のしるし。


 地面に星がある場所を見つけたら、一緒に見に行く。


 その約束は、まだ壊れていない。


 けれど、手の中の石は、前よりもずっと重かった。


 外は静かだった。


 静かすぎる夜だった。


 星は見えている。


 けれど、アルバはそれを数える気になれなかった。


 広場で向けられた視線が、まだ肌に残っている。


 赤い目の化け物。


 吸血鬼の子ども。


 人間の言葉を真似る。


 あの男の声は、もう聞こえない。


 それなのに、耳の奥に残っていた。


「アルバ」


 扉の外から、セレーネの声がした。


 アルバは石を握ったまま振り返る。


「起きてる」


「入ってもいい?」


「うん」


 扉が開き、セレーネが入ってきた。


 母は夜着の上に薄い羽織をかけていた。


 眠る前の姿なのに、目は冴えている。


 きっと母も眠っていなかったのだと、アルバは思った。


 セレーネは窓辺に近づき、アルバの隣に腰を下ろした。


「石を見ていたの?」


「うん」


「手放したくなった?」


 アルバは首を横に振った。


「ならなかった」


「そう」


「でも、ちょっと怖くなった」


 セレーネは責めなかった。


 ただ、静かに頷いた。


「怖くなることは悪いことではないわ」


「リナも怖がってた」


「ええ」


「でも、リナは悪くない」


「そうね」


「怖いだけ」


「ええ」


 アルバは手の中の石を見る。


 白い石。


 小さな星。


「怖いだけなら、どうしたらいいの?」


 セレーネはすぐには答えなかった。


 窓の外を見る。


 夜の向こうには、人間の街へ続く道がある。


 その先に、ラウルの家がある。


 リナがいる。


 切られて結び直された赤い糸がある。


「そばにいること」


 やがて、セレーネは言った。


「相手が怖がっている時は、無理に引っ張らない。でも、ひとりにもしない」


「難しい」


「ええ。難しいわ」


「母さんも、そうしてるの?」


「しているつもり」


「ラウルたちに?」


「そう」


「人間に?」


 セレーネは少しだけ笑った。


「人間にも。吸血鬼にも」


 アルバは母を見る。


「父さんにも?」


 セレーネは答える代わりに、少し困ったような顔をした。


 その顔がおかしくて、アルバはほんの少しだけ笑った。


 笑った瞬間、胸の重さが少しだけ軽くなった気がした。


 その時だった。


 遠くで、乾いた音がした。


 石が木にぶつかったような音。


 アルバは顔を上げる。


 セレーネの表情が変わった。


 次の瞬間、廊下の奥で足音がした。


 クルムの足音だった。


 速い。


 けれど、乱れてはいない。


 扉の前に来る前から、父の声が聞こえた。


「セレーネ」


「聞こえたわ」


 母は立ち上がった。


 アルバも反射的に立つ。


「何?」


 聞いても、二人はすぐに答えなかった。


 クルムが扉の前に現れる。


 赤い瞳は、すでに夜の外を見ていた。


「ラウルの家だ」


 アルバの手から、白い石が落ちそうになった。


     *


 夜道を走った。


 アルバはセレーネに手を引かれていた。


 クルムは先を行く。


 速すぎる。


 それでも、時々ほんのわずかに速度を落とす。


 アルバが遅れないように。


 でも、その背中にいつもの余裕はなかった。


 夜の空気が冷たい。


 草を踏む音が続く。


 遠くから、また音がした。


 石の音。


 木に当たる音。


 何かが割れる音。


 獣の声ではない。


 人の声が混じっていた。


 低く荒い声。


 怒鳴る声。


 笑う声。


 アルバは息が苦しくなる。


 胸元の石を握りしめる。


 リナ。


 その名前が、声にならずに喉で止まった。


 木立を抜けた時、ラウルの家が見えた。


 灯りはついている。


 けれど、窓の一つが割れていた。


 扉の前には数人の人間がいる。


 広場で見た男もいた。


 手には石。


 棒。


 火のついていない松明。


 まだ火はつけられていない。


 けれど、それを持っているだけで、夜が不穏に見えた。


「出てこい!」


 男の一人が叫んだ。


「血を売る家め!」


 石が投げられる。


 壁に当たる。


 玄関横の器が弾けた。


 乾いた白い花が土に散る。


 赤い糸がまた切れた。


 アルバの中で、何かが冷たく固まった。


 あれは約束の印だ。


 勝手に入ってはいけない。


 荒らしてはいけない。


 そういう印だった。


 それを、知っているのか知らないのか、男たちは踏みにじっている。


 クルムが進もうとした。


 セレーネがその腕を掴んだ。


「殺しては駄目」


 低い声だった。


 クルムはセレーネを見なかった。


「邪魔をするな」


「駄目」


「退け」


「あなたが血を流せば、あの人たちは自分たちが正しかったと言うわ」


 クルムの赤い瞳が細くなる。


 夜の中で、刃のように光った。


「正しかろうが、間違っていようが、黙らせれば同じだ」


「同じではない」


 セレーネは離さなかった。


「ラウルたちを守るために来たの。憎しみを増やすためではない」


 アルバは母の横顔を見た。


 怖い顔だった。


 優しい母の、怖い顔。


 クルムはほんの一瞬だけ沈黙した。


 その間にも、石が飛んだ。


 窓の奥から、マイラの短い悲鳴が聞こえた。


 リナの声も。


 アルバは反射的に駆け出そうとした。


 クルムの手が、その肩を掴んだ。


「動くな」


「でも、リナが」


「動くな」


 父の声は冷たかった。


 けれど、その手は震えていなかった。


 アルバは止まるしかなかった。


 セレーネが息を吸う。


「私が中へ行く。あなたは外を止めて」


「殺すなと言ったな」


「ええ」


「なら、お前も中で死ぬな」


 セレーネは一瞬だけクルムを見た。


 それから、静かに頷いた。


「約束するわ」


 その言葉を最後に、セレーネは夜の影のように動いた。


 人間たちが気づくより早く、彼女は割れた窓の近くを抜け、家の中へ入る。


 クルムは扉の前に立つ人間たちへ歩いていった。


 速くはない。


 ゆっくりだった。


 だからこそ、怖かった。


 男たちが振り返る。


 一人が石を持ち上げた。


 投げるより先に、クルムの手がその手首を掴んだ。


 骨が軋む音がした。


 男が悲鳴を上げる。


 石が落ちる。


「次に投げれば」


 クルムの声は低かった。


「その手は戻らない」


 誰も動けなかった。


 広場で声の大きかった男が、棒を握りしめる。


「脅すのか」


「今のは警告だ」


 クルムは男を見る。


「脅しは、まだしていない」


 その声で、男の顔色が変わった。


 それでも、彼は引かなかった。


 恐怖がある。


 なのに、引けなくなっている。


 周りに人がいるから。


 自分が声を上げたから。


 もう後ろに下がれないから。


 アルバには、そう見えた。


「見ろ!」


 男が叫んだ。


「これが吸血鬼だ! 人間の家を守ると言いながら、人間の腕を折ろうとする!」


「折っていない」


 クルムが言った。


「まだな」


 空気が凍った。


 別の男が後ずさる。


 女が息を呑む。


 その隙に、家の扉が内側から開いた。


 ラウルだった。


 額に小さな傷がある。


 血が頬を伝っていた。


「やめてください」


 彼は言った。


「ここには子どもがいます」


「吸血鬼を呼び込んだのはお前だ」


 声の大きい男が言い返す。


「子どもを盾にするな」


「盾になどしていません」


「なら、吸血鬼との約束を断て」


 ラウルは黙った。


 その沈黙は短かった。


 けれど、重かった。


「断ちません」


 はっきりとした声だった。


 男たちがざわめく。


 ラウルは続けた。


「私は、私の意思で血を差し出しています。妻を守るために。娘を守るために。この家を守るために」


「人間のくせに」


 誰かが吐き捨てた。


 アルバは、その言葉を聞いた。


 人間のくせに。


 それは、吸血鬼に向けられた言葉ではなかった。


 人間が、人間に向けた言葉だった。


 胸の中が冷たくなる。


 人間は、人間同士でもこんな目を向ける。


 自分と違うものを選んだだけで。


 違う誰かを信じただけで。


 扉の奥で、リナが見えた。


 マイラに抱かれている。


 目が合った。


 リナの顔は真っ青だった。


 泣いてはいない。


 でも、声も出せない顔だった。


 アルバは一歩踏み出した。


 今度はクルムも止めなかった。


 ただ、赤い瞳だけがこちらを見た。


「リナ」


 アルバが呼ぶ。


 リナの肩が震えた。


 男たちの視線がアルバに向く。


 まただ。


 あの視線。


 赤い目を見る視線。


 化け物を見る視線。


 でも、アルバは今度は言い返さなかった。


 セレーネに言われたことを思い出す。


 相手が怖がっている時は、無理に引っ張らない。


 でも、ひとりにもしない。


 アルバはリナへ向けて、胸元の白い石を握って見せた。


 ここにある。


 まだ持っている。


 そう伝えたかった。


 リナの目が、ほんの少しだけ揺れた。


     *


 石を投げていた人間たちは、やがて一人、また一人と下がり始めた。


 クルムが何かをしたわけではない。


 ただ、そこに立っていただけだ。


 それでも、彼らには十分だった。


 逃げるように去る者。


 悔しそうに睨みながら去る者。


 何も言わず顔を伏せる者。


 最後まで残ったのは、声の大きい男だった。


 彼はクルムを睨み、ラウルを睨み、セレーネを睨み、最後にアルバを見た。


「いずれ分かる」


 男は言った。


「血に頼った家は、血で滅びる」


 クルムが動きかける。


 セレーネが家の中から出てきて、その視線だけで止めた。


 男は後ずさり、闇の中へ消えた。


 残ったのは、割れた窓。


 散った白い花。


 土に落ちた赤い糸。


 壁に当たって転がった石。


 そして、家の中から漏れる小さな灯りだった。


 セレーネはラウルの傷を診た。


 深くはない。


 けれど、額の血はなかなか止まらなかった。


 マイラはリナを抱いたまま座り込んでいる。


 リナはずっと黙っていた。


 アルバは近づいていいのか分からなかった。


 前なら、すぐに隣に座ったかもしれない。


 手を取ったかもしれない。


 大丈夫、と言ったかもしれない。


 でも、今はその言葉が軽すぎる気がした。


 家は壊れている。


 ラウルは怪我をしている。


 リナは震えている。


 大丈夫ではない。


 それなのに、大丈夫と言えば、嘘になる。


「アルバ」


 小さな声がした。


 リナだった。


 アルバは顔を上げる。


 リナはマイラの腕の中から、こちらを見ていた。


「石、見えた」


 それだけ言った。


 アルバは胸元を押さえる。


「うん」


「持っててくれた」


「うん」


 リナの目に涙が浮かんだ。


「ごめんね」


 また、その言葉だった。


 アルバは首を横に振る。


「リナは悪くない」


「でも」


「悪くない」


 今度は、はっきり言った。


 リナは泣きそうな顔で黙った。


 アルバは少しだけ近づいた。


 手を伸ばす。


 リナが逃げるかもしれないと思った。


 でも、逃げなかった。


 アルバの指が、リナの指に触れる。


 温かい。


 少し震えている。


 リナは、その手を弱く握り返した。


 それだけで、アルバは泣きそうになった。


     *


 割れた窓には、板が打ちつけられた。


 クルムが黙って板を押さえ、ラウルが釘を打とうとする。


 だが、手が震えてうまくいかない。


 クルムはしばらく見ていたが、やがて釘を取った。


「貸せ」


「ですが」


「手元が危うい」


 ラウルは少し迷った後、釘と槌を渡した。


 クルムは手早く板を固定していく。


 大きな音は立てない。


 無駄な力も使わない。


 あっという間に窓は塞がれた。


 ラウルは深く頭を下げた。


「ありがとうございます」


「礼はいらない」


「それでも、言わせてください」


 クルムは答えなかった。


 ただ、割れた窓を見ていた。


 その横顔は冷たい。


 けれど、アルバには分かった。


 怒っている。


 人間たちに。


 そして、何もできなかったことに。


 もしかすると、自分自身にも。


 セレーネは散った白い花を拾い集めていた。


 アルバも手伝おうとして、外に出る。


 踏まれた花は、もう元には戻らない。


 赤い糸も切れている。


 アルバはそれを拾い上げた。


 前よりさらに短くなっていた。


 結び直せるだろうか。


 そう思っていると、リナが隣に来た。


「これ」


 リナが小さな赤い糸の束を差し出した。


 前に使っていたものと同じ色だった。


「お母さんが、取っておいたの」


「結び直す?」


「うん」


 二人で器の下に糸を結んだ。


 アルバは結び方を知らなかったので、リナに教えてもらった。


 リナの手はまだ震えていた。


 それでも、糸を結ぼうとしていた。


 何度も失敗した。


 何度もほどけた。


 最後に、小さな結び目ができた。


 不格好だった。


 前より短い。


 前より歪んでいる。


 でも、確かに結ばれていた。


 リナはそれを見て、小さく息を吐いた。


「また切られるかな」


 アルバはすぐに答えられなかった。


 切られないよ、と言いたかった。


 でも、言えなかった。


「切られたら」


 アルバは言った。


「また結ぼう」


 リナはアルバを見る。


「何度でも?」


「うん」


 アルバは頷いた。


「何度でも」


 リナの目から、涙がこぼれた。


 それは大きな泣き声にはならなかった。


 ただ、静かに落ちた。


 アルバはどうしていいか分からず、リナの手を握った。


 リナは今度は、手を引かなかった。


     *


 夜明けが近づくころ、クルムはラウルの家の前に立っていた。


 帰ろうとしなかった。


 セレーネは何も言わず、その隣に立っている。


 アルバは少し離れたところで、二人を見ていた。


 ラウルの家は静かだった。


 中ではマイラとリナが眠っている。


 ラウルも、セレーネに休むよう言われて横になった。


 外にいるのは、クルムとセレーネとアルバだけ。


 そして、朝を待つ小さな家。


「守れたね」


 アルバは小さく言った。


 クルムは答えなかった。


 セレーネもすぐには答えなかった。


 しばらくして、母が言った。


「ええ。今夜は」


 今夜は。


 その言葉が、アルバの胸に残った。


 守れた。


 でも、今夜だけ。


 明日も守れるかは分からない。


 次の夜も、その次の夜も。


 ずっと守れるかは分からない。


 クルムが低く言う。


「あの男は戻る」


 セレーネは頷いた。


「ええ」


「次は石では済まない」


「そうね」


「それでも、ここに関わり続けるのか」


 セレーネはラウルの家を見る。


 割れた窓。


 新しい板。


 結び直された赤い糸。


 踏まれて減った白い花。


「約束したから」


 母の声は静かだった。


 クルムの表情がわずかに歪んだ。


「約束は人を縛る」


「ええ」


「死ぬまでか」


「それでも、選んだ約束なら」


 セレーネはクルムを見る。


「私は捨てない」


 クルムは何も言わなかった。


 ただ、遠くの空を見た。


 東の端が、ほんの少しだけ白くなり始めている。


 夜が終わる。


 星が薄れていく。


 アルバは胸元の石を握った。


 石はまだ割れていない。


 リナとの約束も、まだある。


 でも、家の窓は割れた。


 花は踏まれた。


 赤い糸は切られた。


 それでも結び直した。


 何度でも、と言った。


 その言葉が、自分の中で少し怖くなった。


 何度でも。


 それは強い言葉だ。


 でも、何度も切られることを知っている言葉でもある。


 アルバは家の前に立つ両親を見た。


 人間を守るために夜に立つ母。


 人間を信じきれないまま、それでも家の前に立つ父。


 その二人の背中は近い。


 けれど、同じものを見ているようで、少し違うものを見ている気もした。


 朝の光が、少しずつ夜を薄くしていく。


 ラウルの家の前で、結び直された赤い糸が揺れていた。


 細く、短く、不格好な糸。


 けれど、まだ切れてはいなかった。


 アルバはその糸を見つめた。


 約束は、まだそこにあった。


 傷ついたまま。


 結び直されたまま。


 次に何が来るのかを、知らないまま。

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