第28章 血を罪と呼ぶ声
第3部 遠い夜
広場には、人が集まっていた。
多くはない。
けれど、少なくもない。
夜の井戸の周りに、十数人ほどの人間が立っている。
火の入った灯りがいくつも置かれている。
その明かりで、顔が赤く見えた。
怒っている人。
怯えている人。
ただ様子を見に来ただけの人。
それぞれが違う顔をしているのに、遠目にはひとつの塊に見える。
アルバはセレーネの後ろに立った。
クルムは少し離れた闇に立っている。
人間たちから見える場所。
でも、近すぎない場所。
ラウルは井戸の手前で足を止めた。
集まっていた人々の中から、男が一人前へ出る。
背の高い男だった。
声が大きい。
それだけで、場の中心にいるように見える。
「来たか、ラウル」
男が言った。
「夜に人を集めるほどの話とは何ですか」
ラウルの声は落ち着いていた。
でも、少し疲れている。
男は周囲を見回すようにしてから言った。
「皆が不安がっている」
「何を」
「お前の家だ」
ざわり、と人々が揺れた。
アルバは胸元の石を握る。
男は続ける。
「吸血鬼を家に入れ、血を渡している。昔からの約束だと言う者もいる。だが、その約束は本当に人間のためのものか?」
ラウルは眉をひそめた。
「私たちは自分の意思で結んでいます」
「意思?」
男が笑った。
「血を求める相手を前にして、どれほどの意思が残る?」
アルバは息を呑んだ。
違う。
そう言いたかった。
母はちゃんと聞いた。
ラウルはちゃんと答えた。
血を飲むより先に傷を塞いだ。
頭を下げた。
奪っていない。
支配していない。
でも、口を開く前に、セレーネの手がアルバの前に出た。
止める手だった。
今は言ってはいけない。
その手が告げていた。
ラウルは静かに言った。
「彼女たちは、私たちを守ってくれています」
男の目がセレーネに向く。
それから、遠くに立つクルムへ。
最後に、アルバへ。
その視線が、アルバの肌に触れたような気がした。
冷たい。
鋭い。
見る、というより、測られているような目だった。
「守ると言えば聞こえはいい」
男は言った。
「だが、守ってもらわなければならない状況を作っているのは、誰だ」
「夜の獣は、吸血鬼が生むものではありません」
セレーネが静かに言った。
男は少しだけ顔を歪める。
「口を挟むな」
クルムが一歩動いた。
空気が変わる。
人々の何人かが後ずさった。
男の顔にも恐怖が走る。
けれど、彼は引かなかった。
恐怖があるのに、声だけは大きくなる。
「そうだ。その目だ。その力だ。人間は、そんなものに守られなければ生きられないのか? 血を差し出し、機嫌を取り、いつか牙を向けられる日を待つのか?」
「牙を向けたことなどない」
ラウルが言った。
「今はな」
男は即座に返した。
クルムの声が落ちる。
「今は、とは便利な言葉だ」
男の肩が震えた。
クルムは続ける。
「まだ起きていない罪まで数えるなら、誰も無罪ではいられない」
広場が静まり返った。
男は言葉を失ったように見えた。
だが、その沈黙は長く続かなかった。
別の人間が口を開いた。
「でも、子どもたちが怖がっている」
女の声だった。
井戸の近くに立つ人間の女。
その後ろに、小さな子どもが隠れている。
子どもはアルバを見ていた。
怯えた目だった。
「うちの子が、夜に泣くんです。赤い目の化け物が来るって」
アルバは自分の目に触れそうになった。
赤い目。
化け物。
自分のことなのか。
父のことなのか。
母のことなのか。
分からない。
でも、その言葉は胸に刺さった。
セレーネが静かに言う。
「怖がらせたのなら、申し訳ないわ」
「謝れば済むのですか」
女の声は震えていた。
怒っているというより、怯えている。
その怯えが、怒りの形をしている。
アルバは初めて、それを見た気がした。
「怖いなら、近づかないでいい」
ラウルが言った。
「だが、私たちの約束を奪わないでくれ」
「約束、約束と」
背の高い男が吐き捨てるように言った。
「血を渡すことを、綺麗な言葉で飾るな」
アルバの中で、何かが熱くなった。
今度は、止める手より先に声が出た。
「綺麗な言葉じゃないよ」
広場の視線が、一斉にアルバへ向いた。
セレーネが息を呑む。
クルムの赤い瞳が鋭くなる。
アルバは怖かった。
でも、言葉を止められなかった。
「血をあげるのは痛いよ。怖いよ。でも、ラウルは自分でいいって言った。母さんはちゃんと聞いた。傷を先に閉じた。血をもらったあと、家を守った。獣から守った」
声が震えた。
でも、続けた。
「それを見てないのに、勝手に悪いものにしないで」
広場は静かだった。
誰もすぐには答えなかった。
アルバは息を切らしていた。
胸元の石が、服の内側で冷たく揺れる。
背の高い男が、ゆっくりとアルバを見た。
「吸血鬼の子どもか」
その声は静かだった。
静かすぎて、怖かった。
「小さいうちは、そうやって人間の言葉を真似るのか」
セレーネがアルバを背に隠した。
クルムが完全に一歩前へ出る。
夜が重く沈んだ。
男はクルムを見て、さすがに口を閉じた。
けれど、その目は引かなかった。
アルバは母の背中の後ろで震えていた。
自分が何を言ったのか。
間違っていたのか。
正しかったのか。
分からない。
ただ、母の背中が前にある。
父の気配が横にある。
それだけで、かろうじて立っていられた。
ラウルが深く息を吸った。
「今夜は帰ります」
男は何か言いかけた。
しかし、クルムの視線を受けて口を閉じた。
ラウルは背を向ける。
セレーネもアルバの肩を抱いたまま歩き出す。
クルムは最後まで広場を見ていた。
その赤い瞳は、怒りを隠していなかった。
*
ラウルの家へ戻る道で、誰も話さなかった。
アルバはセレーネの手に引かれて歩いた。
父は少し後ろを歩いている。
広場の人間たちが追ってこないか、見ているのだろう。
家の灯りが見えた時、リナが扉の隙間から顔を出した。
彼女はアルバを見ると、駆け寄りかけた。
でも、途中で止まった。
ラウルの顔を見る。
マイラの顔を見る。
それから、アルバを見る。
「大丈夫?」
リナが小さく聞いた。
アルバは頷いた。
「うん」
本当は、大丈夫ではなかった。
でも、そう答えた。
リナは何か言いたそうだった。
けれど、マイラがそっと肩に手を置くと、口を閉じた。
アルバはそれを見ていた。
リナは悪くない。
怖いだけだ。
そう分かる。
分かるのに、胸が少し痛かった。
セレーネはラウルたちに薬の使い方を説明し、今夜は早く戸を閉めるように言った。
クルムは外の気配を確かめ、短く言った。
「今夜は近くにいる」
ラウルが驚いて顔を上げる。
「しかし」
「礼はいらない」
クルムはそれだけ言った。
リナが父を見上げる。
少し怖そうに。
でも、少し安心したように。
アルバはその顔を見て、ほんの少しだけ救われた気がした。
帰る前、リナが玄関まで来た。
マイラは止めなかった。
ただ、不安そうに見ていた。
リナは小さな声で言う。
「ごめんね」
アルバは首を傾げた。
「何が?」
「広場に、一緒に行けなくて」
「怖かったんでしょ」
リナは唇を噛んだ。
「うん」
「じゃあ、仕方ないよ」
そう言ったのに、リナの顔は苦しそうだった。
「でも、私、アルバが言ってくれたこと、嬉しかった」
「本当?」
「うん」
リナは小さく頷いた。
「でも、怖かった」
アルバは何も言えなかった。
嬉しい。
でも、怖い。
その二つが同時にあることを、どう受け止めればいいのか分からない。
リナはアルバの胸元を見る。
「石、まだ持ってる?」
「持ってる」
アルバは服の上から触れた。
リナは少しだけ笑った。
「よかった」
その笑顔は、前よりも弱かった。
けれど、嘘ではなかった。
「約束、忘れてないよ」
アルバが言う。
リナは頷いた。
「私も」
でも、その声は少し震えていた。
まるで、忘れていないと言うこと自体が怖いみたいに。
アルバはその震えを聞き取ってしまった。
*
帰り道、星は出ていた。
けれど、アルバは見上げなかった。
胸元の白い石が、前より重く感じる。
同じ石なのに。
同じ約束なのに。
どうしてだろう。
セレーネは隣を歩いている。
クルムは前ではなく、少し後ろを歩いていた。
アルバとセレーネの背を守るように。
その歩き方だけで、今夜の父がどれほど警戒しているか分かった。
「父さん」
アルバは振り返らずに呼んだ。
「何だ」
「私、間違えた?」
クルムはすぐには答えなかった。
足音だけが聞こえる。
乾いた土を踏む音。
夜風が草を揺らす音。
遠くで獣が鳴く声。
やがて、クルムが言った。
「言う場所を間違えた」
アルバの胸が少し痛んだ。
「言ったことは?」
「間違いではない」
アルバは顔を上げた。
それだけで、少し息がしやすくなる。
でも、クルムは続けた。
「だが、正しい言葉が相手を変えるとは限らない」
「どうして」
「人は、聞きたいものしか聞かないことがある」
「吸血鬼も?」
「ある」
それは少し意外だった。
父が、自分たちも同じように間違えると言った気がしたからだ。
セレーネが静かに言う。
「怖い時ほど、人は単純な言葉にすがるわ」
「単純な言葉?」
「敵。味方。裏切り者。化け物」
アルバは広場で聞いた声を思い出した。
血を売る家。
赤い目の化け物。
吸血鬼の子ども。
言葉は短い。
でも、短いからこそ強い。
それが誰かを傷つけるまで、言った人は気づかないのかもしれない。
「約束って言葉も、単純?」
アルバが聞く。
セレーネは少しだけ黙った。
「そうね。使い方によっては」
「約束なのに?」
「約束は、守るためにも使える。縛るためにも使える」
アルバは約束の庭を思い出す。
同じ庭に眠る人間と吸血鬼。
器に注がれた血。
白い花。
名の代わりに残された模様。
あれは、守るための約束だった。
でも、今夜の広場で聞いた声は違った。
血の約束をやめろ。
人間ならこうあるべきだ。
吸血鬼と関わるな。
それもまた、別の約束の形なのだろうか。
「難しい」
アルバは小さく言った。
「今、分からなくていいわ」
セレーネが言う。
「でも、分からないままだと怖い」
「分かっても怖いことはある」
クルムが言った。
アルバは黙った。
父はやっぱり怖いことをたくさん知っている。
でも、今夜はその言葉を少しだけ理解できた。
知れば安心するわけではない。
見るほど、分からないことが増える時もある。
それでも、見ない方がいいとは思えなかった。
「私、リナと友達でいたい」
アルバは言った。
声は小さかった。
でも、はっきり言った。
クルムは答えない。
セレーネがアルバの肩に手を置く。
「そう思うなら、大切にしなさい」
「うん」
「でも、リナが怖がることも見てあげて」
アルバは胸元の石を握る。
「怖がってても、友達でいられる?」
「いられることもある」
「いられないことも?」
セレーネはすぐには答えなかった。
その沈黙が答えだった。
アルバは石を強く握った。
痛くはない。
でも、胸の奥が少し痛い。
*
家に戻っても、アルバはなかなか眠れなかった。
窓辺に座り、白い石を手のひらに乗せる。
星明かりを受けて、石は静かに光っている。
前は、それを見るだけで嬉しかった。
今は、少しだけ怖い。
約束のしるし。
でも、約束は壊れることがある。
壊そうとする人がいる。
守りたいのに、怖くなって手を離してしまうこともある。
リナの手を思い出す。
伸びかけて、引っ込んだ手。
アルバの袖を掴みかけて、やめた手。
その手の温かさを、アルバはまだ覚えている。
覚えているから、余計に痛かった。
扉の外で足音がした。
クルムだった。
部屋の前で止まり、しばらく何も言わない。
アルバは振り返った。
「父さん?」
扉が少し開く。
クルムは中には入ってこなかった。
「眠れないのか」
「うん」
「石を見ていたのか」
「うん」
クルムは窓辺の白い石を見た。
赤い瞳が、ほんの少しだけ細くなる。
「手放せと言えば、怒るか」
アルバは石を握った。
「怒る」
「そうか」
「父さんは、手放せって言いたいの?」
「言いたい」
正直な答えだった。
アルバは少し驚いた。
「どうして」
「それがあれば、お前はあの家へ戻ろうとする」
「約束したから」
「だから危うい」
「約束は悪いものじゃない」
「悪いものではない」
クルムは静かに言った。
「だが、良いものだから人を縛る」
アルバは手の中の石を見る。
良いものだから縛る。
母も、似たようなことを言っていた。
守るためにも。
縛るためにも。
「父さんは、約束したことある?」
アルバは聞いた。
クルムは答えなかった。
長い沈黙。
それから、低く言う。
「ある」
「守れた?」
「まだだ」
「まだ?」
「果たしていない」
アルバは父を見る。
その横顔は、夜より暗く見えた。
「じゃあ、今も覚えてるの?」
「吸血鬼は忘れない」
前にも聞いた言葉。
でも、今夜は少し違って聞こえた。
忘れないことは、安心だけではない。
父の中にも、何かが残り続けている。
果たしていない約束。
まだ終わっていない何か。
「私も忘れない」
アルバは言った。
「リナとの約束」
クルムは小さく息を吐いた。
怒っているのではなかった。
疲れているような、諦めたような息だった。
「なら、せめて覚えておけ」
「何を?」
「約束は、相手も同じ強さで持っているとは限らない」
アルバは黙った。
それはリナのことだと分かった。
リナが約束を忘れたわけではない。
でも、同じ強さで持ち続けられるかは分からない。
怖さがある。
周りの声がある。
人間の家族がある。
アルバにはないものが、リナにはたくさんある。
「それでも」
アルバは小さく言った。
「私は持ってる」
「そうか」
クルムはそれ以上言わなかった。
扉を閉めようとして、少しだけ止まる。
「眠れ」
「うん」
扉が閉まる。
足音が遠ざかる。
アルバは窓辺の石を見つめた。
父は、手放せと言いたい。
でも、言わなかった。
それが少しだけ嬉しくて、少しだけ悲しかった。
次の夜、ラウルの家の赤い糸は結び直されていた。
けれど、前よりも短くなっていた。
切られた分だけ、短く。
同じ印なのに、少しだけ違う形になっていた。
アルバはそれを、遠くから見た。
家の中には入らなかった。
セレーネが一人で薬を届け、クルムは木立の影で外を見ていた。
アルバは少し離れた場所で待っていた。
リナの姿は見えない。
窓の奥に、一瞬だけ影が動いた気がした。
けれど、それがリナなのかは分からなかった。
アルバは胸元の石に触れた。
まだある。
まだ約束は壊れていない。
そう思おうとした。
セレーネが家から戻ってくる。
その顔は穏やかだった。
けれど、目の奥には疲れがある。
「帰りましょう」
アルバは頷いた。
歩き出す前に、もう一度だけ家を見た。
切られて結び直された赤い糸。
踏まれても取り替えられた白い花。
塞がれた窓。
小さな灯り。
まだそこにある家。
まだ続いている約束。
でも、前と同じではない。
アルバは初めて、そのことをはっきり感じた。
何かが壊れたわけではない。
まだ、誰も決定的には失っていない。
リナもいる。
ラウルも、マイラもいる。
父も母もいる。
約束も、まだある。
それなのに、夜の空気は少しずつ変わっていた。
見えない細いひびが、どこかに入っている。
アルバには、それを直す方法が分からなかった。
ただ、胸元の白い石を握りしめる。
冷たい石。
小さな星。
約束のしるし。
その石はまだ、割れていなかった。
けれど、アルバは初めて思った。
壊れるものは、きっと壊れる前から音を立てている。
ただ、その音が小さすぎて、気づけないだけなのだと。




