第27章 壊れ始めた約束
第3部 遠い夜
白い石は、アルバの胸元にあった。
リナにもらった石。
小さな紐を通して、服の内側に入れている。
歩くたびに、こつん、と胸に触れる。
それは痛いほどではない。
けれど、そこにあることを忘れさせないくらいには、確かな重みだった。
地面に星がある場所を見つけたら、一緒に見に行く。
リナと交わした約束。
まだ叶っていない約束。
アルバは、朝でも夜でも、ときどき服の上から石に触れた。
すると、リナの笑った顔を思い出す。
最初は怖がっていた顔。
それから、少しずつ近づいてきた顔。
小指を差し出して、「約束」と言った時の顔。
人間の子どもと吸血鬼の子ども。
違うもの同士でも、同じものを見たいと思える。
アルバは、そう信じていた。
その夜、セレーネは小さな包みを用意していた。
乾いた薬草。
熱を下げる煎じ薬。
清潔な布。
それから、細い瓶に入った淡い色の液体。
アルバは机のそばに立ち、首を傾げた。
「どこかに行くの?」
「ラウルたちの家へ」
セレーネが答えた。
アルバの胸が少し弾む。
「リナのところ?」
「ええ」
「私も行っていい?」
セレーネはすぐには答えなかった。
包みの紐を結びながら、少しだけ考える。
それだけで、アルバはいつもと違う空気を感じた。
「母さん?」
「……行きたい?」
「うん」
「怖くない?」
「怖くないよ。リナがいるもん」
その答えに、部屋の入口で立っていたクルムがわずかに目を細めた。
「それが危うい」
アルバは振り返る。
「何が?」
「いると思うことだ」
「リナはいるよ」
「いることと、頼れることは違う」
言葉の意味が、すぐには分からなかった。
アルバは眉を寄せる。
「リナは友達だよ」
「まだ分からない」
「分かるよ」
「分かったつもりになるな」
クルムの声は冷たかった。
怒っているようにも聞こえた。
でも、アルバにはそれだけではない気がした。
父は最近、よく外を見る。
窓の外。
扉の向こう。
人間の街へ続く道。
何かが近づいてくるのを待っているように。
何かが起こる前から、それを知っているように。
セレーネが静かに言った。
「クルム」
それだけで、父は口を閉じた。
セレーネは包みを手に取り、アルバを見る。
「行きましょう。ただし、今日は私のそばを離れないこと」
「うん」
「リナに会えても、二人だけで外へ出ないこと」
「うん」
「何か言われても、すぐに言い返さないこと」
アルバは少しだけ不満だった。
「私、そんなに言い返さないよ」
クルムが低く言う。
「言い返す顔をしている」
「顔は関係ない」
「ある」
セレーネが小さく笑った。
アルバは唇を尖らせた。
でも、どこか嬉しかった。
父の言い方は冷たい。
けれど、ちゃんと自分を見ている。
そう思えたからだ。
*
ラウルの家へ向かう道は、前に来た時より静かだった。
夜の街外れ。
木立のそば。
畑の奥。
空には星がある。
けれど、アルバはあまり空を見上げなかった。
父が前を歩いている。
いつもよりさらに周囲を警戒している。
母も、薬の包みを持つ手に少しだけ力が入っている。
何かある。
アルバには分かった。
でも、何があるのかは分からなかった。
契約の家が見えた時、アルバは足を止めかけた。
玄関の横に置かれていた小さな器。
乾いた白い花。
その下に結ばれていた赤い糸。
前に見た印が、少し変わっていた。
赤い糸が切られている。
片方は器に絡まったまま。
もう片方は、土の上に落ちていた。
白い花は踏まれて、形が崩れている。
扉の横には、新しい泥の跡があった。
黒く、乾ききっていない。
アルバは胸元の石を握った。
「また、誰かがしたの?」
セレーネは答えなかった。
代わりに、クルムが低く言う。
「人間だ」
その声は、前よりも硬かった。
アルバは扉を見る。
灯りはついている。
けれど、前に来た時よりも小さい。
窓も少しだけ塞がれていた。
中から足音が聞こえる。
ラウルが扉を開けた。
彼は前よりも疲れた顔をしていた。
目の下がくぼみ、頬も少し痩せたように見える。
けれど、セレーネを見ると、いつものように頭を下げた。
「よく来てくださいました」
「遅くなってごめんなさい」
「いいえ。来ていただけるだけで……」
ラウルはそこで言葉を切った。
クルムを見て、少しだけ表情を引き締める。
「今夜は、外が少し騒がしいかもしれません」
「知っている」
クルムは短く答えた。
ラウルは苦い顔をした。
セレーネは玄関横の赤い糸を見る。
「印を切られたのね」
「昨日の夜です」
「怪我人は?」
「いません。家の者は皆、中にいました」
「よかった」
セレーネが言うと、ラウルは小さく笑った。
「よかった、のでしょうね」
その笑い方が、アルバには少し痛かった。
本当によかったと思っている顔ではなかった。
何かをこらえている顔だった。
*
家の中に入ると、マイラが椅子に座っていた。
前より顔色はましになっている。
けれど、疲れは残っていた。
彼女はセレーネを見ると、立ち上がろうとした。
「そのままで」
セレーネが言う。
「今日は診に来ただけだから」
「申し訳ありません」
「謝ることではないわ」
セレーネは包みを開き、薬草を取り出した。
部屋には火が入っている。
でも、前のような温かさは薄かった。
窓の隙間には布が詰められ、外の音を少しでも遮ろうとしている。
戸棚の前には木箱が積まれている。
何かが投げ込まれた時、すぐに割れないようにしているのだと、アルバにも分かった。
リナは部屋の奥にいた。
アルバと目が合う。
リナの顔が少し明るくなった。
でも、すぐにその表情は揺れた。
嬉しそうなのに、近づいてこない。
アルバは少しだけ不安になった。
「リナ」
呼ぶと、リナは一歩だけ前に出た。
「アルバ」
声は小さかった。
前に会った時よりも。
アルバは笑おうとした。
「石、ちゃんと持ってるよ」
服の上から胸元を押さえる。
リナの目が、その場所を見る。
一瞬だけ、嬉しそうに揺れた。
けれど、すぐに視線が窓へ向かう。
外を気にしている。
「どうしたの?」
アルバが聞く。
リナは首を横に振った。
「何でもない」
「何でもなくない顔してる」
リナは困ったように笑った。
「アルバも、顔で分かるって言うんだね」
「父さんと母さんに言われた」
「そっか」
会話はそこで止まった。
前は、星の話をした。
夜の話をした。
地面に星がある場所の話をした。
約束をした。
なのに今は、言葉がすぐに終わってしまう。
アルバは、どうすればいいか分からなかった。
セレーネがマイラの診察をしている間、ラウルはクルムと小さな声で話していた。
アルバは炉のそばに座り、リナと並んでいた。
並んではいる。
けれど、前より少し距離があった。
手を伸ばせば届く。
でも、リナは手を伸ばさない。
アルバも、無理に触れなかった。
「外、怖いの?」
小さな声で聞く。
リナは頷いた。
「うん」
「獣?」
「獣も。でも、最近は人の方が怖い」
前にも聞いた言葉だった。
けれど、今夜のそれはもっと重かった。
「また、石を投げられたの?」
「石だけじゃない」
リナは膝の上で手を握った。
「井戸のところで、お母さんが水を汲んでたら、言われたの」
「何を?」
リナはしばらく黙った。
言いたくないのだと分かった。
それでも、彼女は小さく口を開いた。
「血を売る家だって」
アルバは言葉の意味をすぐに理解できなかった。
「売る?」
「吸血鬼に血を渡して、守ってもらってるから」
「売ってないよ」
アルバは思わず言った。
「約束だよ。リナのお父さんもお母さんも、自分で決めてる。母さんだって、ちゃんと聞いてる。勝手に取ってない」
「うん」
「売るって、変だよ」
「うん」
リナは頷いた。
でも、その顔は晴れない。
「でも、みんなそう言う」
「みんな?」
「みんなじゃない。でも、声が大きい人たち」
声が大きい人たち。
アルバはその言い方を胸に留めた。
正しいかどうかではなく、声が大きいかどうかで、周りの空気が変わる。
そんなことがあるのだろうか。
「リナは、違うって言った?」
聞いた瞬間、リナの肩が小さく震えた。
アルバはしまったと思った。
でも、言葉は戻せない。
リナは俯いたまま言った。
「言えなかった」
「どうして?」
「怖かったから」
アルバは何も言えなくなった。
怖い。
その言葉は、リナの中に本当にある。
アルバの方が正しいことを言っても、その怖さは消えない。
「アルバは強いから」
リナが言った。
「そんなことない」
「吸血鬼だもん」
「でも、子どもだよ」
「それでも、私より強い」
アルバは胸元の石を握った。
リナがくれた石。
約束のしるし。
その石が、少し冷たく感じた。
「強かったら、怖くないの?」
アルバは聞いた。
リナは答えなかった。
アルバにも分からなかった。
父は強い。
母も強い。
でも、二人とも怖いものを知っている。
強さと怖さは、別のものなのかもしれない。
部屋の向こうで、ラウルの声が少しだけ聞こえた。
「……広場で話していました。血の約束をやめろと」
セレーネの手が止まる。
クルムの赤い瞳が、ラウルを見る。
「誰が」
「名前を出せば、また火種になります」
「もう火はついている」
クルムの声が低くなる。
ラウルは目を伏せた。
「それでも、まだ燃え広がってはいません」
「燃え広がってからでは遅い」
セレーネが静かに言った。
「クルム」
クルムはラウルから視線を外した。
ラウルは疲れたように息を吐く。
「私たちは、約束をやめるつもりはありません」
その言葉に、マイラが小さく頷いた。
けれど、その手は震えていた。
「でも」
マイラが言う。
「リナにまで、あの目を向けられるのは……」
そこで声が詰まった。
リナは俯いた。
アルバは何も言えなかった。
自分のせいではない。
そう思いたかった。
けれど、リナが怖がられている理由の中に、吸血鬼がいる。
母がいる。
父がいる。
自分がいる。
そのことが、胸の奥に重く落ちた。
*
外で鐘の音がした。
遠い広場の鐘だった。
夜に鳴ることは少ない。
街で何かを決める時や、誰かが皆を集めたい時にだけ鳴らされる鐘だと、前にリナが教えてくれたことがある。
ラウルが顔を上げる。
マイラの表情が強張る。
「集会の鐘です」
ラウルが低く言った。
「この時間に鳴るなんて……」
リナがアルバの袖を掴みかけて、すぐに手を引いた。
その動きが、アルバには分かった。
掴みたい。
でも、掴んではいけないと思っている。
どうして。
胸の中で、問いが膨らむ。
「行く必要はない」
クルムが言った。
ラウルは窓の方を見る。
「見ておかねばなりません」
「見て何になる」
「何が起きているか知らないままでは、守りようがありません」
その言葉に、アルバは母を見た。
怖いと決める前に見る。
嫌いと決める前に見る。
でも、見ることはいつも優しいことではない。
見れば、怖いものも見える。
嫌なものも見える。
それでも見るのだろうか。
セレーネは少し考えた後、静かに言った。
「私が一緒に行きます」
クルムがすぐに顔を向ける。
「必要ない」
「あるわ」
「罠ならどうする」
「だから、一人で行かせない」
「行かせる必要がない」
「見ないまま閉じこもれば、もっと悪くなる」
クルムはセレーネを見た。
赤い瞳が揺れる。
怒りではない。
心配だ。
アルバには分かった。
母に行ってほしくないのだ。
でも、母は行く。
そういう顔をしていた。
「私も行く」
アルバが言うと、二人の視線が同時に向いた。
「駄目だ」
クルムが即座に言う。
「どうして」
「危険だからだ」
「母さんは行くのに」
「お前は子どもだ」
「母さんも、見ることが大事だって言ってた」
セレーネは少し困った顔をした。
アルバは引かなかった。
「私、ちゃんと見るって決めたの」
クルムの顔が硬くなる。
「決めたからといって、見ていいものばかりではない」
「でも、見なかったら分からない」
「知らなくていいこともある」
「父さんがそう決めるの?」
部屋の空気が止まった。
アルバは言ってから、自分の声が強すぎたことに気づいた。
クルムはしばらく黙っていた。
その沈黙が怖かった。
怒鳴られるより、ずっと。
やがてセレーネが、アルバの肩に手を置いた。
「私のそばを離れないこと」
「セレーネ」
クルムの声は低かった。
「あなたも来て」
セレーネは言った。
「それなら、この子は一番安全な場所にいる」
クルムは答えなかった。
けれど、拒みもしなかった。
その沈黙が、許可だった。
アルバは胸元の石を握る。
リナが小さく言った。
「私も……」
マイラがすぐに首を横に振った。
「あなたは残って」
「でも」
「お願い」
リナはそれ以上言えなかった。
アルバはリナを見る。
何か言いたかった。
一緒に行こう。
大丈夫。
怖くない。
けれど、そのどれも違う気がした。
リナは怖い。
そして、その怖さは本当だ。
だからアルバは、ただ言った。
「戻ってくるね」
リナは小さく頷いた。
その頷きが、前に交わした約束よりも、ずっと弱く見えた。




