第26章 約束の庭
第3部 遠い夜
リナにもらった白い石は、アルバの首にかかっていた。
細い紐を通し、服の内側に入れている。
歩くたび、胸元で小さく揺れる。
冷たい石なのに、不思議とそこだけ少し温かい気がした。
人間の子どもと交わした約束。
地面に星がある場所を見つけたら、一緒に見に行く。
まだ見つかっていない場所。
まだ叶っていない約束。
アルバは何度も服の上から石に触れた。
「気に入ったのね」
隣を歩くセレーネが言った。
「うん」
「大切にしなさい」
「してるよ」
「落とさないように」
「落とさない」
アルバは胸元を押さえた。
夜の道は静かだった。
前にはクルムが歩いている。
その歩幅はいつも通り広い。
けれど、アルバが遅れすぎない程度には、少しだけ抑えられていた。
本人は気づかれていないつもりなのだろう。
アルバは気づいていた。
でも、言わない。
言えばきっと、父は否定する。
今日は星を探しに行くのではなかった。
契約の家へ行くのでもない。
母が「見せたい場所がある」と言った。
父は何も言わなかった。
でも、嫌がっている様子ではなかった。
だからアルバは、少しだけわくわくしていた。
「どこへ行くの?」
もう何度目か分からない質問をする。
セレーネは微笑んだ。
「着いたら分かるわ」
「それ、さっきも聞いた」
「では、何度聞いても同じ答えね」
「母さんも父さんに似てきた」
セレーネは楽しそうに笑った。
クルムが前を向いたまま言う。
「似ていない」
「今の言い方は似てた」
「似ていない」
「ほら」
アルバが言うと、セレーネがさらに笑った。
クルムは黙った。
黙る時の顔も、きっと少し不機嫌なのだろう。
アルバはそう思って、胸元の白い石をもう一度触った。
*
やがて、道の先に低い門が見えてきた。
大きな門ではない。
人を威圧するためのものでもない。
古い石で作られた門柱が二つ。
その間に、低い鉄の扉がある。
扉は開いていた。
門柱には花の模様が彫られている。
けれど、花だけではない。
よく見ると、花弁の間に細い線が刻まれていた。
流れる血のようにも見える。
結ばれた糸のようにも見える。
アルバは門の前で立ち止まった。
「ここ、庭?」
「ええ」
セレーネが答えた。
「約束の庭よ」
「約束の庭」
アルバは言葉を繰り返した。
庭。
そう聞いていたので、もっと花がたくさんある場所を想像していた。
けれど、門の向こうに見えるのは、夜の中に広がる静かな石の列だった。
花もある。
低い草もある。
白い小さな花が、道の端にいくつか咲いている。
でも、それ以上に多いのは石だった。
背の低い石。
細長い石。
丸い石。
同じ形はほとんどない。
人間の街で見た墓とは少し違う。
吸血鬼の眠る場所とも違う。
いろいろな形の石が、同じ庭の中に並んでいる。
アルバは少しだけ声を落とした。
「お墓?」
「そうよ」
セレーネは門をくぐる前に、静かに頭を下げた。
クルムもわずかに視線を伏せる。
アルバは慌てて二人の真似をした。
ここは騒ぐ場所ではない。
入る前から、そう分かった。
門の内側に足を踏み入れると、空気が変わった。
街の音が遠ざかる。
風の音も少しやわらぐ。
ここだけ夜が深い。
アルバはそう感じた。
道の両側には墓が並んでいる。
石に名が刻まれているものもあれば、模様だけのものもある。
日付のような数字が刻まれた石。
血の滴のような印が彫られた石。
花の形。
月の形。
輪になった線。
アルバは一つ一つを見ながら歩いた。
「人間のお墓?」
「人間の墓もあるわ」
セレーネが答える。
「吸血鬼のお墓もある」
アルバは足を止めた。
「一緒に?」
「ええ」
「同じ庭に?」
「同じ庭に」
アルバは周囲を見回した。
人間の墓。
吸血鬼の墓。
それが、同じ場所にある。
別々の場所ではない。
壁で分けられてもいない。
隣り合っている石もある。
同じ木の下に置かれている石もある。
「どうして?」
アルバは聞いた。
セレーネはすぐには答えなかった。
少し先へ進み、二つ並んだ墓の前で止まる。
一つは人間の墓だった。
名と日付が刻まれている。
もう一つは吸血鬼の墓だった。
名はない。
けれど、細い銀の線のような模様が刻まれている。
二つの石の間には、小さな器が置かれていた。
器は古びている。
でも、割れてはいない。
その中には乾いた赤い花びらが少しだけ残っていた。
「この二人は、約束を結んでいたの」
セレーネが言った。
「人間と吸血鬼?」
「そう」
「血の約束?」
「ええ」
アルバは二つの墓を見た。
人間が血を差し出す。
吸血鬼が守る。
昨日見たばかりの光景が頭に浮かぶ。
ラウルの腕。
白い布。
母が頭を下げる姿。
獣から家を守る父と母。
「この人間の人が、血をあげたの?」
「そう伝えられているわ」
「吸血鬼の人は、守ったの?」
「ええ。家族も、家も、何度も守ったそうよ」
「それで、死んだ後も一緒なの?」
セレーネは頷いた。
「一緒に生きた者は、一緒に眠ってもいい」
アルバはその言葉を、ゆっくり胸の中で繰り返した。
一緒に生きた者は、一緒に眠ってもいい。
なんだか、とても当たり前のことのように聞こえた。
でも、きっと当たり前ではないのだろう。
だから、こんな庭がある。
だから、母はわざわざここへ連れてきた。
「でも、人間と吸血鬼だよ」
アルバは小さく言った。
「違う種なのに」
「違うから、一緒にいられないとは限らないわ」
「一緒に眠れるの?」
「生きている時に、そう望んだのなら」
アルバは墓の間に置かれた器を見る。
血を入れたものだろうか。
花を入れたものだろうか。
分からない。
でも、二つの石の間にあるそれは、どちらか一方のものではないように見えた。
クルムは少し離れた場所に立っていた。
墓を見ている。
その顔はいつものように静かだった。
けれど、アルバには分かった。
父はこの庭を嫌ってはいない。
ただ、少しだけ遠い顔をしている。
*
庭の奥へ進むと、墓の形はさらに様々になった。
ひとつの台座の上に、二つの石が置かれているもの。
大きな石の根元に、小さな石が寄り添うように置かれているもの。
石ではなく、古い金属片が埋め込まれているもの。
名前が二つ刻まれた石もあった。
ひとつは人間の名。
もうひとつは、吸血鬼の名ではなく、模様。
アルバはその前で首を傾げる。
「どうして、吸血鬼の名前は文字じゃないの?」
「文字にしない者もいるからよ」
セレーネが答えた。
「どうして?」
「名を軽く扱わないため」
「名前なのに?」
「名前だからよ」
アルバはよく分からなかった。
名前は呼ぶためにある。
そう思っていた。
父さん。
母さん。
アルバ。
リナ。
ラウル。
マイラ。
呼ばれると振り返る。
呼ぶと相手がこちらを見る。
それが名前だと思っていた。
「吸血鬼には、誰にでも呼ばせる名と、そうではない名があるの」
セレーネは言った。
「そうではない名?」
「心の奥にしまっておく名」
「母さんにもあるの?」
「あるわ」
「父さんにも?」
セレーネは少しだけクルムを見た。
クルムは無言だった。
アルバは父を見上げる。
「父さんの名前はクルムでしょ?」
「それは通り名だ」
「通り名?」
「外へ出す名だ」
「じゃあ、本当の名前があるの?」
クルムは答えなかった。
アルバは目を瞬かせる。
父に、知らない名前がある。
それは少し不思議だった。
「教えてくれないの?」
「必要ない」
「どうして?」
「お前が呼ぶ名は、父さんで足りる」
アルバは一瞬、黙った。
それから笑った。
「それもそうだね」
クルムは少しだけ意外そうな顔をした。
もっと聞かれると思っていたのかもしれない。
でも、アルバには本当にそれでよかった。
父は父だ。
母は母だ。
知らない名前があっても、それは変わらない。
セレーネが微笑む。
「いつか、本当に必要な相手には名を預けることもあるわ」
「預ける?」
「大切に持っていてほしい相手にだけ」
「じゃあ、名前って約束みたい」
アルバが言うと、セレーネは少し目を細めた。
「そうね。約束に似ているかもしれない」
アルバは墓に刻まれた模様を見る。
文字ではない名前。
呼べない名前。
でも、そこにあった誰かの証。
「じゃあ、この模様は、その人の名前なの?」
「そういうものよ」
「誰かが覚えてる?」
「ええ。誰かが覚えていたから、ここに残ったの」
アルバは小さく頷いた。
名前は、石に刻むだけでは足りない。
誰かが覚えているから、残る。
そのことを、まだ全部は理解できなかった。
でも、この庭にいると、少しだけ分かる気がした。
*
庭の中央には、大きな木があった。
葉は細く、夜風に揺れている。
その下には、いくつもの墓が輪のように並んでいた。
人間の墓。
吸血鬼の墓。
どちらか分からないもの。
古すぎて、もう形の意味が読み取れないもの。
アルバは木の下に立ち、空を見上げた。
枝の隙間から星が見える。
少ない。
でも、確かに見える。
「ここでも星、見えるね」
「少しだけね」
セレーネが答えた。
「地面の星はないけど」
アルバは胸元の石に触れる。
リナの白い石。
約束のしるし。
「あなたは本当に星が好きね」
「うん」
「どうしてそんなに好きなの?」
アルバは考えた。
星が好きな理由。
たくさんある。
夜にしか見えないから。
数えきれないから。
遠いから。
消えそうなのに、消えないから。
でも、一番近い言葉は少し違った。
「見てると、遠くまで行ける気がする」
アルバは言った。
「体はここにいるのに、目だけ遠くまで行けるの」
セレーネは静かに聞いていた。
「昼はまぶしくて、遠くが見えない。でも夜は、ずっと遠くまで見える。知らない場所も、知らない人も、どこかにいるかもしれないって思える」
「だから好きなのね」
「うん」
アルバは星を見上げる。
「父さんは遠くを見るなって言うけど」
少し離れた場所から、クルムの声がした。
「言っていない」
「昨日言った」
「遠くは危ないと言った」
「似てる」
「違う」
アルバは笑った。
セレーネも笑う。
クルムは木の幹に背を預け、腕を組んでいた。
警戒しているようにも見えるし、ただ見守っているようにも見える。
父はいつも、どちらか分からない。
アルバはそれが嫌いではなかった。
その時、庭の門の方から足音が聞こえた。
人間の足音だった。
複数。
アルバは振り返る。
クルムもすでに顔を向けていた。
セレーネの表情が少しだけ硬くなる。
やって来たのは、人間の男女だった。
年老いた女と、若い男。
二人は小さな籠を持っていた。
籠の中には花が入っている。
白い花。
赤い花。
それから、細い瓶。
血の匂いが、ほんの少しだけした。
アルバはセレーネの後ろに半歩下がった。
怖かったわけではない。
でも、母にそうするよう言われていたからだ。
人間の女はクルムたちを見ると、一瞬だけ足を止めた。
それから、深く頭を下げた。
「夜分に失礼します」
セレーネも頭を下げる。
「お参りですか」
「はい」
女はそう言って、木の下の墓へ向かった。
若い男が付き添う。
彼の表情は硬かった。
吸血鬼がいることに緊張しているのだろう。
けれど、逃げるわけではない。
女は一つの墓の前に膝をついた。
そこには二つの石があった。
人間の名が刻まれた石と、吸血鬼の模様が刻まれた石。
女は花を置き、瓶から赤い液を器にほんの少し注いだ。
血だった。
アルバは息を詰める。
死んだ者への血。
それは、飲むためのものではない。
捧げるためのものなのだと、見ただけで分かった。
女は静かに言った。
「今年も来ましたよ」
返事はない。
墓は墓のままだ。
けれど、女は穏やかな顔をしていた。
「守っていただいた家は、まだ続いております」
若い男は無言で立っている。
女は墓に向かって、長く頭を下げた。
アルバはその姿を見て、胸がじんとした。
人間が、吸血鬼の墓に頭を下げている。
怖がるでもなく。
憎むでもなく。
感謝している。
それが、アルバにはとても不思議で、とても大切なものに見えた。
女たちが去る時、若い男が一度だけこちらを見た。
目が合う。
彼はすぐに目を逸らした。
怖いのかもしれない。
でも、女は去り際にアルバへ微笑んだ。
「良い夜を」
アルバは慌てて答える。
「良い夜を」
人間たちは門の向こうへ消えていった。
足音が遠ざかる。
庭にまた静けさが戻った。
「今の人たちも、約束の家の人?」
アルバは聞いた。
「昔、そうだった家の人でしょうね」
セレーネが答えた。
「今はもう血の約束はないの?」
「約束を結んだ者たちは、もう亡くなっているわ」
「それでも来るの?」
「ええ」
「どうして?」
「感謝は、死んだら終わるものではないから」
アルバは墓を見る。
器の中の赤い液が、星明かりを受けて暗く光っている。
死んでも終わらないもの。
感謝。
名。
約束。
この庭には、そういうものが置かれている。
花のためだけの庭ではない。
死者のためだけの庭でもない。
生きていた時の関係を、残すための庭。
アルバはそう思った。
*
庭の端には、まだ新しい墓もあった。
土が少し盛り上がり、花が新しい。
そこには人間の名が刻まれていた。
隣には、まだ何もない空き地が少し残されている。
アルバはそれを見て首を傾げる。
「ここ、空いてる」
セレーネは少しだけ目を伏せた。
「いずれ隣に眠る者がいるのかもしれないわ」
「誰?」
「その人と約束を結んだ吸血鬼」
「まだ生きてるの?」
「ええ」
「じゃあ、死んだら隣に来るの?」
「その人が望めば」
アルバは空いている場所を見つめた。
誰かの隣に、自分の場所を残しておく。
それは寂しいようで、少し嬉しいことのようにも思えた。
「母さん」
「なあに」
「母さんは、死んだら父さんの隣に眠る?」
セレーネは一瞬、驚いたように目を瞬かせた。
それから、静かに微笑んだ。
「そうね。できるなら」
「父さんは?」
アルバはクルムを見る。
クルムは明らかに答えたくなさそうな顔をした。
「くだらないことを聞くな」
「くだらなくないよ」
「まだ先の話だ」
「でも、いつかでしょ」
「吸血鬼に、いつかを簡単に言うな」
セレーネが静かに言った。
「クルム」
その一言で、クルムは黙った。
アルバは少しだけ戸惑う。
いけないことを聞いたのかもしれない。
セレーネはアルバの髪をそっと撫でた。
「吸血鬼は、人間より長く生きるわ」
「うん」
「だから、別れの形も少し違う」
「違う?」
「長く生きるほど、失うものも増えるの」
アルバは母を見た。
「母さんも?」
「ええ」
「父さんも?」
セレーネはクルムを見た。
クルムは答えない。
けれど、否定もしない。
アルバは何となく、それ以上聞いてはいけない気がした。
長く生きること。
忘れないこと。
それはいいことだけではないのかもしれない。
「でも」
アルバは言った。
「長く生きるなら、いっぱい約束もできるね」
セレーネは少し驚いたようにアルバを見た。
それから、やわらかく笑う。
「そうね」
クルムは何も言わない。
ただ、空を見上げた。
枝の隙間から星が見えている。
アルバは父の横顔を見た。
父は時々、遠いところにいる。
けれど、今は同じ庭にいる。
同じ星を見ている。
それでいいと思った。
*
帰る前に、セレーネは庭の外れにある小さな石の前で立ち止まった。
その墓は古かった。
名前はほとんど読めない。
模様も擦れている。
人間のものか、吸血鬼のものか、アルバには分からなかった。
でも、セレーネはそこに小さな白い花を置いた。
「知ってる人?」
アルバが聞く。
「直接は知らないわ」
「じゃあ、どうして花を置くの?」
「誰かが忘れていても、誰かが思い出していいから」
アルバは墓を見る。
誰のものか分からない墓。
誰も来ないかもしれない墓。
それでも、母は花を置く。
「名前も分からないのに?」
「名前が分からなくても、ここにいたことは分かる」
「ここにいたこと」
「生きていたこと。誰かと約束したこと。誰かに覚えていてほしかったこと」
セレーネは花から手を離した。
「全部は分からなくても、なかったことにはならないわ」
アルバは胸元の白い石に触れた。
リナがくれた石。
約束のしるし。
もし、ずっと遠い未来に、自分の名前が消えたら。
リナの名前が分からなくなったら。
それでも、この石が残っていたら。
約束があったことは、少しでも残るのだろうか。
「私も、何か置いていい?」
アルバは聞いた。
セレーネは微笑んだ。
「いいわ。でも、あなたが大切にしているものは無理に置かなくていいのよ」
アルバは少し考えた。
リナの石は置けない。
これは約束のしるしだから。
でも、何かしたかった。
アルバは足元を見る。
小さな白い花が一輪、道の端に落ちていた。
誰かが落としたものかもしれない。
まだ踏まれていない。
アルバはそれを拾い、セレーネが花を置いた墓の隣にそっと置いた。
「これでいい?」
「ええ」
「知らない人だけど」
「それでも、嬉しいと思うわ」
クルムが少し離れた場所から言った。
「死者は喜ばない」
アルバは振り返る。
「父さんは本当にそう思う?」
「死者に感情はない」
「でも、生きてる人は嬉しいかもしれない」
クルムは黙った。
アルバは続ける。
「知らない誰かが、お墓に花を置いてくれたって思ったら。もし私がその人を覚えてたら、嬉しいと思う」
セレーネは静かにアルバを見る。
クルムは何も言わなかった。
ただ、墓の上の白い花を一度だけ見た。
*
帰り道、アルバは何度も振り返った。
約束の庭は、門の向こうで少しずつ遠くなる。
夜の中に沈み、石の列が見えなくなり、最後には門柱だけが影になった。
それでも、アルバの中には庭の景色が残っていた。
人間の墓。
吸血鬼の墓。
同じ台座。
同じ器。
赤い花びら。
血を捧げる人間。
名の代わりに刻まれた模様。
一緒に生きた者は、一緒に眠ってもいい。
セレーネの言葉が、胸の中で静かに響いている。
「母さん」
「なあに」
「リナと私も、いつか一緒に眠れる?」
セレーネは少し驚いたようだった。
クルムが前で足を止めかけた。
アルバは慌てて言う。
「今すぐじゃないよ。ずっとずっと先の話」
「それは」
セレーネは言葉を選んだ。
「あなたとリナが、そう望むなら」
「人間と吸血鬼でも?」
「ええ」
「友達でも?」
「友達でも」
アルバは嬉しくなった。
リナは人間だ。
自分は吸血鬼だ。
それでも、一緒に星を見る約束をした。
もし本当に大切な友達になれたら、いつか同じ庭に眠ってもいい。
それは少し怖くて、でも、温かい考えだった。
「クルム」
セレーネが静かに呼んだ。
前を歩くクルムは振り返らなかった。
「怒らないで」
「怒っていない」
「顔が怒っているわ」
アルバは思わず笑った。
父が少しだけ肩を動かす。
「お前たちは、顔の話ばかりする」
「顔に出るからよ」
セレーネが言う。
クルムは答えなかった。
でも、歩き出した時、その歩幅は少しだけゆっくりになっていた。
「父さんは嫌?」
アルバは聞いた。
「何が」
「私がリナと友達になるの」
「嫌かどうかの問題ではない」
「じゃあ、何の問題?」
「危険かどうかだ」
「危険じゃなかったら?」
「人間は変わる」
「またそれ」
「何度でも言う」
アルバは少しだけ唇を尖らせる。
「でも、吸血鬼も変わるんでしょ」
クルムは答えなかった。
セレーネがアルバの肩に手を置く。
「変わるわ」
「良くも悪くも?」
「ええ。良くも、悪くも」
アルバは胸元の白い石を握った。
「じゃあ、私は良く変わりたい」
セレーネが微笑む。
「どういうふうに?」
「ちゃんと見て、ちゃんと選べるように」
母が言った言葉。
怖いと決める前に。
嫌いと決める前に。
ちゃんと見る。
アルバはそれを、約束の庭で少しだけ分かった気がした。
墓になっても残るものがある。
名前が消えても、誰かが覚えていれば残るものがある。
人間と吸血鬼でも、一緒に生きたなら、一緒に眠ってもいい。
それは、ちゃんと見なければ分からないことだった。
クルムが低く言う。
「選んだ後に、戻れないこともある」
アルバは父を見る。
「戻らなくていい選び方をすればいいんだよ」
「簡単に言う」
「簡単じゃないの?」
「簡単ではない」
「じゃあ、ちゃんと考える」
アルバは胸を張った。
「私、子どもだけど、考えるくらいできる」
クルムは少しだけこちらを見た。
その赤い瞳は、夜の中で静かだった。
「考えても、間違える」
「父さんも?」
クルムは答えなかった。
セレーネも何も言わなかった。
その沈黙が、少しだけ重かった。
アルバは分からないまま、白い石を握る。
間違える。
選ぶ。
約束する。
守る。
今夜知った言葉たちが、胸の中でゆっくり沈んでいく。
*
家に戻ると、夜はかなり深くなっていた。
アルバは眠る前に、リナの石を外した。
小さな布で丁寧に拭き、窓辺に置く。
星の光が石に触れる。
白い石は、ほんの少しだけ光っているように見えた。
アルバはその横に、自分の髪飾りも置いた。
母がつけてくれた、白い石の星。
二つ並べると、本当に小さな星のようだった。
窓の外には夜空。
窓の内側には白い石。
空にも星。
手元にも星。
地面に星がある場所はまだ見つかっていない。
でも、少しだけ近づいた気がした。
「約束の庭、きれいだった?」
部屋に入ってきたセレーネが聞いた。
アルバは窓辺から振り返る。
「きれいっていうか」
言葉を探す。
「静かだった」
「そう」
「でも、寂しいだけじゃなかった」
「ええ」
「死んだ人の場所なのに、生きてた時のことが残ってるみたいだった」
セレーネはゆっくり頷いた。
「よく見ていたのね」
「うん」
アルバは少し照れた。
母に褒められると、胸の奥がくすぐったくなる。
「母さん」
「なあに」
「いつか私が忘れたら、どうなるの?」
「何を?」
「約束とか。名前とか。今日見たこととか」
セレーネは少しだけ目を伏せた。
それから、アルバのそばに座る。
「吸血鬼は忘れにくいわ」
「でも、絶対じゃないでしょ?」
「そうね。形が変わることはある」
「形?」
「思い出は、そのまま残るわけではないの。時々、痛みになったり、祈りになったり、約束になったりする」
アルバはよく分からなかった。
「難しい」
「今は、難しくていいわ」
「母さんも、そういうのある?」
セレーネは窓の外を見た。
星が映る瞳は、いつもより少し遠かった。
「あるわ」
「痛み?」
「ええ」
「祈り?」
「それも」
「約束?」
セレーネはアルバを見る。
そして、やわらかく笑った。
「あなたがいること」
アルバは目を瞬かせる。
「私?」
「ええ。あなたが生きていることは、私にとって約束みたいなものよ」
「誰との?」
「たくさんの人と」
「父さんとも?」
「もちろん」
アルバは少しだけ頬が熱くなった。
嬉しい。
でも、何だか照れる。
「じゃあ、私も母さんの約束を守らないと」
「無理に背負わなくていいのよ」
「背負うって?」
「重いものにしなくていいということ」
セレーネはアルバの髪を撫でた。
「あなたは、あなたの目で見て、あなたの心で選びなさい」
「間違えても?」
「間違えないように願っているわ」
「もし間違えたら?」
「戻れるところまで、一緒に戻りましょう」
アルバは笑った。
「母さんは優しいね」
「そうかしら」
「うん。父さんは戻れないって言う」
「あなたの父さんは、怖いものをたくさん知っているの」
「母さんは?」
「私は、戻ろうとする人を見てきたわ」
アルバは首を傾げる。
やっぱり少し難しかった。
でも、母の声はやわらかい。
難しくても、怖くはない。
セレーネは立ち上がり、窓を少し閉めた。
「もう寝なさい」
「うん」
アルバは寝台に入った。
窓辺の白い石を見ながら、布団に潜る。
「母さん」
「なあに」
「約束の庭、また行きたい」
「ええ」
「リナも連れていける?」
セレーネは少しだけ考えた。
「いつかね」
「いつかって、約束?」
「そうね」
セレーネは微笑んだ。
「約束」
アルバは嬉しくなって、目を閉じた。
約束が増えていく。
地面に星がある場所を探す約束。
リナと一緒に星を見る約束。
約束の庭へまた行く約束。
小さな約束が、胸の中で星みたいに増えていく。
そのどれもが、今はまだ温かかった。
壊れるなんて、少しも思わなかった。
名前が消える日が来ることも。
約束が罪と呼ばれる日が来ることも。
まだ、アルバは知らなかった。
窓の外で、星が静かに瞬いていた。
人間と吸血鬼が、同じ庭に花を置いていた夜だった。




