第25章 血の約束
第3部 遠い夜
次の夜、アルバは母に髪を結ばれていた。
椅子に座り、じっとしているよう言われている。
けれど、どうしても足が揺れてしまう。
母の指が、淡い亜麻金の髪をすくうたび、くすぐったかった。
「動かないの」
セレーネが言う。
「動いてないよ」
「足が動いているわ」
「足は髪じゃないもん」
「そういう問題ではありません」
セレーネは笑いを含んだ声で言った。
アルバは鏡の中の母を見る。
母はいつもより少しだけ真面目な顔をしていた。
髪を整える手つきはやさしい。
でも、目の奥には小さな緊張がある。
アルバはそれに気づいた。
「母さん」
「なあに」
「今日、危ないところに行くの?」
セレーネの指が一瞬止まる。
すぐにまた動き出した。
「危ない場所ではないわ」
「じゃあ、父さんが不機嫌なのはどうして?」
部屋の入口に立っていたクルムが、わずかに眉を動かした。
「私は不機嫌ではない」
「顔が不機嫌」
「顔は関係ない」
「あるよ。父さん、不機嫌な時はそういう顔になる」
セレーネが小さく笑った。
クルムは何も言わなくなった。
それが少し面白くて、アルバは鏡の中で笑う。
母は最後に細い紐で髪の片側を留めた。
小さな星の飾りがついている。
金属ではなく、白い石を磨いたものだった。
「今日は契約の家へ行くの」
セレーネが言った。
アルバは背筋を伸ばす。
「血の約束の?」
「ええ」
「私も行っていいの?」
「だから支度をしているのよ」
アルバの胸が弾んだ。
契約の家。
人間が吸血鬼に血を差し出し、吸血鬼がその家を守る場所。
母から話は聞いていた。
父からも、少しだけ聞いたことがある。
けれど、ちゃんと見たことはまだ少ない。
父は危ないと言う。
母は見なければ分からないと言う。
アルバは、ずっと知りたかった。
血を差し出す人間は、怖くないのか。
血を受ける吸血鬼は、どんな顔をするのか。
それは本当に、奪うこととは違うのか。
「今日は見るだけよ」
セレーネが、アルバの肩に手を置いた。
「邪魔をしない。勝手に触れない。相手の言葉を聞く」
「うん」
「血の匂いがしても、近づきすぎない」
「うん」
「怖いと思ったら、私か父さんの後ろに下がる」
「うん」
アルバは頷く。
それから、クルムを見た。
「父さんも血を飲むの?」
クルムは少しだけ目を細めた。
「今日は違う」
「どうして?」
「契約者が呼んだ相手はセレーネだ」
「母さんが?」
アルバは母を見る。
セレーネは静かに頷いた。
「ええ。あの家とは、私が約束を結んでいるの」
「父さんじゃないんだ」
「すべての吸血鬼が、すべての人間から血を受けるわけではないわ」
「決まってるの?」
「決めるの。互いに」
互いに。
その言葉は、アルバの胸に残った。
誰かが一方的に決めるのではない。
人間だけでもない。
吸血鬼だけでもない。
互いに決める。
血の約束は、そういうものなのだと、母は言った。
*
夜の道を、三人で歩いた。
クルムが前を歩き、アルバとセレーネが少し後ろを行く。
空には星があった。
けれど、今日は星を見るための夜ではない。
アルバは何度も空を見上げそうになり、そのたびに前を向いた。
父に「足元を見ろ」と言われる前に、自分で見る。
それだけで少し大人になった気がした。
契約の家は、人間の街の外れにあった。
木立のそば。
小さな畑の奥。
石造りの低い家。
窓には薄い灯りがともっている。
玄関の横には、小さな器が置かれていた。
中には乾いた白い花が数本。
その下に、赤い糸が結ばれている。
アルバはそれを見る。
「これが印?」
「そう」
セレーネが答えた。
「ここは約束の家。勝手に入ってはいけない。勝手に荒らしてはいけない。そういう印」
「みんな守るの?」
聞くと、セレーネは少しだけ黙った。
「守る人もいるわ」
「守らない人も?」
「いる」
答えたのはクルムだった。
低い声。
アルバは父を見る。
クルムは家の壁を見ていた。
そこには、黒い泥の跡があった。
誰かが投げつけたような汚れ。
扉の近くには、小石がいくつか転がっている。
畑の端には、踏み荒らされた跡もあった。
アルバは胸の中がざわついた。
「誰がしたの」
「人間だ」
クルムが言った。
セレーネは静かに補う。
「この家の人たちを、よく思わない人がいるの」
「どうして」
「血を差し出しているから」
アルバは黒い泥の跡を見る。
血を差し出す人間。
吸血鬼と約束した人間。
それだけで、こんなことをされるのだろうか。
「悪いことしてないのに」
アルバは小さく言った。
セレーネはアルバの肩に手を置く。
「そうね」
クルムは何も言わなかった。
ただ、赤い瞳で周囲の闇を見ている。
家の中から足音がした。
扉が開く。
現れたのは、年老いた人間の男だった。
白髪混じりの髪。
痩せた頬。
けれど、目はしっかりしている。
彼はセレーネを見ると、深く頭を下げた。
「よく来てくださいました」
「遅くなってごめんなさい、ラウル」
「いいえ。来てくださっただけで十分です」
ラウルと呼ばれた男は、クルムにも頭を下げた。
クルムはわずかに頷いただけだった。
それから、ラウルの視線がアルバに向く。
「おや」
男の顔が少しやわらいだ。
「今夜はお嬢さんも?」
アルバは慌てて背筋を伸ばす。
「アルバです」
「ラウルだ。会えて嬉しいよ」
人間の男は笑った。
怖がっていない。
アルバはまず、それに驚いた。
自分の瞳を見ても。
父の赤い瞳を見ても。
母が吸血鬼だと知っていても。
ラウルは扉を開けたまま、三人を家へ招き入れた。
*
家の中は温かかった。
小さな炉に火が入っている。
煮込みの匂い。
乾いた草の匂い。
人間の血の匂い。
たくさんの匂いが混じっていた。
アルバは思わず鼻を鳴らしかけて、我慢した。
母に言われたことを思い出す。
近づきすぎない。
勝手に触れない。
相手の言葉を聞く。
部屋の奥には、人間の女がいた。
ラウルより少し若い。
けれど、疲れた顔をしている。
彼女は椅子から立ち上がろうとして、セレーネに止められた。
「そのままで」
「でも」
「顔色が悪いわ、マイラ」
セレーネの声が静かに沈む。
マイラは困ったように笑った。
「少し、眠れていないだけです」
「少しではないでしょう」
セレーネは椅子のそばへ寄り、マイラの額に手を当てた。
アルバは少し離れて見ていた。
吸血鬼の手が、人間の額に触れる。
マイラは怯えない。
むしろ安心したように、目を閉じる。
それが不思議だった。
部屋の隅から、小さな顔が覗いた。
アルバはそちらを見る。
人間の子どもだった。
アルバより少し幼く見える。
年は十歳くらいだろうか。
茶色の髪を二つに結び、大きな目でこちらを見ている。
アルバが目を合わせると、子どもはびくっと隠れた。
アルバは少し傷ついた。
けれど、すぐに母の言葉を思い出す。
怖いと決める前に、見る。
嫌いと決める前に、見る。
相手が何をして、何を言うのかを見る。
アルバは少しだけ笑ってみせた。
「こんばんは」
子どもは返事をしない。
ラウルが苦笑した。
「リナ。ご挨拶は?」
部屋の隅から、子どもが半分だけ顔を出す。
「……こんばんは」
小さな声。
アルバは胸の中でほっとした。
「私はアルバ」
「リナ」
「知ってる。今、聞いた」
そう言うと、リナは少しだけ目を丸くした。
それから、ほんのわずかに笑った。
アルバも笑った。
人間の子ども。
怖がっている。
でも、逃げてはいない。
それだけで、アルバには少し嬉しかった。
クルムは入口近くに立っていた。
家の中に入りきらないような顔をしている。
彼は室内を見るよりも、窓の外を見ていた。
扉。
庭。
木立。
畑。
近づくものがないか、ずっと確かめている。
ラウルはクルムを見て言った。
「いつもありがとうございます」
「礼はセレーネに言え」
「もちろんです。ですが、あなたが外を見ていてくださるだけで、ここは静かになります」
クルムは答えなかった。
ラウルは慣れているのか、気にした様子もなく笑った。
*
血の約束は、アルバが想像していたものと少し違った。
もっと怖いものだと思っていた。
暗い部屋。
鋭い牙。
震える人間。
赤い血。
けれど、実際は静かだった。
卓の上に白い布が敷かれる。
小さな器が置かれる。
水。
清潔な布。
細い刃。
それから、古い銀の輪。
セレーネは銀の輪に触れ、ラウルとマイラに向かって頭を下げた。
「今夜の血は、誰が差し出しますか」
ラウルが答える。
「私が」
マイラがすぐに言った。
「いいえ、あなたは先週も」
「お前は熱がある」
「でも」
「今日は私だ」
二人の声は穏やかだった。
けれど、そこには真剣さがあった。
血を差し出すことは、軽いことではない。
アルバにも分かった。
セレーネはラウルを見る。
「無理はしないで」
「承知しています」
「量は少なくします」
「それで足りますか」
「足りるようにします」
セレーネの声には迷いがなかった。
奪うのではない。
足りるだけ。
相手が倒れないだけ。
約束を続けるために必要なだけ。
ラウルは袖をまくった。
腕には古い傷跡がいくつかあった。
それらは乱暴につけられたものではない。
きちんと治っている。
けれど、繰り返し血を差し出してきた証だった。
アルバは思わず息を詰める。
リナがそばに来て、アルバの隣に立った。
「怖い?」
リナが小さく聞いた。
アルバは迷った。
「少し」
「私も、最初は怖かった」
「今は?」
「少し怖い。でも、セレーネ様は痛くしない」
「様?」
「お母さんがそう呼ぶから」
リナは卓の方を見る。
ラウルが自分の腕を白い布の上に置いた。
セレーネは彼の目を見る。
「よろしいですか」
「はい」
その返事の後で、細い刃が肌に触れた。
アルバは目を逸らさなかった。
血が滲む。
赤い。
あたたかい匂いがする。
吸血鬼の体が、それに反応する。
喉の奥が少し熱くなった。
けれど、セレーネは急がなかった。
ラウルの手を支え、器にほんの少し血を受ける。
それから傷口を押さえ、布を巻いた。
先に人間の傷を閉じる。
血を飲むよりも先に。
アルバはその順番を見ていた。
母は器を両手で受け取ると、ラウルにもう一度頭を下げた。
「あなたの血を受けます」
ラウルも頭を下げた。
「私たちの家を、今夜もお守りください」
「約束します」
セレーネはそう言って、器の血を口にした。
静かに。
少しだけ。
まるで、祈りを飲み込むように。
アルバは胸の奥が震えるのを感じた。
怖くないわけではない。
血は血だ。
吸血鬼は、それを必要とする。
でも、これは獲物を襲うことではなかった。
人間が頷き、吸血鬼が頭を下げる。
痛みがあり、礼があり、約束がある。
それは、アルバが想像していたよりずっと重くて、ずっとやさしいものだった。
*
血の儀が終わると、部屋の空気は少しやわらかくなった。
マイラはラウルに温かい飲み物を渡し、セレーネは彼の脈を確かめた。
クルムはまだ窓の外を見ている。
アルバはリナと並んで、炉のそばに座った。
リナはちらちらとアルバを見る。
何か言いたそうにしている。
アルバは待った。
母に言われた通り、相手の言葉を聞く。
やがて、リナが口を開いた。
「吸血鬼って、みんな夜が好きなの?」
「たぶん」
「昼は嫌い?」
「まぶしいから苦手」
「じゃあ、夏は大変?」
「うん。窓の近くにいると、じりじりする」
「焼けちゃう?」
「幼い吸血鬼は、あまり日に当たりすぎると危ないって言われる」
リナは目を丸くした。
「じゃあ、昼に外で遊べないの?」
「少しなら。昼でも、強い日差しを避ければ少しだけ外に出られる。でも夜の方が好き」
「私は夜、あまり外に出してもらえない」
「どうして?」
「獣が出るから」
リナの声が小さくなる。
アルバは炉の火を見る。
夜の獣。
父がよく警戒しているもの。
人間にとっては、特に危ない。
「ここはセレーネ様と約束してるから、夜も少し安心なの」
リナは言った。
「でも、最近は獣より人の方が怖い時がある」
「人?」
「お父さんが裏切り者だって言われた」
アルバは息を止めた。
リナは膝の上で手を握る。
「血を渡すから。吸血鬼を家に入れるから。人間なのにって」
「リナは、そう思う?」
「思わない」
リナはすぐに言った。
「だって、セレーネ様はお母さんを助けてくれた。前に熱が出た時、お薬を持ってきてくれた。お父さんが夜道で襲われた時も、守ってくれた」
アルバは母を見る。
セレーネはラウルと話している。
穏やかな顔。
けれど、その背中は強かった。
「父さんも?」
アルバはクルムの方を見る。
リナもそちらを見た。
クルムは窓辺に立ち、外を見ている。
赤い瞳が夜の奥を見据えている。
リナは少しだけ声を潜めた。
「クルム様は怖い」
「うん」
アルバは頷いた。
父は怖い。
それは否定できない。
「でも、悪い人じゃない」
リナは続けた。
「前に、石を投げてきた人たちがいたの。夜に。お父さんが外に出ようとしたら、クルム様が止めた」
「父さんが?」
「うん。それで、外にいた人たちに言ったの」
「何て?」
リナはクルムの低い声を真似しようとして、うまくできずに咳払いした。
「次にこの家へ石を投げれば、石を投げた手を失う、って」
アルバは思わず父を見た。
言いそうだった。
ものすごく言いそうだった。
「それで?」
「みんな逃げた」
リナは少しだけ笑った。
「怖かったけど、少しだけ安心した」
アルバも笑いそうになった。
父は優しい言い方が下手だ。
守る時も、怖がらせるような言い方をする。
でも、それで守れるものがある。
アルバはそれを、初めて少し分かった気がした。
「アルバは、星が好きなの?」
リナが聞いた。
今度はアルバが目を丸くした。
「どうして分かったの?」
「髪の飾り」
リナが指差す。
アルバは自分の髪に触れた。
母が留めてくれた、小さな星の飾り。
「好き。すごく好き」
「私も、少し好き」
「少し?」
「夜に外へ出られないから、窓からしか見られない」
「窓からでも見えるよ」
「うん。でも、もっと広い空で見たい」
アルバは身を乗り出した。
「私も!」
リナは驚いて、それから笑った。
「本当?」
「うん。父さんと約束したの。地面に星がある場所を探すって」
「地面に星?」
「白い石がたくさんあって、夜になると星みたいに見える場所。まだ見つかってないけど」
リナの目が輝いた。
「そんな場所があるの?」
「あるかもしれない」
「見たい」
「見つけたら、教える」
アルバは言った。
「一緒に見に行こう」
リナは一瞬、固まった。
それから、少しだけ不安そうに父母の方を見る。
「私、行けるかな」
「行けるよ」
アルバはすぐに言った。
何の根拠もなかった。
でも、言いたかった。
「父さんは怖いけど、守ってくれるし。母さんも一緒なら大丈夫」
「私のお父さんとお母さんも?」
「もちろん」
アルバは当然のように答えた。
リナは嬉しそうに笑った。
「じゃあ、約束」
リナが小指を出した。
アルバはその仕草を知らなかった。
「何?」
「人間の約束。指をこうするの」
リナが小指を差し出したまま説明する。
アルバは少し戸惑いながら、自分の小指を絡めた。
人間の指は温かかった。
細くて、少し頼りない。
でも、ちゃんと力がある。
「約束」
リナが言った。
「約束」
アルバも言った。
その時、クルムがこちらを見た気がした。
アルバは振り返る。
父はすでに窓の外へ視線を戻していた。
でも、きっと聞こえていた。
吸血鬼は耳がいい。
そして、忘れない。
*
夜半を過ぎたころ、家の外で音がした。
小さな音だった。
枝が折れるような。
土を踏むような。
人間なら聞き逃すかもしれない。
けれど、吸血鬼には分かる。
クルムが静かに手を上げた。
部屋の中の空気が変わる。
セレーネはすぐにラウルとマイラへ目で合図した。
ラウルは炉の火を弱める。
マイラはリナを抱き寄せた。
アルバも立ち上がりかける。
クルムの声が飛んだ。
「動くな」
アルバはその場で止まった。
父の声は低かった。
怒っているのではない。
命令だった。
守るための。
外で、また音がした。
今度は窓の近く。
低い唸り声。
獣だ。
アルバの背筋が冷える。
リナが小さく息を呑んだ。
マイラが娘の口元をそっと覆う。
セレーネは扉のそばへ進んだ。
クルムは窓辺から動かない。
赤い瞳が、闇の中の何かを捉えていた。
「一匹ではない」
クルムが言う。
「何匹?」
セレーネが聞く。
「三」
ラウルの顔がこわばる。
リナの手が震えている。
アルバはその手を見た。
さっき小指を絡めた手。
約束した手。
一緒に星を見ると約束した手。
その手が震えている。
アルバは何か言おうとして、言葉が出なかった。
セレーネが扉を開ける。
クルムも同時に動いた。
外へ出た瞬間、夜が裂けた。
獣の唸り声。
土を蹴る音。
短い衝突音。
アルバは窓へ駆け寄りそうになった。
「駄目」
マイラの声がした。
人間の女の声。
弱っているはずなのに、はっきりしていた。
「危ないから、ここにいて」
アルバはマイラを見る。
人間に止められた。
守られる側だと思っていた人に。
そのことが、不思議だった。
でも、嫌ではなかった。
外で、獣が悲鳴を上げた。
クルムの影が窓の外を横切る。
速い。
黒い夜の中で、銀白の髪だけが一瞬光る。
セレーネの声が低く響く。
何かが地面に叩きつけられる。
また一匹。
また一匹。
戦いは長くなかった。
けれど、部屋の中の人間たちには、とても長く感じられたはずだった。
リナは泣かなかった。
ただ、アルバの袖を掴んでいた。
アルバはその手に、自分の手を重ねた。
「大丈夫」
小さく言う。
自分に言い聞かせるように。
「父さんと母さんは強いから」
リナは頷いた。
外の音が止む。
しばらくして、扉が開いた。
クルムが先に戻ってくる。
黒い外套に、獣の血が少しついていた。
深い赤い瞳は変わらない。
息も乱れていない。
その後ろから、セレーネが入ってきた。
彼女の袖にも少し血がついている。
けれど、怪我はなさそうだった。
「終わったわ」
セレーネが言う。
マイラが深く息を吐いた。
ラウルは椅子から立ち上がり、頭を下げる。
「ありがとうございます」
「約束ですから」
セレーネは静かに答えた。
約束。
血を差し出す。
守る。
言葉で聞いたことが、目の前で形になった。
アルバはようやく分かった。
血の約束は、血を飲む場面だけではない。
その後にあるのだ。
夜に立つこと。
扉の前に立つこと。
怖がる人の代わりに、外へ出ること。
戻ってきて、終わったと言うこと。
それが、約束を守るということなのだ。
*
帰るころ、空は少しだけ白み始めていた。
ラウルとマイラは何度も礼を言った。
セレーネはそのたびに、深く受け取りすぎないように微笑んだ。
クルムは黙っていた。
リナは玄関の外まで出てきた。
マイラが心配そうにしたが、セレーネが近くにいるので止めなかった。
リナはアルバの前に立つ。
手には、小さな布包みを持っていた。
「これ」
アルバは首を傾げた。
「何?」
「星」
「星?」
包みを開けると、小さな白い石が一つ入っていた。
丸く磨かれている。
穴があいていて、紐を通せるようになっていた。
人間の子どもの手で作ったのだろう。
少し歪んでいる。
でも、きれいだった。
「お父さんが昔くれた石。星みたいだから、持ってたの」
「いいの?」
「約束のしるし」
リナは少し恥ずかしそうに言った。
「地面に星がある場所を見つけたら、教えてね」
アルバは石を両手で受け取った。
冷たい。
小さい。
でも、胸の中があたたかくなる。
「うん。絶対」
クルムが少しだけこちらを見た。
アルバは父の視線に気づいたが、石を返す気にはならなかった。
これは奪ったものではない。
もらったものだ。
約束のしるしとして。
「ありがとう、リナ」
「また来てね」
「うん」
リナは笑った。
怖がっていた顔ではなかった。
人間の子が、吸血鬼の子に笑っている。
アルバはそれが嬉しかった。
帰り道、アルバはずっと白い石を握っていた。
夜が薄くなり、星が少しずつ消えていく。
それでも、手の中には小さな星がある。
「父さん」
「何だ」
「人間って、怖くないね」
クルムはすぐには答えなかった。
セレーネが隣で静かにアルバを見る。
少し困ったような、少し嬉しそうな顔だった。
クルムはしばらく歩いてから言った。
「怖い者もいる」
「でも、怖くない人もいる」
アルバはすぐに返す。
セレーネが微笑んだ。
「そうね」
クルムは何も言わない。
アルバは手の中の白い石を握る。
「リナは怖くなかった」
「今はな」
「今は?」
「人は変わる」
「父さんは、すぐそういう」
「事実だ」
「じゃあ、吸血鬼は変わらないの?」
クルムは沈黙した。
アルバは見上げる。
「父さんだって、昨日より今日は少し変わってるかもしれないよ」
「何がだ」
「私のお願いを聞いて、地面の星を探してくれてる」
「気が向いただけだ」
「それも変わったってこと」
セレーネが小さく笑った。
クルムは何も言わなかった。
ただ、歩幅を少しだけ緩めた。
アルバが眠気で遅れ始めていたからだ。
アルバはそれに気づいた。
でも、何も言わなかった。
父はきっと、指摘されると否定する。
だから黙って、その少し狭くなった歩幅についていく。
空の星は消えかけている。
けれど、アルバの手の中には白い石がある。
人間の子どもと交わした小さな約束がある。
そして、母が言った言葉がある。
怖いと決める前に。
嫌いと決める前に。
ちゃんと見ること。
アルバは白い石を胸元に抱いた。
「父さん」
「今度は何だ」
「私、ちゃんと見るね」
クルムは横目でアルバを見た。
「何を」
「人間も。吸血鬼も。約束も」
朝の薄い光が、道の先に滲んでいる。
クルムはしばらく黙っていた。
やがて、低く言う。
「見すぎるな」
「どうして」
「見れば、離れられなくなる」
アルバには、その意味がまだ分からなかった。
だから、素直に言った。
「離れたくないものなら、離れなくていいんじゃない?」
クルムは答えなかった。
セレーネも、何も言わなかった。
ただ、母の手がそっとアルバの背に触れた。
やさしい手だった。
朝が近い。
夜が終わる。
星は見えなくなる。
でも、約束は消えない。
少なくとも、アルバはそう信じていた。
手の中の白い石を握りしめながら。
まだ壊れていない世界の中で。




