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終わりの名を持つ君へ  作者: そらいろは
第3部 遠い夜

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第24章 星を見る子

第3部 遠い夜

 アルバは、夜が好きだった。


 昼の光はまぶしすぎる。


 外へ出られないわけではない。


 けれど、日差しの下では、肌の奥がじりじりと痛む。


 目の奥が熱くなる。


 世界の輪郭が白くにじんで、何もかもが少し遠くなる。


 だから、アルバは夜を待つ。


 窓の外が青く沈み、家々の灯りがひとつずつ落ち、空が深くなっていく時間を待つ。


 夜になると、世界は静かになった。


 人間たちの声も遠くなる。


 馬車の音も減る。


 煙突から上がる煙も薄くなる。


 そして、空に星が戻ってくる。


 アルバは窓辺に頬を寄せた。


 淡い亜麻金の髪が、肩のあたりでさらりと揺れる。


 薄い琥珀色の瞳には、窓の外の夜が映っていた。


 光の加減で、その瞳はほんの少し赤みを帯びる。


 けれど、父の瞳ほど深い赤ではない。


 母はよく言った。


 アルバの瞳は、夜明け前の蜂蜜みたいだと。


 アルバには、それがどんな色なのかよく分からなかった。


 でも、母が笑って言うので、たぶん悪い色ではないのだと思っていた。


「また数えているのか」


 背後から声がした。


 アルバは窓から顔を離さずに答える。


「うん」


「昨日も数えていた」


「昨日とは違う星かもしれないでしょ」


「同じだ」


「どうして分かるの」


「位置が変わっていない」


「少しは変わってるよ」


「誤差だ」


 アルバはむっとして振り返った。


 部屋の入口に、クルムが立っていた。


 青みを帯びた銀白の長い髪。


 深い赤い瞳。


 夜の中に立つと、父は本当に夜から生まれた人みたいに見える。


 美しいと思う。


 でも、それを口にすると父は嫌な顔をするので、アルバは言わないことにしていた。


「誤差じゃないもん」


「誤差だ」


「父さんはつまんない」


 アルバが言うと、クルムはわずかに眉を動かした。


「星を数える方がつまらない」


「つまらなくないよ」


「数えきれないものを数えて何になる」


「数えきれないって分かる」


「最初から分かっている」


「でも、自分で数えると違うの」


 クルムは黙った。


 その顔は、まったく納得していなかった。


 アルバは唇を尖らせる。


「父さん、星が嫌いなの?」


「嫌いではない」


「好き?」


「好きでもない」


「じゃあ、何?」


「ただあるものだ」


 アルバは大きく息を吐いた。


「本当につまんない」


「さっきも聞いた」


「何回でも言う」


 クルムは小さく息を吐いた。


 それがため息なのか、笑いかけたのか、アルバには分からなかった。


 でも、父が本当に怒っていないことは分かった。


 クルムは窓辺まで歩いてきて、アルバの隣に立った。


 親子で並んで、窓の外を見る。


 星は今日も多かった。


 屋根の向こうに。


 遠い森の上に。


 人間の街の灯りより、もっと高い場所に。


 数えきれないほど、瞬いている。


「ねえ、父さん」


「何だ」


「星って、落ちてこないの?」


「落ちてきたら、ここにはいない」


「どうして?」


「燃える」


「全部?」


「たいていは」


「じゃあ、落ちてきても燃えなかった星は?」


「石になる」


 アルバは目を輝かせた。


「石?」


「そういうものもある」


「じゃあ、地面に星があるかもしれないの?」


「言い方の問題だ」


「あるかもしれないんだ」


 クルムは面倒そうに目を細める。


「お前は都合のいいところだけ聞く」


「父さんは難しく言いすぎる」


 アルバはまた窓の外を見た。


 地面に星。


 その言葉だけで、胸がふわりと軽くなる。


 もし本当にそんな場所があるなら、見てみたい。


 空にも星。


 足元にも星。


 きっと、夜の中に浮かんでいるみたいに見える。


「地面に星がある場所、探したい」


「探してどうする」


「見る」


「見てどうする」


「嬉しくなる」


「それだけか」


「それだけでいいでしょ」


 クルムは何も言わなかった。


 アルバは横目で父を見る。


 父は窓の外を見ている。


 星ではなく、星の向こうにある何かを見ているようだった。


 アルバには、その顔が時々分からない。


 父は何でも知っているように見える。


 人間のことも。


 吸血鬼のことも。


 古い約束のことも。


 夜の獣のことも。


 星が石になることまで。


 でも、たまに、何も知らない人みたいな顔をする。


 何かを見ているのに、何も見えていないような顔。


 アルバはそういう時、父の袖を引くことにしていた。


 今も、そうした。


「父さん」


「何だ」


「聞いてる?」


「聞いている」


「じゃあ、探してくれる?」


「何を」


「地面に星がある場所」


 クルムはようやくアルバを見た。


「なぜ私が」


「父さん、夜でも遠くまで行けるでしょ」


「それとこれとは別だ」


「母さんに頼もうかな」


「セレーネを巻き込むな」


「じゃあ父さんが探して」


「勝手だな」


「父さんの子だから」


 クルムは黙った。


 アルバは勝った、と思った。


 父はこの言葉に弱い。


 もちろん、何でも叶えてくれるわけではない。


 危ないことは駄目だと言う。


 人間の多い場所へ一人で行くなと言う。


 昼間に外で遊びすぎるなと言う。


 知らない血に触れるなと言う。


 でも、本当に小さな願いには、最後にはだいたい負ける。


 クルムは窓の外へ視線を戻した。


「気が向いたらな」


 アルバは笑った。


「それ、探してくれるってことだよ」


「違う」


「違わない」


「勝手に決めるな」


「うん。勝手に決めた」


 クルムはまたため息をついた。


 今度は、少しだけ笑っているように見えた。


     *


 夕食は、温かなスープだった。


 吸血鬼にとって、それは腹を満たすものではない。


 少なくとも、命をつなぐものではない。


 でも、アルバはスープが好きだった。


 白い器。


 湯気。


 野菜の甘い匂い。


 母が木匙でかき混ぜる音。


 それらが全部そろうと、家の中がやわらかくなる。


 セレーネは卓の向こうで、アルバの器にスープをよそっていた。


 柔らかな声の人だった。


 長い髪を緩くまとめ、夜の灯りの中で静かに笑う。


 母の瞳は、アルバより少し深い琥珀色をしている。


 父の赤い瞳と並ぶと、灯りと血の色みたいだとアルバは思う。


 口にしたことはない。


 たぶん母は笑う。


 父は少し嫌な顔をする。


「今日はずっと窓辺にいたの?」


 セレーネが聞いた。


「ずっとじゃないよ」


「ほとんど?」


「少しだけ長く」


「それを、ほとんどと言うの」


 セレーネは笑った。


 アルバは匙を持ったまま、母を見上げる。


「母さん、地面に星がある場所ってあると思う?」


 セレーネは一瞬だけ目を瞬かせた。


 それから、クルムを見た。


「あなた、また何か教えたの?」


「事実を言っただけだ」


「どんな事実?」


「星が石になることもある」


「それでこの子が黙ると思ったの?」


「思っていない」


「でしょうね」


 セレーネはくすりと笑った。


 アルバは身を乗り出す。


「母さんは知ってる? 地面に星がある場所」


「さあ。私は知らないわ」


「知らないの?」


「でも、ありそうね」


「本当?」


「ええ。星が好きな子のためなら、世界のどこかに一つくらい、そういう場所があってもいいでしょう」


 アルバはぱっと顔を明るくした。


「ほら、父さん。母さんもあるって」


「セレーネは、ありそうと言っただけだ」


「同じだよ」


「違う」


「同じ」


 セレーネは二人を見て、また笑った。


 その笑い声が、アルバは好きだった。


 父と二人で話していると、言葉はすぐに硬くなる。


 けれど母がいると、同じ言葉でもやわらかくなる。


 家の中の角が丸くなるみたいだった。


「探しに行きたいの?」


 セレーネが聞いた。


「うん」


「一人では駄目よ」


「分かってる」


「昼も駄目」


「分かってる」


「人間の街の近くも駄目」


 アルバは少しだけ口を尖らせた。


「人間って、みんな怖いの?」


 部屋の空気が、ほんの少しだけ変わった。


 セレーネの笑みが静かになる。


 クルムは匙を置いた。


 アルバは二人を見る。


 聞いてはいけないことを聞いたのかもしれない。


 でも、知りたかった。


 アルバは人間を見たことがある。


 遠くから。


 窓の隙間から。


 父や母と一緒に、約束のある家へ行った時に。


 人間は、自分たちより弱く見えた。


 すぐに怪我をする。


 夜目も利かない。


 血の匂いが濃い。


 けれど、笑う。


 歌う。


 子どもを抱く。


 パンを焼く。


 吸血鬼を見ると怖がる人もいる。


 でも、怖がらない人もいる。


 アルバには、それが不思議だった。


「みんな怖いわけではないわ」


 セレーネが言った。


 ゆっくりと、言葉を選ぶように。


「怖い人もいる。でも、怖くない人もいる」


「父さんは?」


 アルバはクルムを見る。


「人間、怖い?」


「怖くはない」


「嫌い?」


「嫌う理由のある者はいる」


「理由のない人は?」


「知らん」


「父さん、そればっかり」


 アルバは頬を膨らませる。


 セレーネがそっと言った。


「知らないから、ちゃんと見なければいけないのよ」


 アルバは母を見る。


「ちゃんと見る?」


「怖いと決める前に。嫌いと決める前に。相手が何をして、何を言って、何を守ろうとしているのかを見るの」


「それで、悪い人だったら?」


「離れなさい」


「良い人だったら?」


「手を取ってもいい」


 クルムが低く言う。


「簡単に言うな」


 セレーネは夫を見た。


「簡単ではないから、教えるの」


「人間は変わる」


「吸血鬼も変わるわ」


「裏切る」


「守る者もいる」


 言葉が静かにぶつかった。


 怒鳴っているわけではない。


 でも、アルバは二人の間にある何かを感じた。


 父と母は、人間の話をすると時々こうなる。


 どちらかが完全に間違っているわけではないのだと思う。


 父は怖いものを知っている。


 母は信じるものを知っている。


 アルバには、まだその違いがよく分からない。


「じゃあ、私は?」


 アルバは聞いた。


 二人の視線がこちらへ向く。


「私は、人間と仲良くしてもいいの?」


 セレーネは微笑んだ。


「あなたが相手を見て、選ぶなら」


 クルムは黙っている。


 アルバは父を見た。


「父さんは?」


「危ない相手には近づくな」


「危なくない相手なら?」


「一人では近づくな」


「父さんか母さんと一緒なら?」


 クルムは不満そうに目を細めた。


 けれど、否定はしなかった。


「相手による」


 アルバは笑った。


「それ、いいってことだ」


「違う」


「違わない」


「お前は都合のいい耳をしている」


「父さんの子だから」


 セレーネが声を出して笑った。


 クルムは黙ってスープに目を落とした。


 けれど、アルバには分かった。


 父は本気で怒ってはいない。


 少なくとも、今は。


     *


 その夜、アルバは眠れなかった。


 窓辺に戻り、膝を抱えて空を見上げる。


 星はまだそこにある。


 さっきより増えたように見える。


 実際には変わっていないのかもしれない。


 父なら、誤差だと言うだろう。


 でも、アルバには増えたように見えた。


 それでいいと思った。


 星は数えるためだけにあるわけではない。


 見て、嬉しくなるためにある。


 たぶん。


 廊下の向こうから、父と母の声が聞こえた。


 低い声。


 静かな声。


 はっきりとは聞こえない。


 でも、アルバは耳がいい。


 聞こうと思えば、聞こえてしまう。


「……近頃、人間の街で騒ぎが増えている」


 クルムの声だった。


「契約の家からも知らせが来たわ」


 セレーネが答える。


「血を差し出す者を、よく思わない人たちがいるそうよ」


「昔からいた」


「増えているの」


「だから言った。近づきすぎるなと」


「離れれば、余計に怖がられる」


「近づけば、刃が届く」


 沈黙。


 アルバは膝を抱える腕に力を込めた。


 契約の家。


 血を差し出す者。


 それは、アルバも少しだけ知っている。


 人間の中には、吸血鬼に血を分ける者がいる。


 吸血鬼はその人間を守る。


 夜の獣から。


 暴力から。


 時には、同じ人間から。


 それは古い約束だと、母は言っていた。


 父は、必要な仕組みだと言っていた。


 アルバは、その約束が嫌いではなかった。


 血を飲むことは、怖いことにも見える。


 でも、そこに相手の意思があるなら、ただ奪うこととは違う。


 母はそう教えてくれた。


「アルバには、まだ早い」


 クルムの声がした。


 アルバはびくっとした。


 自分の名前が出た。


「でも、いずれ知るわ」


 セレーネが言う。


「知らないままでは選べない」


「選ぶ必要はない」


「あるわ」


「私たちが守ればいい」


「いつまでも?」


 また沈黙。


 アルバは窓の外を見る。


 星が滲んで見えた。


 自分の話をしている。


 けれど、何を心配されているのか分からない。


 人間のこと。


 吸血鬼のこと。


 血の約束のこと。


 たくさんの言葉が、まだ難しい。


 でも一つだけ分かる。


 父も母も、自分を守ろうとしている。


 そのことが嬉しくて。


 少しだけ苦しかった。


「クルム」


 セレーネの声が柔らかくなる。


「あの子は、あなたが思うより世界を見ているわ」


「窓から星を見ているだけだ」


「星を見る子は、遠くを見るのよ」


「遠くは危ない」


「近くばかり見ていても、危ないわ」


 クルムは答えなかった。


 アルバはそっと窓を開けた。


 冷たい夜風が入ってくる。


 星の光が、ほんの少しだけ近くなった気がした。


     *


 翌日の夜、クルムはアルバを外へ連れ出した。


 セレーネは玄関で二人を見送った。


 薄い外套をアルバの肩にかけ、髪をそっと整える。


「遠くへ行きすぎないでね」


「うん」


「父さんの言うことを聞くのよ」


「父さんが変なこと言わなければ」


「アルバ」


「聞く」


 セレーネは笑った。


 クルムは横で不満そうにしている。


「私は変なことなど言わない」


「たまに言うよ」


「言わない」


「ほら、今」


 セレーネがまた笑った。


 その笑い声を背に、アルバは父と一緒に夜の道へ出た。


 街の外れを抜ける。


 人間の家々の灯りが遠くに見えた。


 吸血鬼の住む区画は、人間の街と完全に分かれているわけではない。


 けれど、近すぎるわけでもない。


 間には林があり、古い石壁があり、小さな川がある。


 近づくための道もあれば、離れるための道もある。


 アルバはその曖昧な距離が好きだった。


 完全に離れていない。


 でも、重なりすぎてもいない。


 夜の道を歩きながら、アルバは父を見上げた。


「どこ行くの?」


「近くまでだ」


「何の近く?」


「お前が言ったものの近く」


「地面の星?」


「まだ見つけていない」


「じゃあ、探しに行くの?」


「候補を見に行くだけだ」


 アルバは嬉しくて、足取りが軽くなった。


「やっぱり探してくれてたんだ」


「気が向いただけだ」


「それ、探してくれてたってこと」


「勝手に決めるな」


「うん」


 アルバは笑った。


 夜の道は、昼よりずっと歩きやすい。


 目もよく見える。


 風の匂いも分かる。


 遠くの草が揺れる音も聞こえる。


 父と歩く時は、獣もあまり近づいてこない。


 たいていのものは、クルムの気配を感じると遠ざかる。


 父は怖い。


 強い。


 でも、アルバにとっては父だった。


 歩幅は広い。


 黙って先へ行く。


 時々、こちらの足が遅いことに気づいていないふりをしながら、少しだけ速度を落とす。


 アルバはそれに気づいていた。


 気づいていないふりをしていた。


 林を抜けると、小さな丘が見えた。


 でも、そこはアルバが思い描いた場所とは違った。


 木が多い。


 空が狭い。


 足元は暗く、星どころか石もよく見えない。


 アルバは少し肩を落とした。


「ここじゃない」


「まだ何も言っていない」


「でも違う」


「なぜ分かる」


「空が狭い」


 クルムは丘を見上げた。


 枝の隙間から、星が少しだけ見える。


 確かに、少ない。


「星を見るには向かないな」


「でしょ」


「なら戻る」


「え、もう?」


「候補から外れた」


「他は?」


「今日はここだけだ」


 アルバは不満そうに父を見た。


「父さん」


「何だ」


「探す気ある?」


「ある」


「本当に?」


「なければ連れてこない」


 その言葉に、アルバは黙った。


 たしかに、そうだ。


 父は面倒なことはしない。


 必要ないこともしない。


 でも、連れてきてくれた。


 候補を見に。


 それだけで、少し嬉しい。


「じゃあ、また探してくれる?」


 クルムは少しだけ沈黙した。


「気が向いたらな」


「うん。約束ね」


「約束とは言っていない」


「言った」


「言っていない」


「でも、私は聞いた」


「お前の耳は不便だな」


「便利だよ」


 アルバは笑った。


 クルムは呆れたように息を吐く。


 けれど、その夜、帰り道で父は少しだけ遠回りをした。


 木の少ない方へ。


 空が広く見える方へ。


 アルバは気づいていた。


 でも、何も言わなかった。


     *


 家に戻ると、セレーネが温かい布を用意して待っていた。


「どうだった?」


 母が聞く。


 アルバは首を横に振った。


「違った」


「そう」


「でも、父さんがまた探してくれるって」


「そうなの?」


 セレーネがクルムを見る。


 クルムは外套を外しながら言った。


「言っていない」


「言ったよ」


「言っていない」


「言った」


 セレーネは二人を見比べ、楽しそうに笑った。


「では、言ったことにしておきましょう」


「セレーネ」


「アルバが聞いたなら、きっとそうなのよ」


 クルムは何か言いたそうにしたが、結局黙った。


 アルバは勝ったと思った。


 母は強い。


 父よりも、たぶん強い。


 力ではなく、別のところで。


 アルバは椅子に座り、温かい布で指先を包んだ。


 夜風で少し冷えていた手が、じんわり温まる。


 セレーネが隣に腰を下ろした。


「いつか見つかるといいわね」


「うん」


「空にも地面にも星がある場所」


「見つけたら、母さんも連れていく」


「楽しみにしているわ」


「父さんも」


「私は探す側だろう」


「見つけたら、一緒に見る側」


 クルムは少しだけ黙った。


「星を見て何になる」


 アルバはすぐに答えた。


「嬉しくなる」


 セレーネが微笑む。


 クルムは何も言わなかった。


 否定もしなかった。


 それが、アルバには嬉しかった。


 その夜、眠る前にアルバは窓辺へ行った。


 星はまだ見えている。


 数えようとして、途中でやめた。


 今日は数えなくていいと思った。


 代わりに、まだ見つかっていない場所を想像した。


 人間の街から離れた、誰も来ない丘。


 木が少なくて、空が広い。


 足元には白い石が散っている。


 夜になれば、それが星みたいに見える。


 その真ん中で、父と母と三人で空を見る。


 父はきっと、綺麗だとは言わない。


 母はきっと、綺麗ねと言う。


 アルバはきっと、数えきれないねと言う。


 それだけでよかった。


 それだけの未来が、アルバには確かにあるように思えた。


 窓の外で、星がひとつ瞬いた。


 アルバは小さく手を振った。


「おやすみ」


 誰に言ったのか、自分でも分からない。


 星にかもしれない。


 まだ見つからない丘にかもしれない。


 それとも、いつかそこへ連れていってくれる父にかもしれない。


 背後で扉が少しだけ開いた。


 クルムが立っていた。


「まだ起きていたのか」


「うん」


「寝ろ」


「父さん」


「何だ」


「約束、忘れないでね」


 クルムは少しだけ黙った。


 それから、低く言った。


「吸血鬼は忘れない」


「じゃあ安心だね」


「忘れないことが、いつも良いとは限らない」


 アルバは首を傾げた。


「どうして?」


 クルムは答えなかった。


 ただ、窓の外の星を見た。


 その横顔は、少しだけ遠かった。


 でも、アルバは怖くなかった。


 父がそこにいる。


 母が隣の部屋にいる。


 星が空にある。


 約束は、まだ壊れていない。


 だから、アルバは笑った。


「それでも、忘れないで」


 クルムはアルバを見た。


 赤い瞳が、夜の中で静かに揺れる。


「……ああ」


 それだけだった。


 でも、アルバには十分だった。


 彼女は窓を閉め、寝台へ向かった。


 夜は深い。


 星はまだ見えている。


 父と交わした小さな約束も、胸の中にある。


 地面に星がある場所を探すこと。


 いつか、三人でそこへ行くこと。


 アルバは布団に潜り込み、目を閉じた。


 まだ何も失われていない夜だった。


 星が、当たり前のように空にあった夜だった。

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